第10話 MERMAID
通信制の大学生だったので、普段はフリースクールでレポートやテストの勉強をし、長期休みには大学でスクーリングを受けに行った。
スクーリング先の東京は、いつでもポジティブだ。にぎやかで人がたくさん重なり合るように町やショップに集まってあちらこちらで列をなしていた。どのショップに並ぶ商品も様々な人々の心をとらえるものばかりで、ブランドと趣味とで好みが別れてしまうような田舎の商店街とは違う。スクーリングをこなさなければならない恐怖や、将来に対する目に見えない不安など考えている暇なんて持たせない。
そんな都会でのスクーリングだったので、2回目、3回目と回数を重ねるうちにわたしの服装は自由になり、ついにはキャミソールに薄っぺらいV字ネックのカーディガンというちょっと羽目を外していたかもしれない。そして授業の合間を縫って“いしだ壱成”さんみたいなかっこいい男の子を目で探していた。
その日はたまたまフリースクールの先輩である梓さんと昼ごはんを一緒になった。学食のテーブルで注文した昼食を持ち梓さんと隣り合って座ると、わたしの斜め向かいに子猫のようないたずらっぽい表情をした男の子が座った。薄い唇は、わたしの視線に気づいたのか更に弓なりに口角を上げた。
(はっ…!)わたしは慌てて自分の胸元を見た。やっぱり谷間がうっすら見えていた…。あまりにも東京の町が綺麗でそれに心躍るのが止められなくて着てしまった服装、はしゃぎすぎていた。
わたしは、服装を間違えたことを掻き消すように男の子の目線が届かない席へ移動し梓さんと向かい合った。梓さんはこんなわたしに気づいていたのだろうか。
梓さんは、ただぽかんとして心ここになさそうにも見えた。
ご飯をさっさと食べ、梓さんと別れ、ブティックに急いだ。
確か、駅前にあった。お客さんが出入りしていたから、わたしも外からガラスごしにぼんやりと眺めたことがある。
ショップに入ると中には店員さんが居た。レジカウンターの所に静かに存在した。
わたしは自分が透明人間に見えるように、と、相手に念を押して洋服コーナーを手早く見て探した。どれにしようか5秒で決めたいのに、サイズが少し小さいみたい。
うっすら横目で店員さんを見ると、帳簿を見せないようにレジカウンターの下で広げていて、開いたら大きいだろう目は細く下を見つめていた。
でも頬はわたしに向けられているようで、わたしはその頬の色にピリリと辛い恥ずかしさを感じて目をよぉく開けた。
胸に洋服をあててサイズを吟味し、ぐっと覚悟したようにお洋服をレジカウンターへ運んだ。店員さんは目を少し大きくしてわたしの瞳をちらっと見つめてまた丁寧にお客様として応対するように視線を少しわたしの瞳より上にずらして、流れるように洋服を伸ばして手早く綺麗に畳んだ。流れ星が目の前で光って通過して足元に落ちたような美しさで、パチパチと花火が淡くはじけるようにときめいた。そうその店員さんは若い男性の方だった。わたしよりも少し年上か、それとも才能故に年上そうにみえるだけでもう少し若かったりしたら、この偏差値やら役職やら難しい世界をどう訳したらいいのだろう。
「1980円です。」
声が聞こえた。
(あっ。)わたしはレジカウンターの上のお洋服に目が釘付けになった。それは前にボタンがありしっかりと胸元が隠れるデザインになっているブラウスで、首周りには優しいシンプルなフラワーガーデンのような草木柄の刺繍がさりげなくされていた。それはとても今の自分の心と必要な胸隠しに合うと思ったけど、よく見たら色は真っ白。半透明に少し透ける…。
「どう致しましたか?」
店員さんは柔らかな羽根の生えた天使のような紳士の優しいまなざしで、でもはっきりと尋ねてきた。わたしは手のひら二つで胸の前でクロスして隠して…恐る恐る聞いた。
「これ、胸、みえちゃいますかね?」
店員さんは、落ち着いた表情で答えた。
「今お召しになっているキャミソールにとても
よくお似合いですよ。
よろしければ、ご試着致しますか?」
「大丈夫です。」
わたしは慌てて代金を支払いお釣りを急がせた。そして服を持ったまま、駅のトイレへ駆け込みカーディガンを脱いでブラウスに着替えた。サイズは思いのほかぴったりだった。洗面鏡に自分を映すとぼんやりと肌の色が見えたが、いやらしくなくわたしは人目につかない景色の色どりのような優しいブーケになったような気分だった。
それからホテルに帰ってから服装を目立たないものにと、トランクに詰めてきた洋服のコーディネイトを考え直し、なんとか見繕ってまた翌日からスクーリングに出かけた。
それから、駅を使う度にショップにどうしても目にいってしまい、ショップに入ってはお洋服に添えて飾ってある手ごろで綺麗なアクセサリーを眺めたり、並べてあるスカートにドキリと胸が鳴ったりして、最後に、店員さんの目を気にしてそして何も買わないでそそくさと出ていく、そんなことを繰り返していた。
スクーリングに来ているだけの学生なのでお金もない。だから買わないのは当たり前だと恥じらいも捨ててそんなことをしていた。
ショップに通いはじめて3日目、授業は4日目。それは木曜日だった。
授業が終わり、覚えた内容を四角いブロックにして頭に押しこんで難解だという怯えを隠し抑えてショップに入った。(そうそう、いつものわたしだ。)まるで勝手に自分の秘密の花園化してしまったショップで、人心を慰めて引き立てるようなシンプルなスカートの群れにそっと手を出した。
「その、スカートお似合いですよ。」
店員さんは気が付くとすぐ後ろにいた。
並んでいた膝丈より下のスカートのどれを指したのだろう。わたしは戸惑ってゆっくり振り返ると店員さんは、巻きスカートのようなデザインのスカートのハンガーをとった。薄いベージュとネイビー。二種類もち、わたしの背をそっと姿鏡のほうへ誘導するように手を向けた。わたしの腰の横にスカートをかざし、
「今のボートネックのトップスにもよくお似合いですし、大学へ通われるのにもぴったりですよ。」
わたしはなぜわたしが大学生だって知っていたのか疑問にも思わなかった。優しい声にもたれるようにして話を聞いた。
話は流れて進みスカートを数着見たあとに、店員さんはトップスのコーナーで淡いオレンジ色のお袖が優しく膨らんで腰の裾がきゅっとなっているかわいい服を見せてくれた。
「こちらのマーセライズのトップスは、ゆるいボリュームスリーブでウェストも
軽くシャーリングがかかっております。
お客様のお顔を上品に惹きたてますよ…。」
はっきりと話す店員さんでしたが、今度は少し語尾をゆったりと流した。
「ウェストに自信がないの。お腹がでちゃう。」
店員さんの唇が女性の様にやさしく横に結んだ。
「こちらならそんなに目立ちませんよ。」
そんな会話をやりとりしながら今度はそっとメジャーを持ってきて手早く鏡の前でウエストを計ってくれた。そうして悩みに合う服を何度も何度も探してくれた。
合間にくるお客様への対応も手早く丁寧であり、わたしは、お洋服を丁寧に紹介していただいたせいか、お洋服がにこにこと微笑みかけてくれているような気分になった。店員さんが他のお客様を接客している間は、ずっと、ブラウス、チュニック、Tシャツなどのトップスや膝丈のスカートにちょっと短めのドキッとするスカート、キャミソールワンピースまであるのを眺めて少し指に触れ、そしてシルエットを美しく出してくれそうなパンツにも興味津々だった。
アクセサリーまでたどりついて、アクセサリーごしにレジ対応する店員さんとお客様の後ろ姿を眺めた時、ふと目があったような気がして時が止まるような感覚になった。
もう19時の針をさす頃、たびたび腕時計を眺めていた自分の行為に悲しみが襲った。明日はテストの日である。でもそれより今の方が大事…。時計の針先の7数字を見つめて、7数字を指す針の、中心までに至る距離の短さにつまらなさを感じ、針の短さを嫌というほど感じさせる円の形を恨めしく思った。
「本日はそろそろ閉店致します。」
柔らかなチャイムの様に店員さんはわたしに伝えた。わたしは薄いオレンジのチュニックをレジカウンターへ持って行こうとした。
すると店員さんはわたしを制止した。
「次回、また購入したくなってからで大丈夫ですよ。」
わたしは申し訳ないなぁと目線を上にあげて店員さんをみた。
「もう少し、お話致しませんか?お客様に喜んでいただけるような素敵な居酒屋
を知っていますよ。」
わたしは驚きを隠すように目を見張りそして言葉を取り消されないように一生懸命うなずいた。
店員さんは、関東の方から人手不足もあり転勤で東京に来たこと、23歳の誕生日を過ぎたこと、大学では服飾を学んだが、他の学科でまた大学で学び直そうか悩んでたことなど、色々と絶え間なくお話してくれた。話の合間合間の相槌を無理に急かさずに、そっとお酒を注いでくれたり、料理を取り分けてくれたり、追加の注文をたのんでくれたりと気遣っていただいた。
わたしは酔いが回る中で電飾がぼやっとにじみ居酒屋を出る頃、立ち上がって靴を履くのもうまくできず、店員さんの肩につかまってふらふらと靴を履いた。そしてもたつく足、身体を支えるように店員さんが腕に手をまわした。しばらく歩いて駅前に着いた。東京といえどその駅は小さく暗闇空にぼんやり明るい明かりがもれていた。人通りは二人を邪魔せずに駅へ急いだり帰り道へ急いだりしていた。駅より10メートルくらい手前で店員さんはわたしの頬にキスをした。わたしは頬をさらに傍に寄せた。
(“いしだ壱成”さんかぁ)わたしは夜闇にむかってつぶやく。わたしを開放するきっかけとなった人物と、そしてそのような方が静かに生きていそうな東京という街並みだった。
彼、とはスクーリングの終わりに別れた。
フリースクールに通っている元不登校児というわたしの学歴について、彼は黙って何も言わなかったが受け止められなかったんだとわたしは思った。
わたしよりもっと綺麗な女性はよくお店に来ていたし、彼のアパートへ向かう帰り道、何度か男性も含め女性の知り合いに会って挨拶をしていた。その度に、彼の知り合いから不思議そうな眼差しを向けられていた気がする。
「異動が決まったんだ。」
「地方に戻るの?」
「…いいえ、都内だけど…。明日、帰り、会えない。
それからフリースクールでは携帯禁止なのでしょう?
もうしばらく連絡できないね。」
2週目のスクーリングの木曜日、話し込むようになって1週間記念の日のことだった。スクーリングの時だけ、わたしはプリペイド式のケータイを使っていた。そのことにも眉を顰める彼だったし…。金曜日会えないと言われて胸騒ぎがわっと襲ってきた。
そしてその後は、もう連絡とれなかった。金曜日はその週の学科の最後のテストの日でテスト勉強を怠けられなかったし、テストが終わったその日の夜に慌てて高速バスで寮まで帰らなければならなかった。色々と寮でのお手伝いがあったし、長く休暇をとることは禁止だった。
そして、その年の冬に、やっと長期休みで自宅に帰れたが、トイレに携帯を落としてしまった。拾い上げて救出しても水濡れで壊れてしまいケータイは起動しなかった。
彼のアドレスの控えはなくなり、彼の異動先のメモもケータイの中に書き込まれていて…自分の犯したミスにショックを受けた。
わたしの心は、かつてピアノで練習し虜になった人魚の歌のメロディに合わせて静かに海の底へ沈んだ。そして奥へ、奥へと…隠しこまれた。
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