手のひらの真実――5

 遥か昔の帝国時代が終わりを迎えた後、分割された複数の小国が集まって出来たヨルノリアはしばらくの間、大きな信仰が存在しなかった。したがって神を信じる者たちの間ではこう呼ばれていた――「神のいない国」と。


 モルジ邸に着いたテオは周囲を確認した。近くに人はおらず、相変わらず空は薄い雲に覆われている。街ごと霧に隠されてしまいそうだ。通り抜けた一陣の風が、胸で小さく燻る罪悪感を鳴らす。ルシカが引き留めた理由は分かっている。だが、ルシカたちを連れて来てガラードの時のように襲われても、きっと守れない。己の非力さは自分が一番知っている。


 邸宅は住居部分と展示棟が別棟になっており、展示棟の方はひどくがらんとしていた。客用の扉を開けた先の部屋は地下への螺旋階段と椅子が一脚置いてあるだけの殺風景なもので、至るところに蜘蛛の巣が張っている。

 展示室の前に立っている警備員二名を見つけたテオは軽く敬礼した。

「ヴァルヴァシュカさんに言われて来た者ですが」

 ヴァルには悪いが嘘をつかせてもらい、中に入る。盗まれた石が飾られていた場所には書見台がポツンと虚しく佇んでいた。他にも美術品が数点飾られているが、どれも見たことがない。手掛かりはこの書見台のみのようだ。

 年季の入った書見台は煤けて黒ずんでいる。これが修道女オセの時代からの物なら、ここにメッセージが残されている可能性は高い。自分に代わって祈る者――同胞への道標として。警備員が向こうを向いた隙にテオは床に這いつくばり、下から書見台の裏を覗き込んだ。

「!」

 例の月のマーク。そして火で炙ったような焦げた字でワルキオと書かれている。この形ならさっき見た教会の中にあった。確か街から外れた所に建つ教会だ。そこに最後の品とシエロト教会の在処が記されている。

 日没まであと二時間弱。ヴァルたち警察は中心街の教会を当たっている。テオは小走りにモルジ邸を後にした。





『おい』

 柱の影から呼び掛けると長身の男は立ち止まった。月の明かりが宮廷の廊下に一人分の影を作る。

『また陛下の側を離れて奴を追っていたらしいな。よほど俺の仕事に満足してないと見える』

『そんな訳ないだろう』

『奴が妙な動きをしているのは知っている。だがお前にはお前の役割があるだろう。陛下の側近はお前しかいないんだ』

 するとヴォイドは振り返り、いつかのように言った。

『……貴方だって一人しかいない』



「私の調べでは必ずしも文字通りの意味ではないと思うのですよ」

 明け方戻って来た神父は祭壇の前に何かを並べ、ブツブツと独り言を繰り返していた。一メートルほどの古びた槍と、先の尖った岩のような石。魅入られたようにそれらに向かって話しかける様は不気味で滑稽だったが、無闇に危害を加えて来ないのを良いことにナイトレイドは話の内容からなんとか手掛かりを得ようとしていた。幸い体力はまだ少し保つ。

「つまり差し当たっての壁はこれらの使い方。三つ揃えて、それがどう階段に繋がるのか……階段の場所もまだ教えてもらえませんし」

 ナイトレイドはフンと鼻を鳴らした。

「……アンタの調べがもう少し進めば思い出せそうだ」

 相手が俺をテオだと思っているのなら、こちらに利がある。どちらにせよ彼の無事が分かるまではこの猿芝居を続けなければならない。




     *




 ユリアの家と逆方面にあるその地域は一層霧の濃い場所だった。目的の建物は教会だと知らなければ分からないほどみすぼらしく、かろうじて形を保っている。湿気で濡れた木戸を開けるとカビの臭いがテオの鼻を刺激した。

 聖堂は暗く、朽ちかけた木窓が僅かにあるだけだった。教会というよりは寧ろ監獄に近い。中央の通路を進みながら、地図にあった教会の中でここが一番古いに違いないと思った。

 祭壇に辿り着くと先程と同じように裏側を見る。モルジ邸の時とは違い、書かれていたのは文章だった。

「『地を穿ち、祈りの道を作りし者へ最後の導きを与えん。天に最も近きかの地で我等はただ登らんとする』――」


 キィという音が静寂を揺らし、テオは弾かれたように振り向いた。

 戸口の所に、誰かいる。暗くてよく見えないがヴァルでもナイトレイドでもない。影から生まれたかのように黒いマントのフードを深く被り、手に何か持っている。咄嗟に祭壇の上を確認すると薄い引き出しが開いていた。

 先を越された――だが、妙だ。テオはゆっくりと立ち上がり、慎重に通路を引き返した。フードの人物はじっと手元を見つめ、何かを考えている。その手の中に折り畳まれているのは上等の布のような物。

「ワルキオ……」

 今回の事件における犯人の行動は一貫している。必ず夜に行動し、たとえ次の品の場所が分かっても盗むのは翌日の深夜まで待った。満潮になるのは今夜の二時頃なので最後の品を盗みに来るのは深夜かその少し前でも間に合う。したがって今ここに来る人間はテオを含め、事件に手を出そうとしている部外者ということになる。

 相手との距離が数メートルのところまで来ると、開きかけの戸から漏れ出る明かりがそのシルエットを浮かび上がらせた。逆光を背に立つ姿は、テオより華奢だった。


「あなたがフラメ……いや、ブックエンドか」

 テオが言うとフードの人物は僅かに顔を向けた。まるでたった今初めてテオの存在を認識したような素振りだ。

くだんの窃盗犯が行動するのは決まって深夜だ。つまり、あなたは亡霊ではない」

 一歩、また一歩と近付く。相手は動かない。テオは唇が冷えていくのを感じた。踏み出した足先が得体の知れない影に絡め取られていくような感覚。同時に、知ってはならない何かが目の前にあるという予感が胸中で騒ぎ立てた。

「……祈る者はただ空を見上げ、祈らぬ者は地へと導きを返せ」

「え……」

 あと数歩のところでフードの人物は体の向きを変えた。そして後ずさるようにして外に出ると霧の中へと消えた。


 その場に突っ立ったまま、テオは呆然と戸口を見つめていた。

 捕まえようと思えば出来た。なぜそうしなかったのだろう。なぜ追い掛けなかったのだろう。そしてなぜ――大切なものに触れるようにして手を伸ばしていたのだろう。




「どこへ行ったかと思えば」

 無人の通りに現れた人物に、男は建物の影から声を掛けた。

「何持ってんだ?」

 取り上げて広げると分厚い上着が現れた。強烈なカビの匂いに顔をしかめ、すぐに投げて返す。

「あの神父を助けてやるのか?」

「……」

「ま、好きにしな。俺の仕事は噂を流して終わりだからよ」

 男は興味無さそうに言うと煙草を咥えて路地の中へ戻って行った。




 日没がすぐそこまで迫る教会で、テオは再度祭壇と向き合っていた。

 ワルキオは奪われてしまったが、まだシエロト教会が残っている。初めはここがシエロトかと思ったのだがそうではないらしい。一通り中を調べたが隠し部屋や通路の類は見当たらなかった。

「やはりヒントとなるのはこれか……」

 『地を穿ち、祈りの道を作りし者へ最後の導きを与えん。天に最も近きかの地で我等はただ登らんとする』。

 おそらく「地を穿つ」は槍で、「祈りの道を作る」が石のことだろう。だがワルキオのことが書かれていない。さっきの布のような物はワルキオではないのか? そして「天に最も近きかの地」。これがシエロト教会を指しているのだろうか。そうだとするならば、それはどこか。蛇行する思考をならすように目を閉じる。


『集めれば天国への階段が開ける』

『槍で掘ったのは洞窟ではなく、地下だとあります』

『昔はあの辺まで街だったからな。今じゃ潮が満ちれば沈んじまう』

『天に最も近きかの地で我等はただ登らんとする』


 テオは目を開いた。

「まさか」

 急いで教会を出ようとすると戸口の床で何かが光った。

「これは……」

 西陽を受けてきらめいていたのは装飾された古い金のボタンだった。




     *




 さっきから遠くで人の声がする。

 ナイトレイドはじっと息を殺した。ここに監禁されてからというもの、外の音はほとんど聞こえなかった。元々この男を捕らえようとした場所自体が猫一匹通らない廃街だったのだ。

 街で何かあったのか? 体を動かして部屋の入り口へ近付こうとした時、玄関扉が叩かれた。

「おや」

 ようやく呟くのをやめ、神父が部屋を出る。ナイトレイドは耳を澄ませた。この際警察でも何でもいい。そろそろ体力も限界だ。何より彼の安否が気掛かりで仕方ない。


「お待たせしました」

 すぐに戻って来た神父の表情が明らかに上気しているのを見て、ナイトレイドの期待は潰えた。神父はまた新たに服のような物を持っており、それを石の隣に並べるとこちらを向いた。

「貴方の記憶は不要になりました」

「なら解放してもらおうか」

 ナイトレイドは冷たく睨んだ。何を突き止めたか知らないが、この男が盲信している天国への階段など存在する筈がない。

「いえ、確認しなければならない事が出来ました」

 神父は殊更嬉しそうに言った。

「天国への階段。その意味はおそらく安楽死の薬です」




 安楽死の薬だと? 馬鹿馬鹿しい。

 ナイトレイドは薄墨に染まった海岸を歩きながら心中で罵った。背中に突きつけられたナイフを叩き落とすのは簡単だ。だがこの男には間違いなく仲間がいる。もしどこかから見られていて逃げたことが知られたら、人質に危害を加えられるかもしれない。

「それで使い方は分かったのか?」

 神父は興奮した口調で答えた。

「隠されていたシエロトの場所が明らかになったのです。使い方など行けば分かる」

 そうしてナイトレイドは干潟に建つ建物に連れて来られた。古い修道院のようだが、膝下の辺りまで海水に浸っている。神父はずぶ濡れになるのも構わずバシャバシャと石床をまさぐった。

「ここです」

 積もっていた砂を退かすと一つだけ色の違う石が現れた。他と比べて四隅がすり減っている。神父がナイフをつっかえ棒にして石を動かすと海水が流れ込み始めた。石の下には柵がしてあり、奥に階段があるのが見える。

「さあ」

 柵を開けた神父に再びナイフで促され、ナイトレイドは渋々地下への階段を降りた。

「ここは……」

 階段を降りた先にあったのは石造りの棺にも似た長方形の空間だった。既に腰までの水が溜まっており、それ以外には何も無いように見えた。後から降りて来た神父が歓声を上げ、溜まった水を覗き込む。見ると床一面に巨大な絵が描かれていた。

 試薬瓶のような物を手渡す神とそれを受け取る修道女。隣に子供と、周りに村人たち。そこでナイトレイドは神父が自分を連れて来てどうするつもりなのかを察した。

「……なるほど。俺に確かめさせるということか」

「ええ。薬が本物かどうかを」

 神父は集めた品々を掲げ、恍惚として囁いた。

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