廻る彼女のペネトレーション

緑茶

廻る彼女のペネトレーション

 自分がどこにいるかなんて、ふつうに暮らしている人なら、考えることなんてないだろう。

 それは、寝ているときの足の小指みたいなものだ。

 でも、わたしは違った。



 事態だけ並べれば、たった数秒でおわる。


 私は彼氏だと思っていた男にレイプされて、ひどく傷ついた。

 家族にそれがバレて、とりわけ父親には冷淡に扱われて、さらに傷ついた。

 もう、傷つかない場所に行きたかった。それだけの話だった。


 私は、叔父に電話をかけた。彼は若かったし、何より、福祉団体で働いていた。

 私の話を聞くと、すぐに憤った。

 彼は私に約束した。君はもう傷つかない、と。


 彼は私を車に載せた。

 それから、遠くへ、遠くへと運んでいった。

 どこへ行くの、と言った。

 彼は答えた。

 楽園だよ。君が傷つくことない、不可侵の楽園へ。


 行きがけに、飼っているハムスターの滑車を買った以外は、スムーズな旅だった。

 やがて車は、森のなかへ。

 そして、一つの洋館にたどり着いた。


 ここはどこ。

 学校だよ。

 ここには、女性しかいない。

 君を傷つけるものは、もういない。


 私の手は、なぐさみに、滑車をまわす。くるくる、くるくる。



 そこは、私と同じように傷ついた女性がつどい、ともに暮らす場所だった。


 そこには、ひとつの社会ができていた。ひとつの構造だった。

 男性が居なくても成り立つ、単一の価値観だけで動く世界。私は満足した。

 食事をして、景色を楽しんで、神に祈って、すこやかにねむる。

 笑顔が、思いやりが、たえない。そんな暮らし。


 もちろん、女性同士だ。女性しか居ない空間だ。

 そこには恋の真似事のような行為は発生したし、私はいくども、女性同士がひっそりと口づけをしている光景を見たりしたし、ひそやかな青春のやり直しを女同士でやりなおしているような場面を見たこともあった。だがそれらは、不純物がなくって、ずっとキレイなように思えた。

 私の手は滑車をまわす。くるくる。


 月日が経っていく。経っていく。

 暮らしにも慣れて、傷が癒やされていくと、見えなかったものが、見えてくるようになる。


 私の目は、違うものを映し出すようになる。

 それはひとつの事実。

 私の目を何度も通る影。それはこの楽園の住人には違いない。だけど、背負っている影が違う。


 彼女。私が見たひとり。

 はっきりと分かった。その目。誰にもまとっていないものをまとっている。

 彼女は、この楽園に不満を抱いている。そして、人知れず、その思いを抱え込んでいる。


 私が彼女を見つけたのは、偶然かどうか。

 わからないが、私は彼女を何度も見つけた。何度も何度も。幸せか?今が?当たり前だ。私は満たされている。私の周りには森が広がっている。


 ある日、私は友人との交歓を終えて自分の部屋に戻る。

 違和感。黒色が濃い。

 顔を上げる。あの日見た者が立っていた。

 彼女は息を切らしながら私に近づいて言った、あなたはここがおかしいことに気付いていないの、と。

 埒が明かないので、話を聞く。

 彼女が必死に語って聞かせた話は一笑に付すべきもので、この楽園にまつわるありえない陰謀論の話だった。

 私は彼女を追い返した。バカバカしかった、あまりにも。

 だから、泣く彼女を追い返して、眠った。


 実に深い眠りだった。

 朝起きると、頭が痛かった。

 昨日の、わけのわからない女の言葉がガンガンひびいた。

 いつもどおりの日常。不快だ、不快だ。楽園はいつもどおりで、喜びも嬉しさもいつもどおりだった。

 それなのに私は、あの女の言葉が妙に引っかかっている。気持ちが悪い。

 私はその原因を突き止めようとした。楽園じゅうを歩き回って、闇を、影を探した。何かに突き動かされているのは事実だった。私の中に、ありえもしない感情が芽生える、それは焦りと恐怖。私は何かを知ろうとしている、この完璧な楽園のなにかを、隠された真実を――。



 ……再び頭痛がして目が覚める。

 そこは自分の寝床で、そのすぐそばには、私の大切な人が寝息を立てていた。

 ひどくうなされていて、妙な悪夢を見ていたらしい。彼女はそれを心配してくれていたのだ。

 なんて愛おしいんだろう。私は急にうずくような気持ちが浮かんで、彼女の頭をなでた。

 すると彼女は顔を上げてこちらを見てきた、どうしたの。気分が悪いの。ひどい夢を見た、ほんとうに。

 まあ、かわいそう。だったら私が慰めてあげる。彼女は口を開ける。


 三角の口に、唾液の柱。上気した瞳にあてられて、私のなかで理性がとろける。そして唇が近づいて、むさぼりあう。愛の交換。互いの身体をまさぐりながら、情欲の間隙を埋めていく。これ以上に必要なものがあるだろうか。いや、ない。ああ、ああ、愛してるわ、愛してるわ。男なんていらない。女だけでいい。愛は女の間だけで出来上がる。さあ、もっと、もっと唾液をちょうだい。その代わり、私の愛をあげる。あなたは受け止めて、さあ愛を受け止めて。さあ。おい、むせるなよ。おい、さあ受け止めろよその口で。注いであげ、やるよ。俺のものを。俺のどろどろしたものを、お前に、お前に。俺は満たされる、俺は完璧な世界の中で役割を演じる。俺は滑車の中で回り続ける、くるくる、くるくる――。



 また間に合わなかった。

 わたしがある日見てしまった事実は、もう誰にも届くことなく、闇に葬られるだろう。

 ここに来て間もない彼女への説得が失敗に終わった時点で、諦めるべきだったのだ。そしてわたしは今追われている、追われている。その中で、残された時間の中で、この記録を書き取っている。


 わたしがここに来たのは、他の多くの女性達のように、傷ついたからだ。自分たちを迫害するものから逃げるために、ここに来た。


 最初のうちは、天国かと思った。同じように、傷ついた女性たち。互いの空白を埋めながら、少しずつ、森に囲まれて、癒やされていく。

 素晴らしく思えた。結構なことじゃないか。それでやがて、完全に傷がふさがるなら。


 だが、おかしい。できすぎている。

 ここの癒やしは、完璧すぎる。喜びと楽しみに満ちた世界。それも何もかも、スキがなさすぎる。

 陽の光が強すぎて、影の差し込む場所がない。

 時には、悲しみや怒りが、共感ではなく孤独が、人々を癒やすこともあるだろう。だがここはそうではない。

 わたしが感じていたハーモニーのようなものは、実のところ、ゆるやかに漂う同調圧力のようなものではないのか。

 わたしは、それを疑いはじめた。

 疑いは膨れ上がりはじめ――わたしは、ここでの生活を息苦しく感じるようになった。


 そうなれば、わたしは、今まで見えてこなかった色んなものが見えてくるようになった。


 単純な話、それは。

 『親しい間柄』にある女性たちが多すぎるということと。あまりにも、彼女たちの行動、言動が、ひとつの型にはまりすぎているということの違和感。

 まるで、ピンク色のカバーをしたハーレイクインロマンスから男性だけを抜き取ったような。誰も彼もが、ロールプレイをしているような。

 そんな、違和感。気付かなかったか。同衾している女性が妙に多いということ。誰もが同性愛者とは限らないだろう。無論、互いに過ごしていれば、そういう関係性も生まれることはあるだろうが。この違和感はなんだ。垣間見える口づけの仕草も、互いを思いやっているささやきの声も、何もかもが、妙に、妙に。

 ……――ねばついて、いた。


 私は眠れなかった。

 ずっと前から、この建物には、夜になると流される、規則正しいクリック音のようなものがあった。

 それは昔は安眠に作用していたが、今では逆だった。その音は妙に嫌悪を誘い、私は眠れることなく起き上がった。


 それから結局、夜闇のなかをこっそりと抜け出して廊下を渡り。

 ――音に、近づいていった。


 音は、地下からだった。

 埃だらけで誰も入りたがらない、と言っていた。

 だけど、わたしの足はそこに進んでいった。


 そこで、引き返しておくべきだったのだ。

 わたしが見たものは。

 あまりにも、あまりにも、おぞましかった。



ひぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!


ひぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!


ひぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!


 手術台に血まみれで横たわった女性は、四肢を拘束されたまま、頭部を切開されていた。


 その真横には、下卑た笑みを浮かべる男性が寝転がっている。

 やがて、女性の悲鳴はやみ、彼女の頭からは、赤黒い脳が取り出された。

 手術着を着た男――これも男だ。

 彼は、今度は横たわる中年の太った男に麻酔をかけた。

 そして彼の頭も切開、その脳を取り出す。


 嫌悪と恐怖で、頭がそまった。


 術者は、男の脳を、女性に移し替えた。

 それが手術だった。

 ほどなくして、終わった。

 女性の脳は、そのまま素手で運ばれて、手術室の端に据え付けられていた引き出しに放り込まれた。

 べちゃりというイヤな音がした。


 しばらくして、『女性』の頭部の縫合が終わると、『彼女』は起き上がった。

 気分はどうですか、○○さん。術士が問いかけると、彼女は言った。


 いやあ、実にいい気分ですよ、先生――いや、ですわ、先生。

 なんせ女性ですもの。やはり時代は女性ですよ。強者が弱者を搾取するなどという構図を終わらせるには、我々も彼女らになってみなければ。

 そうして、彼女たちの心理を、群集心理を学ぶ必要があるわけですな。

 今、実に気分がいい。そういうわけで、このこころみは成功では。

 いやいや、まだまだ途中ですよ○○さん。ほう、それはどうして。

 だってあなたはまだ、その姿で愛を交わしていないでしょう。

 ははは、そうだ、それがあった――それが、ね。


 『彼女』は舌なめずりをした。

 わたしは、短い悲鳴を上げた。

 ……部屋の声がやんだ。

 気付かれた。

 わたしはハッとして部屋を出た。


 だが、遅かった。

 暗闇の中を歩く、たくさんの足音。

 それはこちらに群れをなして近づいてくる。

 ささやき声、甘やかなささやき声とともに。

 こわくないわ。一緒になりましょう。

 それは彼女たちだ。

 彼女たちが、こちらを見ている。

 こちらに手を伸ばしている。精一杯かれんな、美しい彼女たちが、わたしに向かって。

 無数の黒い影になって、わたしに向かってくる。ゆっくりと、だが確実に。

 『彼女たち』は、楽園の至るところから湧き出るようにして、夜の闇の中をそぞろ歩き、わたしを追ってくる――。


 ……そこからのことは、よく覚えていない。

 わたしは、必死に逃げた。逃げて逃げて、森から離れた。

 後ろから続く声が、どれだけで遠ざかったのかも、よく覚えていない。

 とにかくわたしは逃げた。

 そうして、やがて、街に出た。

 警察に駆け込んだわたしは、すぐに保護された。それだけボロボロだったのだろう。ある意味では、幸いだったわけだ。

 しかし、わたしは自分の見たものは、語らなかった。

 絶対に信じてもらえないし、真に受けられてしまって、あの場所のことが広まってしまうことのほうが、もっと大きな何かを引き起こしてしまいそうで、わたしにはそれが怖かったからだ。



 とにかくわたしは、ようやく解放された。

 結局は、もとの世界に戻ってしまったわけだが、これでもう、楽園などというものを信じずに住んだわけだ。


 しかし、わたしは安堵以上に、大事なものを、もっと大事なものをなくしてしまったようだった。

 身体が脱力して、言うことを聞かない。


 わたしの扱いが、『恋人から乱暴されて所在をなくした女性』におさまったのは、憤懣やるかたないが――もう、どうしようもない。


 だが、この感覚はどこから来るのだろう。

 言語化するのは極めて難しい。

 だってそれは普段、誰もがその渦中にいながら、決して考えることのない問題だからだ。


 わたしはある時、路上で泣いている男性を見た。

 ひどく、弱々しく見えた。

 声をかけられなかった。

 それは、彼が知らない人間だったからだろうか。それとも、彼が男性だったからだろうか。

 あるいは。彼が、体中に傷を負っていて、誰かから追われているようだったからだろうか。

 もし最後が答えだとしたら、わたしはひどく傲慢な、差別主義者ということになる。

 わたしは、そうは思われたくない。

 だからわたしは、その場から離れた。


 そうして歩いているうちに、わたしはまた、この問題について考えている。

 答えは、出そうもない。


 楽園はもう、失われた。

 あてのない旅がはじまる。

 互いがアダムとイブであるかどうかさえ分からないまま、両目を潰された盲人たちが、無窮の荒野をさまよいながら、ただただ、咽び泣くようにして、つぶやき続ける。



 ここはどこだろう、自分はどこにいるのだろう。

 どこに向かえば、腰を下ろすことができるのだろう、と。

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