綴られぬもの――1
北に雪山、南に海を持つヨルノリアは美景に恵まれている。
近年は画家や美術商も増え、各地方を巡り季節の移ろいを専門に記す記録作家もいる。なかでも大自然の脅威が無く、一年を通して温暖な気候のフロイドは頭ひとつ抜き出た都市だった。
フロイドの道は殆どが
いくつもに枝分かれした川の一つが流れる橋の上で手摺に寄り掛かっていたテオは心地良さに目を閉じた。規則的な水の音、花の香り、パンの焼けた匂い。扉を開け放した店々の中から漏れ聞こえる音楽――。
「やっと見つけたぜ。あっおい寝てんじゃねぇよ」
「……」
「いいぜ、ルシカちゃんに言い付けてやる。はるばる人を呼び付けておいて寝たふりしやがるような男とは縁切った方がいいって――ってぇ!」
「うるさいぞギル」
鼻を押さえた男が涙目でこちらを睨む。ヒョロッとした小柄でルシカと同じくらいの背丈。後ろで緩く纏めた麦色の髪にキャスケットを被っている。彼の本職を知らない人間は間違いなく新聞配達の人間だと思うだろう。彼を表す「口が軽い」というのは軽口が多すぎるという意味だ。
テオが買っているのはその情報の早さで、常に誰より先に物事を知っていたいという単純な動機と妙に野生じみた勘がそれを可能にさせていた。
「はるばるも何も、どうせお前も見にいくんだろ」
呆れたように言うとギルバートは被害者ぶった顔で指差した。
「その仕事の時間を削って来てるんだよ!
「なら優先してくれる情報屋を探すかな」
ギルバートが「うっ」と情けない声を出す。
「随分と長いことお呼びが無かったもんで、本当に契約切られたかと思ってたんだぜ。もっと俺の上客である意識を持ってくれねぇと」
その作り笑顔はお互いに無意味であると知っている。ギルバートは仕切り直すように咳払いした。
「残念ながらご依頼の“ブックエンド”については望み薄。縁起の悪い通り名みてぇだけど、もっぱら幻扱いされてる。で、先月のアレジアの件。こっちはもしかすると“夜の支配者”の仕業かもな」
「夜の支配者?」
「知る人ぞ知るヨルノリアの裏社会を
知る人ぞ知る、という事はギルバートが知っていて当然だ。もしやレーゲンも取引相手の一人なのだろうか。
「他に情報は無いか? 例えばそいつの周りにブックエンドの名があるとか」
ギルバートはニヤリとした。先程の情報が全てではないと気付いてもらえて満足、といった顔だ。
「さすがは
「どこで」
「あー手紙を追っても無駄だぜ。楽しんでるのか何なのか、信じられねぇ数の人間を経由してる。それも普通の人間。俺は五人目くらいで投げた」
ギルバートはやれやれと肩をすくめて見せた。
「ノーランの事件とリイリーンの事件は同じ黒幕か」
ギルバートと別れたテオはダンと店先に立っていた。アーチ型の窓から枝垂れた葉の先が壁にもたれたダンの頭を擦りそうに揺れている。
「そいつがブックエンドとどういう関係か知らんが、関わらんに越した事はないな」
「ああ……」
ダンはテオを横目で盗み見た。テオはあれからずっと何かを考えているようだった。ちょっと有名なだけの若造だと思っていたが、そうでもないらしい。関わらない方がいいというダンの助言などまるで耳に入っていない。
「ディラン記舎に寄付した人間も気になる。そいつはノーランが自分を
「それも同じ奴の仕業だろうな」
結局クレアが打ち明けた事情に犯人の核心を突きそうなものは無かった。知り合いからいい話があると持ちかけられたのを皮切りに、複数の人を介して土地の争奪戦に名を連ねたのだそうだ。その際に都合の良い甘言を囁かれた事は想像に難くない。夜の支配者の話を聞いたテオは直感的にそう思った。
皆は街の中心へ行ったのだろう、辺りはすっかり人がいなくなっている。
「遅いな」
テオたちはこれからフロイドで行われる「とある式」を見に来たのだが、まだルシカたちが来ない。
「調録式……形ばかりの握手か」
ダンがフンと鼻を鳴らす。調録式とは、簡単に言えば関係が
「きっと今のヨルノリアには必要なんだよ」
そうしていると店の向かいからルシカ、ロゼ、レインが現れた。ルシカが何か言っている。
「どうした?」
テオの前まで来るとルシカは不満そうな顔をして言った。
「それが、式は急遽中止だって」
「中止だと?」
ダンが確かめるようにロゼを見る。
「何かまずい事が起きたんだろうねぇ。こっちの
中止なら致し方ない。のんびりフロイド観光でもしようかと思っているとレインが小さく悲鳴を上げた。
「動くな!」
取り囲む兵士たち。向けられる数多の刃。
「な、何?」
ルシカが慌てて手を挙げると集団の中から上官らしき軍服の男が進み出た。
「テオ・ブルーアイズ。ヨルノリア及び国王陛下への背信行為で連行する」
*
『名前はなんていうの?』
自分より三つ上だと言うその少年は明るく話し掛けてきた。
『……テオ』
『テオ……神様の贈り物かぁ。素敵な名前だね』
『君は確か……』
名前を口にしようとすると相手はそれを遮った。
『ドレク。ドレクって呼んで』
『ダメだよ。師匠に聞いた。君は俺らとは違う世界の人だろ』
『そんなことない!』
言って、咳き込む。慌てて駆け寄ると薬のきつい匂いがした。
『ゲホッ……ごめん。でもお願いだ。君には、そう呼んで欲しい』
『分かったよ』
テオが折れると少年は嬉しそうに微笑んだ。
『……此処は退屈だな』
テオは高い窓を見上げて呟いた。まるで籠で飼われる鳥になった気分だ。
『まあね。それより話を聞かせてくれないか?』
『外の世界の事なら師匠の方が……』
『フレイヤさんの本は読んでる。僕が聞きたいのはテオ、君の話さ』
『俺の話?』
『君の考えが聞きたい』
テオは相手の目を見つめ返した。深海に似た不思議な引力がテオを引き込む。
『タダでってわけにもいかないね。君はお金や物には興味が無さそうだし……そうだ、代わりに僕が知ってる君の母親の事を話すよ』
「だから何度も言ってるだろう、話をするだけだ」
「こちらも何度も言っているが、許可が無ければ通せない」
牢番との問答に疲れたダンはため息をついた。目の前で連れて行かれたテオを追いかけてフロイド市舎まで来たはいいが、やはり会うのは不可能のようだ。
「もういい。一旦記舎に戻るぞ」
留置所のある地下から地上の受付に戻る狭い階段を登っていると複数の男たちとすれ違った。一人は立派な背広姿でもう二人は部下なのだろう、背広の男よりも薄く地味な黒服だ。すれ違いざま、ダンの耳に部下の声が聞こえた。
「こちらですレーゲン様」
ダンは目を見開いた。こいつが、レーゲン卿。一体何しに――まさかテオが捕まったのを知ってここへ来たのか?
足音を殺して引き返したダンは耳を澄ませた。
「師が師なら弟子も弟子だな」
レーゲンは独り言のように言うと牢とは逆の方向へ歩いて行った。
「テオが背信行為なんてするはずない」
フロイド記舎に戻ると開口一番にルシカが訴えた。ダンも同意見だが、わざわざ口に出すのはやめておいた。
「無実が分かればすぐ出してもらえる。それに陛下の作家団に泥を塗るような真似はフロイドの連中もしないだろう」
「でも……」
その時、一人の記録作家が記舎に駆け込んで来た。
「
ロビーがどよめく。皆、調録式を記録する為に来た作家たちだ。
「こいつは一大事じゃねぇのか? 国録だぞ」
「それよりブルーアイズが捕まったって本当なのか?」
「協会は何をやってるんだ。早く事実究明をしてくれ」
「……ここには居ない方がいいな」
ダンが呟き、四人は二階の自室へ移動したのだった。
*
テオは遥か上にある格子付きの窓をぼんやりと見つめていた。こうしているといつか見た鳥籠を思い出す。
牢の中はもっと冷え切っているものと思っていたが、気候のせいか腰を下ろしても冷たくはなかった。寝ても良かったのだが半刻も経たないうちにやって来た人物を見て、そうしなくて良かったと思った。
「すまない」
目立たぬよう紺紫のマントを着たヘンドリクセンが檻の前に立った。
「問題は誰が仕組んだかです」
テオはそんな事はどうでもいいとばかりに肩を竦めた。
「誰かがヨルノリアとハウイエとの戦争を望んでいる」
ヘンドリクセンは難しい顔をした。
「何故、そう言い切れる」
この王はいつもテオの意見に耳を傾けようとする。話を聞きたいと言った、あの日から――。
「今更両国の仲を悪化させる理由がありません。仮にハウイエが侵攻するつもりならとうにされているでしょう。北の方は守りも薄い。でもそうしないのは『戦争』という形式を望んでいるからだ」
「ふむ……考え得るのは未だ戦いたがっている者たち、もしくは戦争で失ったものの復讐を望む者か」
「ですがそれにしては終戦してかなり経ちます」
「手続きが終わりました」
ヴォイドが地下室の入口から現れた。こちらも同じ紺紫のマントを纏っている。後ろから付いてきた牢番が鍵を開け、テオは牢から出た。牢番がいなくなるとヴォイドが重厚な包みを渡した。
「例の改竄された国録だ。本物は今探させている。我々はすぐに戻らねばならない。三十分後、記舎へ取りに行かせる」
「ハウイエはなんと言ってるんです」
「それは君の心配する事ではない。こちらも最善を尽くす。さもなくば本当の戦争になるだろう」
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