銀の詩篇――4
初めて会った時、彼は雪原の狼だった。
すべてを拒絶するように孤独を纏い、
リイリーンの前には人だかりが出来ていた。土煙と火薬の匂いが漂い、部分的に崩落した劇場の北側から瓦礫の山が道に流れ出ている。
『劇場が壊され、テオはドロシーを追い掛けて建物の中へ戻ってしまった』。レインからそう聞いた時、心臓がドクンと鳴った。どうか無事でいてと願いながら、ルシカは中に入れそうな場所を探して走った。
ドロシーに追いついたテオはそこが彼女の楽屋の前である事に気付いた。
「……何で戻って来たんだ」
テオの疑問を代わりに口にしたのは廊下に座り込むクレアだった。瓦礫で切ったのだろう、肩口から血が出ている。整った金髪が崩れ、煤けた額に垂れ下がっている。
「貴方こそ」
ドロシーの口調は落ち着いていた。
「私たちを置いてさっさと契約書にサインしに行けば良かったのに」
ドロシーは視線を逸らすと開いた扉の内側に掛かっているカレンダーをそっと撫でた。
「……昨日何も起こらなかったのはこれのせいなんでしょう?」
そこで初めてクレアは正気を取り戻したように力無く笑った。
「……馬鹿だな、僕は」
「私の誕生日を知ってるのは貴方とハイドだけだもの」
張り詰めた空気が一瞬だけ弛む。
「とにかく、ここを出ましょう。劇場を壊す事だけが目的とは限らない」
テオがクレアに手を差し伸べた瞬間、再び地響きがし、通路の壁が崩れ落ちた。
「!」
クレア目がけて降り注いだ瓦礫はテオの目の前で小さな山となった。
「……外へ出たら全部話してもらうわよ」
間一髪でクレアを突き飛ばしたドロシーが傷付いた足を押さえながら言った。
裏口へ繋がる階段を登っていると誰かが駆け降りて来た。
「テオ?」
「ルシカか……うわっ」
「良かった!」
勢いよく抱き付かれ、テオは危うく後ろに倒れそうになった。ルシカは生きている事を確かめているかのように両腕できつくテオの肩を握り締めた。覆い被さった髪が鼻先をくすぐる。テオは宥めるように背中をさすり、そっと引き剥がした。
*
終わりのない陽気な音楽が流れている。外は真っ暗だが、ここにいる人たちはこれからが最も盛り上がる時間だと知っている。話し声は大きくなり、陶器のジョッキがテーブルを鳴らす音が増えていく。ガヤガヤと騒がしい店内の片隅で二人の男が静かに飲んでいた。
「それで、爆薬の出どころは」
ダンはしかめっ面で呻いた。
「軍から持ち出されたらしい。建設業者の下っ端が金で雇われて」
「だが指示したのはクレアじゃない、か」
「何故俺をここに呼んだ? 飲みならロゼを呼べば良いだろう」
リイリーン対岸の島に呼び出されたダンは
劇場の破壊はレインの呼んだ警察や住人たちによってなんとか止められた。だが警察が着いた頃には犯人はとうに姿を消しており、日暮れの住人の目に留まることもなかった。
ルシカに言付けてダンには爆薬の出どころを探ってもらい、期待通り次の日の夕方にはアレジア記舎にダンの姿があった。
「ちょっと威圧感のある奴が必要なんだ」
テオは棚に並べられたジョッキを指した。
「この辺りは財政難で銀食器が消え、陶器に変わった。そこから陶器作りの島として有名になった」
「それと橋計画に何の関係がある」
ダンは諦めたように酒を飲み始めた。
「陶器作りを提案したのが当時の地区管轄者だ。島で最も古い職人を計画の筆頭に指名し、軌道に乗るまで情報は島内に留めるようお触れが出たそうだ」
「待て。今回の橋計画は王政しか知らないはずだ」
橋が出来ると移動する人間が増えて儲かる。つまり橋が出来る前に土地を買っておくとその儲けは計り知れない。さっきの陶器の話も同様だ。
「この島の地区管理者が情報を漏らしたのか」
「いや、今の時代でやるにはリスクが大きい。俺はもっと上の人間が間接的に情報をばら撒いたと思っている」
「王政関係者がやったと言いたいのか? そんな自分で自分の足元を掬うような真似、誰がするんだ」
情報漏洩は罪であり、ましてや国の策で街に被害が出たとなれば大問題になる。
「……そういう事をする人物に心当たりがある」
レーゲン卿。彼は決して手を汚さないが、ヘンドリクセンの足元を掬おうとしている。もしこの件に彼が噛んでいるなら、リイリーンで見かけたのも頷ける。
「だからそれを確かめる為にお前に来て欲しいんだ」
ニール・ヤヌガは訪問者を見るなり迷惑そうな態度を隠しもせずに言った。
「悪いがあんたらに話す事なんざ何も無いね」
「我々が来るのが分かっていたようですね」
ニールはでっぷりした巨体を玄関の横幅いっぱいにめり込ませた。着膨れしたシャツがさらにパンパンになる。
「会社はここじゃない。俺を訪ねるなんざ、ろくでもない奴に決まってらあな」
「アレジアで最も古い建設会社はヤヌガさんのところなんですよ。社長なら橋計画の事はご存知ですよね」
「知らんな」
「建設会社なら解体に使う爆薬にも詳しい。その調達先も」
「知らんものは知らん」
ニールは荒く息を吐き出した。
「では、軍の出番ですね」
テオは入口をダンに譲り、ダンがニールを見下ろした。身長も迫力もニールの三倍はある。
「な、何で軍が出ばってくるんだ」
「ご存知ですよね。リイリーン劇場の破壊に使われたのは軍の爆薬だと。誇りを汚されて彼らが黙っているはずないでしょう」
ダンの後ろからテオがすらすらとでまかせを言う。今頃軍はちゃちな犯罪に使われたという証拠隠滅に勤しんでいることだろう。
「隠していることを話してもらおうか。ちなみに俺は突然こんなとこまで呼び出されて機嫌が悪い」
ニールは数秒間ダンを睨んだ。
「チッ……分かったよ。その代わり条件がある」
「条件?」
「記録を書け。昔、記録作家のせいで損益を被ってね。この際、印象操作ってやつをしてもらおうじゃねぇの。間違った事を書くのは得意だろう?」
ニールは薄汚く嗤った。
「そういう事でしたら結構です」
割って入った静かな声にニールはピクリと眉を動かした。試されているとでも思ったのか、テオを凝視する。
「いいのか? 情報が手に入らなくても」
「ええ。真実というものは、向こうからやってくるので」
「――分からん奴だな」
島からの帰り道、ダンがテオの背中に問いかけた。
「この職業は恨みを買う事も多い。特に発足して間もない昔はな」
「俺が言ってるのはお前の事だ。奴は結局口を割らなかったぞ。真実はどうした」
テオは軽く笑った。
「あれはハッタリさ。師匠がよく言ってたんだ」
澄んだ空に呼応するように海が凪いだ。道端の草を踏み締める度に湿った匂いがした。
「だがこれではっきりした。ああやって切り札を用意してたって事はそうしろって言われてたんだろう。つまり俺たちは遊ばれてるのさ。嘘かもしれない証拠を手にするか、その為に偽りを記すか。相手にとってはどちらに転んでも構わない」
「ハァ……お前の言っていたレーゲンという奴は何者なんだ。ニールの背後にいるのはそいつなんだろう」
「証拠が無いから憶測だけどな。前の王を覚えているか?」
「ああ……“暴君”だったか」
「その暴君に心酔していたのがレーゲン卿だ。六年前に前王が亡くなり、今の二世が即位してからも彼はずっと前王を慕っている。今も宮廷内で素質のある者を探しているという噂だ」
「要するに今の王が目障りだと」
「ついでに陛下が創設した作家団も気に食わないんだろう」
「“深入りは命知らず”。それでロゼたちではなく俺を呼んだのか?」
「……巻き込んで悪かった」
テオは素直に謝った。これ以上踏み込めば遅かれ早かれレーゲンに目を付けられる。
「クレアが顔を出していたのはニールの所ぐらいだった。これ以上は探りようがない。陛下に報告はしておくよ」
ダンが立ち止まって大きなため息をついた。
「俺も召集に応じた。国は信用していないがこの仕事には誇りを持ってる。引き際は自分で決める」
「ダン……」
「クレアとかいう男が妙に橋計画に執心だったのも、そいつ諸共潰そうとした奴がいたのも腑に落ちない。お前はそれを見逃すのか?」
「……」
遠ざかれば、霧は晴れる。真実を求めるのならば霧の奥深くへと進まなければならない。
「俺は――……」
「お前がその気なら手を貸す。見損なうな」
「……悪い」
テオはまた謝ったのだった。
*
すぐ近くで波が鳴っている。せり出したバルコニーで思い切り深呼吸すると冷たい海風が暑い日差しを和らげた。リイリーンは驚くほど早く修補が決まり、あっという間に元通りになった。まるでそれが当たり前だというように街の皆が復活を望んだのだ。
「メイエット様はなぜクレア様にもハイド様にも黙っていたのでしょうか。お陰で犯人を探し出せましたけど、親しい方だったのなら相談すると思うんです」
後ろで腰掛けていたレインがぽつりと言った。
「あれさ」
テオは下階に見えるテラスを指した。そこで同じように海を見つめているのはドロシーだ。
「彼女が愛していたのはこの劇場だ。それだけさ」
海の神の名はドロセオラというらしい。ドロシー・メイエットはあの劇場を護らんとする神の化身だったのかもしれない。
「本当に迷惑を掛けましたわね」
最終日、挨拶に訪れたテオとレインはロビーでドロシーと向かい合っていた。レインは珍しく髪を下ろしている。
「こちらが記録です」
テオは茶色の紙できっちり包装された一冊の本を差し出した。記したのはドロシーの想いと、リイリーンのすべてだ。
「ありがとうございます」
受け取ったドロシーの頬に、光の悪戯か一筋の涙が流れた気がした。
「では」
二人が頭を下げるとドロシーが呼び止めた。
「貴女……どこかでお会いしたかしら」
ドロシーはレインを見つめていた。
「……いいえ」
「ドロシー、エレインがシャンデリアの欠けたところもついでに直してもらえと言っていますが」
レイチェルはドロシーが見送る人物に気付くと微笑んだ。
「帰られたんですね」
「ええ」
「そういえば、血塗られた一族について聞いてみれば良かったですね。記録作家さんなら知っていたかもしれません」
「それどころじゃなかったものね。それにきっとそんなに有名じゃないわ」
「私は好きですよ。銀の詩篇のモデルになった貴族の物語」
ドロシーは子どもの頃の記憶を思い出した。
親に連れられて行った秘密の舞踏会。大きな館で沢山の人が踊っている。その中でくるくると回る小さな女の子がいた。名前も知らないその少女の髪は、確か美しい銀色をしていた。
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