キッチン・マレー
布施鉱平
キッチン・マレー
キッチン・マレー
午後六時五十分。
ぎりぎり間に合った。
すでに、もうすぐ閉店だと知らせるためのメロディが流れている。
私は買い物かごを掴むと、何か半額のシールがついている食材は無いか、店内をぐるりと回ってみた。
味つきのカルビ肉が半額だったが、私はすでに味のついたものに用はない。
肉売り場、野菜売り場と順々に見ていったが、収穫は見切り品のコーナーに置いてあった、ややしなびた感のあるニンジンだけだった。
私はすぐさま今日の献立を頭の中で組み立てると、今度は逆周りに歩いていく。
野菜売り場ではゴボウと半分のダイコンを、肉売り場では豚の薄切り肉を拾うと、レジに向かった。
すでにいくつかのレジが閉じられていて、開いているのは二つだけ。私は二つの行列に近付きながら、並んでいる人たちのかごの中身を見比べ、どちらに並べばいいかを直感的に判断する。
私は、向かって右側の列の後ろについた。それとほぼ同時くらいに、隣の列にも人が増えた。今日は、あの人と勝負だ。
私は見ず知らずの男性に勝負を挑むと、レジのおばちゃんを無言で応援した。
結果は、私の勝利だった。
私が持参したエコバッグに食材をつめている最中にも、彼はまだ会計の途中だった。
もちろん、勝ったからといって何かいいことがあるわけではないのだが、なんとなく楽しい気持ちにはなれるのだ。
私は小さく鼻歌を歌いながら、我が家に向かって歩いていった。
信号をいくつか渡り、十分ほども歩いたところで、マンションの前にたどり着いた。今日は荷物が軽いので、汗もかいていない。
ポケットから鍵を取り出して、オートロックを解除する。
自動ドアが開いて、私を迎え入れた。
しばらく長い通路を歩き、目的のエレベーターの前に到着する。エレベーターは一階で止まっていた。
レジ競争にも勝てたし、今日は運のいい日だ。
四階に上がり、エレベーターのドアが開いた。すぐ正面にあるのが私の部屋だ。
鍵を開け、中に入る。
玄関で私を出迎えてくれたのは、上野動物園で購入したマレー熊のぬいぐるみだ。
とぼけた顔がなんとも愛らしく、一番のお気に入りだった。
名前は『マレーちゃん』という。
「ただいま」
私はマレーちゃんに挨拶をすると、靴を脱いでマレーちゃんを抱きかかえ、キッチン兼茶の間に向かった。
扉を開けて、炊飯器に表示されている時間を確認する。
現在、七時十五分。
タイマーは八時に設定してあるので、あと四十五分で米が炊き上がる。
私はマレーちゃんをテーブルの上に置くと、服を脱いでハンガーに掛けた。
料理に取り掛かる前に、シャワーを浴びてしまいたい。
私は下着姿のままで風呂場に向かった。洗濯機の上に置いてある籠の中に下着を放り込んで、風呂場の戸を開く。
シャワーは最初に冷たい水が出てくるので、いきなり浴びるわけにはいかない。
放水口をあさっての方向に向けて、水がお湯に変わるまでじっと待った。
水がお湯に変わったのを確認すると、私は髪を濡らし、シャンプーを泡立てた。
頭は、出来るだけはやく洗ってしまいたい。
頭を洗っている最中には、なぜか嫌なことばかりが思い出されるからだ。
全てを洗い終えて、部屋に戻ると、七時二十五分になっていた。
予定通りだ。
ドライヤーで髪を乾かすのに十分。食材の下ごしらえと調理をゆっくりやって二十五分。米が炊き上がりしだい、夕食が食べられる計算だ。
髪を乾かし、パジャマを着てエプロンを身に付けると、まず味噌汁から作ることにした。
鍋に水を入れて中火にかけ、その間にダイコンの皮をむく。使うのは四分の一くらいで十分だ。いちょう切りにして、鍋に放り込んだ。
火を弱めてダイコンを煮ながら、その間にニンジンとゴボウを刻むことにする。
まずはニンジンからだ。
ざっと洗い、薄い輪切りにする。皮はむかない。
テレビで、ニンジンの栄養は表面のほうに集まっていると言っていたからだ。
輪切りにしたニンジンを重ねて、そこからさらに細切りにした。
ゴボウは丁寧に水で洗い、泥を落とす。薄い斜め切りにして、それを重ねて細切りにした。
ささがきにしたほうが楽なのだが、私はこの方が食べやすいから好きなのだ。
細切りにしたニンジンとゴボウをボウルに移して、鍋の火を止めた。粉末のかつおだしを鍋の中に投入する。
そして、お玉に味噌をすくい取って、そのまま汁の中に浸けておいた。こうしておくと、味噌を溶くときに柔らかくなっていて溶きやすいからだ。
次は肉だ。
肉もやはり細切りにする。野菜よりも太目の細切りだ。
これで、下準備は完了した。後は調理するだけだ。
冷蔵庫から、醤油と酒とてんさい糖を取り出した。
換気扇を回し、フライパンを火にかけ、ごま油を少したらすと、そこに細切り肉を入れた。
ごま油の香りと、肉の焼ける匂いが食欲をそそる。
肉の色が変わったところで、次はゴボウとニンジンを入れた。全ての材料がフライパンに入ったら、少量の酒をいれて、さらに炒める。
火が通ったところで、てんさい糖を振りかけた。全体になじむように混ぜたら、醤油をフライパンの淵から回しいれる。
醤油の焦げる、香ばしい匂いが広がった。
市販の炒りゴマを加えて皿に盛ったら、豚肉入りきんぴらの完成だ。
私は炊飯器の表示を見た。あと二分。ちょうどいい時間だ。
柔らかくなった味噌を溶きほぐし、鍋を火にかけた。味噌汁が沸騰してしまわないように、注意深く見守る。
味噌汁が温まると同時に、炊飯器からメロディが流れた。ご飯が炊けた合図だ。
ご飯と味噌汁をお椀に盛って、ソファーの前のテーブルに持っていく。きんぴらも並べて、ペットボトルのお茶をコップに注いだ。
さぁ、夕食の時間だ。
だけど、その前に一つ、やらなければいけない儀式があった。
私はマレーちゃんを正面に座らせると、厚紙で作った背高帽を被せる。
料理をするのは好きなのだが、自分自身の為だけに作るのは少しむなしい。
かといって、私が作った料理を食べてくれる恋人はいないし、私の為に料理を作ってくれる恋人もいない。
だから、目の前に並んだ料理は私が自分の為に作ったのではなく、我が家のシェフであるマレーちゃんが、私の為に作ってくれたことにするのだ。
「いただきます」
私はマレーちゃんに手を合わせ、食事を開始した。
少し辛めのきんぴらは、ご飯によく合う。味噌汁も薄すぎず濃すぎず、いい塩梅だった。
(今日もいい腕してるね、マレーちゃん)
私はとぼけた顔のぬいぐるみを見つめながら、そんな事を思った。
褒められているときのマレーちゃんは、不思議と得意げな顔に見えた。
キッチン・マレー 布施鉱平 @husekouhei
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