第8・5話 幻影

 しかし、軽自動車もそんなに速度は出ないんだな。

 メーターの数字は八十付近。

 しきみのバイクなら、軽く百五十は出るはず。


「もっと飛ばしてください」

「そんな事言ったって、ここの制限速度は八十キロですから……」

「しかし、これでは追いつけない」

「でも、今の時間はハイウエーパトロールが巡回していますから……ほら。スピード出し過ぎたら、ああなっちゃいますよ」


 池田さんの指差す先で、赤色灯が点滅していた。

 パトカーだ。

 バイクが捕まっているようだが……あれ? 樒のバイク!


 うん。やっぱり制限速度は守らないとね。


 パトカーの横を通る時に、窓を開けて手を振ると樒は僕に気が付いたようだ。

 

 程なくして、僕のスマホが鳴る。


「もしもし、どちら様?」

優樹まさき。私よ』

「わたしわたし詐欺ですか?」

『樒よ。私がパトカーに捕まっているのを見たでしょ?』

「見たよ。制限速度は、守らないとね」

『池田さんに聞いて。この罰金、必要経費で落ちないかしら?』


 僕は運転席の方を向いた。


「池田さん。樒はスピード違反の罰金を、必要経費で落としてくれと言っていますが、無理ですね?」

「無理です」


 スマホに口を戻した。


「無理だって」

『そんなあ……』

「それじゃあ、現場で待っているから……」


 スマホを切った。


「池田さん。ゆっくり行って大丈夫です」


 程なくして、前方にトンネルが見えてきた。


「池田さん。あらかじめ言っておく事があります」

「なんでしょう?」

「今、この車のフロントガラスに、昨日の霊がしがみ付いています」

「え?」


 トンネルが見えてきた時から、昨日の血まみれの女が逆さまにしがみ付いているのだ。

 昨日はワゴン車でいくら走っていても、出なかったのに……

 一日一回しか出演しないのか?


「あの……霊って……昨日のですか?」

「落ち着いて下さい。トンネルに入ると池田さんにも見えるようになります」

「あ……あの……彼女を待たなくていいのですか? あなたは除霊できないのでは……」

「確かに、僕には強制除霊はできません。しかし、この霊からは、それほど邪悪な波動は出ていません」

「しかし……事故が……」

「霊に悪気はなかったと思います。おそらく、運転手は霊に驚いてハンドルを切り損ねたのでしょう。だから、池田さんも霊に驚かない様に、心の準備をしていて下さい」

「分かりました」


 程なくして、車はトンネルに入った。

 池田さんの表情が強張る。

 フロントガラスに張り付いている霊が、見えるようになったらしい。

 女が口を動かした。


「か……出し……」


 何かを言っているが、聞き取れない。


「池田さん。車を路側帯に止めて下さい」

「はい」


 僕は池田さんを残して車を降りた。

 軽自動車の屋根の上に、女が腹這いになって乗っかっているのが見える。

 もちろん、霊体だ。


「こんにちは」


 女は僕の方をふり向いた。


「そこで、何をしているのですか?」


 女は無言で、僕に手を伸ばしてきた。

 僕はその手を掴む。


 次は瞬間、僕は走る車の助手席に座っていた。

 

 これは? 女の記憶?


 女が見た光景を、僕は幻影ビジョンで見ているんだ。


 車は、猛スピードで高速道路を走っている。

 メーターは百五十キロを示していた。

 なんでこんな速度?

 運転席では、男が蒼白な顔でハンドルを握っている。

 とても、スピードを楽しんでいるスピード狂の顔には見えない。

 まるで、何かに追いかけられているみたいに……


 突然、視線が後ろを向いた。

 女が振り向いたのだろうと思うが……な!?


 リアウインドー一杯に後続車が迫っていた。

 車間距離は一メートルもなさそうだ。

 向こうの運転手の顔が見える。

 二十代ぐらいの若い男だ。

 いかにも、脳みその足らなそうな顔をしている。


 これは煽り運転!


 事故の原因はこれか。


 視線が助手席側の窓に向いた。

  

 窓が開き、女が首を出して後続車に向かって何かを叫ぶ。

『もう、やめて!』と言っているようだ。

 その時、窓から吹き込んだ強風で、車内にあった葉書が何枚も舞い上がった。

 視線が前を向く。

 トンネルの壁が目前に迫っていた。


 次の瞬間、僕はトンネルの中に戻っていた。


 僕はハザードランプを点滅させている軽自動車の横に立っていた。

 女の霊は、まだ自動車の屋根の上。

 顔は僕の方を向いている。


「可哀そうに。煽られて、怖かったでしょ」


 女は頷く。


「あの男に、復讐したいのですか?」


 女は首を横に振って言った。


「カルマを、出して……」


 カルマ


「カルマは……」


 女は、さらに何か言いかけた。

 しかし、その声は突絶響いてきたバイクのブレーキ音にかき消される。

 ブレーキ音の方を見ると、樒のバイクが駆け込んでくるところだった。

 路側帯に止まったバイクから、樒は飛び降りると右腕をまっすぐ伸ばして前に向けた。


 バカ! よせ!


りんびょうとうしゃかいちんれつざいぜん」 

 

 空中に格子を描くように、樒の手が縦横に動き回った。

 九字切だ。


「ぎゃううううう!」


 女の霊は消滅した。 


「優樹! 大丈夫!?」


 樒が駆け寄ってくる。


「馬鹿! なんて事するんだ!?」

「馬鹿とは何よ!? 助けてあげたのに」

「今、霊と話をしていたんだ。台無しにしやがって」

「え? いや、私はあんたが霊に襲われていると思って……」

「霊に襲われているのか、平和的に話し合っているのか、見て分からないのかよ!」

「そんなの分からないわよ。私は、優樹が心配で気が気じゃなかったのよ」


 え?


「心配してたの?」

「当たり前じゃない」


 なんで? まさか、こいつ僕の事……いや、そんなはずはない。どうせ罰金の半額だけでも、僕に負担させたいなんて考えていただけだろう。でも……


「済まなかった。馬鹿なんて言って」

「いや、私も邪魔しちゃってごめんね。それで、霊はなんて言っていたの?」

「それは……」


 今の事を話そうとしている僕に、池田さんが恐る恐る話しかけてきた。


「あの……霊は払えたのでしょうか?」

「払えたけど、一時しのぎです」


 確かに、樒の九字切で霊は一時的に霊界に送った。

 しかし、未練を残した霊を無理やり霊界に送っても、しばらくしたらこっちへ戻ってきてしまう。

 除霊をするには、その前に未練を断ち切る必要があるのだ。


「ええ! あの幽霊、煽り運転で殺されたの。可哀そう」


 僕の話を聞いて、樒も少しは憤りを覚えたようだ。


「私もバイク転がしていると、よく煽られるのよね。本当、走り屋って最低だわ」


 それは、僕もよくある。

 原チャリを見つけると、目の敵にして煽り立てる奴に……


「でもさ、それなら未練を絶つ方法もはっきりしたわね。犯人見つけてフルボッコにしてやれば、幽霊も満足するわよ」

「犯人が、そんな簡単に見つかるわけないだろう」

「それもそうか」


 だが、犯人はそのすぐ後に見つかってしまった。

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