楽園からの逃亡者――4

 部屋から出た二人は思わず袖で顔を覆った。煙が既に通って来た通路まで蔓延しており、催涙成分でもあるのか目がチクチクと痛む。

「走れ」

 ロゼを急かしながら元いた場所へ戻るとダンは目を凝らした。煙は一層濃く渦巻いているが人の姿がどこにも無い。すると奥から声が飛んで来た。

「何やってる! 早く出ろ!」

 通路の入口で男が手招きしている。ダンはどういう状況か飲み込めないまま従った。

「そこを出て左だ」

 男は明かりのある通路を指差した。――誰だ? 警察か?

 外へ出た二人は澄んだ空気を思いきり吸い込んだ。少し塩の味がする。薄暗く気温が低いが、まだ夜ではないらしい。どうやら倉庫街の一画にいるようだ。警察の姿も無い。

「どういうことだ?」

 疑問を口にした時、突然腕を掴まれた。

「――ッ」

 油断した、と振り向きざま振り解いたダンは反射的に構えた拳をはたと止めた。

「お前……っ」

 驚いた素振りもなく人差し指を口に当てたのはテオだった。

「無事なようだな」

「なぜお前が」

「それは後だ。それより、中に人は」

「俺たちしかいなかったと思うが……他の人はどうした」

 外にもダンたちしかいない。

「ルシカが地元の漁師たちと船で避難させている。奴等の仲間のフリをしてると気付く頃には警察が到着しているだろう」

「つまり火事はあんたたちの仕業って訳かい」

 後ろでロゼが咳き込む。

「あの煙は無害です。焼くと広範囲に悪臭を放つ木の実です」

 テオが上着から小さな包みを見せる。ルシカがイェルダから貰ったものだ。

「まぁ、刺激は強いですが」

 目を真っ赤にさせたロゼを見て付け足すと向こうの方から人影が近付いてきた。

「ロゼさん! 良かったぁ……」

 ルシカは安心して座り込むとダンを見て目を丸くした。

「あれ、クロードさんも来てくれたんですね!」

「いや…………」

 返事に困っているダンを尻目にテオはルシカに訊いた。

「避難は」

「終わったわ。もうドランの警察がこっちに向かってる」

「じゃあ行くか」

「どこに」

 ダンが訊くとテオは表情を変えずに答えた。

「首謀者のところだよ」




 白の絵の具で淵をなぞったような波が満ち引きしている。息を潜めれば波音が聞こえるくらい静かな薄暮の倉庫街を一人の男が歩いていた。すらりと背が高く、整ったベストを身に纏っている。およそこの風景に似つかわしくない格好だ。

 男は端から数えて六番目の倉庫へ入ると、漂う異臭に鼻を摘んだ。それでも足早に奥へ奥へと進む。突き当たりの扉を開け、部屋の真ん中にしゃがんで床に手をかけた時だった。

「珍しいとこに保管するんですね」

「!?」

 いつの間にか戸口を塞ぐように人が数人立っていた。金髪の痩せた青年と全身黒を纏った長身の男、それに派手なストールを巻いた中年の女に、ブロンドの髪の若い女。

「こんな朝早くにどなたかな」

 男はすぐに立ち上がり、訪問者に尋ねた。

「市場が開くにはまだありますよ」

「生憎俺たちは客じゃない」

 黒いコートの男がドスの利いた声で遮った。

「こんな商売思い付くんだ、犯人は利益と金に人一倍神経質。そういう人は大抵儲けた金を一箇所には保管しない」

 青年の方が話し始める。淡々と、それでいて隙の無い話し方だ。

「あれだけ街の人に慕われているなら自宅や組合会館は見つかる可能性が高い。だがここならその心配はない」

「……何を」

「ヨルノリアではベルク以上は紙幣で発行される。この湿気じゃすぐに皺になる。だから一番端のよく風が通るこの部屋に隠した。違いますか? ディラン漁港組合長さん」

 ノーランは軽く笑った。

「風通りの良い場所なら他にもありますよ。それに自分の金をどこへ保管しようが私の勝手でしょう」

「ええ。あなたのお金なら」

 ノーランの笑みが僅かに引きつる。

「何が言いたいのかな」

「攫って来た人を不当に働かせて得たお金はあなたのものじゃないわ」

 ノーランは完全に紳士の柔和な態度を崩した。

「……何だね君らは」

「記録作家よ」

「余計な事を……」

 ノーランが口元を歪ませた。謙虚な組合長の面が剥がれ、その薄い唇が捲れ上がる。

「知ってるぞ。ただ筆を握ってるだけで金を貰うふざけた奴らめ」

 憎しみを込めた目でルシカを見据える。

「歴史を記すなんぞ誰にでも出来る……何の努力もしない馬鹿どもが俺の商売に口出しするな!」

「それはあなたの方です」

 ルシカが言い返す前にテオが静かに言った。

「『歴史を記すなんて誰にでも出来る』。それは違う」

「違わないだろうが。そんな事はガキでも出来る」

「いいえ。感情を持つ人間がやる以上、正しい歴史を記す事なんて不可能なんですよ。権力や利益、その人を取り巻く情勢によって記される歴史があれば記されない歴史もある。例えばあなたがまずい出来事に巻き込まれたらどうしますか? 罪も無いあなたの名前は国中に知れ渡り、事の大きさによっては何年も先まで記録に残る。誰かに塗り替えられない限り、あなたは永遠に罪人だ」

「……」

「だから記録『作家』なんです。俺たちはいつも何を記すべきかを選択し、どう記すべきかを考えてる。歴史は筆を持つ者によって変わり、記録には必ず筆を持つ者の感情が混じってる。生憎この国じゃ、その自由は俺たちの手に委ねられている」

 テオはまっすぐにノーランを見据えた。

「だから俺たちはいつも正しく在らなくちゃならない。街の人の信頼を裏切り、仕事を悪用するあなたに言われる事は何も無い」

「……うるさい」

 ノーランが俯き、革のバッグを投げ付けた。

「!」

 その手にはナイフが握られていた。

「邪魔をするな!」

 次の瞬間、ノーランはダンによって床にねじ伏せられていた。

「諦めろ」

「風通りの良い場所は他にもあるでしょう。でも金を隠すなら自分の管理下にある建物が一番だ。組合の所用する建物の中でここだけがあなたの名義で買われていた。目的は金儲けですか?」

 ノーランは挑戦するようにテオを見上げた。

「そうだ。ここディランを海洋貿易の拠点にする。街警察のお偉方おえらがたも賛同してくれたぞ」

「この計画は一人で考え付いたんですか?」

「……」

「どうなんだ」

 ダンが脅すように関節を鳴らす。

「……助言をもらったんだよ」

「誰に」

 ノーランは恍惚とした表情で宙を見つめ、まるでその名前が何かの力を持っているかのように囁いた。

「“ブックエンド”だ」




      *




「――で、どうやってあたしらの居場所を?」

 ディラン記舎に戻った一行はロビーのソファを占領し、休んでいた。他の利用客は出払っている為、声を潜める必要はなかった。ダンとロゼは着替えもせずにテオに向き合い、ルシカだけが横でせっせと書き物をしている。

 あの後、ドランから到着した警察によってノーランは連行され、ティアの母親たちは無事解放された。協力した漁師たちの手で組合が新たに作り直される事が決まった。そしてそんな漁師たちを説得し先導したルシカが一連の騒動、そして組合の立て直しまでを記録する事になったのだ。ドランの警察がノーランに丸め込まれていないことを教えてくれたのも彼らである。


「これのお陰です」

 テオはロゼにトランプを返して言った。商人の支配による死の拒絶。その通りだ。

「それと、ティアの母親がヒントをくれた」

 あのアンビグラムはティアが母親とよく遊んでいたものだそうだ。

「貝に刻まれていたのは倉庫の番号だった。ルシカが地元の漁師に聞いたところ、当てはまるのは九区の六番倉庫。例の酒場が楽園の入口になっていて、床下の貯蔵庫が昔の採石場と繋がっていたんだ。そこから睡眠薬で眠らせた客をトロッコで倉庫へ運んだ」

 祖父が採石業をしていたティアの母親はそのカラクリに気付き、口封じに連れて行かれたのだ。

「そこで俺たちは倉庫へ入り込み、有毒火事を装った」

 イェルダの小包みの中身は貴重な木の実だった。燃やしてしまったのは申し訳ないが、致し方ない。

「私の馴染みの漁師に声を掛けて船を出してもらったの。ノーランの組合に属してない漁師たちよ」

「火事が起きれば利益に執着した黒幕はまず金庫へ行くと踏み、あの部屋を見つけた」

 テオは眉を寄せたままのダンに気付いた。

「……納得いかない顔だな」

「金が少な過ぎる。ディラン最大の漁港組合を築き上げた大商人ともあろう男があれっぽっちか?」

「えっどういう事?」

 ルシカが顔を上げる。

「俺もあれだけだとは思ってない。あれはおそらくノーランがくすねた小遣いだろう。わざわざ分けてるという事は――」

「“取り分”か」

「ノーランが経営に手を出したのは最近だ。そんな彼に助言したというブックエンド。儲け金の大半はそこに流れたと考えるべきだな」

「何なんだそのブックエンドとやらは」

 ダンが腹立たしげに言う。

「やり口からしてホイホイ姿を見せてくれそうにはないね。警察はそいつを見つけられると思うかい?」

 ロゼは毒々しい色の膝掛けを肩に巻き付けた。ロゼの言う通り、誰かを影で操っているのならそう簡単に尻尾を掴めはしないだろう。そして今回の顛末から想像するに失敗すれば容易く切り捨てるような輩だ。


(これが貴方の言う暗雲ですか、陛下)




 外の空気を吸いに記舎の前でコーヒーを飲んでいると見覚えのある少女が向こうからやって来た。

「ここにいるっておしえてもらったの」

 ティアはえへへと笑って一輪の花を差し出した。ルシカの口添えで彼女の父親も組合で働く事になったのだ。

「ありがとう、おにいちゃん!」

 夕暮れの海を背にした花は本来よりもずっと鮮やかに輝いた。


 すっかり陽が落ち、今宵の宿をここに決めた作家たちが舎内に入り始めた。普段は静かな記舎も、この時間だけは受付前にちょっとした行列ができる。

「あっそうだテオ」

 ダンとロゼを医務部屋へ連れて行った帰り、ルシカが呼び止めた。

「何だ?」

「ありがと!」

 テオはやわく微笑んだ。これからやってくるかもしれない不穏も、彼女なら吹き飛ばしてしまう気がした。

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