第24話

 混沌。


 目の前が暗い。それなのに意識は冴えている。


 何も見えない。何も聞こえない。


 明日香は暗闇の中に、ポツンと佇んでいた。


『ねえお父様、クリスマスの日にはサンタさん、何くれるかなあ?』


『そうだね、明日香がいい子にしていれば、きっと素敵なプレゼントが待ってるよ』


 無邪気な自分の声、それに応えてくれる優しく穏やかなテノール。




 ――お父様? そうだ、お父様だ。昔、自分にも父親がいた。――




『ねえお母様、猫さん来るかなあ? サンタさんにお願いしたんだよ! かわいい子猫がいるんだよって』


『はいはい、きっとサンタさんは明日香のお願いを聞いてると思いますよ』


 綺麗で通る女性の声。とても懐かしい、優しさで満たされた時間。




 ――お母様? そうだお母様だ。昔、自分にも母親がいた。――




『わあ! 猫さんだあ! すごいすごい! 私の欲しかった子猫だあ!』




 ――猫? そうだ、白と茶色のタビー、トラ猫模様のブリティッシュ・ショートヘアー。私の大事な友達、とら吉だ。女の子なのにとら吉。そうだ。私は幸せだったのに。――




『……とら吉、もう駄目なの? 治してあげられないの?』


 九年間、彼女は私の無二の親友だった。飼い猫としては短い生涯だったのかもしれない。ガンの転移でもう助からない、と言われた。




――私は彼女にありったけのありがとうを言った。数か月闘病して、彼女は静かに逝った。――




大きなお屋敷、何不自由ない生活。優しい家族と可愛い猫。


明日香は心の奥底に封じ込めた記憶の海の中にいた。


それはとてつもなく近くて遠い日々。わずか数年前までの愛と優しさに満ちた時間は、今はどんなに手を伸ばしても手に入れることが出来ない。


 


 ――どうして。どうして今更――




 明日香は必死にその記憶を打ち消そうと首を振る。だが、抵抗すればするほど、まるで見せつけるかのように記憶が沸いてくる。


 


 ――やめて! もう、思い出したくなんかないのに! ――




 時は早送りで明日香の記憶を再生していく。平和で単調な日々。でも、それはとても幸せな日々だったのだ。ある日までは。


 明日香の意識はある記憶の中で立ち止まった。


 雨。その日は豪雨だった。昼日中でも薄暗くなるほど垂れこめた黒雲と、目の前を遮るカーテンのように降り続く大粒の雨が、否応なく陰鬱な何かを感じさせる日だった。


 明日香は家族で出かけていた。車のハンドルは父親が、助手席には母親が、明日香は後部座席に座っている。


 高速道路を走行中、右側から大型のトレーラーがかなりのスピードで追い越しをしていく。危ないな、と明日香が思った瞬間、すぐ目の前でそのトレーラーが横滑りを始めた。


 あっという間のジャックナイフ。すぐ後ろに位置していた明日香たちの乗る車は、当然のごとく巻き込まれた。そして、記憶はその瞬間で途切れる。




 次に目を覚ましたのは、ベッドの上。


 たくさんのチューブが接続され、手足の感覚もない。ベッドの上だが病室でもない。そこはまるで研究室のような部屋。


 まだぼやける視界に必死で視線を泳がせると、周囲には白衣を着た人々が忙しそうに動き回っている。


「目が覚めたかね」


 初老と言っていい年代の男が、明日香の顔を覗き込んだ。その眼は濁っていて、お世辞にも好感度が高いとは言えなかった。


 明日香は小さく頷き、絞り出すような声で尋ねる。




 ――ここは、どこですか? お父様やお母様は? ――




「ああ、ああ、その話はもう少し元気になってからね。いま大事なところだから」


 男は取り合わない。


 体は動かないが、かろうじて首から上を動かすことは出来た。明日香は、ゆっくりと頭を振った。大きなモニタが目に入る。そして、我が目を疑った。


 そこには自分の姿が映っていた。上から俯瞰しているような形だ。


首から下、胴体部から足の付け根の辺りまでは、手術用の緑のシートがかぶされていた。


 問題はその先だった。両手と両足。そこにあるのはかつての自分の手足ではない、何か禍々しくさえ見える機械の手足。


 手足の感覚がなかったのではない。手足がなかったのだ。


 いったい自分の身に何が起こっているのか。明日香は、この瞬間に――壊れてしまった。

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