手のひらの真実――2
広大な大地に敷かれた枯れ色の絨毯を縫うようにして、汽車は進んでいる。同じ景色を繰り返しながらいくつもの駅を乗り継ぎ、テオ、ルシカ、レイン、そしてロルグに許可をもらったコルルはユリアを訪ねてノワールへ向かっていた。
車窓から見える西陽が浅く角度を付けて遠く伸びていく。昨日の夕方に乗り込んだのでちょうど丸一日乗っていることになる。テオは何度目かの伸びをした。
記録作家は長旅に退屈することはあまりない。余程揺れる道でなければ各々資料と羊皮紙を取り出して執筆に取り掛かる。テオたちも持参した食料を食べたり仮眠したりを挟みつつ、黙々と仕事して過ごしていた。
「怖くないのか?」
テオはふと隣に座るコルルに尋ねた。コルルはずっと読んでいたお気に入りの記録本を読み終えてしまい、欠伸をしているところだった。先日あんな思いをしたばかりなのだ。着いてくると言い出した時は驚いた。
「怒ったロルグさんの方が怖いですから」
妙な答えを寄越したコルルに聞き返す。
「何でロルグさんが怒るんだ?」
「師匠が危ないことに飛び込むからですよ」
口を尖らせるコルルにルシカが噴き出した。
「どっちが師匠だか分かんないね」
「悪かったな」
コルルは口に出すことなく怒りを露わにするロルグがいかに恐ろしいかを話して聞かせたが、テオは途中から他のことを考えていた。
三年前、フレイヤが殺された可能性を知ってからというもの、テオは手当たり次第に事件について調べた。時には眠ることも忘れて彼女の残した記録を読み耽ったが、書かれている内容はどれも記録作以上でも以下でもなく、そこからは火が消えたように調べるのをやめた。
ノワールへ行って何か分かるという確証はない。だが今、あの時閉じた箱をもう一度開けようとしていることは確かだ。
『どんな真実を知ろうとも心のままに記しなさい』
『真実はその手の中にある』
たとえこの先に探し求めていた真実があったとしても、それを知った自分がどうするのかテオには分からなかった。あの人が殺されなければならないほどの真実などあるはずがない。あっていいはずがない。
心のままに記せば、それはきっと憎しみに燃える業火の色をしていることだろう。
城郭都市ノワールは石塀に囲まれた街である。遥か昔の大帝国時代、領土を広げるべく進軍した帝国軍が軍事拠点や宿営施設を設置し、石塀の内部には領主の館が建てられた。周辺には家臣団や一般人も住み、軍がいなくなった後も残ったそれらはヨルノリア随一の歴史ある街となっていった。
「悪い、ちょっと寄り道していいか」
城門に着いたのは日没を迎えてだいぶ経った頃で、石壁の外は真っ暗だった。皆が無口なのは肯定の意というよりは疲労のせいだと承知しているが、店が閉まる前に行っておきたい。
街全体が迷路の如く入り組んだノワールはどこを歩いても道が狭く、その上で屋根は重なり繋がっている。記憶を頼りに目印となる家と家の二階を繋ぐ連絡橋の下を通ると裏庭に出た。
レウェルティという名の筆記具屋は記録作家御用達の老舗で、大小様々な教会が乱立するノワールの南側にひっそりと佇んでいた。接する近隣国から入ってきた信仰が盛んなこの街は信者や巡礼者が多く訪れる。
年々増える教会に紛れるように建っているレウェルティだが、確かな腕で信用の厚い店なので懇意にしている記録作家は迷うことがない。裏庭に現れた縦長の建物にまだ明かりがついている事に安堵し、テオは中に入った。
吹き抜けになっている店内は縦に広い。二階は物が溢れた倉庫と化しているが一階には壁一面にインク瓶が並べられ、床に置かれた木箱には丸められた羊皮紙の束が大量に入っている。他にもペン先と持ち手が種類ごとに分けられたガラスケース、シーリングスタンプや蝋などが陳列されている。
テオは作業台でペン先を研いでいる眼鏡の老人に声を掛けた。
「ハスターさん。遅くにすみません、これを見てもらえますか?」
フレイヤの万年筆をカウンターに置くとハスターは作業の手を止めて万年筆を手に取った。頷くとおもむろに背を向けてカウンター裏の道具箱を漁り始めたので、テオは店内を眺めて待つことにした。レインとコルルは陳列棚を見て周っている。
「アノシスの収穫祭、行かなくて良かったのか?」
栞を物色しているルシカの隣に立ったテオは何となしに切り出した。
「うん。また来年かな」
様々な植物が描かれた栞は自然を専門とする記録作家に重宝される。
「直るといいね。フレイヤさんの形見」
「ああ」
興味深そうに栞をめくりながら、ルシカは万年筆の事を話した時と同じことを言った。
「……図書館でフレイヤの記録作を見た時に思ったんだ」
ぽつりと溢すとルシカが視線を棚からテオに向けた。
「どうして知らなかったんだろうな。フレイヤのことも、万年筆のことも」
フレイヤが記すことを始めた理由。そんな事すら、聞かなかった。当たり前に側にいる日常に何の疑問も抱かなかった。
「アノシスの収穫祭ではね、お供え物と一緒に紙とペンを置いておくの。守ってくれる土地神に『あなたのことも教えて下さい』って。フレイヤさんが自分のことを語らなかったのはテオのことを守らなきゃっていう強さからだと思う。でも……守られる方もきっとそれが不安だったんだよ」
疑問が滑らかに氷解していく。そうか、俺は不安だったのか。
「……ルシカは」
ルシカも誰かの事を深く知りたいと思うのだろうか。
「思うよ」
「え……」
ルシカはテオの瞳に自分の瞳を合わせ、先程よりも強く言った。
「思うよ」
テオの喉から完全に言葉が引っ込んだ。訴えるように潤む瞳には憤りにも哀しみにも似た光が溢れている。今すぐ彼女の真意を正確に理解しなければならない気がして、テオは落ち着かない焦燥に駆られた。
「ルシ……」
「それに大事な人のことを知ろうとするのって、記録作を書く理由と同じでしょ」
はにかむように笑って付け加えるとルシカはブロンドの髪で顔を隠した。見慣れた彼女の横顔を、テオは噛み締めるように見つめていた。
「修理出来ない?」
数分後、テオを呼んだハスターは節くれ立った手で万年筆を転がした。
「固められてびくともせん。中身が見えんことには修理のしようがない」
項垂れるほど期待していた訳ではなかったが、思ったより落胆に沈んでいる自分がいた。腕利きのハスターがそう言うのなら仕方ない。テオは未練を振り切るように笑顔で礼を言うとレウェルティを後にした。
「――ここです」
レインは古い洋館の前で立ち止まった。レウェルティから二十分ほど歩いた街外れに建つそれはなるほど「血塗られた一族の住んでいた家」と言われれば納得の風体をしていた。大きく立派な館を伸び放題の植物たちが覆い、かつての栄華が時と共に廃れ去ったことを如実に表している。この辺りだけ建物や教会が無いので、付近一帯ミラーフィールド家の所有する土地なのだろう。
「ユリア、いますか? 私です」
レインがノッカーを鳴らして呼び掛けるとやがて扉が開き、中から老女が現れた。
「ジェーン」
銀髪の老女は持っていた燭台を脇に置くとレインを抱きしめた。
「遅くにごめんなさい。こちら記録作家のブルーアイズさん、バースデイさん。それと」
「見習いのコルルです」
コルルが頭を下げる。
「あの、今晩泊めて頂きたいのですが」
「ええもちろん。どうぞ入って」
ユリアは微笑んでテオたちを招き入れた。柔らかい雰囲気とは裏腹に聡明な目付きをしている。彼女から漂う気品のようなものをテオはレインからも感じていた。
「すみません。こんな時間に」
「いいえ」
ユリアに案内され、テオたちは広い廊下を進んだ。等間隔に天井から吊り下げられたガラスのランプがその洒落た
洋館は老女が一人で住むには大き過ぎるに違いなかった。だが手入れの行き届いた床や調度品から、彼女は日々この洋館の命を繋ぎ続けることで孤独を感じずにいるのかもしれないと思った。
「長旅で疲れたでしょう。先に寝る準備をして、お話はその後にしましょう」
「レインさん、これ薬です。傷痕が残りにくい薬草で作りました」
寝支度を整え、居間でユリアを待っているとコルルが鞄から薬瓶を取り出した。ルシカはキッチンでハーブティーを淹れるユリアを手伝っている。
「ありがとうございます」
「ほら師匠も腕出して下さい」
テオがおとなしく腕を出すとコルルが手際良く消毒して包帯を巻いた。テーブルクロス越しに負った傷なので大したことはないのだが、ヘンドリクセンにああ言われた手前きちんと治しておいた方が良さそうだ。それに、ルシカにも見つかりたくない。
「いつの間にそんなもの身に付けたんだ」
感心して言うとコルルは得意げに胸を張った。
「ロルグさんに習って。でなきゃロルグさんが素直に僕を行かせる訳ないですよ」
「それもそうか」
テオがガウンの袖に腕をしまったところでユリアとルシカが人数分のカップとソーサーを持って来た。苺に似た甘酸っぱい香りがテーブルから立ち昇る。
「……お邪魔したのは、私たち一族のお話を聞きたくて」
レインが切り出すとカップを出すユリアの手が一瞬スッと止まり、中身が静かに揺れた。
「じゃあもう知っているのね。私たちミラーフィールド家に起きたことを」
顔色を変えることなく、落ち着いた口調でテオたちに尋ねる。
「いえ、詳しいことはまだ」
「私も両親から伝え聞いたことは僅かで……」
「それが賢明だと思いますよ」
ユリアは柔らかい表情のまま目を閉じた。
「時代に振り回されたとはいえ、禍根は何も生みません。あなたのご両親はあなたに何にも囚われない道を歩いて欲しいと考えたのよ」
「あの……前に『初めて記録作家を名乗る人と会ったことがある』と言っていましたよね?」
「ええ」
ユリアは細い指を膝の上で組んだ。
「ではその話からしましょうか」
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