手のひらの真実――6
ナイトレイドはいつでも反撃出来るようにじっと観察した。残念ながらこんな奴にくれてやる命など持ち合わせていない。
滴る水音が静かに思考を誘引する。フレイヤは一体なぜこんな話を記していたのか。あの破られたページには何の意味があるのか。その答えは一つ――。
バシャ。頭上から流れ込む海水の音に混じって水を分けて歩く音がした。音は徐々に近付き、地下室に青年が降りて来た。
「伯――」
テオと目が合った瞬間、ナイトレイドは蹴り掛かった。派手に水飛沫を上げ、テオが後ろに仰け反る。
「……!?」
無言で立ちはだかるナイトレイドにテオは暫し怪訝な顔をしたが、すぐに表情を変えた。
「あの紳士か……!」
よく回る頭だ。そう、ナイトレイドが恐れているのは神父ではない。神父にフレイヤの書いた記録を与え、テオをおびき出そうとした人物だ。突飛な話を信じ込ませ、手を汚させる狡猾さ。それでいて一度も姿を見せない得体の知れなさ。影の仕事をしてきたナイトレイドにはその危険性がよく分かる。だからこそ、ここで正体が露見することは避けねばならない。人質に取られた従者の為にも、そしてこいつの為にも――。
「誰ですか貴方は」
神父が突然の侵入者に不快な顔をする。これからのお楽しみを邪魔するなとでも言いたいのだろう。
「ここがシエロト教会ですね。一旦上で話しませんか? 時間はまだあります」
テオは体勢を立て直し、冷静に言った。シエロトという言葉を信用したのか、神父は素直に従った。
「ここは元は修道院で、オセという修道女が暮らしていました。後に誰もが祈りを捧げられるよう教会にした」
階段を上がった所でテオは話し始めた。
「これは驚いた。テオ・ブルーアイズの他に詳しい人がいたのですね」
テオがスッとナイトレイドに視線を寄越し、ナイトレイドは神父に気付かれぬよう首を振った。
「ちょうどいい。これから天国への階段を開けるところです。安らかな死への薬を手に入れることができるのです」
「その前にどうやってここを突き止めたのか教えてくれますか?」
「……」
「あなたは誰かから天国への階段の話を聞き、三つの美術品を盗む計画を立てた。深夜に動き、関係の無い物も一緒に盗むことで、警察もその目的は分からなかった」
「ええ、そして私は成し遂げた」
「いいえ。あなたは何も分かってはいない」
「何?」
「満潮になるのは今日の深夜頃です。それなのになぜもうここに来たのですか? 最後の品も盗まずに」
ナイトレイドはハッとした。数時間前に訪ねてきた人物だ。戻って来た神父の手には新たな品があった。
「教えてもらったんでしょう? この場所も、最後の品も。だからあなたはワルキオのあった場所に残されていたメッセージを読んでいない」
「メッセージ?」
「『地を穿ち、祈りの道を作りし者へ最後の導きを与えん。天に最も近きかの地で我等はただ登らんとする』。三つの美術品はそれぞれ槍、石、上着だった。槍で地下を掘り、石を積んで階段を作る。そして最後に上着を着た本人。三つの物を合わせて使うのではなく、結局祈りに必要なのは自分一人だけという意味です」
「馬鹿な。ここがシエロトです。天に続く階段がここにあるのです」
テオは上を向いた。
「この上に何があるかご存知ですか?」
「上?」
「この建物は先頭系で、最上階まで階段が続いています。その始まりはさっきの地下にある」
ナイトレイドは一階部分にある階段を見つけ、それが地下への入り口と繋がっていることに気付いた。
「天に最も近きかの地、つまり最も高い建造物とは地下をも含めたこの修道院のことなんです。巡礼者は神の加護を受けるためにこの階段を登り、祈りを捧げた。天国への階段とはそういう意味です。安楽死できる何かなどありません。ただ祈る者が潰えてしまわぬようにと彼女が遺したものだ」
神父は衝撃を受けたようにたじろいだ。
「祈りなど……私を救えはしない」
「貴方は死が怖いのですね。でもだからといって他人を死なせるのは身勝手だ」
「やめろ……私はただ神を……」
「神は逃げるためにいるわけじゃない。人を支配するためにいるわけでもない」
レインやユリアの顔を思い浮かべながらテオは言った。
「未来に願いを託すためにいるんだ」
「……」
毒気を抜かれ大人しくなった神父にナイトレイドが詰め寄った。
「あれをどこへやった」
神父は項垂れたまま動かない。
「答えろ!」
するとカッと目を見開き、神父がナイトレイドとテオを突き飛ばした。二人は既に水で一杯になりつつある地下へ転げ落ち、大きな水音を立てた。
「キアラ様……」
よろめくように歩く神父が立て掛けていた檻に当たった。ガシャンと重い音が響き、檻が閉まる。すぐにナイトレイドが階段を引き返し、肩で檻を押す。
「おい! 開けろ!」
神父はゆらゆらと修道院から出て行く。テオも両腕を拘束されたナイトレイドに代わり柵を掴んだ。が、何かに引っ掛かっているのかガタガタと鳴るだけで動かない。力ずくで外そうにも常に入り込んでくる海水と狭い階段から手を伸ばしている体勢のせいで上手く力が入らない。そうしている間にも外はどんどん暗くなり、水かさが胸の辺りまで増していく。
「……ッ」
他に出口は無いかと壁伝いに手を這わせる。
「おい」
ナイトレイドが水面に浮かんでいた何かを見つけた。テオが手に取り、薄明かりに翳す。それはコルクで密閉された三センチほどの小さな瓶だった。
「まさか安楽死の」
「いや、中は空だ」
地下室に水が入る事で浮かんできたのか? 一体どこから――。
「ブルーアイズ」
切羽詰まった声にテオは首元まで水に浸かったナイトレイドの藍色の瞳を見た。この気難しい伯爵のことをほとんど知らないにもかかわらず、彼の実力に不相応な事態であること、それが自分のせいであることを悟る。恐怖が重い鉛のようにテオにのし掛かった。呼吸が浅くなっていくのが自責の念のせいなのか、残り少ない空気のせいなのか分からない。ナイトレイドに階段の一番上を譲り、深呼吸する。
この鉛の感覚を味わうのは初めてではなかった。フレイヤを失った時に嫌というほど味わった苦さだ。テオは息を止め、瞳を閉じた。
考えろ。それしか救いがないことは知っている。酸素を吸い込む度にこれまで目にした光景が頭の中を途切れ途切れに巡っていく。ノワールの街並み、ホテルの巨大な宗教画、盗まれた美術品たち。聖書、月の印、修道院。
『祈る者はただ空を見上げ、祈らぬ者は地へと導きを返せ』
「祈らぬ者は……地へ……」
テオは下の絵を見た。水でほとんど見えないので、息を吸って潜る。
「何してる!」
上等の上着を着た子供が母に寄り添っている――金のボタンが一つ無い。そこだけくり抜かれている。テオはポケットから拾ったボタンを取り出し、欠けたそこへ突っ込んだ。穴の中で出っ張りが引っ掛かったのを確認し、回す。すると鈍い音と共に壁の一部が引っ込んだ。
「!」
隙間からゴボゴボと空気が漏れている。後から潜って来たナイトレイドと力いっぱい壁を押すと地下水道のようなトンネルが現れた。二人は水流に押し出されるようにしてその中を通り、修道院の一階へ辿り着いた。
「ハァ、ハァ……ゲホッ」
どうにか浅瀬まで渡り、テオは浜辺に倒れ込んだ。
「……お前一人で戻れるか」
浜辺で拾った鉄屑でナイトレイドの鎖を壊したテオは頷いた。
「……中心街のドール・ミーシュに仲間が」
「俺はヴィンセントを助けに行く」
ナイトレイドはそう言い残すと走り去って行った。
その様子を海岸から見ていた男が呟いた。
「……あれが君の愛する弟子か」
男の傍らに立っていた人物のフードが風で脱げ、銀の髪が靡いた。
*
不意に呼ばれた気がして、ルシカは手帳を置いて窓を見た。テオが出て行ってからというもの、部屋の窓際に持って来た椅子の上で実に五回は同じ事を繰り返しているのだが、それでもルシカの気は治まらなかった。
「私、やっぱり見て来る」
「でも……」
不安そうなレインとコルルに「すぐそこまでだから」と言い置き、外套を被る。ホテルを出るとエントランス近くの木に繋がれている馬を見つけ、手綱を解く。
「ちょっと!」
エントランスにいた持ち主の荷運び屋が驚いて声を掛ける。
「すみません、すぐお返しします!」
そう叫ぶとルシカは鞍によじ登り、敷地を飛び出した。
テオは凍えながら中心街へ続く登り坂を歩いていた。
冷え切った夜が濡れた全身から問答無用で体温を奪い去っていく。疲労で酷く眠い。霧で霞む視界がますますぼやけてきた。
ナイトレイドは無事にあの紳士を見つけられただろうか。ヴァルたちは神父を捕まえただろうか。考えることは山ほどあるのに、上手く思考が出来ない。いや、本当は思考を放棄したがっている。あの一瞬、閃きの鍵となったあの言葉が、手にした信じ難い事実が、じわじわと心を蝕んでいく――。
「テオ?」
顔を上げると馬がテオを見下ろしていた。一瞬馬に話しかけられたのかと思ったが、馬の背から降りて来た人物の声だと分かった。聞き慣れた声に体が無意識に安堵し、足の力が抜けた。
「……悪い」
膝が地面に着く前に抱き止められたテオは謝った。
「うん」
ルシカは何も聞かずにずぶ濡れのテオを抱き締めた。自分の体温を移すように、ゆっくりと。
「後で話そう。後ろに乗って」
テオが乗るとルシカは馬を走らせた。向かって来る風がルシカの匂いに変わる。テオはほんのひと時の間、幼子のように目を閉じていたのだった。
ホテルに戻るとロビーの片隅に皆がいた。レインとコルルだけでなくダンとロゼ、ナイトレイドと紳士までいる。レインがテーブルに積まれたタオルを一束取り、テオに渡した。
「これで揃ったね」
防寒具でぐるぐる巻きのロゼが立ち上がる。
「移動する」
ダンは今説明をする気が無いらしく、質問の余地を挟まずに言った。
「どこに行くの?」
「少し南下する。ノワールの手前の街に記舎がある」
体を拭いていたテオはポケットの中にあるボタンを服の上から強く握り締めた。
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