第12話

 その存在は自分が何者であるのか、生まれ落ちたその時から十分に熟知していた。だが古来より人間は、その存在が長く器としてきた外見に対して貴族の称号や魔人の蔑称を付して呼び習わすことが多かった。畏敬や恐怖には形や名を与える方が自分たちに理解しやすいと考えてのことだろう。なるほど人間らしい浅はかな知恵だが理にはかなっている。その存在は、その都度、自分に付された名称を楽しみ、人間のその性癖を嘲笑ったものだった。

 壮年男性の姿を借りたその存在は、いま冬眠ロング・スリープから完全に目覚めようとしていた。冬眠とはいっても、たかだか五百年余り。しかしこの地を這いずり回る人間どもには、決して短い月日ではない。おそらくその間に人間は台所のシンクやバスタブの裏に巣くうカビのようにしぶとく、しかも無造作に繁殖し続けていることだろう。たとえ文明が崩壊し、世界が雪と氷に閉ざされたものとなっていようと。

 その存在……いや、彼はひんやりとした御影石の棺の中で細身の長身を伸ばし、四肢の隅々にまで感覚が戻るのを待ちながら暗闇の中で人間と同じように目をしばたたいた。またほんの少しばかり世界を掃除してやらねばなるまい。だが、いつも通り一掃もするまい。なぜならカビから出来るペニシリンが愚かな人間どもの病苦を治癒してきたのと同じように、人類から採れる赤い生命の流れが、未来永劫に己の渇きを癒してくれるのだから。

 分厚く透明な強化セラミックの天窓から陽の光が差し込む崩れた摩天楼の部屋の中。御影石の棺の中に横たわった彼の琴線に、そのとき微かに触れるものがあった。おやっ、と彼は思った。この感覚は久しく訪れ得なかったものだ。彼は棺の中で、微かに触れるその揺らぎに心の手を伸ばし、難なくそれを掴みとり、そして味わった。

 ねたみ……背信……蔑み……快楽に貪欲。それに自棄……。

 あぁ面白い。実に良いではないか。目覚めた彼の感覚は早くも自身にそう告げていた。彼の目覚めと同調するように事を起こす者が出始めようとは。

 ブラム氷期が世界を覆い尽くして二千五百年余り。変化が乏しく、刺激が枯渇しかかったこの白銀の世もまんざら捨てたものではない。だが先ずは食事だ。一刻も早く狂おしいばかりの渇きをうるおさねば。

 彼は二トンを優に超える御影石の棺の蓋を片手で難なく横に滑らせると優雅な身のこなしでフロアに両足を下ろした。御影石は彼の体の冷たさに、下ろされた足の先から霜で白く変色していった。

 彼は壁全体を覆うアクリルガラスに近寄ると凍てついた右手をかざし、真っ黒な瞳に差し込む薄暮の陽を忌々いまいましそうに遮った。やがて、そこから一歩下がると両手を大きく開き、深く息を吸い込んで自分の体を黒煙に変えた。粒子が荒く、まるで蠅の群れのように見えるそれは花崗岩でできた分厚く隙間のないドアにへばりつくと、そこから外へと染み出し、拡散して、たちまち見えなくなった。あとにはあるじの外出を見送る雪と氷をまとった、かつては高層建築群とよばれた幾何学的な瓦礫の城だけが残っていた。

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