楽園からの逃亡者――2
「――ゼ」
ぼんやりと名を呼ばれている。低い声だ。ああ、あの人はよくそうやって優しくあたしの名を呼んだ。
「ロゼ・ラグーン。目を覚ませ」
「……うん?」
薄目を開けたロゼを覗き込んでいたのは夫ではなかった。視界がぼんやりしている。酷く眠い。
「しっかりしろ。起きてまわりをよく見ろ」
男は声を潜めて訴えた。物分かりの悪い相手にやきもきしているような言い方だ。数回瞬きをしたところで、ロゼは自分の肩を揺さ振るしかめっ面の男が見知った――と言っても先日会ったばかりだが――人物である事に気が付いた。
「……アンタ」
「やっと思い出したか」
ダン・クロードは精悍な顔をしかめたまま溜息をついた。
「いつこっちに来たのさ。テオたちには――」
言い掛けて、はたと口を噤む。
「……どこだいここは」
見覚えのない風景に首を回すとダンはその場に座り直して告げた。
「分からない。俺たちはここに閉じ込められている」
「なんだって?」
窓のない、四角い空間。記舎の明るい内装とは真逆の無機質な壁が高くそれらを囲い、天井から吊るされたランタンの火が頼りなく狭い範囲を照らしている。
荷揚げ場で見たような木箱がそこら中に積み上げられており、そっと荷山の向こうを覗き見ると複数の人が作業をしていた。部屋の入り口にはそれぞれ武装した男が立っている。
「……十中八九、昨日の件だろうねぇ」
「何の話だ?」
「こっちの話だよ」
ダンは再度向こうを警戒しながら説明した。
「見張りが入ってくる前に目が覚めた。拉致された人の中にお前を見つけて引きずってきた。ここは死角になっている」
「つまり見つかるとまずいって訳だ」
ロゼは礼を言うでもなく冷えたコンクリートに腰を下ろした。
「さて、どうしたもんかね」
昨晩遅く、ロゼは酒場にいた。情報収集も兼ねてディランの小さくみすぼらしい酒場を選んだのだが、それが当たりだったようだ。注文した酒に口を付けた途端、ロゼはたちまち睡魔に襲われた。
「アンタはいつからここに?」
ダンは視線を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
「昨晩だ。あの後、情報屋を使って調べさせたらディランで人が消えてるといううわさを聞いてな。それを追ってここに来た。言っておくが俺もどうやって連れて来られたかは分からない」
ロゼは眉を下げた。
「役に立たないねぇ」
「貴女に言われたくない」
数拍おいて、ダンが流し目を寄越した。
「やけに落ち着いてるな」
初っ端からこの事態だ。普通なら取り乱す。
「そりゃあ
「どういう意味だ?」
「アンタ、元軍人だろう」
ダンは否定せず話を逸らした。
「……仮に俺たちがここを出られたとしても、他のやつを全員助けるのは不可能だ」
それにはロゼも同意する。
「外からの助けを待った方がいいねぇ」
「心当たりでもあるのか」
「それはあの子ら次第さ」
*
ルシカはディラン記舎の歓談フロアで縮こまっていた。心ここに在らず、膝をきつく抱えテーブルのランプをじっと凝視している。テオがこの状態のルシカを見るのは三度目だった。一度目はテオと出会った時、二度目は大事な資料を紛失した時だ。
「ロゼがいなくなった」と部屋の扉を叩かれたのが二時間前。ひとまずティアをイェルダのところへ預けてディラン記舎に帰ってきたテオたちだったが、飲みに出たロゼが明け方になっても部屋に戻っていない事に気付いたのだ。戻りが遅いだけならそこまで心配する事もないのだが部屋の窓は開けっ放し、荷物は中途半端に散らかっているという具合で、何より昨日あんなに楽しみにしていた酒が未開封だった。
通行人から昨日それらしき人を見かけたと聞いたものの、すっかり日が昇った今も記舎の玄関にロゼが現れる気配はなく、さすがのテオも不審に思い始めていた。
「ロゼさんに何かあったらどうしよう」
ルシカが泣きそうな声で呟いた。
「……」
テオは思考を巡らせた。自分に出来ることは確証のない言葉で宥めることではない。考える事だ。
自らついて来ると言ったロゼが伝言もなく突然姿を眩ませる理由はない。となると消えたのはロゼの意思ではないということになる。昨日話を盗み聞きしたのがバレたのか? いや、ロゼはあの時姿を見せてはいない。もし楽園絡みだとしたら何か共通点があるはずだ。ふと先程見たロゼの部屋を思い出す。
「酒瓶……」
ティアの両親の行き先は酒場だった。そしてロゼが消えたのも酒場。テオはソファから立ち上がった。
「テオ?」
「もう一度行ってみる」
「でも、もうこの辺りの酒場は……」
「それが目印だったんだよ」
「――おそらくロゼはティアの両親と同じ酒場に行ったんだ」
外は先程よりも気温が上がっており、肌寒さは感じなくなっていた。テオがさっさと歩くので
「この街で後ろ暗い連中が集まる場所はもう限られてる。つまり、目印だ」
ルシカはカーターの言葉を思い出した。『彼らが集まる場所にはそれなりの情報がある』。
「じゃあ、さっき探した酒場のどこかが『楽園』?」
「いや、あくまでそこは入り口だ。その証拠に――」
テオが立ち止まった。
「――人がいない」
そこは小さな酒場の前だった。かなり年季が入っており、壁や屋根が崩れ掛かっている。一時間前に中をのぞいた時、ロゼが居ないのを確認した店だ。今も店内に人の気配はない。
「朝になれば人が消える。酒場なら何もおかしくはない」
「どうするの?」
ルシカが小声で訊いた。
「中を調べる」
テオは当たり前のように答えると小石を拾い、店の反対側へ回った。パリンと軽い音がし、店の窓に小さな穴が空く。
「ちょっ……」
ぎょっとするルシカを引っ張って店の入り口へ戻る。奥から現れた男が外へ出るのを見計らい、二人は中へ忍び込んだ。
店内は暗く、陰鬱としていた。朝だというのに酒の匂いが蔓延している。
「テーブルの裏を探してくれ」
「えっ?」
「ロゼが手掛かりを残しているかもしれない」
訳も分からぬまま、ルシカは汚れの染み付いたテーブル裏を見て回った。
「……あ」
四つ目のテーブルで裏板の隙間に何かが挟まっているのを見つけたルシカは引き抜いて明かりに照らした。現れたのは長方形の小さな二枚の紙で、一枚は折り畳まれており、もう一枚は黒い記号と人の絵が描かれている――トランプのカードだ。
その時、裏口の扉が開き二人はハッと顔を見合わせた。酒の匂いが染み付いた男がカウンターへ向かっている。ルシカはとっさにテーブル下に隠れ、息を潜めた。テオも同じように隠れる。すると男がくるりと向きを変え、二人の方へやって来た。
「!」
ルシカは焦ってテオを見たがテオは尚もじっと様子を窺っている。男が近付く――。
「……ニャーオ」
ルシカの発した声に気を取られた一瞬、テオがテーブル下から手を出し、石を投げた。またもパリンという音がし、二つ目の穴が空く。
「クソッあの馬鹿猫め」
男が悪態をつきながら足早に外へ向かうと同時に二人は店から抜け出したのだった。
*
「――で、何を見つけた?」
早速収穫を聞こうとするテオを一瞥し、ルシカは息を整えるのを優先した。歓談フロアは人が増え、あちこちから新聞をめくる音とコーヒーの匂いがする。
テオは妙に強心臓なところがある。今だってここまで一緒に走って来た筈なのに息も切れていない。いつも口を開けば「疲れた」とのたまうくせに、こういう時はやけに冷静で、青い瞳を宙に漂わせては見えない何かを追っている。
「これ」
ルシカは二枚のトランプを手渡した。スペードのジャックと、折り畳まれたダイヤのキング。
「……」
テオは空いたソファに腰掛けるとトランプをテーブルに並べた。
「よし……市場へ買い物に行く」
「えっ?」
テオの言っている意味が理解出来ないことは多々あるが今回は
「これはロゼが残したヒントだ」
ちっとも分からないという風に眉根を寄せるとテオは黒いカードを指した。
「スペードは死を象徴する。で、このジャックはそっぽを向いている――嫌悪感を抱いているからだ。全く逆方向を見ているということは、死を拒絶していると取れる」
次に赤いカードを指す。
「ダイヤは商人、キングは支配者を表す。よって今この二枚から読み取れるのは『商人の支配による死を拒絶している』というメッセージ。片方が折り畳まれているのはおそらく時間だな。赤いカードは日の出から日の入りまでの昼、黒いカードは日の入りから日の出までの夜を指す。ダイヤの方が畳まれているから犯人が活動するのは夜だ。ロゼが消えた時間とも合う」
周囲のざわめきが静まった気がした。さっきまで藪だらけだった道に整然と石畳が敷かれたかのようだ。
「夜になる前に新しい手掛かりが欲しい。それに俺はまだ朝食も食べてない」
後半の希望は置いといて。
「でも、何でロゼがあそこに
テオは立ち上がり、こともなげに言った。
「昨日の賭けはロゼのイカサマだ。机の裏にカードを隠すのを見た。まぁ、相手もイカサマしていたからお互いさまだがな」
本当にテオはよく見ている。自分よりもずっとたくさんのことを。その距離を埋めたくてルシカは駆け出した。
「……ところでイカサマって何?」
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