骨の音

布施鉱平

骨の音

「テレビとか、見ないの?」


 宮崎良恵の住むマンションの一室に招かれ、リビングに入ると、俺はその部屋をぐるりと見渡してそう聞いた。


 部屋は驚くほど簡素に片付いていた。


 キッチンと一体になったリビングには、炊飯器や冷蔵庫といった生活に必要なものがいくつか備え付けられてはいるが、あとは四角い座卓と、地味な色の座布団が二つ転がっているだけで、他には何一つ置かれていない。


 今時、金のない学生でもテレビの一台くらいは持っているものだと思っていたが、そうでもないらしい。


「弟が音に敏感で……」


 良恵は、いつもと変らぬ静かな声で、そう言った。


「弟、いるんだ」


 初耳だった。


 彼女は自分の話をほとんどしない。食べ物の好みとか、趣味はなんなのかとか、付き合って三ヶ月以上になるが、知らないことは多かった。


「一緒に住んでるの?」


 良恵が笑顔で頷く。仲が良いのだろう。


 折角彼女の家まで来ることが出来たのに、同居人がいるのではあまりくつろげそうにない。


「えーと、じゃあ、一応挨拶とかしておいたほうがいいかな」


 玄関からリビングに来るまでの間に部屋が二つあったが、その内の一つが弟の部屋なのだろう。

 ちらりと通ってきたばかりのドアに一度眼をやり、良恵の表情を伺う。


 良恵は、小さく首を振った。


「今は寝てるんです。もう少し暗くなったら起きると思いますので、それまではここで」


 ここで、と言われても、テレビも無いのでは時間の潰しようがない。

 

 一度外に出て食事にでも行きたかったが、良恵がさっさと座布団を敷いて座ってしまったので、仕方なく俺もそれにならうことにした。

 

 出された座布団に胡坐をかく。


 良恵が正座をしているので、普段は一段低いところにある彼女の顔が、同じ高さに来た。


 綺麗な顔立ちをしている。


 会社の女子社員の中では、間違いなく良恵が一番の美人だろう。

 どことなく暗い雰囲気があるが、それがまた若さにそぐわぬ色気を醸し出していた。


 狙っていた同僚はけっこういたはずだ。

 

 大学から一度社会に出てしまえば、出会いの場など限られてくる。

 近場で優良な物件があれば、取り合いになるのは必然だった。


 正直な話、いけるとは思っていなかった。

 まともに話したこともなかったし、自分の顔が十人並みだと言うこともよく知っている。


 だが、意を決して食事に誘ってみると、反応は悪くなかった。


 良恵が二十四歳なので、歳の差は六歳。話が合うか不安だったが、それは問題なかった。

 会社にいるときと変わらず彼女が無口だから、という理由でだが。


 良恵が立ち上がり、リビングに面したベランダの窓を開けた。

 部屋にはクーラーも付いていなかったが、幸いなことに今日はそれほど暑くもなく、開け放たれた窓からは涼しげな風が入ってきた。


 どこからか、風鈴のなる音がした。


 良恵が戻ってくる。

 座布団の位置を近くにずらして、もたれかかるように体を預けてきた。柔らかな胸が、腕の辺りに当って形を変える。


 体の相性は良かった。男性経験が無かったことには驚いたが、それもまた愛おしい。


 今日はもちろん、そういったことも込みで期待していたのだが、残念ながらそれは叶いそうにない。


「弟さんは、何してる人なの?」


 良恵の髪をなでながら尋ねた。


 夜になってから起きだすのだから、まともな職業ではないだろう。だが、今のところ話の糸口はそれしかなかった。


 良恵がくすりと小さく笑った。


「弟は、まだほんの子供ですよ」


「子供?」


「ええ、七歳です」


「え、そんなに若いの? お父さんとお母さんっていくつ?」


 さすがに予想していなかったので、俺は驚いた。七歳といえば、彼女とは十七も違う。

 母親が彼女を十八で産んだとしても、弟を産んだ歳は三十五歳になる。


「父は五十、母は四十八です」


 ということは、弟を産んだのが四十一歳……高齢出産だ。


「四十一で出産かぁ……随分頑張ったんだね、ご両親」


 半ば呆れた声を出すと、


「母が弟を、修司を産んだのは三十のときですよ」


 良恵がそんな事を言った。


「えっ……?」


 頭が混乱した。どう考えても計算が合わない。三十歳の時に良恵の弟を産んだのであれば、弟の年齢は十八歳でなければおかしい。


「弟は、ちょっと遠くに行っていたんですけど、でも、最近になって帰ってきたんです」


 嬉しそうに良恵が笑った。


「あの頃となんにも変らない。お姉ちゃん、お姉ちゃんって、私の後をついて来て……」


 自分の家にいる開放感からか、彼女はいつになく饒舌じょうぜつだった。

 

 そのまま姿勢で昔話をはじめてしまい、体を預けられた俺は、ただそれを聞くしかなかった。












 ────当時私は中学生で、歳の離れた弟は小学校低学年でした。


 まだ一人で登下校させるのは危ないからと母に言いつけられて、私がいつも一緒に帰る決まりになっていたんです。


 私は、もちろん面白くありませんでした。弟のことは可愛く思っていましたけど、私だって友達と一緒に帰りたかったし、放課後どこかに遊びに行ったりもしたかった。


 でも、私は優等生だったんです。

 成績も良くて、親の言いつけもちゃんと守る、そういういい子だったんです。


 いちどいい子になると、なかなかそこから抜けられないんですよ。

 周りはそういう目で私を見るし、期待する。友達も、先生も、親も、私はそういう子なんだって決め付ける。


 人は環境が作るものなんだって、私は中学生にして実感していました。


 だから、面と向かって親に不満を言ったりもできなかった。


 私は、そのはけ口に弟を選びました。


 私は同級生と較べれば標準的な身長でしたけど、まだ成長期にもなっていない弟からすれば見上げるほど背が高かったし、足も長かった。

 歩く速度だって弟とは全然違います。


 私が一歩歩く間に、弟は二歩も三歩も歩かなければ私に追いつけない。


 私は、毎日わざと早足で帰っていました。


 弟は私を一生懸命に追いかけ、信号で私が止まるたびに追いついて、歩き出すとまた距離が開いていく。

 

 それを繰り返しながら、私たちは家まで帰るんです。


 帰り道、私はひと言も声を出しませんでした。


 後ろから呼ばれても、振り返りすらしませんでした。

 弟には罰せられる理由なんて何ひとつないのに。


 ……ひどい姉でしょう?


 でも、やめられませんでした。


 ああいうのは、理屈じゃないんですよね。

 思春期だったからとか、親への反抗だとか、いろいろ理由は付けられるんでしょうけど、やっぱり理屈じゃないんです。


 その日も、私は弟の存在を無視しているかのように、早足で歩いていました。


 家まであと数十メートル、家の前にある最後の信号に差し掛かったところで、歩行者用のライトがチカチカと点滅しているのが見えました。


 私は、何も考えずに歩き続けました。

 途中で信号が赤に変わっても、それでも構わずに渡りきって、そのまま歩いていこうとしました。


 すると、突然後ろで大きな音がしたんです。


 車のタイヤがアスファルトに擦れる音。


 衝突音。


 びっくりして振り返ると、黄色いスポーツカーが止まっていました。


 外に振動が伝わってくるくらいの重低音が、車の中から響いきていました。


 状況を理解するのに、どれだけ時間がかかったのか、はっきりとは思い出せません。


 だけど、私は長い間その黄色い車を見ていたような気がします。


 頭の中に一枚の写真でもあるかのように、車の外観や、運転していた若い男の凍りついたような表情を、今でも鮮明に思いだすことができますから。


 そして、助手席側のガラスに映りこんだ私の顔も。


 私の顔は、疑問を浮かべていました。


 なぜ目の前に車が止まっているのか。

 そんな事を考えている顔でした。


 そして、その顔が少しずつ変化していくんです。


 何かに気づいた顔。


 何かを思い出した顔。


 恐怖、驚愕、そのどちらともつかない、二つが混ざり合ったような顔。


 そしてその視線が、だんだんと左に動いていく。


 ……弟は、思ったよりもずっと遠くにいました。


 夏の盛りで、アスファルトなんて触ると火傷しそうなほど暑いのに、手も足も全部投げ出して道路に寝転がって……


 筆で書いたような赤い線が、弟から車に向かって伸びていました。


 私は動けず、ただじっと見ていました。弟ではなく、ねずみ色の地面に引かれた、その赤い線をです。


 それからのことは、なんだかスライドショーのようにまばらに記憶しています。


 人だかり、警察、救急車、運ばれていく弟、泣き崩れる母、悲痛な顔の父、暗い顔の親戚、葬式……そして、火葬場。


 毎日のように私の後をついてきていた弟は、いつの間にか白いカサカサした欠片に変わってしまいました。


 葬儀社の男が、両親に形通りのお悔やみを言い、私にもひと言ふた言声をかけると、箸を渡してきました。


 どこにでもある、普通の割り箸です。


 箸を受け取り、そして、どういう用途でそれを使うのかを聞かされたとき、私はひどく動揺しました。

 普段ものを食べている道具で弟の骨を拾うという行為が、なんとも忌まわしいものに思えたのです。


 急に、私の中に激しい感情が芽生えました。


 それまでは、あまりの衝撃に本来の自分をどこか遠くに押しやっていたんだと思います。


 箸を渡されたショックで私は現実の世界に引き戻され、初めて弟の死を実感しました。


 胸を突く後悔。


 車を運転していた若者への怒り。


 無神経な葬儀社の男への抗議。


 そういったものが一気に噴き出して、私は我を忘れ、大声で泣きました。


 泣いて、泣いて、声が出なくなるまで叫び続けました。


 葬儀社の男は、困り果てたような顔で私と両親を交互に見ていました。


 悲しみや憤りは、どれだけ泣いても尽きることなく湧き出してきて、私はこのまま自分が枯れて死んでしまうのではないかと思ったくらいです。


 ですが、嵐のような感情の爆発が過ぎ去った後、刺すような後悔の念だけを残して、私の中は空っぽになっていました。


 私は、両親と共に無言で弟の骨を拾い、それを小さな壺へと入れていきました。


 帰りの車の中で抱えていた弟の遺骨が入った壺は、カイロのように暖かかったのを覚えています。


 弟の事故以来、母は無意識に私を責めるようになっていきました。

 私と眼を合わせないようになり、あてつけのように仏間にこもるようになりました。


 母は、家事をしているとき以外はたいてい仏間にいました。そこで経を読んでいるか、弟の骨壷に話しかけているのです。


 膝の上に抱いて、昔話をあれこれとしていました。


 生まれたときの話、怪我をしたときの話、誕生日で食べたケーキの話、他にもいろいろ。


 その中に、私の名前は一度も出てきませんでした。


 数年間それは続き、私は高校卒業を機に家を出ることを決意しました。


 一人暮らしを決めたのは、母との関係を思い悩んで、という理由だけではありません。


 弟が死んでしまったのは、確かに私の責任です。

 私の胸に刺さった棘は一生抜けないでしょうし、時々深く刺さっては私を苦しめるでしょう。


 でも、それでいいんです。


 忘れられないだろうし、忘れるつもりもありませんでした。


 ですが、そのことだけに囚われてしまっては前に進めない。身近な人がそうなってしまっただけに、私の思いは痛切でした。


 母は、死んだ弟に愛情を注ぐあまり、あの日より前の事しか考えられなくなってしまいました。

 弟が生きていた頃の思い出に浸り、死んだ日の事を思い出しては悲しむという日常に、心の安定を見出してしまったんです。


 私が出て行く当日も、母は仏間から出てきませんでした。


 父がやりきれない顔をしていたのは、私が出て行く寂しさというより、母と二人になることの不安があったのかもしれません。


 家を出る前に、私は母が夕食を作っているときを見計らって、仏壇に供えられた骨壷の中から、一番大きな欠片を取り出しました。


 そして、雑貨屋で買った小さな素焼きの壺にこっそりいれると、着替えやなんかを詰めてあったボストンバッグに忍ばせました。


 母に対するあてつけもあったかもしれませんが、でも、それだけじゃありません。

 私だって弟を愛していたんです。冷たくあたることがあっても、それはずっと変りませんでした。


 私は弟と骨と一緒に家を出て、以来、実家には一度も帰っていません。


 都会に出てきてからの私は幾つかのバイトを転々としながら、自分がこれからどうやって生きていくべきか模索していました。


 あれをしたい、これをしたいなんてことは全然思い浮かばなくて、とにかく一日一日を生きながら、どうにかして前に進もうと色々なことに挑戦してみました。


 ですが、何をしても、どんな仕事をしてもうまくいきませんでした。


 部屋に置いてある弟の骨のことが頭からはなれなくて、どうしても仕事に集中できないんです。


 私は部屋に帰ると、まず最初に弟の骨が入った壺を振りました。


 からん、からん、と虚しい音が響き、私はその音を聞く度に深い悲しみに包まれました。


 それでも、なぜか壺を振る事をやめられないんです。


 毎日毎日、弟の骨が鳴る音を聞いては涙を流していました。


 この音が消えないかぎり、私は前に進めない。だれに言われるでもなく、私はそれを知っていました。


 三年経ち、五年経ち、貴方のいる会社に就職が決まったのが去年のことです。


 骨の音は次第に小さくなって、ほとんど聞こえないほどになっていました。


 毎日振っているのですから、いくら骨が硬くたって、少しずつ砕けて小さくなっていくのは当然のことです。


 完全に音が聞こえなくなるまであと少し。そう思いながら、私は壺を振り続けました。


そして、四ヶ月前。


とうとう、壺を振っても骨の音はしなくなりました。


これで、やっと前に進める。やっと自由になれる。


自分でやり始めたことなのに、私は課せられた苦役からようやくまぬがれたような開放感に浸っていました。


 貴方から食事に誘われたのは、ちょうどその頃です。


 周りの事なんかちっとも見えていなかった私は驚きました。


 それまで、私の全ては小さな壺の内側にしかなかったんです。

 誰かが私の事を見てくれているなんて、想像もしていませんでした。

 

 嬉しかった。


 本当に、嬉しかった。


 それから何度か食事に誘って頂いて、そして好きだといわれた時、私は本当に新しい人生が始まったんだと実感しました。


 でも、貴方に返事をする前に区切りを付けておきたい、そう思ったんです。

 返事を少し待ってもらったのはその為です。


 私は、壺を処分しようと思いました。


 家を出てからの六年間、毎日のように振り続けていた壺です。


 弟の骨が入っていた壺です。


 ゴミ箱に捨てるのはしのびなく思い、せめてどこかに埋めてやろうと、私は貴方から告白された翌日、仕事から帰ると壺を持って部屋を出ました。


 なんだかいつもより壺が重いような気がしましたが、それも名残惜しさからくる錯覚だと思っていました。


 街路樹の根元、道路脇の花壇。都会にも結構土はありますが、あまり身近なところでは意味がないと思い、私は思い切って地下鉄駅に入ると、終点まで行ける切符を買いました。


 二十分ほども電車に揺られていたでしょうか。その間、同じ車両に乗った人がちらちらと私を見ているような気がしました。


 思えば、私は壺だけをそのまま持ってきてしまっていたのですから、それも当然でしょう。


 終点に着き、駅から出ると、ビルや商店が当たり前ように広がっていましたが、人通りは少なく、道路の先には山も見えました。


 私は、その山に向かって歩きだしました。


 辺りは薄暗くなってきていましたが、何も山頂まで登る必要はありません。

 ふもとの辺りで少し木の根もとの土を掘り返せばいいだけ。


 近くに見えた山は意外に遠く、ふもとにたどり着いたときにはすっかり暗くなってしまっていました。


 私は壺を地面に置くと、手で木の根元を掘り始めました。


 夏場の土は柔らかく、壺を入れられるだけの穴はすぐに掘ることが出来ました。

 

 後はその中に壺を入れて土をかけるだけです。


 私は壺を手に取りました。


 …………


 もう、習慣になっていたんでしょうね。


 無意識のうちに、私は壺を振っていました。






 ────こと。






 壺の中から、音が聞こえてきたんです。


 信じられないような思いで、私は壺を見つめました。確かに、音はしなくなったはずだったのに……。






 こと、こと。






 二度、三度と振ってみましたが、やはり音がします。


 間違いなく、中には何かが入っているようでした。


 それも、骨よりも重い、何かが。


 恐ろしくなって、私は思わず壺から手を離しました。


 どすっ、と音をたてて、壺は地面に落ちました。

 土の上だったので壺は割れませんでしたが、私には蓋を開けて中身を確認する勇気も、それを拾って穴に放り込む勇気はありませんでした。


 壺をそのままにして、私は足早にもと来た道を帰り始めました。


 確かなあかりのあるところまではまだ遠く、人の喧騒も聞こえないほどに街からは離れていました。


 カツ、カツ、と硬質な私の靴音だけが響き、闇の中に吸い込まれていきます。


 できるかぎり大股に、左右の足を素早く動かして、私は歩き続けました。


 何かが後ろからついてくるんじゃないかという恐怖に追われながら、他の音が聞こえてこないよう自分の足音意識を集中させて。


 あの日のように……


 …………


 ふと、ある予感がして、私は立ち止まりました。


 それは、予感と言うよりも直感と言った方がいいかもしれません。


 そうするべきだということを、私は思考や常識を超えたところで感じ取り、理解していました。


 私は待ちました。


 月明かりに照らされながら、本来待つべきであった過去の私の背を遠くに見て、ただ待ちました。


 すると、聞こえてきたんです。


 私に追いつこうと、懸命に走る足音が。


 荒い息遣いが。


 私は振り返らず、ただ右手を後ろにさし出しました。


 その手の中に柔らかなものが差し込まれると、私はそれを握って言いました。


「帰ろうか」


 ゆっくりと、私は歩き出しました。

 

 小さな歩幅に合わせるように。











 

 話し終えた良恵の顔は、幸せそうな笑みに包まれていた。


 俺はといえば、内心では冷や汗を掻きながらも、一度関係を持ってしまったこの女と、どうやって円満に別れるべきかを懸命に頭の中でシュミレートしていた。


 狂っている。


 そうとしか思えなかった。


 もし正気で俺をからかっているのだとしても、あまりにたちの悪い話だ。


 普段もの静かにしているのも、もしかしたら想像の中に生きているからなのかもしれない。


「あー……今日は帰るよ。ほら、もう遅いし」


 立ち上がりながらそう言うと、良恵はにっこりと微笑んだ。


「あら、弟には会っていかれないんですか? もうそろそろ起きる頃だと思うんですけど」


 ワイシャツの袖を摘み、リビングの扉へと眼を向ける。


「いいかげんにしてくれ」


 耐えられなくなって、俺はその手を振り払った。


 きょとんとした顔でこっちを見ている良恵にはかまわず、俺はリビングと廊下をつなぐドアまで行くと、ノブに手を掛けた。






 かちゃり。






 扉の開く音がした。


 俺はまだ、ドアノブを回してはいない。


 音はもっと遠く、ドアの向こう側から聞こえてきた。


「あっ、起きたみたい」


 背後から、明るい良恵の声が聞こえた。


 俺の体は、金縛りにでもあったかのように動かなかった。


 どこからか、また風鈴の鳴る音が聞こえてきた。


「修ちゃん、今日はお姉ちゃんの恋人が来てるのよ。ご挨拶してね」


 ドア越しに、廊下を歩く足音が、近づいてきた。

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