手のひらの真実――7
ノワールを少し南下したところにある小さな記舎はレウェルティへ行く記録作家の為に建てられたもので、年老いた舎主が切り盛りする静かな山小屋である。
「ドール・ミーシュに向かう途中で会った」
僅かに残っていた利用客が就寝すると空いた暖炉の前へ移動し、ダンが説明した。
「ご無事で良かったです」
ルシカが言うと肩から毛布を被った紳士――ヴィンセントは頭を下げた。コルルは体力の限界だったらしく、体を温めるハーブが入った袋を机に置くと奥のソファで眠ってしまった。
「……奴らに捕まった時、俺とヴィンセントはかなり離れた場所にいた」
一人だけ椅子に座ったナイトレイドが後ろから不満気に呟いた。ヴィンセント同様、記舎の厚意で貰ったスープを平らげている。
「盗みの計画を立てながらノワールで伯爵を待ち、従者と別行動するタイミングを見計らって別々に攫ったってことかい」
聞いた限り神父にそんな体力があるかも怪しい。敵は二人、もしくはそれ以上。いつものように独り言に混ぜたロゼの指摘を受け、ダンがヴィンセントに尋ねる。
「攫った奴の顔は見ましたか」
「いえ。私はある教会の部屋で監禁されていました。そこのシスターが世話をしてくれたのですが、どうやら脅されている様子でしたので逃げ出すわけにもいかず……お手洗いへ行くと嘘をついて外の様子を見に行った時に伯爵が見つけて下さったのです」
誰に対しても腰の低いヴィンセントに頼まれたなら、たとえ敵でも手洗いくらい許可しそうではある。
「なぜノワールにいたんですか」
ずっと黙っていたテオは重く声を発した。
「あの神父が伯爵を俺だと思っていたことと、関係があるんでしょう」
ナイトレイドは答えようとはせず、代わりにヴィンセントが答えた。
「私たちは亡霊の噂の真相を確かめる為にここへ来ました。セントラルで聞いた噂では、亡霊は古い本を持っていると。そしてそれがかつての著名な記録作家フレイヤの記録作だと」
「えっ……」
「でも、ヴァルさんは本のことなんて言っていませんでしたが……」
「罠だったからだ。フレイヤの記録作というのはセントラルだけで流したんだろう。お前を誘き寄せる為のな」
ルシカとレインがテオを見やる。結論を述べたナイトレイドには同情も糾弾の意図も無い。あるのは事実だけだ。
「フレイヤの名前に反応する者がここへ来るように仕組んだ。それで俺が狙いだったということですか?」
「同じ条件で陛下やヴォイドも当てはまるが、あの神父はお前が来ると分かっていたようだ。最初の質問に戻るが、神父が持っていた記録作はお前の名前で書かれていた。だからやって来た俺をお前だと思い込んだ」
テオの心臓が大きく脈打った。フレイヤの記録作に、自分の名前が――?
「奴はお前の顔を知らないのにお前が来ると確信していた。噂を流した別の誰かがそう吹き込んだんだろう」
ナイトレイドは立ち上がった。
「もう寝る。明日の朝、陛下に報告しに戻らなければならない。行くぞヴィンセント」
「協会の方は何か分かったの?」
ルシカがダンとロゼに顔を向けた。記録作家協会はセントラルの隣町にあり、ヨルノリアに属する記録作家の管理をしている。暖炉の真ん中で胡座をかいたダンは一呼吸おいて話し始めた。
「まずフラメが召集された経緯だが、召集にかかった日数からして、協会が王宮に提出した推薦書に六人目を書き加えられた可能性が高い。国録も同じ方法だろう。陛下直属の協会でそんな真似が出来るのは」
「内部の人間……」
「協会の奴らは前王時代の年寄りばかりだ。夜の支配者に脅されて動いていてもおかしくはない」
「……」
もしそうなら自分たちは最初から夜の支配者の手のひらで転がされていた事になる。
「それと、関係があるか分からんが協会には昔の元老院のメンバーが数人いた」
「証拠品をヴォイドに渡した後に宮廷図書館にも行ったけど、フラメを見た者はいなかったね」
鞄の中で煙草を探しながらロゼが付け足した。
「ヴォイドは何か言っていましたか?」
「『どれも王宮に詳しい者でないと持ち出せない』って難しい顔をしてたよ」
「宮廷図書館でお前の師の記録作を読んだ」
突然違う話をし始めたダンにテオは顔を上げた。
「お前とよく似ていた」
「……そうか?」
冷ややかな声を発したのが誰なのかダンは一瞬分からなかった。ルシカたちは揃って声の主を見つめ、二階に上がろうとしていたナイトレイドたちは立ち止まった。
「今まで俺たちの前に立ち塞がっていた奴らの……今回、伯爵やヴィンセントさんをあんな目に遭わせた奴らの仲間だとしても?」
時間が止まったかのように音が止んだ。
「どういう意味だ」
沈黙を破ったのはやはりダンだった。
「……ワルキオが保管されている教会でブックエンドと会った。俺より先にワルキオを手に入れていた。フードではっきりとは見えなかったが、あれは……フレイヤだった」
ナイトレイドは静かに眉根を寄せた。あの時、神父を訪ねて来た人物がフレイヤだと……?
「でも顔をはっきり見た訳じゃないなら……」
ロゼは信じていない風だ。テオだって信じられなかった。何かの間違いだと思った。でも――。
「……お前、なぜ出口が分かった」
眼光を鋭くしたナイトレイドが低く言う。
「……フレイヤが……」
喉元が熱くなる。それ以外、それ以外なんだっていうんだ。テオは堪らず部屋を出た。
「テオ!」
軋む階段を登り、突き当たりにある屋根裏部屋に入る。これ以上、誰にも言葉を掛けられたくなかった。閉じた扉を背にテオはずるずると座り込んだ。鼓動が速くなり、遅効性の毒がゆっくりと回るように感情を支配していく。
『テオ』
耳の奥で優しい声がこだました。一体どこでどう歯車が狂ってこんな事になってしまったのだろう。
「……テオ」
再び名前を呼ばれた。今度は記憶の彼方ではなく、耳元で聞こえた。
「生きてたんだね、フレイヤさん」
扉越しに話し掛けたのはルシカだった。
「よかったね」
テオは背中合わせのまま答えた。
「けど……本当にフレイヤなのか分からない」
もう自分の知るフレイヤではないという事実が、生きていたことに対する喜びを打ち消していく。
「……私たちが知ってるのは、全部じゃない。どうしてフレイヤさんが向こう側にいるのか、どうしてテオを助けるようなことをしたのか、まだ謎が残ってる。そうでしょ?」
ルシカは続ける。
「テオ言ってたじゃない。『私たちはいつも何を記すべきかを選択し、どう記すべきかを考えてる』って」
ルシカは見えないテオの顔を思い浮かべた。自由が好きで面倒事が嫌いなテオ。それでも誰かが困っていると放っておけず、いつの間にかみんなの前を歩き、誰よりも真摯に真実を追いかけている。そんなテオだから、ダンもロゼもレインもついて来てくれるのだ。
「ひとりじゃないよ。私たちもテオと一緒に探すことができる。ねぇテオ……テオにとって、私たちは重荷?」
「!」
『師匠にとって俺は重荷?』
その昔、同じことを訊いた。
『私にとってテオは』
「……俺にとってみんなは」
『旅人の夜を照らす光だよ』
「旅人の夜を照らす光だ」
記すということは自分と向き合い、歴史と向き合い、世界と向き合うこと。テオがそれを続けている理由はティアの笑顔やドロシーの涙、ヘンドリクセンやヴォイドの眼差しのその意味を、この手が知っているからだ。
扉を開けるとしゃがみ込んでいるルシカと目が合った。明るいグリーンの瞳には涙が溜まっている。それを見た瞬間、ひどく落ち着かない気持ちになった。
「もし何かあったら必ず守る。だから、一緒に探して欲しい」
ルシカは涙を拭いて微笑んだ。
「うん」
夜も更けた頃、談話室に降りたテオは暖炉の前で横になっているロゼを見つけた。側に酒瓶が置いてあるので、晩酌の最中に寝てしまったのだろう。コルルは誰かが部屋まで運んでくれたらしい。
「……気持ちの整理はついたかい」
てっきり寝ていると思っていたロゼがしゃがれ声で訊いた。
「ルシカに落ち着かされました」
「そうかい」
「なぜルシカは泣いてたんでしょうか」
ロゼは目を閉じたまま笑った。
「あんな辛そうな顔してたらルシカだって泣きたくなるさね」
寝息を立て始めたロゼを見遣り、テオはそっとソファに寝転がった。
そうか。ルシカの涙に心が揺れるのは、締め付けられる思いがするのは、いつも自分の為に泣いてくれるからだ。
ナイトレイドとヴィンセントは朝一の便でセントラルへ帰った。記舎を出る直前、ナイトレイドはまだ乾き切ってない本をテオに渡した。
『フレイヤが北で最後に受けた仕事については調べたのか?』
『え……』
ナイトレイドは背を向けたまま続けた。
『記録作家はこの国の、街の人に寄り添うべき存在だ。お前の知る師が彼らを困らせるような人間でないのなら、俺が聞いたように恨まれ、無責任な記録作家ではないのなら、証明してみせろ。たとえ残された手掛かりが少なかろうとな』
『……』
『それと俺がお前のフリをしたのはヴィンセントの身の安全の為だ。だが、フレイヤがお前に遺した物の為も少しある。その意味を考えるのはお前の役目だろう』
「俺に遺した物の意味……」
切り取られたページをめくっていたテオはある物の存在を思い出した。部屋に置きっぱなしの上着の胸ポケットに手を突っ込んで取り出したのは、地下で見つけた空の小瓶だ。
まだだ。まだ何かあるはず。テオの知るフレイヤなら、鍵はもう揃っているはず――。
『真実はずっとその手の中に』
「手の……」
閃きの稲妻が思考の霧を貫いた。テオはレコードケースの一番上に入れていたそれを掴むと暖炉の前に滑り込んだ。起きていたルシカやダンが何事かと目を白黒させる中、万年筆の結合部を火に当てる。しばらくすると固められていた接着剤のようなものが溶け、結合部が緩んだ。迅る手で回して開けると中から紙切れが出てきた。
「!」
皆がテオの周りに集まる。
「妙だと思ったんだ。あのフレイヤが俺に高価な万年筆なんか遺した事が」
紙には星のように小さな文字が並んでいた。
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