第10話

 ずきずきと脈打つ苦痛に苛立ちながら、新たな第一指導者ヘル・シングは部下たちに促されて集会場までの長い回廊を無言で歩いていた。

 太陽が燦々と降り注ぐ透明な強化プラスチック張りの回廊は空調を使わなくても温室効果で心地よい暖かさに包まれていた。

 第一指導者ヘル・シングは、そんな光の中を歩きながら何度も自分に言い聞かせていた。「この傷は歴史だ」と。

 前の指導者も、その前任者も、その前の者も、過去の第一指導者ヘル・シングたちは皆、成るべくして第一指導者ヘル・シングに就任した。だが自分は違う。初代の第一指導者ヘル・シングが“化物ども”と闘って受けた傷と同じものを、今日のため “聖痕”として自らの顔に刻み付けたのだ。彼にとってこの聖痕は今までの歴史に対する挑戦だった。自分の存在を全人類の記憶に深く焼き付け、永遠に忘れえぬ英雄として君臨してやろうという揺るぎない決意の表れだった。だから誰に対しても一切の弱味を見せてはならないのだ。並の人間どもが持つ痛みなどもっての外だ。たとえ遺伝子を調整された人工子宮ホーリー・カプセル生まれだとしても人である以上、苦痛をすべて排することなどできはしない。ただ幸いなことに顔の大部分を分厚く覆う包帯がともすれば苦痛に歪む表情を隠してくれる。しかし、せわしなく前を歩く補佐長のコツコツという靴音は彼の心を逆撫でし、その苛立たしさは意識の外に放り出そうとする苦痛を再び自分の下へと呼び戻した。

 歩くたびに漏れそうになる呻き声と、その苦痛に対する罵りを押し殺すのに、彼は少なからぬ忍耐を必要とした。


               *

 第一指導者ヘル・シングを先導するレン補佐長は、今にもこの巨人に踏み殺されるのではないかという不安を拭い去れないでいた。なぜなら、その大股で容赦のない足音が怒りに満ち満ちていたからだ。おそらく顔に深々と刻み込んだ傷の痛みのせいだろう。必ず、いやきっとそうに違いない。人の心を察知する敏感さに長けて補佐長にまで上り詰めた自分でなくとも、それくらいの想像はつく。それほど第一指導者ヘル・シングの体中から噴き出す痛みと怒りの激しさは彼の分厚いローブの上からもピリピリと感じられた。もし自分がこんな傷を身体に刻み込まれたら……。そんなことになるくらいなら、清殉隊ピューリターに任命される方が何倍もマシだ。少なくとも死に伴う痛みは一瞬で終わるはずだからだ。

 レン補佐長は第一指導者ヘル・シングを護衛する屈強そうな守護戦士たちにチラリと目をやった。みな無表情な双眸と岩のような体躯を持ち、それでいて命令を盲信する熱意を体中から発散させている。こいつらは目の前の指導者から清殉隊ピューリターに任命される日を指折り夢見ている、まさに狂戦士。

 まったく正気の沙汰ではない。彼は第一指導者ヘル・シングに気付かれないよう微かに身震いすると、彼らから逃れるように歩く速度を速めて距離をとった。


               *

 広大な城壁に四方を守られた城塞都市カム・アー。

 その中でも、この巨大な集会場を内包する建物は、石とローマ式コンクリートで幾重にも包まれ、未だに荘厳な美しさと堅牢さをともに誇示し続けていた。その迷路のように入り組んだ内部に続くように分厚い二枚扉があり、その両側を大きな槍を持った門衛がそれぞれ控えていた。回廊を渡って集会場の前に到着した先導役のレン補佐長は、門衛に第一の門を開けさせると、第二の門の前で、ちょうど着いたばかりの第一指導者ヘル・シングに向き直り、恭しく頭を垂れた。

「皆、あなた様をお待ちしております」

 包帯から一つだけ覗く左目で、第一指導者ヘル・シングは目の前にいる補佐長と門衛をギロリと一瞥した。彼らが一様にびくりと首をすくめると、巨人は満足気な表情を包帯から覗くその一つ目に宿らせた。そして門衛が動くより早く丸太のような両腕を突き出し、目の前の門を勢いよく開くと、大股で集会場の中へ一歩足を踏み入れた。

 一瞬の静寂の後、闘技場のように大きな集会場に歓声が轟いた。

 薄暗い円形集会場の中央に、古代の万神殿パンテオンを模した天頂の明かり取りから一筋の太陽光のスポットライトが伸びている。第一指導者ヘル・シングは歓声の中を、もったいつけるように、そこまでゆっくりと進み出た。そして片手を上げて喧騒を制すると静まり返った集会場を一通り満足気に見渡した。次に大理石の巨像のように両腕を掲げ、猛獣のような声を張り上げた。

「いよいよ時が来た!」

 再び起こった歓声が収まるのを辛抱強く待って、彼は再び口を開いた。その包帯の中の隻眼は、集会場の壁一面に嵌め込まれた無数のモニター画面の中で固唾を飲んで見守っている聴衆の一人一人にも、ゆっくりと向けられた。

「時は来たのだ! この世界を再び神の子の手に! 再び人の手に! 俺たちの時代に全ての決着をつけるのだ!」

 モニター画面の各所から、その呼び掛けに応える者たちの歓声と唱和の波が集会場に充満した。

「武器もある!」

 第一指導者ヘル・シングの叫びに、モニター内の各所で剣を振り上げる姿が踊った。

「究極の武器もだ!」

 第二の呼び掛けに集会場の床が三箇所開き、対ヴァンパイア用の巨大な凹面鏡   アルキメデスの大鏡ヒート・レイが二台と、巨像が三頭も入りそうな大きさの鳥籠状の檻がせり上げられた。モニターからの歓声が一層大きくなると、檻の中のモノが興奮して暴れだし、丈夫な鉄格子を壊す勢いでガンガン叩いて揺すり始めた。一通りのお披露目を終えると、第一指導者ヘル・シングは片手を上げてモニターからの歓声を一挙に沈めた。

「そして何より、我々には崇高なる魂と正義、それに比類ない勇気がある!」

 第一指導者ヘル・シングは激痛をものともせず、顔面の半分以上を覆い尽くした包帯を片手で引きちぎった。モニターの向こうでは無言のどよめきが、さざ波のように走った。その反応を見た第一指導者ヘル・シングがニヤリと笑うと残った瘡蓋かさぶたが剥がれ、血が床にぼたぼた滴り落ちた。彼は補佐長に呼び掛けた。

「レン補佐長!」

 愚か者にしては大した扇動だ。第一指導者はこうでなければならないという良い見本だな。だが、やりすぎては早晩、身の破滅に繋がるのだがな、と、門の脇に佇むレン補佐長は感情を押し殺してその光景を冷ややかに見つめ続けた。

「レン補佐長!!」

 第一指導者ヘル・シングの怒声に我を取り戻した彼は自身の迂闊さに舌打ちしながらも、即座に自分の役目を思い出し、行動に移った。

 彼は真っ白な床に置かれた机の上からナプキンを掛けられた一抱えもありそうな白い陶器の盆を持ち上げ、第一指導者ヘル・シングの前まで小走りで持ってゆくと、顔を伏せたままそれを恭しく持ち上げた。

 第一指導者ヘル・シングは、たっぷりと時間をとり、やがて掛けられた布を勢いよくまくった。陶器の盆の上には、紛れもない 化物の腕があった。人間の腕とそっくりなそれは、だいぶ以前から暗所保存されていたためか、その色は狩られた時から、ますます青白くなっており、その表面に付いた霜がキラキラと輝いて大きな青い宝石サファイアのように見えた。

「奴らを滅ぼせ!」

 言うや否や、第一指導者ヘル・シングは化物の腕を掴んで天窓から差し込む日の光に晒した。晒された腕は、その表面全体から魔法のように水蒸気を噴き出し、次いで青白い炎に包まれた。指導者はその熱に耐えられなくなる前に腕を光の外へ出すと、未だに燻り続けるそれを振り回して声高らかに宣言した。

「行動を開始するのだ!」


               *

 大歓声の中、モニター画面が次々と消えてゆき、滑らかな鏡面へと変わった。集会場は天窓から差し込む細い陽の光と静寂だけに包まれた。第一指導者ヘル・シングはレン補佐長や守護戦士たちに向き直ると、しきりに化物の腕の匂いを嗅ぎ始めた。

 レン補佐長は、またこの指導者が何らかのパフォーマンスをひけらかそうとしているのだろうと心の中で舌打ちした。指導者はひとしきりその腕の匂いを嗅ぐと、にやりと笑ってそれを差し出した。補佐長は吐き気を堪えた。第一指導者ヘル・シングが何を望んでいるのかすぐさま察しがついたからだ。補佐長は弱弱しく首を横に振って拒絶の意志を伝えると深々と頭を垂れた。こんなことは蛮行であって、断じて勇気の発露ではない。だが、それを伝えて危険を呼び込む愚行を犯す勇気も補佐長にはなかった。なぜなら、さきほど指導者の言葉を失念した失態もあったからだ。

 第一指導者ヘル・シングは未だ水蒸気を発する腕にかぶりつくと、その肉を勢いよく喰い千切った。角張った屈強そうな顎で、その肉を噛み砕いて呑み下す間、守護戦士たちは畏れと羨望の入り混じった視線を指導者に向け続けた。

「今度は我々が奴らを喰らう番だ。奴らの汚れた肉を我々の体の中で浄化してやるのだ。そして古代の戦士のように、神に賞賛されるのだ」

 レン補佐長とすれ違いざま、第一指導者ヘル・シングは頭三つ分も低い位置にある彼の耳元まで身体を折り曲げると不快を催す声で囁いた。

「好き嫌いはいかんな」吐き気を催す生臭い匂いが、その口から漂ってくる。「ダイオウイカよりはイケるかもしれんぞ、こいつらの肉も」

 レン補佐長の後ろでは、巨大な檻の中では退場する第一指導者ヘル・シングに投げ与えられた腕を硬い骨ごと噛み砕く、胸の悪くなる晩餐が繰り広げられていた。

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