2 美しい食事
手当ての後、二人分のコーヒーを水蓮くんがいれてくれて、室内がほんわりと良い香りに包まれる。物が少ない部屋だけれど、コーヒーと紅茶と緑茶は完備されていた。
それにしても本当に、テーブルの上や床に散らばっているえげつない資料がなければ居心地の良い最高の空間だというのに。
「さて、話を戻そうか」
話が途切れたのは水蓮くんが原因だが、そこは本人は素知らぬ顔である。
「カニバリズム、という言葉を烈火ちゃんは聞いたことはある?」
「かに……え?何?」
「カニバリズム」
「かにばりずむ」
申し上げておくが私の頭脳はそんなに良い方ではない。学生の頃は中の中。社会人になってからは勉強というものとは縁遠く、なんなら体を動かす方が好きだ。
「案の定、聞いたこともありません、っていう表情をしているね」
くすくすと水蓮くんが笑みを見せる。私の無知を笑われたわけだけれど、毒気がなく嫌味ったらしさも感じないので、私の中には若干恥ずかしいという感情だけが渦巻く。もう少しこう、勉強した方がいいだろうか。お姉ちゃんとして尊敬されたい。
水蓮くんは湯気の立つコーヒーを一口飲んでから、口を開く。
「カニバリズムは、簡単に言えば人間が人間の肉を食べることだよ」
「……」
「ごく普通に生きていくにあたっては、特に必要のない知識だね」
ご丁寧に私の心の中をさらりと水蓮くんが代弁してくれた。その通りだ。
「人間の肉を食べるって……うわ……想像するのもちょっと……」
「そう?別に有り得ない話ではないと思うけど。自然界において共食いをする種族は結構いるし、当たり前のように牛とか豚とか魚とかも食べているんだから、食べられることもまああることでしょう。実際、人の肉を食べて生存した人だっているし」
すらすらと流暢に、美しい声でひどい内容を涼しい顔で話す。
「私たちがご飯とかパスタとかを食べるみたいに、人の肉を食べている人がいるってこと?」
「うーん……まあそのパターンもあるだろうけど」
パターンって何だ。水蓮くんの思考回路はまだ謎だ。
「日本では一応、人肉を食べなければ生きていくのが難しい生活環境の人はそう多くはないと思うんだよね。ちゃんと調べたわけじゃないから、どのくらいいるのかとか、実際どうなのかとかはわからないけど。カニバリズムの大半はまあ……趣味みたいな感じかな。わかりやすく言うなら」
「そんな趣味の人会ったことないよ!?」
「そりゃあ隠しているだろうしね。要は、他に色々食べ物があるのに、敢えて人肉を選んで食べているってことだよ。生まれた時から人の肉しか食べれない、なんていうのはレアケース。大体は何かしらのきっかけがあってそういう嗜好が生まれる。普通の食事と併用して食べているか、人の肉しか食べれなくなることもあるね」
「ええ……」
そしてふと思い出す。昼食を終えたのはつい一時間ほど前のことで、結構満腹になった。何故だろう、こんなグロテスクな話をしているのに頭の中に浮かんでくるのは、先程食べたおいしいおいしいいちごサンドの姿だった。
そう、おいしかったのだ。赤くてじゅわっと果汁が溢れて。家を出る前私は確かに赤いものを食べるのはしばらく避けようと思っていたはずだったのに。どうしてそのことを綺麗さっぱり忘れてしまったのだろうか。
「あの、さ……水蓮くん」
「うん?」
聞かなくていいことを聞こうとしている自覚はある。が、一度気になってしまったら、好奇心は私の中のやめとけ精神をことごとく壊滅させていくのだった。
「……おいしいの?人の肉って?」
わかっていたことだけれど、水蓮くんの口許がゆるりと弧を描く。手のひらの上で上手に転がされてる感は否めないが、やっぱり悪い気は不思議としてこない。水蓮くんからはマイナスイオンでも出ているのだろうか。
「俺も実際に食べたことはないから、正確にはわからないよ」
「そ、そうよね!わかるはずないわよね!!」
味を問うとはつまり、水蓮くんが食べたことがあると仮定しての話になる。よく考えてみればそんなはずがないじゃない。
「まあ、実験的に食べてみてもいいけど」
「それはダメ!!」
「そう?じゃあいいか。今のところ必要性もないし」
ほっと安堵の息を吐いて、コーヒーを一口。話に夢中になっている間に、余裕で飲めるくらいの温度になっていた。実にぬるい。
水蓮くんは話しながらちまちま飲んでいたみたいで、既に飲み終わっているようだ。
「聞いた話だから信憑性は保証出来ないけど、そんなにおいしくはないらしいよ」
「……そうなんだ」
その情報源は一体どこからなんだろうか。本当に平然と世間話をするように、非日常的なことを話す。
「しょっぱいらしい、とも聞いたかな。その感想が生なのか加熱した状態なのかまではわからないけど。どのみち食べるとしたら塩分濃度が高いようだし、喉が渇くみたいだから、遭難した時とかに食べることはあまりお勧めはしないかな」
「味の話はもういいわ……」
「そう?じゃあ、本題に移ろうか」
「じゃあ、これ片付けちゃおう」
すっかりコーヒーは飲み終わっているから、乾いて洗いにくくなる前に片付けてしまおう。
ローテーブルやそのまわりには相変わらず様々な資料が散らばっている。食い千切られたらしい写真もそのままそこに置いてある。水蓮くんはこれが人為的なものだと言った。
「俺のところに来る案件って、報道されないものがほとんどなんだ。これもそう。一応報道はされたけど、バラバラ殺人みたいな感じで、カニバリズムについては伏せられてる」
「あっ……それって、もしかして隣町で一ヶ月くらい前にあったやつ?」
「うん、そう。でも数日でその事件、取り上げられなくなったでしょう?」
「そういえばそうね」
「その頃に藤原のおじさんからこの話が来たんだ。もっとも、証拠らしい証拠もいまいち揃わないし、犯人像もあやふやでね。まあつまり、行き詰まっているってことだね」
「じゃあ、さっきの電話は?」
「一応この事件のおおよその犯人像は伝えてあったんだ。で、どうやらそれらしい人がいるみたいでね。その確認。そうっぽいけど、わからないよね」
水蓮くんは両腕を上に伸ばして、ぐっと伸びをする。それからごろりと寝転がった。猫のような仕草だ。
「好みかそうじゃないかで言えば、正直今回の犯人の心は俺の好みじゃない」
「……好み、ですか」
「食い散らかすのはなー。お行儀が悪いだろう」
ごろごろと床の上を転がっている。散らばったままの紙類がぐしゃぐしゃと音を立てているが、そこは水蓮くんの気にするところではないらしい。
「カニバリズムってやつに、お行儀も何もないんじゃないの?確かにあの写真は気持ち悪かったけど」
「わかってないなあ、烈火ちゃん」
動きを止めた水蓮くんが、その格好のまま見上げてくる。
服は皺になっているし、髪もくしゃくしゃに乱れている。でも元々長い前髪が乱れているお陰で、普段よりはっきり目が見える。その顔立ちはどこか幼げで可愛らしい。
水蓮くんははじめて会ってからこれまで、不機嫌そうにしている姿を見たことがない。けれどこんな風に屈託なく笑う姿も見たことがない気がする。楽しげにしているのはこれまでもあるけれど、それだけではなくて。
「人の肉を食べた人には何人か会ったことがあるけど、その中でも彼の嗜好は秀でて良かった」
「……彼?」
「まあ俺が面識があるってことはもう捕まってて絶賛服役中なんだけどね」
思い出しながら弾んだ声音で話す水蓮くんは、幼い子供のようにも色気を含んだ大人のようにも見える。恍惚とした視線は、今は私を見ていない。
「彼は人肉のみを食べて生きていたんだ。いつからどのくらい食べていたのか正確な期間はまだはっきりしていないけど、少なくとも三年くらいは確実に」
「……のみ?本当に?」
「のみ。捕まった後、普通の食事を食べさせても吐いてる。体が受け付けないんだって。例えば烈火ちゃんが今人肉を食べたら、倫理観やら何やらで吐くと思うけど、その感じ」
「……」
俄かには信じられない。
多少偏りがあっても、お肉や野菜、お魚、果物などの色々なものを私たちは普段食べて生きている。栄養素だったり、カロリーだったり、必要なものも多いはずだ。
果たして人の肉だけて、必要な栄養素はすべて摂取出来るのだろうか。調べたことも聞いたこともないけれど、それだけで補えるとは到底思えない。
「彼にとって人の肉を食べるということは、愛することだったんだよ」
水蓮くんの長い睫毛が伏せられる。とても尊いものに触れるかのように。
「愛した人のすべてを余さず食べる。そのすべてが自分の血肉となっていく。それに彼は魅せられてしまった。だから彼は人の肉しか食べなくなった。恐らく、食べはじめた最初の頃は吐いただろうし、お腹も壊しただろう。けれど人は順応する生き物だ。そのうちに慣れていく。加熱して食べるより、そのまま食べた方がより深く感じられた……と言っていた。彼の部屋には物がほとんどなくて、冷蔵庫の中にはラベルの剥がされたミネラルウォーターのペットボトルだけがぎっしり入っていた。そこだけが、彼の目に見える異常だったかな。普通にどこにでもいる、少しだけ痩せているなあってくらいの人だったよ」
会ったこともない、その男の人。
普通の皮を被って、世界に溶け込んで。ミネラルウォーターだって、人の肉を食べているという話さえ知らなければ、異常ととられることもないかもしれない。
細身で、静かな雰囲気の人の姿が浮かぶ。
一人で食事をして、ミネラルウォーターを飲み、清らかな体を保つ。それはまるで、尊い儀式のように。
「俺も人肉食べてみわうかなーってその時思ったんだけど」
「え!?」
「特に食べたい人もいなかったから、やめたんだよね」
もそもそと水蓮くんが起き上がる。髪も服も乱れたままで、それをまったく気にする様子はなく、気持ち良さそうに伸びをする。話すだけ話して、満足したのかもしれない。
「俺は烈火ちゃんと違って、倫理観とか犯罪に対する意識とかもだいぶ薄いからね。殺すことも殺して食べることも、そのすべてが悪いことだとはあまり思わない。今のところ、それをする必要がないからしていないだけだ。捕まったら面倒だろうしね。捕まらないようにも出来るけど、それはそれで面倒だし」
「水蓮くんにそんなことさせない!!」
「ああ、ハイハイ」
「流された!」
しかもだいぶ軽くだ。どういうことだ。
「うん。でも烈火ちゃんのお肉はおいしそうかも。もし烈火ちゃんが死にたくなったら、殺して全部食べてあげようか」
「さらっと怖いこと言わないでよ」
「あはは」
楽しげに水蓮くんは笑った。そうやって笑う姿はどこにでもいる人といった感じなのに、それも擬態なのだとでも言いたいのか。
その異常性は、あまりよく目には見えない。けれど時折私にその片鱗を見せて、距離を置こうとする。それが意識していることなのか、無意識でのことなのかは、まだわからない。
私と水蓮くんが姉弟になってから時間もあまり経っていないし、当然ながら血の繋がりもまったくない。面識だってこれまでない完全なる他人だったのに、私はすっかり水蓮くんのことを大切な家族で、弟だと思っている。
ずっと兄弟は欲しかった。だから親の再婚で弟が出来ると知った時は飛べ跳ねて喜んだ。けれどその中で、まったく不安がなかったわけじゃない。少しは不安も感じていた。仲良くなれるだろうか、好きになれるだろうかって。
不思議だ。あの一抹の不安は何だったんだろうと思うくらい、まるでずっと一緒に育ってきたかのような感覚で接している。
知らないことはきっと山ほどあるし、それに水蓮くんがどう思っているのかも、やっぱりわからない。それでもいつか私のことを、少しでもお姉ちゃんっぽく思ってくれたらいいなと思う。
水蓮くんの仕事場でも、だいぶゆっくり過ごした。
もう夕方と言えるほどの時間だったこともあって、スーパーに寄ってから帰ることにする。折角だから家の近くのお店ではなく、水蓮くんの仕事場そばにあるところだ。
もちろん、水蓮くんも荷物持ち要員である。
「烈火ちゃんが買い物してる間、俺ちょっとそっちの本屋さん見てきてもいい?」
「うん、行ってらっしゃい」
水蓮くんとはスーパーの入口で一旦別れる。ひらひらと手を振って近くの書店に向かった水蓮くんは、頃合いを見てスーパーまで来てくれるだろう。
私は今日の夕食を何にしようか、ぼんやり考えながらスーパーに入り、買い物カゴを手に取る。正面から歩いてきた、買い物終わりの人とすれ違う。背が高めで、少し細身で、黒っぽい格好をしたその男の人をどこかで見たことがあるような気がして立ち止まり、振り返る。
「……?」
その後ろ姿。見覚えがあるような気がしたけれど、思い当たる名前は浮かんでこなかった。
男の人はスーパーの袋を左手で一袋だけ持っていた。指に食い込んでいてとても重そうだ。がさり、と音を立てるその袋には、ミネラルウォーターのペットボトルのキャップがいくつも見える。骨ばった手はどこか不健康そうで——……
「……ぁ」
目が、合った。
黒い目が正確にこちらを捉える。目の下にはうっすらとくまがある。どこか空虚な、色のない瞳。それはすぐに私から逸らされる。
……まさか、ね。
どこにでもいる人だ。水蓮くんの話と合致しているからといって、全員が全員そうなわけじゃない。
うん、今日はサラダにしよう。野菜メインの夕食に決定だ。トマトとか、赤いものは抜きにしよう。ほうれん草のおひたしとか、さつまいもや大葉の天ぷらとかでもいいかもしれない。
そのメニューを見て水蓮くんはにやにやしそうだけど、知ったことではないぞ。
ランドスケープアゲート 怪人X @aoisora_mizunoiro
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