第8話  コルセット

恋心、それは、いつも突然だった。


10数余年前、綺麗な年上の女性…先輩が尋ねてきた。

「好きな芸能人はいる?」


何の話をしていたのか聞いてなかった。先輩は別の人と話していてわたしはいつもの通り自分の世界にいた。

…疲れただとか、フリースクールでの日課のバースデイケーキはどうしようかだとか、この後、大学のレポートや試験の勉強をどうやってしようかとか…きっとそんなことを考えていた。

でもそうした悩みって、表面的に感じている心以上に焦燥とうまくいかなかった時の恐怖と動揺があって…、それを消すようにして昼間に星の数を数えてみたりした。星の煌めきは、童話の中の美しい男の子に似てる。そんな錦の絵を透明な脳裏に強く想って、悲鳴を消して毎日を過ごしてた気がする。

わたしは先輩の顔を覗きこんだ。そうね、先輩には、もみじ(紅葉)という名前が似合いそう。紅葉さんは、物怖じもせずに、質問の答えを待っている。

「いしだ壱成…」

定番の答えを言った。

瞬間に紅葉さんの長い横の髪の毛が頬につたって紅葉さん自身の女性としての品性をそっと髪の毛というベールで受け止めて隠した。


「?いしだ壱成…?」

小学生の時、友達のポーチに釘付けになった。わたしは名前を覚えてなかったが、有名でちょっと自分の心に摘まみとってあった美形の彼の、写真シールが貼ってあった。彼女は別のクラスメートに

「いしだ壱成が…。」とテレビの話題をしていた。

名前さえ覚えてなかったことにショックが隠せなかった。

でも、持ち物の主は…あぁ彼女か、良かった。

(昼間の眩しすぎる逆光が似合うあの女の子かぁ。)

なぜ彼がいしだ壱成っていうの知ってるの?と聞こうかと思ったが、あまりにも間の抜けた会話でやめた。もう忘れようと思った。

宿題も、次の授業もあるし…友達は慎重に作らないといけないし…わたしが“いい”と思うことは必ずしも相手を心地よくさせることではないので。


紅葉さんの問いに対する回答は、普遍的で場を荒立てないものだと思っていた。実際、紅葉さんは、わたしの言葉をよく聞いて笑ってくれたと覚えている。でも“好きな芸能人=恋人にしたい人”と思われた気がした。心がザワザワする。そうではない、人間的に惹かれた、わたしよりも先だって生まれた偉人さまのようなイメージだった。


小学1年生くらいの帰宅後の昼下がり、つけたテレビに映る男の人に視界を引っ張られた。

思春期を手前にした小学5年生の時、テレビ画面を越えて映し出される同じ男性…。

星空が似合う。心が吸い寄せられた。

“いしだ壱成”さんという有名な方の存在で隠されたわたしの心の弱さは、恋心というより不甲斐ない生き方しかできない悲しみだった。


フリースクールで先生に唇を奪われた…。

眠たくて微睡んでいた朝方の事件で、その事実に確かな証拠はなく、“愛してしまったんだよ”という説明でなければ心の不安は拭えなかった。知らず知らずに“ねぇ、わたしを1番に愛してるんだと言って”という悲鳴が出て、誰よりも先に先生にもてなしをしなきゃいられない心持ちになっていた。

紅葉さんもまた先生の視線をとらえる美女であり頭も賢かった。しかし、好みを聞かれた心地良さは、ゆらりゆらりと進む遊覧船の海航に似ていて、すっくとその空間にもたれかかるような女心が沸いてきたので全身の神経を起こして倒れないように支えた。


 そうして時間の経過もなく、いしだ壱成さんが理想の恋人像となっていった。10歳以上年上の人を愛するということはわたしにとって重大な変化だった。勝手に運ばせた自分の理想論とは、手の届く人を愛することだった。自分の才能に見合った人に恋をしてそれを必ず実現することだった。そして“手の届く”とは“2個年上まで”であり“年下は恋愛対象ではない。”というものだった。

いしだ壱成さんは10歳以上年上なので、そうした意味が無いようでいて自分を大切にしていた理想論は空になって過去のものとなった。

そして既にもう50歳も過ぎる役職を持った先生に愛情についてを伺わないと苦しくてもがいていた。

いしだ壱成さんに恋心を抱いてみようとする心の変化は、自分の心の痛みを拭ってなんとか生き抜く力を創った。

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