綴られぬもの――3

 記憶の始まりから隣にはいつもその人がいた。

 森羅万象数多あまたの物語が紡がれる柔らかい声音は年月と共にテオの体に馴染み、普段は見ない彼女の顔をテオはふとした瞬間によく盗み見ていた。風に巻かれた時。息継ぎをする時。言葉よりも深く沁み入る景色に足を止める時。いつしか視線が高くなり、見上げなくても表情が見えるようになった。それでも彼女の瞳が映すものを真に理解出来る日は遠いように思えた。

 師と仰ぐ程大仰おおぎょうな人ではなかったし、親と呼ぶ程清廉せいれんな関係でもなかった。フレイヤはただテオの隣を埋めてくれる人だった。




 ヨルノリア王宮に初めて足を踏み入れたのは九歳の時だった。この頃フレイヤは王宮から仕事をもらうようになり、テオは彼女の後ろについて城の廊下を歩いていた。

「相変わらず独りか」

「相変わらずとはご挨拶だな」

 生意気な声の主を見つけたフレイヤはエメラルドグリーンの瞳をきらめかせて笑った。ばらばらとまとまりのないしろがねの髪は先日テオが肩口で揃えてやったばかりだ。

「ここで油を売ってていいのか? 先輩に怒られるぞ」

 意地悪を言ってやると、少年は真っ直ぐな背を少し揺らがせた。短く刈り込まれた灰鼠の髪と同じ色の目がチラッと背後を振り返る。

「ナイトレイドさんは今書庫で勉強中だ」

「ふふふ。それで君はまた執務室を覗き見かな」

「俺は早くあいつを守れるようになりたいんだ!」

 テオより四つ上の少年は揺るぎない覚悟を口にした。内心で賛辞を贈っていると後ろに隠れていたテオがひょこっと顔を出した。少年が「うわっ」と飛び上がる。

「子ども……?」

「まぁ、色々あってね」

「ミス・フレイヤ」

 向かいの扉が開き、役人が出てきた。

「ヴォイド、またこんな所にいたのか。父上が呼んでいるぞ」

 ヴォイドと呼ばれた少年は小さく舌打ちをし、「じゃあな」と駆けて行った。

「私は仕事してくるから、テオはここで待っておいで」

 役人に案内されてフレイヤが部屋に入って行くのを見届けるとテオは振り返った。廊下の先で誰かがこちらを見ている。

「君、フレイヤさんの付き人?」

 遠くから喋っているくせに声が小さいのでよく聞こえない。テオは仕方なく近くまで行った。

「ごめん、ここから出るなって言われてて……」

 僅かに開いた扉から顔を覗かせたその少年は申し訳なさそうに言った。整えられた向日葵のような色の髪に深海の瞳。さっきのヴォイドとかいうのと同い年くらいだが、外見も態度も正反対だ。こっちは弱々しく、頼りない。

「入って」

 中にいざなわれたテオは何者か尋ねようとして口をつぐんだ。子どもが暮らすには広過ぎる部屋。壁も床も上等のタペストリーや絨毯に覆われ、ソファーやベッド、あらゆる家具は純金製の装飾が施されている。彼が何者かはおそらく以前、フレイヤに聞いた事がある。

 少年は扉を閉めると一呼吸し、緊張が解けたように微笑んだ。

「名前はなんていうの?」




      *




「――師匠。師匠」

 半分寝ていたらしい。目を開けるとコルルが気遣うように見上げていた。

「お疲れですか? もうお休みになりますか?」

「……あぁ、いや大丈夫だ」

 コルルとロルグがはりきって作ってくれたであろうシチューを皆で囲んだ後、テオたちはロビーで再び国録に向き合っていた。

 ヴォイドから預かった国録はフロイド記舎を出る前にロゼが布に巻いて受付に置いてきた。犯人にすり替えられた部分はレインが咄嗟に手帳に書き写しており、目の前の巨大な丸太で出来たロビーの机に置かれている。ロルグは風呂へ行っており、先に上がったコルルはテオの隣を陣取り、話し合いに参加していた。

「その、なんとかって一族は何なんだい?」

 ソファーの肘掛けに頬杖をついたロゼが訊いた。

「ソヌス・ペディウム――北端に住む少数民族です。ヨルノリア史でもかなり古くから存在していて、今では最も稀少な民族と言われています。彼らが身に付けている装飾具が竜の足音を表現しているため、『足音の一族』とも呼ばれています」

「ですが、ここに書いてある内容は今ルシカさんがした説明とほとんど同じです。他は地図や民族衣装があるだけで……」

 手帳を読んでいたレインはしっとりと濡れた髪を耳にかけた。

「訳が分からないねぇ。誰も知らない民族の事を国録に載せる為だけに警備を破り、保管庫に侵入したって言うのかい?」

「竜の足音の装飾具……オルゼが前回は変な格好の一団がいたと言ってたな。コルル、前回の調録式の国録の写しを持ってないか?」

 テオが尋ねるとコルルはピンと背筋を伸ばして立ち上がった。

「あったと思います! 取って来ます!」

 コルルは奥の資料棚から分厚い用紙の束を持って来てテーブルにドスンと置いた。埃が舞い上がり、全員が咳き込む。

「地図に関する項目は……このあたりです」

 コルルが開いたページをルシカが読み上げる。

「文化の項・四章。ヨルノリアの歴史に寄り添う民族の紹介。アヌール族、ハルバナ族……うーん足音の一族の事は書いてないわ」

「記されていないのに式を見に来た……?」

 レインが首を傾げる。

「でも、その前の時は書いてます」

「そうなのか?」

 コルルが頷いた。

「前回の執筆者は……イレイナ・トールド。知らないな」

 ダンが最後のページのサインを見て言う。

「このイレイナの時から一族の事が書かれなくなった……確か国録に記す内容は協会がある程度依頼するんだったな。足音の一族はヨルノリアの地図から消されたって事か」

「じゃあこれは歴史から消された足音の一族の復讐ってこと?」

「……」

 沈黙を破るようにロルグが風呂から上がる音がした。

「レイン、顔色悪いけど大丈夫?」

「あ、いえ……」

「もう遅い。続きは明日にしよう」

 テオは立ち上がった。まるで釈然としない。誰かに目隠しされているような感じだ。一人になったテオは探るように揺らめく暖炉の火を見つめていた。



 翌朝、テオはパンの焼ける匂いで目を覚ました。そういえばロルグの淹れるコーヒーは格別に美味かった。時計も確認せぬまま、上着を肩に引っ掛けて階下へ降りる。

「あっ師匠。おはようございます」

 丁度パンの乗った皿を運んでいたコルルが横切った。

「みんなは?」

「クロードさんとレインさんはもう朝食を食べられました。バースデイさんとラグーンさんはまだ寝ています」

「そうか」

「今日は町へ行くんですか?」

「ああ……少し新聞を漁ろうと思ってる」

 足音の一族がなぜ地図から消されたのか、当時の記録を探せば何か手掛かりがあるかもしれない。

「起きたか」

 ソファで欠伸をしていると厨房からコーヒーを持ったロルグが現れた。

「おはようございます」

 ロルグは低いテーブルにコーヒーを置くとポケットから何かを取り出し、横に置いた。

「こないだ引き出しから出てきた。フレイヤのだろう」

 それは万年筆だった。高級品である万年筆は金持ちからの永久指名でもない限り、王宮内や貴族だけが使える代物だ。テオはフレイヤが万年筆など使っているのを見た事がなかった。疑問が顔に出ていたのか、ロルグは黙って万年筆を裏返した。

「!」

 そこに刻まれていたのは他ならぬテオの名前だった。

「お前が持っていろ」

 それだけ言うとロルグは厨房へ戻って行った。


 ルシカとロゼが眠い目を擦りながら降りて来た頃、テオは三杯目のコーヒーを飲み終えるところだった。

「ごめん寝ちゃった。ここ、やけに落ち着くのよね」

 ぐぐーっと伸びをするルシカにゆっくりで良いと言い置き、テオは自室へ戻った。

 朝露を吸って重くなった窓をなんとかこじ開けると森の息吹が部屋に舞い込んだ。木の葉の合間を抜けて程良く差し込む木漏れ日に当たりながら机に腰掛け、万年筆を手のひらで転がす。磨かれた石灰石のような表面で、背の部分に小さくテオの名前が彫ってある。手近の紙の上を滑らせてみたが、白紙をなぞるばかりだった。



     *



 十時を回った頃、テオたちは町へ向かうべく記舎を出た。

「おや、一人足りないね」

 ロゼが振り返った。すっかり休日気分なのか、いつも派手な髪飾りで引っ詰めている髪は無造作にかき上げられている。

「レインなら銀行に寄ってから来るそうです」

「利用証の更新か」

「うん、本当はフロイドでするつもりだったみたい。図書館の場所はロルグさんから聞いてるって」

 記舎利用証は協会に属する記録作家に与えられ、契約中は駅や港近くに建つ記舎を利用出来る。契約期間が作家年数に比例して長くなるので、レインのような駆け出しの記録作家はしょっちゅう更新する必要があるのだ。更新するには銀行で記録作家の証明書を発行してもらうのだが、これは記録作家のみならず国が賃金を支払っている職業に就く者も同様である。

「で、何を調べる」

 いつも通りきっちりと身支度したダンが後ろから問い掛けた。対してテオは寝巻きとそう変わらない。

「俺は前回の調録式に関する記事を探す。みんなは足音の一族とハウイエとの関連性を調べてくれないか」

「ハウイエとの?」

「ああ。北に住んでいる彼らとハウイエが近いのが気になる」



 トリスタンの町はそもそも建物が少なく、図書館と言ってもほとんど書庫のような扱いで、司書はおらず古びたカウンターの帳簿に記名して利用するだけの無人館と化していた。一人慣れた手付きでサインしているテオの後ろでロゼはダンに意外そうな目を向けた。

「アンタも手伝うんだねぇ」

「文句あるか」

「若いのに国録の執筆者とはねぇ。心中お察しするよ」

「思っても無い事を」

 ため息混じりに両断してやると、さも可笑そうにケラケラ笑う。二歳下のライバルに抜かされ焦っていると思われているなら全くもって事実無根だが、ダンがテオらと行動を共にしている理由を話してもどうせ笑われるだろう。

「じゃあ一時間くらいを目処に」



 テオは一段と薄暗い地下の書庫で過去の新聞を読み漁り、時折流れてくる冷風に捲っていた袖を戻した。一時間も経たないうちに用を終え、地上に戻ると扉が開き、コルルが駆け込んで来た。

「師匠!」

「どうした」

 コルルは息を切らしてテオの腕を引っ張った。

「すぐに記舎へ戻って来て下さい! レインさんが……!」

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