旅人は夜に憂いて――1

「借りれないか聞いてくる」

 二階へ続く螺旋階段を登りながらテオは沸き立つ高揚感を撫で付けた。

 あの記録に辿り着いたことには深い意味があった。フレイヤという人間の側面。考え方の根底にあるもの。大きくなったテオに話したかったこと。今の自分はそれが理解できること。


 二階は一階とほとんど同じ内観で、吹き抜けをぐるりと囲むように部屋がある点と一階よりも明るい点が違っていた。手前の扉から鼻歌が聞こえ、年季の入ったチェリー材の扉をノックする。片手にミルクを持った部屋の主は顔を出すと客人を見上げた。

「聞きたいことがある。これをここに置いて行った人を覚えてないか?」

 おそらくミラーフィールドと縁のあるカトリアがフレイヤにスノウセルの存在と使い方を教えたのだろう。そして三年前、フレイヤはここへ来た。

「俺はその人の弟子で……これを借りていくことはできないだろうか」

 リズは記録作に目を落とすと眠たそうな瞼を少し開けた。

「テオ・ブルーアイズ?」

「ああ」

「孤児院の名簿で名前を見たことがある。私もいた。今はもうない。院長が亡くなり、私は彼のツテでここに住まわせてもらっている」

 ――クロエの祖父か。

「これを置いて行ったのは確か白い髪の人。ハーブに興味を持っていた。いつかこの香りを辿って人が来るだろうとも言っていた」

「そう、その人だ」

 テオは花壇の前に佇むフレイヤの姿を想像した。

「本は書架番号を持つ者の自由だ」

 その時階下から悲鳴のような声がし、テオは弾かれたように部屋を出た。

 心臓が早鐘を打つ。今のは、ルシカの声だった。

「どうした?」

 出て来ようとするリズを部屋に押し込める。

「君は中に。鍵をかけて」

 階段を駆け降りると書庫には誰もおらず、玄関ホールにあった椅子が倒れているのが目に入った。

「よう」

「!」

 踝まである長いなめし革のようなコートを着た男がホールに立っていた。被ったフードから青錆色の髪の先がはみ出し、顔は逆光で闇に覆われている。

「……誰だ」

「迎えに来たぜ、テオ・ブルーアイズ」

 言葉の意味を考える暇もなく、後頭部に打撃を受けたテオはその場に昏倒した。




    *




「――テオ」

 かすかにルシカの声がする。

「テオ、目を覚まして」

 徐々に感覚が意識と結び付いていき、何か冷たい物の上に横たえているのが分かる。脈打ち痛む頭にその冷たい何かは心地良かった。

「…………」

「テオ!」

 薄目を開けたテオははっきりしない視界にルシカの姿を捉えた。夢でも見ているのだろうか、ルシカの身体は宙に浮かんでいるようだった。

「……ルシカ……?」

「動かないで」

 覚醒したテオは身体を起こそうとして目を見開いた。

 夢などではなかった。ルシカは突き出た板の上にいた。突風が吹けば今にも落ちてしまいそうな細さのそれは滑車台の一部だった。炭鉱労働時代の名残りか、崖の上に造られた紡績機のような滑車台は谷の方を向いて鎮座していた。陽はとうに雲の奥深くに潜り、谷は黒い口を開けている。

 ルシカが震えながら必死に見つめる先を見てテオは愕然とした。

「フレイヤ……」

 足場用に増設された横長の板、そこにルシカ、テオ、そしてフレイヤが等間隔に座らされていた。フレイヤはノワールで会った時と同じマントを着てじっとしていた。表情に機微はなく、ただ自分の足元を眺めている。

 ――他のみんなは?

「ロゼさんたちはあそこに」

 テオの考えを読んだルシカがそっと首を回す。テオたちの背後に山小屋があり、軒下に後ろ手を縛られたダンとロゼがいた。左右には男が数人。小屋の中は明かりが付いており、人の気配がある。テオの視線に気付いたダンは重苦しく口を開いた。


 スノウセルの書庫でテオを待っていたダンたちは突然の物音に玄関ホールへ向かった。ホールの向こうに倒れていたのは見張りをしていたハイドだった。

『おい!』

 駆け寄ったダンだったが、次々と現れた見知らぬ男たちに囲まれて臨戦態勢を取る。

『何を考えているか当ててやろうか?』

 男たちの後ろから嘲るような言葉が掛けられる。声の主はフードの下で薄く嗤う細身の男だった。ダンの頭にナイトレイドの言っていたことがよぎる。彼らを拉致した敵は二人、もしくはそれ以上。

『そう、全部俺たちの仕業さ』

 ここは北の果て。助けなど来ない。ダンは間髪入れず手前にいた男二人を殴り飛ばした。全員相手にせずとも、逃げる隙くらい――。

『無駄だぜ』

 事態は明確だった。意識の無いハイド、そして何か行動しようとしたロゼの喉笛にナイフが突き付けられる。三人倒したところでルシカが気絶させられ、多勢に無勢となったダンはとうとう拳を下ろした。

『さてどっちだっけな……両方連れて行きゃいいか。そっちはお前が運べ』

 男は手下にロゼを、ダンにルシカを運ぶよう指示した。


 テオは歯を噛み締めて俯いた。ダンのあんな悔しそうな顔は見たことがない。それでも自責の念はテオの方が大きかった。そうしていると見張りが何やら騒ぎ出し、小屋の裏から誰かが連れて来られた。窓から漏れる明かりに照らされた純白の外套にテオたちの心はまた波立った。

「裏に隠れてた」

 華奢な身体がロゼの上に放り投げられる。

「レイン!?」

「アンタ、何で……」

 大人しく隣に座ったレインにロゼが尋ねる。だがレインは警戒するように周りに目を走らせ、小さく呟いた。

「皆さんの後を追いかけたら、連れて行かれるのを見て……」

 ロゼは眉をひそめた。それでは質問の答えになっていない。するとネズミが増えた報告を受けたのだろう、小屋の中から人が出て来た。

 一人はテオたちを攫った男、もう一人は首元の詰まったロングコートにウェーブがかった焦茶の髪の男。理知的な資産家にも山仕事に従事する者にも見え、纏う空気が引き連れている仲間とは一線を画していた。

「お前が“夜の支配者”か」

 ダンの言及に男は一瞥して背を向けた。

「陳腐な通り名だな。イラーシャ、君の仕業か?」

「あれは俺が考えたんじゃない。裏の世界で代々受け継がれてきた役さ。俺は先代を引きずり下ろしただけ」

 イラーシャと呼ばれた男は小屋にもたれて煙草に火を付け、コートの男はテオのすぐ後ろに立った。

「はじめまして。私はキアラ。本名はキーラ・アルメイン」

「……エドモンド卿を殺したのはあなたですか?」

「私の名前を聞いてすぐにそれが分かるのか。さすがは彼女の弟子だ」

 キアラは琥珀色の瞳を細めてみせた。

「汽車の事故も、ですか」

 テオの声色が熱を帯びる。


「あの日、仕事から帰った私は婚約者が死んだことを町の人から聞いた。しばらくしてカトリアが泊めていた無名の記録作家がユノリアの件で王宮勤めとなったと知った。その記録作家が家にいた頃、王政からの依頼書のようなものを見たことがあった。私は悟った。彼女は王政の回し者だったのだと。最初から私たちを騙し、反乱分子だと報告するつもりだと」

 キアラは遠くを見ながら続けた。

「それから十年は国の変遷を見ていた。イラーシャと出会ってからは裏社会にも詳しくなった。当時はあちこちで熾烈な縄張り争いが繰り広げられていてね。私たちはそれらを束ねていった。その間も元凶王政を調べたが奴らは尻尾を掴ませなかった。そんな時、彼女が再び北の地に現れた。私に再び火を付けたのは他でもない彼女だ。私は足跡を追い、汽車事故を装って殺そうとした」

 テオの脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。

「ところが彼女は生きていた。私は記憶を失った彼女を利用してこの国を掻き混ぜようと思い付いた――アルメインの願いを聞き入れなかった国への意趣返しに。いずれこの手で変える歴史を書かせる者としてこれ以上ない適任だろう? そして彼女のそばにいればいるほど、彼女の能力に惚れていった」

「俺たちに接触してきた理由はなんですか? あなたは最初から俺たち記録作家に関わりを持っていた」

「もちろん、興味を惹かれたからだ。この国のどこかに彼女が記した本当の記録がある。それを見つけられるのは彼女の弟子である君だけだからね」

 攫われる前に持っていた記録作はイラーシャが手にしていた。

「それと礼を言おう。私たちが起こした事件を王に伝えてくれたおかげで隠れていた最後の一匹が出てきた。いまさら罪の意識が芽生えたらしい、哀れな老骨が」


 すべて話し終えるとキアラは滑車台を指差した。

「それは天秤だ。私はこの先、有能な者をそばに置きたい。真実を手に入れた君にも選ぶ権利がある。選択肢は二つに一つ。君が残したい方と反対に歩けばいい」

 テオは唾を飲み込んだ。足場は真ん中が最も安定している。つまりテオが歩いた方にいる者が落下する。

「自分の手を汚さず不要なものを葬るつもりか」

 ダンが飛び掛からんばかりの形相で唸る。

 ルシカはテオから目を逸らせずにいた。そうでもしていなければ、我を忘れそうだった。すべての感覚が痛い。怒りと恐怖でどうにかなりそうだ。自分の命が秤にかけられたことよりも、テオにこんな残酷な選択を突き付けたことが許せなかった。

「ルシカ」

 テオがルシカの前に手をかざし、曲げた人差し指を横に滑らせた。何かを優しく拭う仕草に、自分の頬に温かいものが流れていたことに気付く。

「約束を覚えてるか?」

「え……」


 ――“もし何かあったら必ず守る”


「覚えているなら信じて」

 頷くとテオは微笑み、一度下を見た。

「目を閉じて『旅人の詩』を」

 ルシカは言われた通り目を瞑り、震える声で綴る。

「旅人は夜に憂いて」

「旅人は月を探す」

「旅人は星を呼ぶ」

「旅人は……」

 瞼の向こうでテオの気配が遠くなる。ルシカの反対側でふと開かれたエメラルドの双眸に、紺碧の残像が映った。


『ただそばにいるだけで良かったんだ。それだけで……あの子は笑ってくれるのに』


 回りくどいことをしたのは猶予が欲しかったからだった。私と――もしかするとあの子にも。謝ることはあっても感謝されるようなことはない。母を見殺しにした私には。

 それでも、私にとってあの子は何よりも大切な宝物だ。


『私はあの子のそばにいる』


 いつかしたはずの会話がフレイヤの脳裏に蘇り、ダンの叫び声だけがこだました。

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