綴られぬもの――2 

 人には役割がある。戦う者、先導する者、記す者、見守る者。それぞれが与えられた、あるいは自ら選んだ役割の中に己の価値を見い出す。

 男はペンを置き、窓の外を見た。すぐそばにそびえる城は己の価値を問うにはあまりにも大きい。この窓はいつもそれを思い知らせる。それでもやるべき事をやるのみ。机を埋め尽くす積み重なった手紙の山の横に新たな山を築くと男は部屋を出た。


 持ち主ですら数を覚えていない多くの部屋は書斎と風呂、キッチンを除いてカーテンが閉じられている。男にとって地位などその辺の紙切れと大差ない。

 暗い廊下を歩いているとノッカーを鳴らす音が静寂を揺らした。殺風景な玄関の扉を開けると、初老の男が立っていた。

「伯爵」

 男は粛々と一礼した。身に付けているものこそ立派だが、物腰が柔らかいので少々威厳に欠ける。律儀に爵位で呼ぶのは仕える主から遣わされたこの男だけで、彼や自分の存在は誰も知る事はない。

「フロイドでの調録式が中止になりました」

「何があった」

「ヨルノリア側の国録が改竄されていたそうです」

「……分かった。馬の用意を」

「かしこまりました」

 書斎に戻った男は曇り始めた空を一瞥し、藍に染まる瞳を険しく細めた。




      *




 フロイド記舎の二階、ルシカの部屋にダンたちはいた。本来女性の部屋に男性が入るのは禁止されているのだが、この混乱の中では誰も気にする者はいなかった。

「国録ねぇ。確かに中身次第でこの国を混乱に陥らせる事は出来るだろうけど……」

「それが目的なら方法は他にいくらでもある」

 ロゼの言葉を遮ったダンは窓際に腰掛け、腕を組んだ。

「何か別の目的があるんだ。調録式じゃなきゃならない理由が」

「でも、なぜテオさんが」

「あれを書いたのが俺だからだ」

 言いながら入って来たのはテオ本人だった。

「テオ!?」

「いいねぇ脱獄かい」

 楽しそうに揶揄うロゼの前を通り過ぎ、テオはベッド脇の小さなテーブルに本を置いた。有名なヨルノリアコーヒーの鮮やかな焦茶に金縁の装丁。真ん中に三枚薔薇。

「これって……」

「改竄された国録だ。あと少ししたら役人が取りに来る」

「えっ?」

「こっちが俺が執筆に使った資料」

 ベッドの上にバサッと大量の書類が置かれた。

「あたしらで間違い探しをしろって事だね」

 早速ロゼが身を乗り出した。隅の方にいたレインも椅子を持って来る。


「しかし今回の執筆者がお前だったとはな」

 メラメラと燃えている対抗心に知らんふりしながら、ダンは平然としているテオを見た。国録は事前に募った作品の中から最も出来の良いものが選ばれる為、記録作家の頂点と同義である。

「犯人に心当たりは無いのか? お前の本に細工出来るなら近くに居た可能性もある」

 テオは肩を竦めた。

「どうだろうな……協会に提出して俺の手を離れた後の事は分からない」

「ねぇテオ」

 熟練の機織はたおり女のようなスピードで資料をめくっていたルシカが手を止めて訊いた。

「“足音”の一族の事を書いた?」

「足音の一族……ソヌス・ペディウムの事か? いや、書いてない」

「じゃあここに書いてあるのって……」

 ルシカが開いた国録を指した。

「……犯人が書いたんだ」

 一瞬の沈黙が通り抜ける。ふとレインが部屋の入口を振り返った。

「外が騒がしいな」

 ダンが扉まで歩き、部屋から顔を出した。さっきより人が増えたようだ。階下や廊下にいる作家たちが各々おのおの早口に喋っている。顔を引っ込めたダンは仏頂面をさらにしかめて言った。

「面倒な事になったぞ。記録作家に謹慎令だ」



 日没が近くなってもフロイドの街は明るい。部屋の明かりをつけなくても互いの顔がはっきりと見えた。

「随分じゃないか」

 ロゼが憤慨して言った。

「国はあたしらを疑うのかい?」

「これ以上の混乱を招かないためだそうだ」

「でも王様は私たちの味方でしょ?」

 ダンが扉を閉めるとルシカがテオに訊いた。

「ああ。俺にこれを渡して犯人を探れと言ったのは陛下だ」

 つまり記録作家の身動きを取れなくさせる事はヘンドリクセンの本意ではない。

「フロイドの独断だろう。それで、俺たちはどうする」

 ダンの言葉に全員がテオを見た。おそらく皆考えている事は同じだ。

「……ここには居られない」



 記舎の裏口は大体正面玄関の真反対にあり、小庭や路地に繋がっている。古扉を開けた先が足を付けることのできない水の上だとはテオも思わなかった。

「あ、分かった。私たち食糧庫にいるもの。ゴンドラから荷物を直接運ぶのよ」

 ルシカがどこまでも手広い知見を披露したがそれも今はあまり役に立たない。テオたちは物言わぬ荷物ではなく、監視の目を掻い潜って脱出しようとしている鼠なのだから。

「戻るかい?」

「いや待て」

 ダンは記舎の影に向かっておもむろに手を上げた。木の軋む音と共に影から現れたのは一隻のゴンドラだった。

「面白いとこから乗ってくる客がいたもんだ」

 舵を握る背の低い船頭が言った。水を弾く革の上着に、裾をブーツに入れ込んだ男。つばの大きい帽子の下でふさふさした茶髪が潰れている。しかし、その声は女のものだった。

「どこまで?」

 船首に繋がっている縄を放り投げ、ダンがそれを受け取り裏口の取手にかける。

「どこまで行けるんだ?」

 テオが逆に訊くと船頭は短く笑った。

「船が通れるとこならどこへでも。お望みなら航路外でも。追加をもらうけどね」

 フロイドのゴンドラは街が決めた航路しか運行してはならない。テオの目的地は航路内にある。

「じゃあトリスタン近くまで頼む」

「ははん、トリスタンならまだ記録作家の謹慎令は届いてないからな」

「!」

 緊張が五人の間を走った。それを見て船頭は得意気に名乗った。

「俺はオルゼ。この街のことは何でも知ってるぜ。さぁ乗りな」

 全員が乗り込むとオルゼは縄を手繰り寄せて足下に投げた。

「今日の調録式で交換される予定だった国録が改竄され、式が中止になり、俺の仕事が丸々無くなった。な、よく知ってるだろ」

「ここ数日で乗せた客で変わった点はなかったか?」

 オルゼはオールをつっかえ棒にして河の真ん中に船を戻しながら振り返った。

「へぇ、あんたら犯人探ししてんのか?」

「ああ」

「……いいぜ。協力してやるよ」




 夕景の中を進むゴンドラは煌めく水面とそれを反射する橋底、その向こうに広がる美しい空とをゆっくり繰り返した。

「今回は変な奴はいなかったんだよな、むしろ」

 オルゼが楽しそうに話し始める。

「前の時はどこの民族か知らねーけど変な一団が来てたぜ」

「変な一団?」

「ああ。朝早くにこの辺じゃ見かけない格好した集団が『式を見に行くから乗せてくれ』って」

 テオは水面を眺めながら記憶を引っ張り出した。前回の調録式は五年前。確か体調を崩していたヘンドリクセンに変わってヴォイドが出席した筈だ。急逝した前王の後、十八で即位してから一年しか経っていないヘンドリクセンは今よりも表舞台に立てる日が少なかった。

 目的地に着いたらまずはオルゼの言う集団について調べなければ。

「着いたぜ」

 一時間ほどすると空はすっかり夜模様になっていた。三ベルクをオルゼに渡し、礼を言う。

「犯人探し頑張れよ」

 手袋を外して金を受け取るとオルゼは手を振った。


 オルゼが船を引き返して帰った後、同じ場所に一隻の小舟が着いた。

 降り立った男は乗ってきた小舟に火を付けると河に戻した。燃えながら水の中を進む船は次第に小さくなり、最後は真っ二つに割れて沈んだ。




 河辺からしばらく歩いたテオたちは小さな宿に辿り着いた。

「ここは……?」

 レインが不思議そうにあたりを見回す。民家が点在する町を抜けた先の森の中にその宿はポツンと建っていた。

「トリスタン記舎だ」

 ギィ、と重く鳴る木戸を開けると薄暗い部屋が現れた。明かりはカウンターの中で爆ぜる暖炉の火だけで、その前にあるロッキングチェアに一人の男が深く腰掛けている。

「よう、おかえり」

「ロルグさん」

 男は読んでいた本をカウンターに置き、ゆっくりと顔を上げた。たっぷりとたくわえた髭と気難しい顔立ちの中でひどく優しげな目が確かめるようにテオを撫でた。

「コルルが騒いでいたからな……お前だと思ったよ。奥の部屋を使いな。コルル、満室の札を出しといてくれ」

 ロルグが呼ぶとカウンター奥の部屋から子どもの元気な返事が飛んで来た。

「助かります」

 ロルグは後ろに立つルシカらを見た。

「晩飯が要るな」

 テオは胸がじわりとほの温かくなるのを感じた。それは決して暖炉の火のせいだけではなかった。


 二階の宿泊部屋は四つしかないのでレインはルシカと同室になった。テオが荷物を置いているとバタバタ階段を駆け上がる音がし、勢い良く部屋の戸が開いた。

「師匠!」

 栗毛色の髪の少年はテオを見るなり思いきり抱きついた。何事かと覗きに来たルシカたちの前で舞い上がっている少年を引き剥がす。

「元気そうだな、コルル」

 コルルは主人の帰りを喜ぶ犬よろしく大きな瞳でテオを見上げた。

「師匠もお元気そうで良かったです! ここには何日いるんですか?」

「まだ決めてない」

「良かった! 仕事が終わったらまた来てもいいですか?」

「ああ」

 コルルはまた嬉しそうに頷くと「今夜は師匠の好きなシチューですよ!」と叫びながら厨房へ降りて行った。

「ここは俺の拠点みたいなものなんだ」

 テオがやれやれと説明した。

「さっきの子は?」

 ルシカが興味津々に訊く。

「コルルだ。ここで働いてる。俺は勝手に師匠にされてる」

「師匠? テオが?」

「うるさい。ほら、シチューだ」

 さっさと降りて行くテオの後ろで四人は顔を見合わせ、テオに聞こえないように笑った。

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