冬の向こう――1

 月が傾き始めた頃、セントラル中心街の少し外れに立ち並ぶ建物の一つ――デルフト・ブルーの屋根に覆われた記録作家協会の裏口に人影があった。

 レース飾りの付いたチュニックの上に王宮勤めのようなボタンコートを着た男はかなりの老齢で、せかせかと歩く足は痩せ細り、足音もほとんどしない。しきりに後ろを振り返りながら人がいないのを確認すると、男はそっと扉を開けた。


 こんな事をするつもりはなかった。結論が出る前に行動したことなど、男の人生で一度も無い。それなのに――。

 かつて畏怖されながらも絶対的な強さで国を守っていた父王と違い、息子の方は従者や民によく愛されていた。今朝方わざわざ自らここを訪ね、「昨今の事件解決の為に協力を」と頭を下げて行った彼を見て思い至った。愛されていたというのは結果論に過ぎない。彼の方がその並々ならぬ想いで皆を愛しているのだ。彼なら絵空事ではない本物の理想の国を創る。長年沈黙を貫いてきた罪深き我々の信頼を勝ち得たあの男になら、きっと――。


 男は扉を閉め、街へ出た。街路樹に沿って歩き、王宮へ繋がる隠し通路を目指す。ふと背後に気配を感じた瞬間、冷たい物が腹に刺さった。男は声を上げることなく薄く息を漏らし、やがて街路樹の茂みの中に倒れ込んだ。襲撃者は男の懐から古い羊皮紙を探し出し、持ち去った。




     *




「戻ったか」

 雪山の麓にせり出した高台に立つ人物は後ろからやって来たヴァルに呼び掛けた。長い黒髪を背中で真っ直ぐに切り揃えた背の高い女で、ヴァルと同じロングコートとブーツの上に細身の外套を羽織っている。

「おう。また妙なこと考えてるな」

「邪推はよせ」

 年若い外見に反して鋭く研ぎ澄まされた瞳はいつ見ても何かを考えている。

「しかし気に入らんな」

「何が?」

「全部だ」

 女は踵を返した。羽織り直した外套が風ではためき、鍵を咥えた犬の紋章が青白い夜に浮かび上がった。




      *




『……そうだ、代わりに僕が知ってる君の母親の事を話すよ』

『え?』

 予想だにしなかった言葉にテオはヘンドリクセンをまじまじと見た。

『俺たち初めて会ったのに、何でそんなこと……』

 すると小さな王子は窓辺に寄り掛かり、遠くの街を眺めた。

『実は前に城を抜け出した時に君たち師弟を見掛けたんだ。父上の部屋にある絵と君がそっくりだったから、きっとそうだと思って。あっこのことヴォイドには内緒だよ』

『誰に内緒だって?』

 不機嫌そうな声と共に部屋に入って来たのはヴォイドだった。

『まったく、抜け道を使うなら俺に言って下さい』

『今度からそうするよ』

 ヘンドリクセンはニコニコと答えた。やや気難しそうな少年と幼い王子のやり取りは二人が気心の知れた友人であることを物語った。

『あの、絵って……』

『父上の部屋には交友関係を表すための絵がたくさんあってね。贈られたもの、命じて描かせたもの……その中に綺麗な金色の髪の女の人がいたんだ。それが君のお母さんだよ』


 ヘンドリクセンの部屋がぐにゃりと歪み、知らない景色になった。霧が濃い場所だ。するとフレイヤが目の前に現れ、霧の中に消えた。霧はどんどん広がり、ロゼやダン、レイン、そしてルシカを飲み込んでいく。追い掛けようとしたテオは何かに足を取られ、倒れたところで目が覚めた。


「これ、たぶん星座文よ」

 ベッドに横たえていた体を起こすとルシカの声が聞こえてきた。外は仄暗く、何時なのか分からない。

「星座文?」

「聞いたことがあります。たしか昔、星がよく見える北の地域で使われていたとか」

 酷く喉が渇いたことに気付いたテオはベッドを降り、声のする向かいの扉を叩いた。

「おや」

 扉を開けたロゼの向こうでみんなが振り向いた。荷物からして本来はダンの部屋なのだろうが、備え付けのテーブルを囲んでルシカたちが何やら話している。

「テオ、調子はどう?」

 ルシカが心配そうに訊いた。

「大丈夫だ」

 出た声が完全にしゃがれていたので咳払いして誤魔化す。

「それは大丈夫って言わないんだよ」

 ロゼが呆れたように言うと「水を貰っておいで」とコルルに頼んだ。

「何してたんだ?」

 あれから更に南下した一行は下町の宿に泊まっていた。テオが風邪をひいてしまったため、記舎ではなく食事の出る宿にしたのだ。

「これを調べていた」

 脚を持て余しながら椅子に座っていたダンがテオの万年筆から出てきた紙を見せた。

「星座文だとしたらルーペが無いと読めないの」

「小さい望遠鏡みたいな物で、レンズに特殊な加工がしてあるそうです」

 ルシカとレインはきっちり整えられたベッドの端に腰掛けている。

「小瓶の方はまだ開けてない。見た目は空だが……」

 テオは頷いた。信憑性は無くとも死という単語が出た以上、迂闊に開けない方がいいだろう。

「師匠、水です」

 コルルから受け取った水を飲むと喉が焼けていたかのように沁みた。

「問題はそのルーペをどこで手に入れるかだな。何か心当たりないか?」

 ダンに尋ねられたレインは「分かりません」と答えた。

「今はもう無いのかもしれません。星を仕事にしている人は元々稀少ですから」

「いや、心当たりを訊くならお前だったな」

 ダンがテオの方を向く。テオは俯いた。ナイトレイドに言われてから、テオもずっと考えていた。


『神父が持っていた記録作はお前の名前で書かれていた』

『その意味を考えるのはお前の役目だろう』

『信じたい時に』


 テオは握った空のグラスを見つめた。僅かに残った水が底でじっと光っている。そうしてふと光が象を結んだ。

 待っていた……のか?

「天国への階段の記録作に俺の名前を使ったのは俺に小瓶を見つけさせるためで」

 思い上がりだろうか?

「シエロト教会の場所を示すページが破られていたのは他の人に見つからないようにするため」

 いや、フレイヤはきっと――。

「その時が来たら――俺がこれを解けた頃になら明かしてもいいと」

 テオは熱に浮かされたように呟いた。

「そう望んだ」




 自室で眠っていたテオは複数の人の話し声で再び目を覚ました。コルルにもらった薬が効いたのか、喉の痛みはいくらか和らいでいる。軽く咳をすると話し声が止み、扉がノックされた。入って来たのはマントと同じ深緑の帽子を被ったヴォイドだった。

「お前も寝込んでいたのか」

 ダンたちが疑問の顔になったのを見てヴォイドは声を潜めて言った。

「陛下は今体調がかんばしくなくてな」

 テオはすぐにヘンドリクセンは病が再発して床に伏せているのだと分かった。

「悪いが二人で話せるか」

 ヴォイドは扉を閉め、おもむろに切り出した。

「ナイトレイドから聞いた。どこで見た」

「……ノワールの西の地区で」

 それでわざわざ来たのか、と言いたげなテオにヴォイドは「信じられんだろう」とこぼした。

「誰でもなくお前の口から聞くべきだと思った。それに陛下もこの件を気にかけている。何よりお前のことを心配していた」

 テオはどうするか決めていた。

「……フレイヤを探して話をします。たとえ俺のことが分からなくても」

 ヴォイドは一瞬、憐憫な顔をしたが引き留めはしなかった。




 宿で一週間が経とうとしていた頃、不穏な知らせが舞い込んだ。

「襲われてるだって?」

 どこからか持って来たロッキングチェアで寛いでいたロゼが聞き返した。立ち上がった勢いでロッキングチェアがギイギイと揺れる。

「街では記録作家狩りと呼ばれているそうです」

 上等の白い毛皮のマントを頭からすっぽり被ったレインが深刻な面持ちで言った。

「ヨーク記舎でも二人襲われたらしい。掲示板は連絡の嵐だ」

 ダンは自室に勝手に持ち込まれたロッキングチェアを一瞥したが諦めたらしく、コートを脱いで壁に掛けた。ダンとレインは溜まった手紙を回収するため、最寄りのヨーク記舎へ行っていたのだ。

 記録作家同士の手紙は郵便料金を節約しようとする暗黙の了解があり、あらかじめその記舎に向かう人に託すなどしておけば数カ所にまとめて保管しておくことができる。

「なんだろうねぇ……こんなこと初めてじゃないかい」

 レインから手紙の束を受け取りながらロゼがぼやいた。ルシカとコルルは不安げに黙っている。

「これがテオさん宛です」

 テオは礼を言うとペーパーナイフを取り、一番上の手紙を開封した。ルシカ以外で手紙のやり取りをするのは仕事関係の王宮や協会、依頼人、あとはロルグくらいだ。それと――。

「ギルからだ」

 テオはいかにも今封をしたばかりの封筒を脇に投げ、便箋を開いた。


〈侵入者ここにあり。鍵は忘れた〉


「……ったく」

 テオはため息をつくと窓を開けた。眼下に目をやるとニヤニヤしながらこちらを見上げているギルバートがいた。ギルバートはテオの姿を確認すると一階の屋根によじ登り、イタチのような軽い身のこなしであっという間に二階の窓辺に降り立った。

二人ダンとレインを尾けたのか」

「まぁな」

 鼻を赤くしたギルバートが少しも悪いと思っていない顔で答える。

「狩られてないか見に来たぜ……というのは嘘で、とっておきのネタを教えにな。今言っていいか?」

「ああ」

「協会の役人が殺された」

 テオの後ろで聞いていた皆の間に緊張が走った。

「えーっと、宝石みてぇな名前だったな」

「……エドモンド卿……」

「そう、それ」

「知ってるのか」

 テオが尋ねるとダンは神妙な顔つきで答えた。

「協会を調べた時に見た名前だ。昔の元老院のメンバーだ」

「記録作家狩りと関係あるかは知らねぇが、俺としてはどっかに隠れることをオススメするぜ」

 ギルバートはわずかに同情を含んだ口調でそう言い残すと屋根を降りていった。



「武器になりそうな物と言っても、あたしらはペーパーナイフくらいしか持ってないしねぇ」

 手紙の開封を再開したロゼが肩をすくめた。

「みんな護身用の短剣を持ち始めてるって……」

「記舎や図書館なども使えなくなりそうです」

 それぞれ手紙で得た情報を口走る。テオにも年上の記録作家からこの状況に対する情報を求める旨の手紙が寄せられていた。所詮、記録作家は非力だ。


 テオは無心で封を切った。元老院に恨みを持つ者で思い当たるのは例の神格化された一族とその影響を受けたミラーフィールド家だ。だがもし元老院殺しと作家狩りが関係あるとしたら、作家であるレインに危険が及ぶのは本意ではないはず。

 レインは偽名を使っていた。そのせいで血塗られた一族だと知らなかったのなら仕方ないが、仮に同族が巻き込まれるのを危惧するのならこのやり方はあまりに雑だ。

 無差別に記録作家を襲う意味はなんだ?

「あっ」

 膝の上から封筒が床に落ち、拾おうと屈んだルシカの背中がテーブルの脚にぶつかった。テーブルに立ててあった小瓶が倒れ、縁へ向かって転がる。

「!」

 小瓶は封筒の横に落ち、ルシカの目の前でパリンと割れた。

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