見習いバリスタは覚めない悪夢を見るのか

@mistel314

プロローグ 日常の終わり


雨が好きという奴はろくな人間ではない。

確かに、草木の緑は一層鮮やかになるし、雨音は読書の効率へ格別な効果を持つ。

雨の匂いを嗅ぐとちょっと冒険をしたくなるし、想いを寄せる人と相合傘ってのもあるだろう。

しかし雨のメリットなんてたかだその程度だ。


傘は携帯しなければならないし、身体はどうしても濡れる。

屋内に入るにしても床は濡れ、靴はグチュグチュと不快な音を立てる。

さらに珈琲の匂いはかき消され、タダでさえ少ない客足は遠のく。

事実、1ヶ月続くこの雨のせいで我が喫茶店のお財布は限界である。

やはり徹底したコスコカットが必要であろう。


時計の針音だけが響く喫茶店のカウンター越しに、シイラにそんな意味のことを話した。

すると彼女は、両手に持ったどら焼きと金椿を平らげ、いつもの柔和な笑顔を崩さず反応した。


「その通りじゃ。ただ、時と場合を選ばんとならんぞ、優一。」

「…選んだ結果、和菓子代は削れないと?」

「さよう。」


そういうと彼女の手はかりんとうを掴んだ。本日もう4袋目になる。


「人の品格は、心の豊かさが決めるのじゃ。もしも、もしもじゃぞ、わしから和菓子が奪われることがあったら、偏屈婆さんになってしまうわい。」

「あっても、偏屈婆さんだろうが。」

俺の反論を小さな手で制すると、シイラは続けた。


「わしが和菓子を食べると喉が乾く。喉が乾くからお前さんの珈琲を飲む。わしは心の平穏を保ち、お前さんは珈琲の修行ができる。これぞまさに、持ちつ持たれず。いいことずくめじゃないかね。」

「和菓子への出費は俺の平穏を蝕んでいるのだが…」

「それも修行じゃ。バリスタたるもの常に冷静に冷静にじゃぞ。」

「…………」



口の減らない婆さんだ。

俺の目の前にちょこんと座っているのは、兵藤香奈。無類の和菓子狂であり、俺の勤める 喫茶影法師のマスター。いきなりほっぽり出され、ゴミ捨て場で行き場を失っていた俺を助けてくれた命の恩人でもある。

髪は分厚い雲のような灰色で、背中あたりでややカールしており、若葉のような淡い緑色の瞳が特徴的な御齢76歳。来年喜寿ということだが、背は極端に低く、かなりの童顔。つまるところ童女である。本人もそれは意識しているらしく、ストリートファッションなるものを選んで身につけている。最も、今日の赤襟のスカジャンコーデは、近所の方から『なめ猫』とかいう不名誉な呼ばれ方をしたらしいが。



 「うむ、お代わりじゃ。」

 差し出された茶色のコップを受け取ると、コーヒーと練乳を注ぐ。

よくよく考えれば、こんなものを注いで、コーヒーの味なんてわかるのだろうか?


 「細かい事は気にするでない。」

 俺の疑問を一蹴すると、老人会でもらったとかいう、知恵の輪をいじり始める。

 というか、


 「老人会にいれば良かったじゃないか、和菓子もたらふくあるんだろ?」

 「…お前にはわからんじゃろ…10も下の皆から孫扱いされる気持ちをぉ。」

 「分かるわ。私も優一くんに子供扱いされるの嫌だもの。」

 涙目のシイラの右隣に座る幼女が目をパチクリさせながら答える。


 丹波里織、通称さっちゃん。


  背丈は婆さんより僅かに大きいくらいで、並ぶと姉妹同然。

 しかし決定的に違うものがある、髪だ。毛先のカールしてる婆さんに対して、さっちゃんの髪は清々しいほどのストレート。髪色も収穫時期の麦畑のような金で、近所の老人からは天使様と崇められている。


 そんな天使様が、ハムスターのように両手で食べているたい焼きも、老人会からの奉納品である。

 

 「じゃあ、今日は辛口にしようか、カレー。」

 「…意地悪する優一くんはもっと嫌いよ。」

 「うむ、そうじゃ!罰として今日はハンバーグにするんじゃ!」

 ケタケタと両手を広げて笑うシイラとふくれっ面のさっちゃん。


 ひき肉が特売になってたな。ハンバーグでもいいか。

 仕込んだカレーは明日でも大丈夫だろう。

 それよりも買い出しの途中で、ラムネかグミを買って、ご機嫌をとろう。

 今日は薬湯の日だったし、銭湯に行くってのも悪くないかもしれない。

 

 などと描いていたいつもの日常は、突然終わりを告げることとなる。

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