陰に咲く花

錦幽霊

山瀬沙和

 どうして中学は私立を受験したのかと聞かれてもわたしに前向きな理由はなかったので、中学入試に面接がなくてよかったと思う。

 教育に熱心というわけではないけど、社会的な体裁を重視する母にとってわたしは母の株を上げるための道具でしかなく、受験した理由を強いてあげるとすれば母の意向に沿ったと言う他ない。

 たとえ道具だとしても、私立校に受験するだけのゆとりがある環境がすでに恵まれているし、それを不幸だとは思わない。道具であってもそのことは感謝すべきで、不満なんて微塵も持ってはいけない。


 その意識が少し変わったのは、千葉瑞希と出会ってしまったのがきっかけだったと思う。




「山瀬さぁん、ノート貸してぇ。すぐ返すから」

 クラスの女子が眠気を隠さず欠伸をしながらわたしの席に来た。足立さんという、クラスメート以上でも以下でもない人だ。

 中学も二年生になると中弛みしてか、私立校とはいえ、あるいは私立だからこそ真面目に授業を聞かない人がいた。その一人が彼女だ。

 入学前は同じような偏差値の人達が集まっているのだから、成績も似たり寄ったりになるだろうと思っていたけど、試験結果を見る限り上位陣と下位陣でけっこう差がある。たぶん、その決め手はこういうところにあるんだろう。

「うん」

「ありがとー。最近寝不足でさぁ、いまの授業完全に爆睡しちゃってたわ」

 すぐ返すと言っておきながらわたしのノートを小脇に抱えて会話を始めるのはどういう了見なんだろう。

 そう言いたいけど、わたしは会話に乗っかった。変に指摘して空気を悪くしてもしかたがない。

「そっか。でも沢田先生の授業退屈だし眠くなるのもわかるよ」

「だよねー。声のトーンがずっと同じだからさー、それが眠気を促進させてると思うんだよねぇ。あんなのもう催眠術だよ」

「そうかもね」

 授業で寝てしまったのは寝不足のせいじゃなかったのか。正論は誰も救わないことを知っているので、わたしは笑顔で相槌を打った。

 それにしても、とても器用な生き方だと思う。わたしから見たらどう考えても全面的に足立さんが悪いのに、その責任を誰かにも背負わせる。わたしにはとても真似できそうにない。

 足立さんがはまっているという深夜の音楽番組やアイドルグループの話を聞いていると、教室の前の方から足立さんを呼ぶ声がした。

 足立さんは振り返ると、二、三言葉を交わしてわたしに向き直った。

「じゃあすぐ返すから。ノートありがと」

 そう言って足立さんはノートを持ったまま彼女の友達の輪の中に混ざっていった。


 こういうときに改めてわたしは道具だと思う。

 人の顔色を窺って本当に言いたいことはなにも言えず、その場の空気を悪くしないように働く。さながら空気清浄機だ。

 母から受験するよう言われたときも勉強のために友達と遊べなくなるのが嫌だった。それでも母の機嫌を悪くしたくなかったから勉強を頑張った。

 いまも、本当はノートを貸したくなかった。友達でもなんでもないのにどうしてわたしに借りようとするのか、その神経がわからない。授業を聞いていなかったのは自業自得で、わたしが助けなきゃいけない理由はないはずだ。

 退屈な話に愛想笑いを浮かべて相槌を打ちたくなかった。その話のどこが面白いのかなにもわからないし、授業よりよほど眠くなる。そういうのは価値観の合う人同士でしてほしい。

 掃除当番や他のなにかだって、自分に振られた仕事はちゃんとやってほしい。部活や習い事があるからってそれが役割を放棄する理由になるとは思えないし、わたしには嫌なことを押し付けて楽しいことだけしたいというわがままとしか思えない。

 でもきっと、そう思う方がおかしくて、普通なのは足立さんのような人なんだろう。他を差し置いてでも好きと言えるものがあって、それが誇らしくて誰にでも話してしまうような……。そういう人が普通なんだ。

 それは少しだけ、羨ましいと思う。

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