1 ある春の日の話

 午後六時五十分。私たちは会社に戻ってきた。

 最早懐かしささえ感じる空間に深く息を吸い込む。会社の空気を美味しいと感じたことは正直言ってはじめてだ。本当に、今日はとんでもない一日だ。

 事務所内に入るとまだ警察の人たちは色々しているようだったけれど、あの凄惨な現場に比べればこちらは穏やかに見える。それほどに濃厚な経験をしてきた。したくなかったけれど。


 戻ってきた私たちに気付いた椿さんが藤原さんにそのことを伝えたようで、藤原さんはこちらを見ると豊満な腹部をたぷたぷと揺らしながら小走りでこちらに来た。菩薩のような微笑みを浮かべている。斜め後ろにいる椿さんとはまったく正反対の穏やかさだった。美人の真顔は怖い、という言葉に対して、今なら確かにと納得出来る。もちろん、その人にもよるだろうけれど。 しかしたいへんな美人なので、結果的には眼福だ。

 元々汗を拭っていたほどなのに小走りで来たからか、藤原さんが所持していたハンカチは随分濡れてしまっている。果たしてそれで汗を拭って効果はあるのだろうかというほどだ。

「一郎さん、こちらを」

 椿さんがたいへん可愛らしいハンカチを藤原さんに差し出した。待って、一郎さんと呼んでいるのか。

「ああ、椿くん、ありがとうね」

 この一連の流れが当たり前のように。深く気にしないことにしよう。

「月宮くん、お疲れさま。私たちはこれから戻るところなんだけどね、そっちはどうだったのかなあ」

「俺の方も終わりました。ここでさっと報告して、あと帰ってもいいですか?」

「ああ、もうすぐ七時か……すまないねえ、月宮くん」

「いえ」

 藤原さんと月宮くんの話を聞きながら、私はぼんやりとそれは聞いていいものなのだろうかと考えていた。あと、藤原さんに話す時は敬語なんだなあと。

 藤原さんも椿さんも私がいることに何も言わないし、月宮くんはさも当然と言わんばかりに私がいても話をはじめる。

「まず、一回目と二回目の事件と今回の三回目の事件の犯人は別です。三回目のは、模倣犯ですよ」

 月宮くんはここに戻ってくる前に私に伝えたことと同じことを、藤原さんに伝えた。それを聞いた藤原さんの表情は、あまり変わらない。穏やかな様子のままだった。

「なるほどねえ。そう言い切れる根拠があるんだね?月宮くん」

「もちろん。ちゃんと調べれば三回目の犯人はボロを出しますよ。あれは美しくない」

 月宮くんは残念そうな、呆れたような、そのどちらにも取れる表情を浮かべて息を吐く。

 美しいとか美しくないとか、その判断基準はまったく理解出来ないが、問題はそこではない。

「でも、どうやって真似したの?さっきも言ったけど、この事件はニュースになってないわ」

 それだけがわからなくて問い掛ける。思わず口を挟んでしまったが、藤原さんは特に何も言わずに、小さく頷いていた。

 完璧とは言えなくても、三回目の模倣犯はよく似た手口だった。送られたFAXの位置や枚数までそっくりなのだから、知らなければ別々の人間が偶然こんな殺人を起こすとは考え難い。死体を切り刻んでFAXで送るなんて考えつかないし、非常に悪趣味だ。

「簡単な話だよ。模倣するには、見ればいいんだ。カラーコピーされたそれらをね」

「見る、って言っても」

 月宮くんはこともなさげに話すけれど、カラーコピーとは殺人現場に置いてあったというやつだろうか。確かにそれを見ればどこを何枚FAXしたのかわかるから、真似するのは容易いだろう。けれどそれらは、警察が回収している。

 うんうん唸りながら考えても、まったくわからない。私の様子を見て、月宮くんは指でピースを作って見せてくる。

「二部」

「に?」

「二部ずつ、カラーコピーしていたんだ。一部は現場に、そしてもう一部は自分用に」

 ぞわり、と寒気がした。

 考えるだけで信じられないし、嫌だ。死体のカラーコピーを所持するだなんて。

 ちらりと藤原さんを見ると、やはり穏やかな表情のまま変わっていなかった。椿さんはメモを取ったり、確認をしているようだ。

「なるほどねえ」

「一回目と二回目の犯人は、そういうタイプだと思いますよ。まったくと言っていいほど同じ手口、そして片付けまでして、ご丁寧にカラーコピーまでとって、それを現場に残している。あれはコレクションみたいなものだ。自分の犯行を確認している。だから恐らくファイルか何かに、自分の犯行の記録を綺麗に残していますよ」

「……三回目の犯人は、それをどこで見て模倣したの?」

 またもや遮ってしまった。予感がしたから。

「もちろん、一回目と二回目の犯人の家だよ」

「それは、どこ」

 急かすように聞いておきながら、私は大体予想がついていた。そう考えればすべての点が線で繋がるから。

 生活感のない綺麗すぎる家。几帳面で、こだわりが強くて、それはまるで一回目と二回目の犯人のようだった。

「さっき行ってきたところだよ」

 月宮くんが肯定する。

 それはつまり、三回目の被害者の家だ。

 過去二回の事件の犯人は、あろうことか同じ手口で殺されてしまった。しかも自分の犯行の時にはあんなにも几帳面にしていたというのに、自らの処理は惨殺され適当にされたまま。

「三回目の犯人が被害者の犯行を知って模倣したことは確実だろうね。理由までは知らないけど。恐らく犯人はカラーコピーのファイルはまだ持っているよ。まあ、被害者の周囲を洗えばすぐに見つかるんじゃないかな。そのあたりはもう俺の管轄じゃないし、藤原のおじさんに任せて大丈夫でしょう?」




 午後七時三十分。

 今度は警察の車ではなく、タクシーに乗って私と月宮くんは移動していた。あとは藤原さんたちの仕事なので、私たちは帰れることになったのだ。

 ひどく疲れて、会社の制服を着ているにも関わらずぐったりと座席に寄りかかって座る。皺になることなど気にする元気もなかった。

 窓の外を眺めてみると、もうすっかり夜だった。帰宅ラッシュも落ち着いてきて、交通量が少なくなった街並み。車のライトやオレンジ色をした家から漏れる明かりをぼんやりと眺めた。

 ああ、本当に。今日は早く帰りたかったのに。

「時間、過ぎちゃったね」

 後部座席の真ん中を空けて、私の左側に座る月宮くんの声だ。

 けれど考えてみればあんな異様な事件に巻き込まれてまだこの時間に帰れるのは、もしかしたら早い方なのかもしれない。約束は夜の七時だったから、間に合わなかったけれど。

「ううん、月宮くんのおかげで思っていたよりは早く帰れるんだと思う。ありがとう」

 三十分以上の遅刻に、着の身着のままの会社の制服姿。本当ならきちんと着替えて、結構豪華に夕食や部屋の準備をするつもりだったのに。何も出来ていないし、今からではどうしようもない。精々、多少髪を整えて、リップクリームを塗るくらいだろうか。

「今日ね、人と会う約束をしていたのよ」

 うきうきしていたぶん、落ち込みも半端ない。事件が終わって緊張感が解けると同時に、がっくりとくる。

 まったく関係のない月宮くんに話しはじめたのは、その気持ちを少しでも緩和する為と、こういう形とはいえ今日知り合った縁で、というやつだ。

「私のお父さん、再婚したのよ。それで今夜新しいお母さんと弟に会う予定だったの。私一人っ子だったからずっと兄弟が欲しくて憧れててね……すごく楽しみにしていたのに、遅刻だよ完全に。駄目なお姉ちゃんだよね」

 笑いかけながら月宮くんに話したつもりだけど、たぶん眉は八の字に下がっているだろうし、あまり上手には笑えていないんだろうなと自分でもわかる。

 そんな私に対して月宮くんは、ふんわりとやわらかい笑顔を浮かべた。とてもあんな事件に関わっているタイプの人間には見えないくらいに、陽だまりのような笑顔だった。

「そんなことはないよ。俺は結構、いいお姉ちゃんだと思う」

 そんな笑顔でこんな甘い言葉を吐かれては、嬉しさやら恥ずかしさやらで思わず顔が熱を持つ。

「そ、そうかな。ありがとう」

 半端なく落ち込んでいたというのに簡単に浮上する私は、単純だなあと思う。

 そうこうしているうちに、家に着いた。

 タクシーの後部座席の左側のドアが開く。月宮くんが車から降りて、私も降りる。

「わざわざ私の家まで送ってくれて、ありがとう」

「え?……ああ、そっか。うん、いいんだよ」

 どこか釈然としない態度だった。疑問に思っているうちに、止まっていたタクシーはドアを閉めて発進してしまう。

「あ、料金!!」

「もう支払ったよ。それじゃ、帰ろうか」

「うん……?」

 帰ろうか。そう言って月宮くんは私の手を引く。そして、目の前の私の住んでいる家へと歩く。

 タクシーは行ってしまったけれど、月宮くんは大丈夫なのだろうか。意外と家が近所だった?そういえばタクシーに乗る時、私は住所を伝えていない。

 よくよく思い返してみれば、月宮くんも今夜用事がある様子だった。

 ピンポーン。インターフォンの音だ。

 自分の住む家だから当然鍵も持っている。だからいつもインターフォンを鳴らすことはない。けれどなんとなく、月宮くんに手を繋がれたまま待った。思考が状況に追いついていない、とも言える。

 ガチャ、と玄関の扉が開く。

「あれ、おかえり烈火」

 お父さんの姿。私を見て、それから隣にいる月宮くんを見る。

「なんだ、二人とも一緒だったのか。それなら紹介する必要もないのかな?」

「え、……え?」

「お義父さん。彼女はまだ完全にはわかっていないようですよ。写真とか、見せなかったんですね」

 どうやらこの状況が飲み込めていないのは、私だけらしい。

 お父さんが月宮くんの肩をポンポンと叩く。それから私を見た。

「彼、月宮水蓮くん。正しくは、今日から宮城水蓮くん。烈火の弟になる子だよ」

 玄関先で紹介するのもなんだけど、とお父さんが付け加えながら話す。

 月宮くんを見ると、にっこりと笑った。それはもう、とても可憐に。

「よろしく」

 これはたぶん、いや絶対、最初から知っていた笑顔だ。

「うああああああああ!!」

 楽しみの為に先に写真を見なかったことは失敗だった。うきうき考えていた私の理想よりお姉ちゃん計画は脆くも崩れ去って、頭を抱えて叫ぶ。

 正面でお父さんが不思議そうにしていて、新しいお義母さんが騒ぎを聞いて玄関にやってきて、隣では月宮くんがくつくつと堪えるように笑い続けている。

 こうしてとんでもない一日は、もやもやしたまま終わったのだった。

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