冬の向こう――5

「秘密」の内容はこうだった。


 今から二十数年前。他国に遅れを取り侵略されることを危惧した元老院は発展の波に乗ることを急務とし、民の支持を得るため長らくいなかった神を据えることにした。そこでヨルノリアの北に流れ着いていた一族・アルメインを神格化することを考えた。大国ベナリス出身のアルメインは歴史も古く、由緒正しい血筋の一つだった。このことが公になれば当然ベナリスは怒り、争いが起きる。アルメインはいくつかの条件と引き換えに口外しないという契約を国と結んだ。


「だからオドレイが訴えても取り合ってもらえなかったのか……」

「なかには神と呼ばれることを喜ぶ者もあったけれど、一族と関係の深かったミラーフィールド家の一部が反対して粛正されたの。クロイツにシャフリル、分家のメイエットも巻き込まれた。一族の報復を恐れた元老院はヘンドリクセン一世を強くして、誰も逆らえないようにした」

 ――そういうことか。王が北の地を知りたいと言い出したのは、元老院の指示。

「……荒れた時代だったから」

 フレイヤは思わずカトリアを見つめた。喉まで出かかった「仕方ないこと」という言葉を彼女が飲み込んだ気がしたのだ。

「私がこうなってしまってからはオドレイが代行をしてくれてる。お祈りとかのね」

「みんなに事情を話して分かってもらうことは……」

「それが出来ないことは貴女も察しがついてるはず。どうか失望させないで」

 フレイヤが口を噤むとカトリアは「ああ、ごめんなさい」と首を振った。

「外から来た人間から見るとおかしなことでしょうね。だけどずっと同じ世界で生きてきた人たちは信じて疑わない。人とはそういうものよ」

 達観した口調と表情はカトリアらしく、少しの悲しみも見えなかった。

「今までただの一人もやめたらどうかと言う者はいなかった。それが答え。オドレイの願いはこの世界にいくつもある不条理のひとつ、小さな溜息に過ぎないのよ」

 フレイヤはついに慰めの言葉ひとつ思い付かなかった。


 そこへ「だだいま」と声がし、若い男が入って来た。緩くウェーブがかかった焦茶の髪の男は見知らぬ人間がいることに気付き、足を止めた。穏やかな表情に警戒の色が浮かぶ。

「おかえりなさい。彼女はフレイヤ。オドレイの友人よ。彼は婚約者のキーラ」

 カトリアの言葉を聞き、男は安堵したように肩を下ろした。

「はじめまして」

「お邪魔してます」

「明日も遅くなりそう?」

 キーラは心苦しそうに頷いた。

「本当は少しでもそばに居たいんだが」

 夏と秋が短いこの地方では春が仕事の最盛期で、働き手たちは長い冬に備えて山や川へ行く。

「こうやって毎日来てくれるだけで嬉しいわ」

 キーラはカトリアを軽く抱きしめ、口付けをした。



「では再会を祝して」

 夜、ベッドを囲んでフレイヤたちはグラスを鳴らした。キーラは明日も早いので先に二階で眠っている。

「婚約者がいたんだな」

「彼はお婿さんだからアルメインを名乗ってるの」

「それで、貴女の方はどうなのオドレイ?」

 話を振られたオドレイはモゴモゴと言い淀んだ後、公妾になったと白状した。

「まあ!」

 カトリアが興味津々に声を上げる。

「そんなことのために行ったんじゃないのに」

 頬を膨らませるオドレイにカトリアは少し思案して言った。

「でもこのまま王様の愛人になって幸せになるのもいいんじゃない?」

「ちょっと、本気で言ってるの?」

「うふふ」

 オドレイをからかいながらカトリアは窓の方を向き、そこに映るいつもより賑やかな光景にそっと目を細めたのだった。




     *




 それから数ヶ月の間、オドレイたちは冬支度や保存食作りに忙しそうだった。すぐに冬がやってくるので暖かい日は数えるほどしかない。それは過ぎる日の流れが早いことを示していた。

 一方、フレイヤは思い悩んでいた。北の情勢を記すという依頼の意味、それはまさしくカトリアたちに反乱の意がないか確認しろということ。役目を放棄せず、今も王政に従順かどうかを報告しろということだ。真実を記せばカトリアたちへの裏切りになる。ヘンドリクセンがオドレイの訴えを黙っているにしても、フレイヤに課された命が無効になるわけではない。

 こんなに悩んだのは初めてだった。税の撤廃を求めた時の事を思い出す。あの町役人ならどうしただろうか。


 町へは行かないよう言われていた。だがフレイヤは毎朝オドレイが早起きして礼拝に行っているのも、ユノリア装束の頭巾で顔を隠しているのも知っていた。

 ある日、家の陰から遠目にその様子を見たフレイヤは衝撃を受けた。礼拝堂にはおよそ町人全員と言っていい人数がいた。幸いオドレイのいる祭壇とホールは距離があったので顔を見られる心配はなさそうだったが、彼らは深くそしてどこか盲目的に神を崇めていた。

 前に来た時はこんなに浸透していなかった。聞いていたのはせいぜいこの町がヨルノリアの神を祀り、ユノリアと呼ばれる神の依代が儀式をすることくらいだった。カトリアは分かっていたのだ。この熱気がいつしか膨らみ危険性を孕んだ時、犠牲を生んでしまうということを。


 フレイヤは暇さえあればカトリアのベッド脇で話をした。この頃の話題はフレイヤの身の上話で、今日はあの置き去りの書庫のことを語った。

「知識は誰のものでもない。だから私が全部手に入れても文句は言われないと思った。強欲なんだ」

「ふふ、貴女らしいわね。でも貴女は人のために知識を使う」

「え?」

「私たちのために記録を書こうとしてるんでしょう?」

 フレイヤは瞬きする。見透かされていた。

「気持ちは嬉しいけれどそれは許可できないわ」

 フレイヤはカトリアを見上げた。

「なぜ?」

「貴女の力不足と言っているわけではないの。でも相手は王政。貴女もオドレイも処されるわ。私が病気のことを王政に言わないのはね、別の者が代わりにされるからなの」

「つまり……」

「キーラが次のユノリアに。それは嫌」

 カトリアはきっぱりと言った。

「……本当は神とか関係なくて、ただ私の家系が呪われてるだけなんじゃないかとも思うの」

「私が知る神っていうのはいつも適当だよ。適当に自然を荒れさせたり、誰かを病にしたりする。けど、見知らぬ雪国で死にそうになってた旅人を助けてくれたりもする」

 フレイヤにも理想があった。

「オドレイの願いは小さな溜息でしかないと言ったね」

 誰かを不幸にする記録作家でありたくはない。

「私はそういう声を拾い上げる記録作家になりたい」

 不条理から目を逸らしたりしない人間に。

「カトリア、君の本当の声も」

「ありがとう……でもごめんなさい」

 カトリアの答えは変わらなかった。



 頭の隅で燻る迷いに決定打を打てないまま、忙しなく冬が来た。陽の出ている時間が日に日に短くなり、山頂がまた白く覆われ始めた頃、フレイヤはオドレイに誘われて麓に向かっていた。年に数回訪れる行商人の団体が近くまで来ているという。

「報告があるの」

 霜に濡れた畦道を歩きながらオドレイが切り出した。若草色のコートに包まれた華奢な身体は少し足取りがゆっくりしている。

「……子供が」

 フレイヤは手に吹きかけていた息を止めて視線を落とした。着膨れだと思っていた腹の膨らみは言われてみれば既に大きく、なんて間抜けなんだと自分を殴りたくなった。そういえばここのところオドレイは編み物をすると言ってずっと部屋に籠っていた。

「気付かなかった。ってことは……」

「ううん、城には行かないわ」

 オドレイはすぐに否定した。落石や滑落で夫を失い、女手一つで子を育てる者は珍しくない。

「でもね、あの人なんだか孤独だった。暴君だなんて呼ばれてるけど、ずっと偉い人たちの言いなりで王妃様も無関心で……だからこの子には自由に生きてもらいたいの」

「そうだな」


 麓の比較的広い場所に三台の荷馬車が止まっていた。馬は前脚をくつろげて休息を取っており、行商人たちは荷台を開けて商いをしている。やってきた町の人が取り囲むようにしてそこに並んだ服や果物、革製品などを物色している。

「綺麗」

 そう言ってオドレイが手に取ったのは深紅のリボンだった。フレイヤは横から同じのを取り、商人に渡した。

「はい」

 購入した小袋を渡すとオドレイは頰を紅潮させた。

「いいの?」

「お祝い」

「ありがとう」

「カトリアにも何か買おうか。長いこと泊めてもらってるし」

 ふと、オドレイの瞳が揺らいだ。

「オドレイ?」

 するとオドレイは顔を背けて走り出した。慌てて追いかけると離れた木陰にうずくまっているのを見つけた。


「……どうしたの。走ったらダメだよ」

「カトリアはキーラやあなたには言わないでって……でも私……」

 くぐもった声にフレイヤの胸中で波紋が広がる。寒風にあおられた枯れ葉が舞うような間にオドレイは唇を震わせ、長い逡巡を彷徨った。

「……もう終わりにしたいって」


 紺碧の硝子が決壊した。


「人間でありたいって。最期くらい、自由な人間でありたいって……」

「……」

 フレイヤは指先ひとつ動かせなかった。泣き濡れる友に対する動揺と悔恨が冷たい矢となって心臓を射抜く。


 ――見抜けなかった。カトリアの聡明さを、強さを、知っていたはずなのに。キーラがユノリアになるのをあんなに拒む彼女が、オドレイを身代わりにして平気であるはずがないのに。

「とにかく帰って……」

 支えようと伸ばした手は空を掴んだ。息を詰めたような声がし、体をくの字に曲げたオドレイがその場に倒れ込む。

「オドレイ!」



 それから数日後、オドレイは一人の男の子を産んだ。

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