第3話 底曳き網漁業 編
底曳き網漁業 編
高校三年になるとまわりの同級生たちは就職や進学に真剣に取り組んでいた。俺はとことん勉強が嫌いだったし将来のことなどまったく考えられなかった。ただぼんやりと人に使われるのは嫌だなって思っていた。それと、はした金もらって働くのが嫌だった。当時の高卒の初任給なんて七万程度しか無かった。
という訳で、残った道は漁師である。なにせいきなり月三十万くらいになるって聞いてたから。それと家の家族も世間一般的常識に欠けているというか、子供の将来を真剣に考えていないので不良息子は漁師で稼いだほうがいいと簡単に考えていた。さんざん遊びほうけてなんとか卒業できたくらいだから自分でもそれしか選択肢がないと決めていた。現在のように簡単に情報が得られる時代じゃなかったし 田舎だからなにも知らないままで生きていた。それはそれでいいかもしれない。発展途上国の人々がフェイスブックなどのSNSで情報を共有できる時代になっても一向に格差社会は変わらない。漁師も立派な仕事じゃないか。社会の現状や明日のことなど何も考えないでとりあえず乗っちゃえ的安易な考えで卒業式が終わった3月の中旬に乗船することとなった。
沖合い底曳き網漁法は基本的に二種類あって一艘で操業するかけまわし漁法と二艘で操業する二艘曳きとがある。おれが乗るのは二艘曳き船だ。大きな漁港の二艘曳き船はバックトロールと言って船尾から網を巻き上げるのだが俺の船は旧式のかたあげしきだった。(船の左舷から網を投網するやりかた)。三十トンの小さな船だ。
その日は約束通り時化だった。俺の処女航海なのに空は暗雲垂れ込めて風もびゅうびゅう吹いている。こんな日にでるのかよ。有無を言わさずディーゼルエンジンは回転をあげ港から離岸したのだった。防波堤を越えると日本海の荒波は小さな船体を上下左右にもみくちゃにする。狭い船員室でひたすら耐えるのみだ。三十分もしないうちに船酔いになる。経験しないとわからないが一刻も早く逃げ出したくなる。ここは海の上しかもゲームフィッシングじゃない。なにも考えないようにしてみるが、胃袋がからになってもちっともよくならん。帰航するまで、のたうちまわるのであった
一週間ぐらいかな ようやく船酔いも落ち着き始めたのは、船酔いしてるからと言って船員室で寝ているわけではない。仕事が始まれば甲板にでて皆さんの仕事を観察する。げろしながら、これを乗り越えないとどうにもならんので耐え抜くしかない。
底曳き網漁船は昼夜をとわず操業する二時間ほど網を引いたら片方の船が網を入れる。これを交互に繰り返す。大体一日で片方四回、合計八回の投網と揚網だ。だから船員は二時間ほど作業して(大漁の時は延々十時間とかある)三時間ぐらい休憩を繰り返す。合間に航行の見張りもあるからなれるまで睡魔との戦いだ。漁獲にもよるが三日から六日間ぐらい操業する。獲れる魚はさまざまである。
鯛、ひらめ、カレイ(種類がかなりある)アンコウ、イカ、近年人気のノドグロなど海にいるあらゆる魚貝類が水揚げされる。魚のデパートだ。単一魚の漁と違って、その魚種それぞれを仕分けて(大きさ別 例えば笹カレイなど十一から十二段階の大きさに仕分け)氷水でしめたら魚箱に氷を敷き詰めて魚を一尾ずつ立てる。なんとも手間がかかる。沖でこのような作業を延々とした後、入港後もマル(一箱に同じ大きさで売りやすいように数をそろえたもの)にならないものを立て直すのに入港午前1時だとして市の始まる5時半までに競りに間に合うよう作業するのだ。俺は漁師をなめていた。というか、親父はこんなつらい仕事をして俺たちを養っていたことに初めて気がついたのだ。日本海は時化が多い荒れ狂う海の上で命をかけて仕事している。特に底曳き船や、後に乗ることになるカニ船などは波高五メートルでも沖にいることがある。隣の従船がすっぽりと見えなくなるほどの波の高低差がある。他にできる仕事がないからやっているかもしれないが、日頃スーパーマーケットで手軽に買える水産物を見たら獲る人たちのことを考えてほしい。俺が現場で働いていた四十年前より現在のほうが所得が少ない。おかしな話だ。しかも労働環境はそれほど改善していない。日本中の人々が知らないから俺みたいな無能なものが伝えるしかないのか、いずれにしても漁労従事者は限界を超え風前の灯火である。農業どころではないのである。不安定な収入、過酷な労働、天候に左右され地球規模の海水温度上昇など、いとまがない。国民が日本で獲れた水産物など必要ないと言うのであれば仕方ない。でも、一度途絶えた漁法は二度ともとには戻れないのだ。
一ヶ月ぐらいして船にもなれてきたところで、新たな試練が与えられた。だいたい漁船に乗ってはじめにやらされるのは飯炊きだ。包丁も持ったこともない俺が。お袋に米の炊き方を聞いて味噌汁や簡単な料理を教わり炊事係は始まるのだ。基本刺身と魚の煮付けができればいいからそれほどむずかしくはないが、揺れる船の上での調理はなれが必要だ。鍋の水の量も時化の時は少なく、または汁物はやめる。アンコウがやっかいで、まな板の上で右に左にヌルヌルと定まらないからこいつはたまにしかやらない。(当時アンコウは安い魚で網元はアンコウ代と言っては別売りで船員の小遣いだった現在は代わりに沖なまこがある)あまり高級魚は食べれないからよくつくったのは、カナガシラの丸焼き、穴子の焼いたものを甘い醤油にぶっこんだもの、カサゴの味噌汁、ノドグロの味噌汁、カレイの煮付け、刺身は一回ごとの網にはいったものでイカやヒラメ、アジ、バトウ、金ふぐ、など、魚のデパートみたいなもんだから、書き切れない。私ごとだが、会社を経営をするようになって、高級鮨屋や料亭で板前が一番嫌がる客だった。この魚の旬はいつだとか、知っていて聞くからこまったもんだ。あなたノドグロの旬は冬じゃないよ、8月9月だよ、知らないのか、なんてやりだすと板前もたまったもんじゃない。逆に板前がメイタガレイに本目と化けがあるがこれは何か聞かれると腹が立つ。ウマズラハギを自慢そうに出していた広島の高級鮨屋もあったし、韓国産穴子を出していた銀座の鮨屋もあった。お客が知らないことをいいことに高ければ本物みたいな、ステータスだと喜ぶ連中にはなにを食べさせても同じだが。魚一つ取り上げても物語ができるぐらいだ。漁法にしても調理にしても、例えばウマズラハギは当時四月、5月ぐらいになると日本海のどこにでもいて、逆にそれを避けて網を引くのが難しいぐらいだった。でも入っちゃう。どかーーんと、何トンも、そのころウマズラハギが網に入ると岸壁が獲れたと言ってた。網の根元までぎゅうぎゅうに入ったウマズラハギ、一度には巻ききれないから数回にわけてデッキに落とすがデッキが岸壁のように盛り上がりウマズラハギで覆い尽くされるのである。やってくれるよ船長、終わったな、船員は一同に肩を落とすのである。安いウマズラハギとの戦いは魚で埋まった船が港に着くまで延々と作業するのだ。入港しても終わらない。ウマズラハギは皮が厚いしザラザラしているおまけに長いとげがある。普通底曳き船は巻き上げた袋網をワイヤーでつるし上げてケツひもをほどいて魚をデッキに落とす。そして海水をためて魚がとりやすようにして網のついたスコップで魚箱に移し選別するが、こいつは獲れる量が多いとデッキの板が見えるまでスコップが入らないから、ひたすら一尾ずつ拾わなければならないからとても手間がかかるし時間もかかる。おまけに当時は安い魚で船長が巻き上げる判断をしたら船員はがっかりしたものだ。網を裂いて捨ててくれー。と、願っていた。今では獲れなくなったしそこそこの値段になった。俺もパンパンに膨らんだウマズラハギの肝の味噌汁は今でも好きだ。こんな話を若い船員と飲みながら話すのが楽しかった。
飯炊きの仕事は誰もが嫌がる、みんなが食事が終わり船員室で横になっているのに俺だけ食器をかたずけている。腹が立つから一度は魚を洗う桶に海水をためて食器をぶち込んで洗剤をかけデッキブラシでかき混ぜてやった。漁船は真水は貴重だからほとんどのものは海水で洗う。トイレもそうだ。水洗と言っても海水で流す。一〇〇トン以上ぐらいになると造水機もあるが十日やそこらの航海ならタンクだけで十分だ。だが、当時の船は小さかったしタンクもそれほど水を溜められなかった。
飯炊きの仕事は干物も作る。甲高カレイとか左カレイとか業界人じゃないとわからないものから、ニギスや穴子、化けメイタガレイ、カマス、アジ、いわし、沖の風に吹かれた干物は蠅もいないし、旨みがますように思う。酒飲みのオヤジたちはふぐのひれをそこいらの壁に貼り付けていた。あと、練り物はエソだ。年末になると高級カマボコの材料として使われるが現在では輸入練り製品がほとんどで近海のものをつかう業者は少ない。輸入練り物の原料はおもに鱈だが、エソで作ったカマボコを食べればその圧倒的な違いがわかると思う。俺も飯炊きのベテランのおじさんに作り方をおしえてもらった。おろした身をすりこぎでするのは時間のない沖では効率が悪い。そこで、ある程度刻んだ身をボールに叩きつけると、あっという間にすり身に変身するのである。できたすり身を団子にして鍋にした。また、贅沢な団子は、子持ちの手なしイカ(ヤリイカ)が卵でパンパンになった頃、イカの卵を抜いて集めたものをスプーンですくって鍋に入れるとおいしい団子になる。
食べることしか楽しみがないから、いろいろと工夫するのだ。ノドグロや穴子の骨を干物にして焼いて酒の肴にしたり漬物がなくなったらキャベツをもんでビニル袋に塩っぺと混ぜ合わせて即席の漬物を作ったりした。漁師上がりは、炊事洗濯なんでもするので女房は助かる。うちの親父も叔父もみんな家事ができた。それが当たり前だと思っていたから、サラリーマン家庭のオヤジが何もしないことは怠け者だと思っていた。俺は今でも料理する。後片付けは苦手だが。
三月中頃から乗船して、五月末までこれが続いた。底曳き網漁業は六月一日から許可にもよるが八月末まで禁漁だ。待ちに待った切り揚げだ。しかも三ヶ月。魚倉庫をきれいにして、船を係船したら一目散に家に帰った。車庫で眠っていた日産スカイラインに乗り込んで田舎道をぶっ飛ばす。新車の匂いがする。アースウインドファイヤーを大音量でかけて、しかもカセットテープ、満足している。いい時代だ。同級生たちが中古のカローラをやっと手に入れた頃、俺は新車のスカイラインだぜ。なんちゃって、本当にあほだった。ずーーとあほはなおらん。
休漁期だからといっても仕事はある。船の修繕だ。十九トン以上の船舶は登記簿にも掲載される騰簿船と言われ運輸省の検査が厳しい。五年の間に中間と定期検査がある。網元は休漁中の船員の給料保険に加え、船舶修繕費用、ドック費用、検査費用と大変な出費を強いられる。
船が新しいうちは費用も少なくてすむが古くなれば際限なく補修箇所がでるので網元の経営を圧迫する。事実おれも、費用を賄うだけの水揚げが無かったから倒産した。
家の親父は機関長だったから夏の間は造船所に通った。俺も一緒にドック場に行ってエンジンやコンプレッサーなんかをばらした。エンジンヘッドをばらしてピストンを引き上げてリング交換したりバルブを掃除したり漁労設備の油圧機器なども点検した。また、ペンキを塗ったりした。船の設備は複雑だ。海水を取り込むバルブやそれを引き込んでエンジンを冷却したり、プロペラシャフトの軸受けの摩擦を防いだり
発電機もディーゼルで回している。発電してコンプレッサーからエアタンクに空気を圧縮する。そのエアーの力で主機のエンジンの燃料を圧縮爆発させているのだ。エンジンの動力を利用して油圧ポンプを稼働させて漁労機器を動かす。機関場ばパイプや電線が複雑に配線されていて配線図など見ても誰でもわからない。造船所から船舶図書をもらうが手に収まらない分厚い本のかたまりだ。だから機関長は大変だ。沖でどんなことでも応急処置ができなければいけない。そうでなければ漁の途中で引き返していたら金にならないからだ。昔の機関長はすごかった。油圧の漏れでも舵の不具合もワイヤーを巻く太鼓リールでもなんでも応急処置して途中で帰航なんてなかった。今の若い連中は鉄工所や造船所任せだからせっかくのチャンスの時に帰航ということがよくある。船長も網元もがっかりする。
漁船は情報戦でもある。無線機器は無線検査の時には隠して実際の漁の時は五台も六台も使って他船の情報を傍受する、仲間内の連絡は衛星電話でやる。昔は無線室があって保安庁や水産庁の情報を捉えて禁漁区域で漁をしたものだ。今でもギリギリ際で時化の時を狙ってとるやつもいるが、レーダーも進歩したし自船の位置情報を公表しなければならないので危険をおかしてまで漁をしなくなった。なにせ農林水産大臣許可だから厳罰がきびしい。俺も網元になってから前科二犯だ。船長が禁漁区で操業していたところを逮捕されたため事業主も同罪になる。俺が海外からの帰り関空で朝飯を食っていたら船長から電話があった。「社長捕まっちゃった」軽い軽すぎる。その後水産庁の取締船のなかでながーーい取り調べがあった。こんなものは序の口で防波堤激突とか小型ふぐ延縄船衝突小舟炎上とかたくさん事件をおこしてくれたが、幸い大きなけがや死亡事故や転落行方不明など一度もなかった。半世紀近くこの事業にたずさわって廃業までこれだけはよかったと思う。大抵の漁業会社が死亡事故を起こしているから。
休漁期間もあっという間に終わり、また操業が始まるのだ。お盆も終わって少しは涼しくなりかけたこの頃底曳き船団はいっせいに出漁する。大型船はすでに十五日から出漁するが小型船は一日からだ。港は慌ただしく見送りの人や漁協の職員、関係者、業者などで賑やかだ。氷や水、食料を積み込んで市場で乾杯したらいよいよ出漁だ。家族にテープを持たせて大音量で軍艦マーチを鳴らして離岸する。船長はマイクでお礼を言う。港内をぐるりと回ったらいざ出陣だ。みんな、初水揚げを期待している。
漁場について投網する。二時間ほど引いてさて、どうでしょう。船尾ずっとむこうで網が浮いている。鯛だ。最初の漁は寝かした海でかたまっていた魚を狙うのだ。ノドグロなんてもっとすごい。海底の泥が柔らかく網が泥で埋まって上がらなくなるから。全速で網を引く、獲れるときは一時間もかからず満杯だ。俺が乗っていた小型船はそんなダイナミックなことはなかったが、経費が少ないからまあまあの給料になった。それと大きな時化には出られないからちょこちょこ休みもあった。でも、同級生たちと遊べないのが一番つらかった。
月日は秋になった。この頃になるといっぱしの漁師になっていた。魚倉庫の固まった硬くなった氷をスコップで砕くけるようになったし、腕力も驚くほど強くなっていた。今と違って人力で魚箱を魚倉庫から持ち上げ外に出す。腰と腕力がものを言う。一人で千箱やったこともある。特にエイなどは大きい木箱にたっぷりとはいっているのでとても重い。痩せてはいたがパワーはあった。今じゃーあちこちが痛いじじいになってしまったが、若い俺はエネルギーに満ちあふれていた。その後乗ることになるベニズワイガニ船などは、底曳き船が遊びに見えるほど過酷で重労働だった。
半島の山々から霧が立ち上ると海は凪だ。霧も晴れて南東の風におされた船は爽やかな秋風に押されてゆっくりと進む。ブリッジから見える風景はリアス式海岸が遠くに見える。近くを貨物船が通り過ぎる。船に並んでイルカが泳ぐ。大海原も穏やか顔を見せる日もある。
こんな日ばかりだといいのにな。夕日が水平線に沈む風景もいいが、朝、まだ日が昇る前の色とりどりの空と海、紫やオレンジが朝日とともに、黄金に変化してこの雄大な大自然のなかで、人間の力など到底及ばない清らかで浄化したもの、自然と神々に感謝している。漁師たちはブリッジの中にたいてい小さな神棚を備えている。船長は毎日榊の水を取り替え日々の航海の安全を祈る。日本人が大昔から自然に対して崇高な思いを抱き続けているのは、このような感性から来ているような気がする。
雪が半島の峰を白く覆うと、日本海の風はいよいよ冷たく 辛く暗い山陰の冬の到来だ。底曳きと言うのは名前の通り海底を網でひいて魚を獲る漁法だがそんなに簡単じゃない。途方も無く広い日本海の大陸棚の地形の魚のいる場所のポイントを知らなければ闇雲にに網を打ってもなにも獲れないのだ。しかも、魚が集まるのはたいてい海底の起伏があり、漁網道具全てを失いかけない複雑な地形が多い。現在の最新の漁労機器、GPSプロッター、魚探、潮流計などを駆使しても、破網や道具全てを失うことはよくある。大変な損失だ。船員の給料は歩合制だし、網元の経営にも直撃する。七十五トン級の底引き船の漁網を全部失うと四百万ぐらい捨てたことになるからだ。網を引いていた船が突然ストップしかかりものがあることが確認すると、船長は青ざめる。裏こぎといって、二艘が今までと反対方向にひいても漁網がとれないとき船長は神に祈る。神棚のお札を海に投げ入れてなんとか根掛かりから漁網が外れないか天に願うのである。これだけ技術が進歩してもいまだ船長の経験に頼ることになる。だから、底曳き船に限らずあらゆる漁法を途絶えさせてはいけないのだ。一度失ったものは簡単には取り戻すことなどできない。日本人の食生活の変化もそうだが、あまりにも食材に手をかけすぎて家庭で包丁も使わない。パックを開けて皿に盛るだけ、
レンジでチンするだけ。確かに便利だがなんでも簡単に手に入る今の時代が永遠に続くだろうか。
ドカ雪が何度か降ると海水温が下がって赤カレイがとれだす。普段は深いところにいるのだが産卵のために二艘曳きでも操業できる深度一〇〇メートルから一八〇メートル付近までを狙うのだ。当時はバカみたいに獲れたし漁価も安かった。単一魚種だから選別は楽だが、飯炊き泣かせだ。他においしそうなものが無い。いろいろくふうする。赤カレイの
卵の刺身とか(全員じんましんがでた)混じって取れるバイガイや泥エビの煮付けとかミズダコのしゃぶしゃぶとか、ニギスの干物、ソウハチやハタハタの焼き物。今思うと居酒屋でもあまり見かけない贅沢なものを食べていたんだ。
冬の日本海は荒れ狂う。破壊的エネルギーだ。大海をかき混ぜて自然の循環を保とうとしているのか。大自然と向き合って生きていることは、いつも死と隣り合わせだから、楽しく生きなきゃ、そうでなきゃ辛い労働も耐えられない。漁師で暗いやつなんか滅多にいない。俺もうちの連中とよく酒を飲んだし漁期が終わると宴会をしたり旅行にいったりした。板子一枚下は地獄と言うけど逃げることのできない海の上で生活を共にしなきゃいけないから他人のことをゴチャゴチャ言っていられないのだ。裸でぶつからなければ互いの考えや気持ちは理解できない。陸の組織のように、愚痴や陰口悪口の日々を過ごしていては人生がつまらなくないか。そういう俺もサラリーマンをしていた時期がある。漁師がいやになり、病院回りの薬品の営業を五年ほどやった。サラリーマンの苦労も嫌というほど思い知らされたが、何がいやかというと毎日と言っていいほど上司や誰かの批評批判を皆がすることに飽きてしまったし、それでしかおまえたちは満たされないのかと言いたかった。いつの世でも人が集まるとこのようになってしまう。そして疲れ果てた人達が底辺に集まるのだ。
そのそうな人達に俺のようなものが言うのもおかしい話だが、ぎりぎりの大自然に向かうといい。生と死のギリギリを生きることだ。毎年のように、海難事故で人が死ぬ。それでも漁師たちは今日も明るく出漁するのだ。
どんな大事故も人の営みもそこにあるものがすべて消え失せても、何事も無かったように海や山は変わらない。春になって海も穏やかになった。半島の山々にさくらの花がぽつぽつと色をつけはじめると春一番も吹いて沖にいても暖かくなった。相変わらず船についてイルカが泳ぐ。イルカウオッチなんてわざわざお金を払ってまで見たいか。毎日こいつらついてくる。おまけにイルカ千頭と言って、俺も経験があるけどプレジャーボートで夜釣りしていたら向こうからザワザワ音がしてくる。どんどん近づいて付近はイルカだらけ、魚なんか釣れるわけ無い。ものすごい数のイルカが何キロも群れをなしている。これじゃイカ釣りもあがったりだ。「漁り火って素敵」なんて言ってる陸の人、そんなにメルヘンチックなものじゃない。沖じゃ一晩中イカと格闘しているのだ。
暖かくなった日本海の夜、のたりのたりと網を引く。船が作った波で海蛍が青白く光っている。幻想的な風景だ。海面を歩けるんじゃないかと錯覚しそうだ。空は満天の星空だ。何ヶ月も荒れくれた冬の日本海。ウソのように穏やかな顔をしている。もうじき漁期が終了する。その頃には俺もたくましくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます