異世界動物記

スパロウ

スライム

スライム①

 青年が目を覚ますと辺りは木々に覆われていた。即座にそこが森の中だと分かるまでにそう時間はかからなかった。何故今自分がここにいるのかまるで見当もつかない。はたして直前までいったい何をしていたのかすらも思い出せない。何が思い出せるのか、今一度思考を青年は巡らせる。


 自分の名前は。アツシ。

 誕生日は。八月十四日の獅子座。

 今日は何日。十月二十三日。


 自分の生い立ちや境遇、どのように生活してきたかはすぐに思い出せた。いや、知っていて当然のことだろう。しかし、今自分が置かれている状況に至るまでの、ほんの数分前の出来事の記憶が欠落していることだけが、今事実として残ってしまった。

 辺りを見回しても生い茂る大木が無造作に生えている。手入れのされていない森、すなわち原生林に近いものであることは容易に想像できた。耳をすませば鳥の声、正体不明の獣の咆哮、風邪に騒めく葉っぱの擦れる音。青年にとっては心地よく感じるものであったが、彼の現状は不安と恐怖が混在していた。

 パニックになって下手に動き、さらに迷子になってしまっては元も子もない。冷静に落ち着きを取り戻しつつ、ひとまず彼はその場に居続ける決断をした。どちらが北で、どちらが南か皆目見当もつかない。太陽の光は木々によって阻まれて辺りは暗く、まともに空を見ることすらできない。あいにくコンパスのような道具は持ち合わせていないし、どうやら電波が届いていないようでスマートフォンも使い物にならない。

 彼にとって幸いだったのが、今いる場所に人の通った痕跡があることだった。明らかに獣とは違う、足に何かを身につけて歩いた二足歩行の跡。見慣れない模様だが、靴底で間違いなかった。つまり、いつ通るかはさておき、人が通ることのある場所だと分かっているのはとてつもなく大きな情報だった。他にも馬の蹄らしき跡もあり、山の中を馬を引き連れて歩いている人物がいることは容易に想像できた。もしかしたら近いうちに会えるかもしれない。靴はある一方向に向かってずっと続いており、踵を返したようなあともないことから、帰ってくるという選択肢をその人物がとれば会える確率は高い。


 そう思いながら一体どのくらいの時間がたっただろうか。日が暮れたのかどうかすらも分からず、一方的に空腹感が襲い、彼はだんだんと無気力になっていった。助かる見込みがないのか、果たしてここは何処なのか、なぜこんなところにいるのか。何も思い出せないまま、分からぬまま、ただ無念に果てるのを待つばかりだった。


 ふと、視界になにかが入った。非常に奇妙な生き物だったが、どういうわけか見たことがあった。ゲームの世界だとかファンタジーの中で、それを見たことが彼にはあった。どうみても、あれはスライムである。

 半透明でほぼ無色。非常にゆっくりと動いており、こちらに気付いているのか不明だ。目視した限りでは目と思しき器官は見受けられない。ずるずると這うように進むその姿は、巨大なヒルを見ているような感覚だった。一般的に想像するスライム像といえば、取り込まれると溶かされる、スライム同士で合体する、単体では非常に弱いなどなど。あまりに非現実的な光景だったが、間違いなく現実であることは空腹感が否応なしに教えてくれた。

 ぼーっと一体のスライムを見ていたのがまずかったらしい。気付けば辺り一面にスライムが群れのように現れていた。もし、このスライム群が敵対心を持っていたら。突然襲い掛かってきたら。その時のスピードが凄まじければ。彼は避けきれずスライムの餌食になることは時間の問題だろう。

 じりじりとその距離を狭め、どんどん現れるスライム。彼の不安を払い除けたのは、一つの剣筋であった。

「そこの者! 大丈夫か!」

 ハスキーながら女性だとわかるその声の主は、馬に乗り、全身を西洋の甲冑のようなもので身にまとった姿で彼の前に現れたのだった。兜はきちんと顔全体を覆っており、その素顔を確認することは出来ない。

「この森でそのような姿でうろつくとは不用心すぎるぞ!」

「えっ、あ、ごめんなさい」

「しかしスライムの数が多いな……。一旦この場から離れた方がよさそうだ。君、早くこいつに乗りたまえ!」

 彼女に言われるまま彼は一目散に馬に跨った。馬までの道は鎧の女が切り開いてくれていた。彼自身がよく知っているような馬ではないような気がした。


 しばらくすると、また開けた場所に出た。まだ森の中なのには変わりないが、どうもそのあたりを拠点としているらしく、テントや焚き火、そのほかの資源などが置かれており、他の生物の侵入を防ぐためのパーテーションもあった。

「あの、危ないところを助けていただいてありがとうございます」

「全くだ。旅人か知らないが、そんな軽装でこの森を歩くなど自殺行為だぞ。しかし不思議な召し物だな……。どこの者だ?」

「どこ……どこといっても、私もここがどこだかわからなくて。あの、ここ日本ですよね?」

「ニホン……? 聞いたことのない場所だ。貴様本当に何者だ? ここは魔王によって支配された、魔物の巣食う森だぞ。まさか魔王の手先……というわけでは、あまりなさそうだな」

 どうも日本ではないらしい。彼の脳は軽くパニックを起こした。

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