冬の向こう――6

 フレイヤは夜通しで二つの記録を書いた。一つは何も変わりはないという嘘。もう一つは彼女たちの本心。王政へは嘘の記録を提出し、誰か話の分かる者に真実を伝える。王宮の人間が皆、元老院の言いなりというわけではない。真実に耳を傾けてくれる者もきっといるはずだ。


 オドレイは麓の町医者のところに身を寄せていた。普段カトリアが世話になっている病院で、医者の父とその娘は事情を知る限られた人間であった。

『こんな時でも……』

『人扱いしてないんじゃない。そのまま神だと思ってるんだ。人ならぬ力を持った存在だとな』

 医者は仕事の片手間にフレイヤを宥めた。

『……異を唱えるには“ユノリア”は町に溶け込みすぎた』

 見かねた彼の娘がオドレイが休んでいる間の代わりを引き受けてくれたが、胸に引っかかった違和感は大きくなるばかりだった。彼女がいなかったらオドレイはどうなっていただろう。


 うたた寝をしていたフレイヤは胸騒ぎがして目が覚めた。凍りついた窓をこじ開け、じっと早朝の外を見つめる。何か聞こえたわけではない。ただ空気が山から流れる雪解け水のように澄んだものではなく、わずかに喧騒をはらんでいる気がしたのだ。

 町へ赴くとすぐに異変に気付いた。いつもなら静かなこの時間に人の声がする――礼拝堂の方からだ。扉の隙間から覗かせたエメラルドが見とめたのは、起こって欲しくないと願っていた事態だった。


「――どういう意味ですか? ユノリアが必要無いとは」

 非難めいた声が飛ぶ。壇上で身を固くしているのは医者の娘クロエだった。

「だから……そんなもの無くても」

「何を言い出すんですか」

「ユノリア様がそんなことを言うはずがない」

 最初は遠慮がちだった口調が次第に攻撃的なそれへと変わっていく。祭壇前に集っていた町人たちはついに壇上に足を掛け、クロエに手を伸ばした。

「あんた本当にユノリア様か?」

「顔を見せろ!」

「!」

 フレイヤは咄嗟に横から壇上へ駆け上がった。クロエの腕を掴み、顔を見られぬよう壁側を向かせながら出口へ走る。――オドレイは正しかった。小さな声を無視し続けてきた結果、彼らをこうしてしまったのだ。

「誰かがこの数日だけ作法が違うって言い始めて……あたし動揺して……ごめん……!」

 すっかり青ざめたクロエが途切れ途切れに弁明した。

「とにかく逃げよう。服も着替えないと」


 フレイヤは家に戻るとカトリアが寝ている部屋の窓を叩いた。

「町の人にバレた。ここを出た方がいい」

 カトリアは雷に打たれたように身体を強張らせたがすぐにコートを掴んで出てきた。

「顔は見られてないが……」

「……そう」

 いつかこうなることを分かっていたのだろう。カトリアは覚悟を決めているようだった。

 馬を走らせながらフレイヤは考えた。声だけで別人だと見抜くのは難しい。実際、カトリアがオドレイに替わっても今までバレることはなかった。それにカトリアの家は町の人に知られていない。ユノリアは祈りを終えると祭壇の奥の部屋から礼拝堂を出て行き、礼拝者はそれを見届けてから出なければならないからだ。神の代理人の後を追うなど言語道断である。

 だが疑心暗鬼になった彼らは詮索を始め、やがてカトリアの家を突き止めるだろう。そうなれば秘密が露見するのも時間の問題だ。

「……父が前に言ってた」

 カトリアの後ろでクロエが呟いた。

「ここは神の加護がある特別な地だけど……本当は不自由だって」


 自宅に着くとクロエはオドレイに借りていた服を返し、オーバーオールに着替えた。

「祖父のところへ行こう。ここよりは安全だ」

「君の父さんは」

「今朝早くに往診に……もうすぐ戻るはず」

「二人は先に行って」

 オドレイが鋭く言った。

「全員は乗れないし、今一番危ないのはあなたたちだわ」

 キーラが仕事に行くのに乗って行ったので、馬はこの一頭しかいない。

「クロエのお父さんが帰ってきたら後から追いかけるわ。それと、この子を」

「分かった」

 クロエが毛布に包まれた赤子を受け取る。フレイヤは唇を噛んだ。迷っている暇はない。

「……すぐに戻る」



 隣町で孤児院を経営するクロエの祖父に二人を預け、来た道を引き返していると鼻の先に冷たいものが触れた。顔を上げると綿毛のような雪が音もなく降っていた。積もって道が分からなくなる前にと馬を急かし、振り落とされないよう手綱を強く握った。


 病院に戻ったフレイヤは玄関扉を開けようとして眉を寄せた。鍵がかかっている。

「……オドレイ?」

 呼び掛けても返事はない。もしや追手が――? 裏口へ回ったフレイヤは錆びたドアノブに括られていたものを見てはっと息を呑んだ。舞う白い花弁の中で靡いていたのは、深紅のリボンだった。開いていた裏口から中に入ると木製のスツールの上に手紙が置かれていた。



 落ちることさえ拒むようにふわふわと降っていた雪は数分もしないうちに吹雪になり、進もうとする者の視界を奪った。

 手紙には短い文章と孤児院の申込書が同封されていた。


『ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって。この子はユノリアと無関係のあなたにしか託せなかった。私のわがままをどうか許して』


「……どうして」

 どうしてみんな、私に謝るんだ。


 とうとう町まで戻ってきた。肩で息をしながらフレイヤは目を凝らす。

 ふと、森に人影が見えた。礼拝堂からそう離れてはいない、町の端に生い茂る木々。森を抜けた先にあるのは、切り立った崖。落ちれば命はないと誰もが知る危険な場所。


 はたして、そこに彼女はいた。

 ユノリアの衣装に身を包んでいても、隠した髪が美しい金色であることや向こうを見据える瞳が透き通った碧色であることは知っている。

「……来ちゃったのね」

 フレイヤはすべてを悟った。彼女がしようとしていること。自分に手紙を残した意味。そして――彼女の決心が揺らがないことも。

「子供はどうするんだ。一人にするのか?」

 フレイヤは強い口調で訴えた。

「それは……そんなに大事なことなのか」

「……私ね……」

 オドレイは十年前にベナリスの果てから逃れて来たこと、カトリアが引き取ってくれたことを語った。彼女の故郷には古い奴隷制度が存在していた。小さな諍いから大きな争いに発展し、平穏な日常は一変した。

「自分の運命を呪ったわ。どうしようもない運命を。命からがらこの国に逃げてきた私を助けてくれたのがカトリアなの。この名前も彼女が付けてくれた。私はカトリアのためなら全部あげるって決めてるの」


 叩きつけるような雪の一粒一粒が彼女という痛みを、悲しみを教えるようだった。この制度を終わらせるには誰かが身代わりになって死ぬしかない。それがオドレイの出した答え。

「神様を憎んじゃいないわ。カトリアのところへ行き着いたのも、あなたとの出会いも、あの子を授かったことも、神様が導いてくれたと思ってる。だからどうか記すのをやめないで。あなたはこの国に……カトリアやあの子が生きるこの国に必要だと思うから」

「記録なら書いた! 時間はかかるかもしれないがきっと……」

 オドレイは首を振る。

「あなたも私の大切な友人だもの」

 その時、背後で足音がした。振り返ると町の人たちが森の出口に並んでいた。オドレイがカトリアの名前で呼び寄せたのだろう、何人かの手には手紙らしきものが握られている。

「ありがとう」

 オドレイはフレイヤにだけそっと微笑むと皆の前で谷底に吸い込まれていった。




     *




 その後のことはあまり覚えていない。カトリアのところへ行ったが彼女の姿は既になく、フレイヤは赤子を連れてすぐに町を離れた。

 結局王政にはオドレイの願い通り「ユノリアが死んだ」と報告し、皮肉にも重大な情報を伝えた功で名を広めることとなった。カトリアもオドレイもいなくなった町は神を失い、王政はどうにか町人たちを説得して神代わりを廃止した。ノワールと王宮にユノリアの礼拝堂を作ったと発表された頃、フレイヤと子供は北から遠く離れた地で手を繋ぎ歩いていた。


 未来は今という記録の積み重ねでしかない。犯した過ちに答えがないように、正しい選択というのも存在しない。私たちは悩み続け、問い続けなければならないのだ。

 だから私は記す。たとえ小さな溜息であっても。

 私は記録作家だ。




 記録は日付とフレイヤのサインで終わっていた。

「……三年前の今日だわ」

 ルシカがテオの隣で囁いた。

「……驚いたね。するとテオは」

 ロゼとダンがテオを見る。テオにとってヘンドリクセンは異母兄弟ということになる。

「テオ、大丈夫?」

 テオは生まれて初めて触れた母という存在に思いを馳せていた。

 恨む気持ちは無かった。決して広くはない世界で生きてきた彼女が手にしたわずかな大切なもの。そのために彼女は選択をした。それにテオはフレイヤに充分過ぎるほど愛をもらった。フレイヤの愛はオドレイの愛。


 一人になった後の誕生日、柄にもなく聞いたことがあった。

『あの人は何か話しましたか――俺の話を』

 手製の料理を挟んだ二人を燭台が優しく照らした。

『シチューが好きなこと。それと寒い日は暖炉に火を入れておくこと』

 ロルグは確認するようにシチューと暖炉に眼差しを向けた。

『お前がいつ帰って来てもいいように』

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