楽園からの逃亡者――3
小さな部屋に黄昏が満ちている。
窓辺に出来た陽だまりの中、少年が開きっぱなしの本の上で腕を枕代わりにし、気持ち良さそうに寝息を立てている。部屋の家具は簡素な机だけで、あつらえた椅子は少年には背が高いようだった。緩く風が凪ぐと黄金色の髪の毛が朝焼けの海のように
誰かが部屋に入って来た音でまどろみが溶ける。少年はうっすらと目を開けた。
「ただいま、テオ」
朧げな視界に映るその人は太陽が作り出した眩い輪郭をしていた。
*
市場が賑やかしいのは常の事、皆が活動する時間帯のせいかやたらと人が多い。
「『楽園』から外へ出る唯一のものは商品だ」
喧騒と食材を焼く調理音に乗じてテオが言った。
「この中から探すの?」
「まさか」
テオは移動販売のベーカリーの前で立ち止まった。芳ばしい香りがこれでもかと一帯を包んでいる。ルシカはつい唾を呑み込んだ。
「あの酒場の入口は二つしか無かった。狭いし、両方共通りに面している。人を運ぶには向かない」
「一人や二人なら目立たないんじゃ……」
「いや、酒場に入った人間は丸々消えている可能性が高い」
「えっ?」
「見られて困るものを見た奴をそのまま帰す馬鹿はいない。だからティアの母親も戻って来なかった。それに犯人はある程度の人数を必要としている。床下かどこかにまとめて人を移動させられるカラクリがあるはずだ」
「一体何の為に……」
「簡単な話だ」
テオは砂糖がこんがり焼き付けられた細長いパンを購入した。悔しいかなルシカが一番美味しそうだと思ったパンである。
「働かせる為だよ」
「じゃあティアのお母さんやロゼさんは今無理矢理労働させられてるっていうの?」
「荷揚げ場へ行った時、男たちが話していた。『人手に困らないから儲けは上々だ』と。確かディランは急激に水産業が発達したんだったな」
ルシカがはっとする。
「そして同時に後ろ暗い人間が姿を消した」
「カーターさんが言ってたのはこれだったのね。街が発展したから消えたんじゃなくて、街が発展する為に消された」
「元々怪しかった連中がいなくなったところで誰も気付かないし、警察も文句は無い。寧ろ万々歳って訳だ」
あの酒場はそんな人間を誘い出す格好の場所だったという事か。
「酒場から離れていない場所に作業場があり、荷上げ場の人間が知っている水産業の商品」
酒場の近くには海からの荷物を保管する為の倉庫街がある。
「……魚ね!」
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
市場の中でも一際規模の大きいその店は一段と威勢のいい声が飛び、道行く人を呼び寄せていた。
「安心しな奥さん。ここのが無くなってもすぐ次が用意出来る。在庫は山程あるんだ。あぁ旦那、旦那。その貝は今が買い時だ。さぁ逃さないで」
ルシカとテオは確信を視線で交わした。これだけの量に対して売り手は一人だけ。楽園から来た商品に間違いなさそうだ。
「ここにあるものは何時頃出荷されたんです?」
テオが尋ねるとがっしりとした男は早口に答えた。
「今朝八時まで飛び跳ねていた奴らだ。ここに来るまでの時間は言わなくても分かるだろ。どれも新鮮そのものだ」
ルシカは怒りが口から飛び出しそうになるのを我慢した。時間がかかっていないのは攫われた人たちがずっと作業しているからだ。
「なるほど活きが良い。じっくり見させてもらってもいいか?」
「ああ、決まったら声掛けてくれ」
男が忙しく他の客の応対に戻るとテオは海の幸を観察し始めた。氷が敷かれた陳列台の上で魚は種類ごとに並べられ、貝は同数ずつ籠に盛られている。
「ん?」
テオは籠から貝を一つ取り、殻を見つめた。
「これは……数字?」
魚の方は生なのでさすがに何も書かれていないが、貝の方には殻に番号が振ってあった。仕分けで使うのかゴツゴツした表面に
「全部の貝にあるわ」
「ああ。だがこれだけ妙だ」
「六じゃない……九?」
テオが手にしたものには数字の六に明らかに線を付け足されており、上から見ると六、逆から見ると九に見える。
「アンビグラムか」
「何?」
「異なる方向から読むと別の意味になる書き方だよ」
テオは貝を戻すと店を離れた。
「あの貝だけに書いたという事は何か理由があるはずだ。何か思い付くものはないか?」
「うーん、私貝には詳しくなくて。魚屋さんに聞けば分かりそうだけど」
「なるべくあの店と関わりの無い人間がいいな」
「あっ私一人知り合いがいるわ。ずっと家族でやってきた漁師さんだから大丈夫だと思う」
「近いか?」
「うん、行ってくる!」
「待て」
駆け出そうとするルシカを引き留める。
「場所が分かっても侵入経路が分からないと助けに行きようがない」
「王宮に連絡した方がいいんじゃ」
ルシカが思い出したように言うとテオは首を振った。
「ここらの警察が買収されてるとしたらセントラルの警察に直接指示を出すしかない。だがティアの母親が連れ去られた日を考えるとそろそろもたない。俺の考えが当たっていれば、ロゼはたぶん大丈夫だ」
ロゼを探して聞き込みをした時、テオはもう一つ酒場に入った人間について手掛かりを得ていた。
「問題は楽園と外を繋ぐ道だ。酒場なら酒に何か入れて眠らせるのが一番だろう。その後眠った人間を運ぶにはトロッコのような物が必要になる。ここまで分かれば俺たちの分野だ」
ルシカがハッとする。
「この街の歴史を調べれば……」
「ああ。そっちは俺が調べるからルシカはさっきの漁師に話を聞くのと、もう一つ用意して欲しいものがあるからそれを頼む」
「分かったわ」
『大事なものほど、そう言ってやれないものだからね』
ロゼにはまだまだ教わりたい事が沢山ある。
「テオ。私、言わなきゃいけない事があるの。ロゼを助けたら言うね」
テオは一瞬ポカンとした後、ほんの少し口元を緩めた。
「ああ」
*
「おいそこのお前! 動きが止まってるぞ!」
男の怒声が倉庫に響いた。怒鳴られた女性が涙声で謝る。
「……見てらんないね」
ロゼがため息をついた。ロゼたちが身を潜めている木箱の山の向こうでは薄暗い灯りの下で十数人が列になり、商品を仕分けている。
「そういやアンタの情報屋は今どこにいるんだい」
労働者たちとは反対の方向を見つめる仏頂面に問い掛ける。
「とっくに次の仕事へ向かった」
「やれやれ」
ロゼは呑気に欠伸した。あれからどのくらい経っただろう。窓が無いので正確には分からないが丸一日は経っていない筈だ。今のところ得た情報といえば仕分ける人々を監督する見張りが三人、奥の部屋から時々現れる人間が一人。漏れ聞こえてくる会話内容からして親玉ではないようだ。幸い、この木箱の山には誰も近付いて来なかった。
「いつまでもここで油売ってるわけにはいかない」
ダンは体を起こした。鋭い眼光が暗闇でギラつく。
「奴らも人間……そろそろ休む頃だ。動くならそこしかない」
ようやく見張りが姿を消したのを確認した二人は木箱の山から移動した。
「こっちから風が入ってきている。外に繋がっているかもしれない」
ダンは先程見つめていた方向を指した。
「奴らと鉢合わせしないことを祈るよ」
通路は薄暗く、冷えていた。さっきの場所よりも明かりが乏しいので先が長いのか短いのかも分からない。
「……何故俺が元軍人だと?」
ダンが前を向いたまま訊いた。
「背筋の伸び、体格、喋り方。軍人の特徴さね。あたしがよく知ってる」
「知ってる?」
「あたしの夫も従軍してたんだよ。もう何年も前の事だがね」
ダンはちらりとロゼを見た。風変わりな格好を好む口達者な彼女に滲んでいるのは、確かに遠い昔日を想う未亡人の眼差しだった。
「そっちこそ何でまた記録作家なんかに?」
記録作家は認知度の低い職業だ。世間からは物好きや研究者崩ればかりがなると言われている。ロゼが知る限り、それは
「……正しく在れるからだ。上に立つ者が必ずしも正しいとは限らない――軍で学んだ唯一有意義な教えだ」
ロゼは
「人は嘘が好きなんだよ。ようやく世界が成長しようって時に街も人も未だに嘘に縋り付いてる」
「ああ。おかげで俺たちは倉庫探索というわけだ。まったく」
ダンが舌打ちする。
「ま、そうじゃない奴らもまだいるみたいだがねぇ」
「それはあいつらの事か? それとも俺の事か?」
「ご想像にお任せするよ」
「フン」
それから数分もしないうちに壁に突き当たった。ダンが手でなぞり、そこが扉であると示す。二人して耳を押し付けたが物音は聞こえない。ダンはゆっくりと取っ手を捻った。
中はあまりに殺風景な部屋だった。部屋というよりは出入口と壁により偶然出来た空間のようだ。窓は無いがどこからか隙間風が入り込み、密封性のまるで無い扉から出ていっている。
「ハズレだ」
ダンが荒れたため息と共にロゼに向き直る。ロゼは腕組みして何も無い部屋を一瞥した。
「ここが一番端っこかい。何の部屋だろうね」
「さぁな。使われてなさそうだ。戻るよりここで籠城するのもありだな」
「凍えちまうよ」
「あっちよりは湿気てないし、魚臭くなくていい――」
ダンは急に言葉を切り、扉を凝視した。
「……何か匂う」
「?」
意識した途端、咽せるような異臭がロゼの鼻腔を刺激した。
「な、なんだいこの匂いは」
煙のような重たい空気に何かが焼けた匂いが混じっている。
「まさか」
ダンは閉じた扉に近付き、外れて欲しい予感を口にした。
「火事か……!?」
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