第35話 黒猫とパンケーキ 後編
「あの猫ちゃん速すぎない?!」
すぐさまパンケーキ屋の屋根上に飛び乗った俺たちは、遥か遠くですでに距離を開け、余裕のしぐさで顔を洗っている黒猫を発見した。
一瞬で200メートル以上移動したらしい。
うーん、いろいろおかしいけど、とりあえずーー。
ーーパチン
「ッ……この距離じゃ、正確に〔
遠くを見すえ、首をかしげる。
パンケーキタワーを狙ったのに、黒猫のとなりと煙突の煙を誤って収納してしまうなんて初めてだ。
一応、目に見える範囲ならどこでも、収納と開放ができたはずなのだが……ジークタリアスに来てから1日10万回の指パッチンをしてないせいで腕が鈍ったのだろうか?
それとも、なんらかの妨害がーー。
「あ、マックス、パンケーキタワーが逃げちゃうわ!」
「仕方ない、あの猫を走って捕まえよう!」
屋根の向こう側へぴょんっといってしまう黒猫をダッシュで追いかける。
しかし、すぐにクレームが入った。
「っ、え、ちょっと、マックスも速すぎない?!」
「え?」
背後から聞こえる声。
振りかえると、ずっと後ろでマリーが懸命に走っているのが見えた。
ん、そうか、薄々感じていたが、俺はアインを軽くあしらえるくらいに強くなっていたんだから、マリーのレベルも越してしまっているんだよな。
俺はうなづき、理解すると、マリーへ
今、俺はマリーを抱っこして追いかけようか、などと彼女へ提案しかけたわけだが、流石にマズすぎることに気がついたのだ。
まず、背中に抱っこしたとして、俺がマリーの柔らかさの前に、魂が耐えきれず
では、俗に言うお姫様抱っこならどうだろうか?
こう背中と膝裏あたりに手を差しこんで……尊死。
それじゃ小脇に挟むのは?
ダメだ、聖女相手に不敬すぎる。死刑。
ましてや、マリーのお腹を触るなんて、ちょっとえっちじゃないか? ……尊死。
「なんてことだ、マリーを運ぶとすべて死亡ルートに繋がってる……ッ!?」
「ふう、やっと追いついたっ。なんだか、マックスの方がずっと足が速くなっちゃったみたいね。……えへへ、だとしたら、これは合法だよね! さっ、それじゃ、わたしを抱っこして追いかけるのよ!」
手を広げて、「はやく抱っこして、聖女様の命令なんだからね!」とこういう時だけ権力を行使してくるマリー。
俺の
マリーを万が一にも落とさないよう、彼女の背中と膝裏に手をいれて、しっかりと抱っこする。
自分で言っておきながら、存外に気恥ずかしいのかマリーの頬を赤く染めて、ぎこちなく首に手を回してきた。
「お、おおお、追いますッ!」
「い、いいわよ、さ、ささ、追いかけなさい!」
声の
「っ、またあんな、遠くに?」
「視界からフェードアウトすると途端に距離を離されちゃってるわ。なにかトリックがあるのかも!」
ふむ、いかなるトリックがあるのか……。
直線で追いかければ1秒で追いつけるのに、物陰を経由すると一気にふりだしに戻される。
明らかに黒猫自身の移動能力を上回っている芸当だろう。
「誰かがスキルで黒猫を逃してるのかも知れない」
「もしかしたら、黒猫自体がスキルかも?」
可能性は無限、ここで考えても仕方ない。
「というか、クソ、あんなに風に当たったらパンケーキが冷めるってのに! コラ、待てよ、にゃんころ!」
一瞬を狙うしかない。
「マリー、ちょっと速度あげる、しっかり掴まってて!」
「っ、ファ!?」
黒猫が屋根の影に逃げようとした瞬間。
俺は屋根の一部を踏みきりで吹き飛ばして加速ーー瞬きすら許さない極小の時間で、黒猫に追いすがる。
そして、彼ーーあるいは彼女の頭のうえのパンケーキタワーが盛られた皿を、この手にしっかり取りかえした。
「にゃーご!?」
「う、嘘、マックス、なに今の……景色が間延びして見えたんだけど……?」
驚く黒猫を尻目に、俺はマリーを屋根のうえに下ろしてパンケーキタワーを彼女へ返還した。
「どうぞ、聖女様のパンケーキは無事ですよ」
「っ、はは、素敵な腕前だったわ。ありがとうね、わたしのパンケーキを守ってくれて」
楽しげに笑うマリーを見て、俺も幸せな気持ちになる。
あの黒猫、俺のちょっこっとチョコパンケーキを殺してくれた仇に、どうしてやろうかと思ったが、意外といい働きするじゃないか。
こんな俺がマリーのなにかを守りきれた事なんて……これが初めてかもしれないな。
「ふっ、それがパンケーキかぁ……ん?」
「じーっ」
「にゃーご」
自嘲げに笑っていると、ふと傍らに黒猫もつ少女が立っていることに気がついた。
さっき、カラスから黒猫を助けてあげた、あの女の子ではない。
フリルのついた可愛らしい黒いドレスを着て、服にマッチした紫髪と、同色のまん丸の瞳をしている。
なんとも、
「そんなに怯えなくてもいいのよぉ、聖女様。ミーシャと遊んでくれてありがとね」
「にゃーご」
「その声、それにミーシャ。さっきの子、なんだよな? ずいぶんと様子が違うが……一体パンケーキを奪ってなにをするつもりだったんだ?」
「パンケーキを奪ってすること? 食べるんじゃないかしらぁ。猫がやったことなんて知らないけど。ねぇ、ミーシャ」
「にゃーご」
自分で質問しておいてなんだが、確かにパンケーキを奪うこと自体には意味がないように思える。
となるとーー他に目的があった?
この子ども、少し危険な香りがする。
「ふふ、そんなに怖い顔しないで。マクスウェル・ダークエコー、私ったら、ただのか弱い乙女なんだからぁーー」
目の前の少女が不敵に微笑み、手に抱いた黒猫をさりげない動作で、こちらへ放り投げてくる。
本能的に手をひろげて抱きしめようとしてしまう。
だがーー眼前の少女が、俺の背後をわずかに
気配がひとつ、まるで獣。
背後から何かせまってくる。
こいつ、それなりに速いぞ。
刹那の思考で敵意を感じとり、適切な対処を考えて判断し、俺は親の顔より繰り返しおこなっただろうルーティーンにはいった。
右手を胸のまえにもちあげて、気を整え、超集中ーーそして、指を弾く。
これ行う時、俺には世界の全てが止まって見える。
ーーパチン
地底湖の岩に、水滴がしたたり落ちたような、洗練された音とともに、背後の存在が乱気流にえぐられて、屋根のうえを削りながら吹っ飛んでいく。
突如、巻き起こった風に髪を揺らすマリーが、後ろに振り向いたころ、そこにはなにもおらず、そいつは吹き飛ばされ、通りへと落ちていくところだった。
「ッ」
ほぼ同時、目のまえで放り投げられた、黒猫が俺の目を見つめていることに気づく。
俺は言い知れぬ不安を感じ、自身の勘にしたがって、黒猫をキャッチする左手を握り拳にかえることで、パンケーキの
「とらっ! クソ猫ぉお!」
「にゃごーんッ!?」
拳圧の余波で屋根のうえの瓦が全部割れて、ハゲ上がっていく。
一方で黒猫は勢いよく空の彼方へと消えていった。
一連の動作がわずかな時間の間に完了されたあと、眼前の少女は、目を見開き、驚愕に顔をひきつらせていた。
はて、一体なにが起こったのか、俺にもよくわからないが、とりあえず危機はさったかな?
「ま、マックス、今、いろいろな事が起こったような……すごい風が吹き抜けていったような……猫ちゃんが断末魔を残して飛んでいったような……」
「話は後だよ、マリー。この女の子なんか変だ。神殿に連れていったほうがいいよ」
「ぇ、ガングルゥやられた……っ? こんな簡単に完封の布陣を突破するなんて……ちょ、ちょっと本当に………………? ふ、ふふ、流石は不確定の崩壊因子、ねぇ、私の庭を荒らすだけのことはあるわぁ! 容赦なく可愛らしい猫ちゃんを殴り飛ばすところも、勘が鋭すぎるって感じだし…………本当に人間なの……?」
冷や汗を浮かべて、蒼白の表情で後ずさる少女。
よくわからないが、とりあえず逃しはしないほうがいな。
俺は手を伸ばして、彼女の小さな肩に触れた。
「っ」
すると、悔しそうに顔を歪める少女の体は、黒い闇に覆われていき、爆発するように飛散してしまった。
黒い闇は、無数のカラスとなって、青空へと散っていく。これは、彼女のスキルなのか?
少女が手品ショーのように消えたことに、俺とマリーはしばらく顔を見合わせたりしてポカンとする。
しかし、すぐにハッと我に帰り、″何か″が落ちた通りを見下ろした。
「地面がいきなり割れたぞ!」
「何かが落ちてきたように見えたけどなーー」
「ありゃ、不吉の象徴だーー」
「デカいオオカミ……ありゃ、一体なんだーー」
下の通りはだいぶ騒がしくなっていた。
石畳みは放射状に割れ、重い何かが落ちた痕が残っていた。しかし、俺もマリーも、肝心の″何か″をそこに見つける事はできなかった。
「マックス、今の子、すごく変な感じがした。こう、肌が泡立つような嫌な気配がしたの」
「うーん、確かに変だったけど、俺はそこまで……【施しの聖女】としての勘ってやつなのか?」
「わからない、けど、この事は一応、神殿に報告しておくことにするわ」
マリーは地上の落下痕と見て、屋根のうえを見上げてくる野次馬たちに笑顔で手をふり、パンケーキ片手に歩きだす。
「とんだ邪魔がはいったわね。……まあ、いいわ。さっ、それじゃ、デートの続きしよっか♪」
「……え、この流れでまだ続けるので?」
マリーはにーっと笑い大きく首を縦に振った。
「ふへへ、だって、何があってもマックスがわたしの事を守ってくれるんでしょ? それに、マックスのことはわたしが守るしね♪ これからは何が来たってわたしたちを止められないわ! もう何も怖いものなんてない。わたしたち2人なら無敵なんだから!」
彼女の笑顔の眩しさに、思わず膝を屈してしまう。
「だ、大丈夫!? マックス?!」
マリーは手を後ろで組んで、前屈みになり、心配そうにこちらを見つめてきた。
クソ、だめなのに、聖女であるマリーに俺は釣りあわず、彼女の言葉はみんなの事を気にかける役目の優しさと分かっていても、俺はマリーに特別な何かを期待してしまう。
愚かな自分を律しながら、顔をあげる。
「ッ?!」
前屈みになっていたマリー、その胸うえの服の隙間からわずかに、聖なる峡谷の片鱗がのぞいてるのを目撃してしまった。
ありていに言えばパイチラをしてしまった。
おお、女神よ、お許しください……。
「フッーー」
マリーと2人きりという、ただでさえ幸福度が振り切りそうな状況での、有り余る聖女の褒美。
油断した俺の負けだった。
俺は思わず尊死してしまったのだ。
「これで、死ぬなら、本望……がくっ!」
「っ、マックスぅぅー?!」
意識が沈むの俺の耳には、ただマリーの声だけが聞こえていた。
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