千葉さん

 雨が降っていた。ノートはまだ返ってこない。

 雨は好きだけど、嫌いたくなるときもある。たとえば今日とか。

 放課後、わたしは図書室に来ていた。図書委員の仕事のためだ。他の学校の図書委員のことは知らないけど、この学校の図書委員はけっこう忙しい。

 貸し出しと返却本を棚に戻すのはもちろん、すり替え防止のために一冊一冊手作業で表紙と本をテープでくっつけたり、それにあたって本に書かれた落書きを消したり、分類番号が剥げてしまったシールの上から新しいシールを貼り直したりと、とにかく事務作業が終わらない。聞けば、もう三年も前からやっている作業だそうだ。

 高校校舎の昇降口近くにある図書室はこんな雨の日には絶好の溜まり場と化し、私語厳禁の但し書きがされた張り紙など意に介した様子もなく読書スペースは盛り上がりを見せていた。

 正直、わたしとしては放っておきたい。そのうち帰るだろうし、せっかく盛り上がっているところに水を差したくないからだ。でも、図書委員としてはいるかもわからない読書中の生徒のために注意しなければならず、それがストレスでしかたなかった。

 読書スペースに入ると、どこの席もざわついていてとても読書中で迷惑を被っている人がいるとは思えなかった。

 それでも仕事は仕事なので、役割を果たさなければならない。わたしは一際声の大きい高校生の男子グループが座る席に歩み寄って声をかけた。

「すみません。私語厳禁なので、お静かにお願いします……」

「ごめんなさーい。てか中学生に注意されちゃったよ。ウケる」

 ウケなくていいから静かにしてほしい。

 付属の大学は女子大だけど、少子化とかの事情で十年くらい前に中高は共学になった。中学校舎と併設して建つ高校校舎にある図書室は当然高校生の方が立ち寄りやすく、図書委員の中学生はいつも肩身が狭い思いをしている。

 謝りながらもそれを種にさらに盛り上がる高校生に、わたしはもうどうしたものかわからなくなっていた。この人達が普通で、まともに職務を果たそうとするわたしがおかしいんじゃないだろうか。

 注意したという免罪符はあるし、役割を果たしたと言っていいんじゃないか。

 そう思って高校生達から引こうとして半歩下がると背中に誰かがぶつかった。

「あ、ごめんなさい」

「ううん。こっちもごめんね。それより大丈夫? 山瀬さん」

 ぶつかったのは同じクラスの千葉瑞希さんだった。同性のわたしから見ても目を引くような美貌の持ち主で、雑誌のモデルをやっているとかなにかのドラマに出ていたとか色々な噂が絶えない人だ。噂の真偽は知らないけど、試験結果の上位数十名は廊下に名前と合計点が貼り出されるので成績が良いことは知ってる。

「うん。平気」

「そう?」

「うん」

 千葉さんの横を抜けて、わたしは読書スペースを出てカウンターの奥に戻った。そしてまた黙々と事務作業に徹する。しばらくすると読書スペースは静かになった。今さらながら注意の効果が出たのかもしれない。

 静かになると脳にゆとりができた。どうして千葉さんはあんな真後ろに立っていたのかなんて当たり前の疑問もようやく浮かんだ。あの高校生グループの誰かと知り合いだったのだろうか。

 考えてもわからないし、考えたところで意味はないけど、思考はルーチンワークのお供にちょうどいいというのは発見だった。



「おはよ」

 翌朝、わたしが席に着いて本を読んでいると、教室に入った千葉さんは真っ直ぐわたしの席に来て言った。思い返してみてもこれまでに千葉さんから挨拶されたことはなかったし、わたしから千葉さんに声をかけたこともなかったはずだ。

「おはよう」

 一瞬不審に思ったが、同じクラスの生徒だしたまにはそういうこともあるだろうと笑みを作って返した。

 挨拶を交わしただけで特に用があるというわけではなかったらしく、本が好きなのかとかそういった他愛ない話をして自分の席に戻っていった。

 いまのはなんだったんだろう。


 その日から毎日、と言っても木、金、土、日の四日だけれど、千葉さんはわたしに挨拶した。毎日のようにではなく、毎日だ。さすがに学校がない日曜にはないだろうと思っていたけど、たまたま図書委員の仕事で学校にいたわたしは図書の返却に来た千葉さんと顔を合わせていた。

 ただ、日曜はいつもと違って挨拶して世間話をするだけに留まらなかった。

「そうだ。はいこれ。今日会えてよかった」

 そう微笑んで鞄から取り出したノートをわたしに差し出した。見覚えのあるノート、というか足立さんがすぐ返すと言っていたわたしのノートだ。

「え、なんで」

「困ってるかなと思って」

 なんでそれを持っているのかと聞いたつもりだったけど、千葉さんはわたしの言外の質問をそう捉えてはくれなかったらしい。

「ありがとう」

 困っていたのは事実なので、千葉さんがノートを持つことになった経緯はわからないけど、返ってきたのは助かったし素直にありがたかった。

「ううん。足立さんすぐ返すって言った手前遅くなって返しづらかったんだって。責めないであげてね」

「うん」

 ということは、足立さんが最近わたしと話している千葉さんに相談して、千葉さんから返してもらうよう足立さんが言ったのかもしれない。

 そうなると、千葉さんが最近挨拶してきたり背後に立っていたりしたのは返すタイミングを測っていたのだろうか。それが事実だったとして、だからどうしたという話だけど。

「また明日ね。委員会頑張って」

「ありがとう。また明日」

 また一冊本を借りて、千葉さんは図書室を後にした。しゃんとした背筋と歩き方は確かにどこぞのモデルと噂されてもおかしくないなと彼女の背中を見送りながら思った。

「また明日だって」

 ほとんど口を動かさずに呟いた。

 中学に入ってからそんな挨拶をする友達がいなかったわたしにはとても新鮮な響きの言葉だった。

 やっぱり雨は好きだ。

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