31:やるべきことを見失わない

 机の上に妙な印とも言える傷を見つけてから、しばらくの間は放心状態だった。


 誰がこれを? ここで亡くなったという例の罪人が?

 もちろん、何も考えずに書かれた、ただの落書きかもしれない。複雑な模様というわけじゃないし、ペンで机をつついていたら偶然同じようなものになってしまったってことも十分にあり得る。

 だけど絶対にそうだろうか、と言われたら……。


 閉じられていた部屋の扉を開け、ラクサが声をかけてくれてから、私はようやく我に返った。ふらふらとそのまま部屋を出るけど、当然だけど先に出たイラの姿はない。彼はアルベールたちと城内の見学に戻っていったという。


「顔色が悪いな。イラってやつに何を言われた」

「言われたというより、見つけたというか」


 イラのことも、あの落書きのような印のことも、わけのわからないことが多すぎる。


「俺が聞いてもいいやつ?」

「……整理できたら話す」


 彼に相談できれば楽かもしれないけど、それもできない。

 私の「乙女ゲーム」の記憶については、ラクサには全てを明らかにしていない。黒い魔女の封印を解いたあとラクサがどうなってしまうのか、予想がつかないからだ。

 ゲーム通りなら、チドリ視点で見た彼は、黒い魔女の仲間で封印されるべき対象だ。でも目の前の彼は世界を守りたいと言う。その違いの理由がわからない。だから念のため、少し先に起こることしか詳しくは話さないようにしていた。


 そう。ラクサのことだって、イラやあの印と同じくわからないことの一つだ。


「とにかく、なんだか疲れた」


 自分でも驚くくらい暗い声が出ていた。


「……俺が引き継ごうか」


 返ってきた言葉に、私はびくりと動きを止める。


『君が疲れて倒れたときは、俺が続きを引き継ぐ』


 出会ったとき、ラクサはそう言った。


「君の苦しそうな様子を見るのは、なぜか俺も苦しい」

「本気ね……」

「当然だ」


 彼はたしかに悪い神様だ。

 私を見る目に、目的をやり遂げないことへの落胆とか、軽蔑とか、そういうものが全然感じられない。私が全部放り投げて知らない顔をしても、きっと責めないだろう。

 つい頷いてみたくなる。


「でも……。でもまだ、自分でやってみる」


 さっきに比べて、力強い声が出た。

 放り投げたくなればいつだって受け取ってくれる存在がいる。それなら、投げるのは今じゃなくてもいい気もする。もう少し頑張ってみてからでもいい。


「そうか」

「うん。その気持ちは、ありがとう」

「大したことはない。ただ今日はもう、帰って休んだほうがいいよ」

「悪いけど、そうさせてもらおうかな」


 さすがに、またイラたちと顔を合わせたとき適当な会話をする気力がない。


 廊下をふさぐ扉の向こうで待っていたエリカとイヴォンヌも、私の顔を見て帰ろうと言ってくれた。よほどひどい顔色だったらしい。アルベールたちと会ったことは知っているから、彼らとやりあって気分が悪くなったと思ってくれたようだ。本当の理由は話せないし、悪いけど否定せずにいさせてもらう。

 ミユにも心配させてしまい、申し訳ない。


 そんなことを思っていたら、帰る直前にミユが私をそっと引き止めた。他の皆には聞こえないように、声を落として訊ねてくる。


「マツリ様は、あの部屋に私たちのようにおかしな気配というか、近づくのをためらうような気持ちを持たなかったのでしょうか」

「どうしてです?」

「あまり気にしていないように見えたので」

「皆ほどではなかったみたいです。鈍感なのかも」


 結局何も感じなかったけど、他の人に合わせておく。


「そういえば、ベッドのリネンが新しかったのはあなたの手配ですか? この城のこと、大事にしてるんですね」

「管理を任されてますから。それに私は……」


 ミユは言いよどんでから、そして思いきったように続けた。


「皆はあれを守護神オトジの怒りのせいだと言いますが、私は違うのではと思うこともあるんです」


 そこでまた彼女は黙る。言いたいことがあるようだけど、続けていいものか迷っているようだ。

 入り口のほうからエリカたちが私を呼ぶ。少し待ってくれるよう頼むと、迷うミユを促した。


「ここだけの話として聞きますから、気にしないで」

「……あれは本当は、何か大事なものが、あの場所にあったことの証なんじゃないかって考えたりするんです」

「大事なもの?」

「はい。大事だったけど、私たちが間違えて失くしてしまった、その何かの残滓……というんでしょうか。少なくとも、怒りとか私たちを拒絶するようなものじゃないと思うんです」


 残っているのは、失くしてしまった何か大事なものの気配?

 私には、それが合っているかどうかなんて言えない。でも守護神オトジの怒りなんだと言われるよりは、そっちのほうがいいなと思った。


「ごめんなさい。つい、変なことを言ってしまいました。あの部屋のことを怖がらない方は珍しいんです。ただの戯言だと忘れてください」


 私が黙り込んでしまったせいか慌てるミユに、「誰にも言いません」と約束した。


「私は神官でもないし、神殿にものを言える立場でもありません。でもこの綺麗に手入れされた城が、いずれまた神殿として使われるようになったらいいと思います」


 全てを見て回ってはいないけど、彼女や一緒に管理を担当している人たちがこの場所のことを大事にしていることは伝わってくる。たぶん、この城をこのまま朽ちさせたくないと思ってくれている。


「頑張ります。私にできることは心をこめて手入れするくらいですけど。でも、できることをするしかありませんよね!」


 頼もしく宣言するミユを見たら、こちらまで元気をもらった。


 私だって、あれもこれもと思い悩んでいては前に進めないか。物語にない人物がいようが、妙な落書きを見つけようが、私のすることは決まっている。

 悪役として聖女になる存在を導き、四人の黒い騎士もとい悪神たちを解放し、世界を破滅させる魔女を再度封印する。正しい物語を知っているのだから、それを軸にぶれてはいけないのだ。


 とりあえずこれから私がしなくちゃいけないことは二つ。

 二人目の白銀の騎士を誕生させること。

 そして、二人目の黒い騎士を解き放つことだ。

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