ドクター喜和子のショック療法~就活生・三島大地の場合~

木谷日向子

一次面接のお知らせ

 5月の新緑に包まれた大学の中をふらふらと覚束ない足取りで歩いている青年がいた。

目の周りには薄墨のような隈が広がり、瞳は血走って虚ろである。彼の横を通り過ぎる女子大生の組みがちらちらと訝し気な視線を送っている。

 三島大地(みしまだいち)・21歳は文学部の哲学科に所属する4年生である。

ラフな私服の大学生の中を、ぴりっとした黒いスーツで歩いている彼は、現在就職活動真っ只中だ。

しかし決まらない。内定が出ない。

4月から解禁された就職活動で、エントリーシートだけで10社以上出したが、そのほとんどの企業から返ってきた返答は「貴殿のご活躍をお祈り申し上げます。」という内容だった。

(クソ腹が立つ……。何がお祈り申し上げますだ! 新興宗教じゃあるめえし、1回も会ったことのねえお前ら企業様にオレの将来祈られてたまるかってんだよ!)

 大地は未だ面接までこぎつけていないというのに、わざといつもリクルートスーツで過ごしている。

それは周りで次々と内定を決めて浮き足だって遊んでいる他の大学生に対し、圧をかける目的もあった。

 ぱんっ、とその場で足を踏み鳴らすと、大地の近くにいた数人の学生が、彼と目を合わせないようにすっと視線を逸らし、距離を自然に置いた。

 イライラして頭を掻きむしると、風呂に入る余裕すら最近無くなっていた大地の頭皮からフケが舞い飛ぶ。

さながら粉雪か桜吹雪のようで、彼の今後を応援しているようにも見えた。

 そんな彼にもようやく春が来た。

スマホに映ったメールの画面を見ながら、一時間以上前から大学の食堂に座ってニヤニヤしている。

 別に何も料理を注文もしていないというのに、足を蟹のように広げ、迷惑極まりないが、自分の世界にいる彼には周囲のことなど気付かない。

「何にやけてんだよ。エロサイトでも見てんの?」

 はっと肩を叩かれたように顔を上げると、口の両端をにやりと釣り上げた同級生の梶田拡(かじたひろむ)であった。

 大地の隣の席に座ろうとする。

「うるせえ。早々と大手不動産に内定が決まってる経済学部の梶田様に、一社でも一次面接のお知らせメールが来たこのオレの喜びが理解できるか」

 不機嫌な顔で梶田を睨む大地であったが、対して梶田は目を見開き、喜びの笑顔を返しながら大地の肩に手を置いた。

「えっ、お前やったじゃん! いつもESで落とされるってすげえ落ち込んでたもんな! 良かったじゃん! 頑張れよ! 何ならオレが面接練習の相手してやるからさ!」

 ぽかんと口を開けて不敵な視線を送る大地に対し、晴れやかな満面の笑顔で大地の背をばしっと叩いた。

「いてえよ!!」

 思ったより勢いがつき、衝撃で少し前のめりになる。大地の瞳の端に涙が浮かび、怒り顔を返す。

「あ、わりいわりい」

 笑いながら頭を掻きお茶目な雰囲気を醸し出すこの友人・梶田と学部もサークルも違うというのに、何故か1年の時から腐れ縁が続いている。

 大地は間抜け面でぼんやりとこの男との馴れ初めを思い出した。


「あ、すみません。隣いいですか?」

 ガラス窓から差す陽の光で、大教室の埃が淡く光り輝いている。

腕を組んで枕替わりにし、

(さあ今日の講義も寝てやろう。どうせつまんねえしな)

 と思って眠りの準備に入っていた大地の頭上に降ってきたのは爽やかな声であった。

 顔を上げると、声と同様に自分の隣に座るとは似合わないほどの精悍な顔立ちの茶髪の筋肉質な爽やかな微笑みがあった。

「別にいいっすけど……」

 くぐもった声で好青年――梶田に返す。

「ありがと!」

 目をぎゅっと閉じ、ぱっと満面の笑顔になる。

(こんなクズ学生のオレに何でこんな笑顔返してくれんの。この人……)

 肩に下げていた黒のスポーツバッグを机に置き、大地の隣に座ると梶田は自分を親指で差した。

「オレ、経済学部でテニサーの梶田拡ってんだ。この授業、経済学部の生徒は受けなくていいんだけど、前から先生の本読んで一回講義聞いてみたいなと思ってて。文学部の生徒さん、うちのサークルにもいないから知り合いいなくてさ。良かったらライン交換しない?」

 了承も得ていないのにジーンズからスマホを取り出し、バーコード読み取りの画面を大地の前に出す。

 必須科目ではないのに潜り込みで授業を受けるなんて、意識高い系かよ。しかもテニサーってチャラサーじゃねえか。オレなんか思想史研究会っていう地味で暗い男だけのサークルなのに、と心の中で突っ込む。

単位目的で授業に出席している自分とはえらい違いだなと感じながら、「三島大地です」とぼそぼそ呟き、ズボンからスマホを取り出した。

 真剣な顔で熱心にノートに先生の講義を写す梶田の隣で、やはり涎を垂らしながらぐっすりと眠っていた大地は、その日の夕方に梶田に食事に誘われた。

 それが梶田との出会いであった。

それから、正反対のこの2人は学部もサークルも違うというのに、何故か校内でばったり出会うことが多くなり、その度梶田に笑顔で食事に誘われ、不機嫌な顔だがまんざらでもなさそうに付き合う大地という図が出来上がって今に至っている。

「じゃあ頑張ってこいよ。お前なら出来る」

「松岡修造かよ! 言われんでもちゃちゃっと終わらせますわ」

 腰を落とし、ガッツポーズを向けて激励する梶田に、踵を返し、背を向けると腕をひらりと振った。

 夕陽が赤く校舎を染め、それによって出来た影がいつもより黒さを増している。

 ポケットに手を突っ込むと、はあとため息をつき、目を閉じる。

そして先ほどより真剣な顔で唇を引き結ぶと、顔を上げ、前方を見つめた。

(頑張らねえとな。オレも)

 少し腰を屈めているが、確かな足取りで大地は校外に向かって歩き出す。

 夕陽は大地の背を金色に照らし、彼の行方を応援しているかのようであった。


『貴殿のご活躍を祈念いたします。』

 メールを開いてその見慣れた文字を目にした瞬間、自室の机の前に座っていた大地はだらんと腕を落とし、スマホを床に落とした。

 暗い部屋でスマホの灯りだけが部屋を照らしている。

天井を見上げると、徐々に視界がぼやけてきた。

「あぁっ……! あぁっ……!!」

 みるみる眦から涙が溢れ、頬を濡らす。

 一瞬視界が薄墨から真っ白に染まったかと思うと、気付いた時には椅子から立ち上がり、机の上に置かれた履歴書を全てびりびりに破いて、肩で息をしていた。

 大地が部屋から一歩も外に出れなくなったのはそれからであった。

窓を開けることも叶わなくなった。

窓を開けて、視界に楽し気に笑いながら歩いている人を見るだけで吐き気を催すようになった。

部屋のドアから一歩でも外に出ようとすると、かたかたと震えだし、その場で膝をつき、蹲ってしまう。

 大地は長野県から東京に大学進学の為に上京してきたので一人暮らしであった。

 冷蔵庫の食糧も底をつきそうだと言うのに、買い出しにも行けない。残っているのは飲みかけの牛乳だけとなっている。

「へへ……こんなことになるなら彼女でも作っとけばよかったのかな……」

 皮肉な笑みを隈だらけの顔に浮かべる。

 そんなことを考えている間にも、自分の未来が見えなくなり、未来のことを考えると不安で震えが止まらなくなる。

 布団に横たわり、腕を広げると虚ろな眼で前方を見つめる。

そして乾いた唇で、ぽつりと呟いた。

「オレ、このまま死んじまうのかな……」

 暗い部屋で、ただ埃だけがカーテンの隙間から漏れ出る光に輝いて舞っていた。


『三島、元気してるか。今まで無意味にばったり校内で会ってたオレ達だけど、最近全然そういう偶然ねえよな。今度メシでも行かねえ?』

 梶田からのラインに気付いたのは、梶田がメッセージを送った2日後の昼であった。

 既に絶食生活が続いて2日経っていた。

元々細かったが、自分でも更に細くなったと感じる指先でメッセージをゆっくりと打つ。

『悪い。今そういう気分になれない』

 それだけ打ち終わると、肩にかけていた布団を頭まで被り、体をぎゅっと抱きしめて震えながら蹲る。

 今の精神状態はおかしい。自分でもそう気づいていた。

だが、どうやって今の不安定な状態から抜け出せるのか。元の自分に戻れるのかがわからない。

 固く目を閉じ、睫毛を震わせていると、ブー、ブーという音が布団の外から聞こえた。

布団を軽く上げ、隙間から目だけ覗かせる。

 鳴っていたのは先ほど床に投げ捨てた大地のスマホだった。

 布団から四つん這いで這い出て、無造作に置かれたスマホをゆっくりと持ち上げて画面を見る。

梶田からであった。

 震える右手で耳にスマホを当てる。

「なに……」

「お前さ。どうしたんだよ」

「別に」

「エリカ様かよ。なんか声もいつもと違って暗いじゃん。まあいつも暗いんだけどさ。更に暗いとより女にモテねえぞ。男は明るくてなんぼ」

「うるせえ」

「はは。その調子だよ。いつものお前に戻ったか?」

「何の用だ」

 一拍置き、梶田の吐息が聞こえる。何か言うのを躊躇っているようだ。言って良いのか迷っているような。

 息を吸う音と同時に梶田が先ほどの軽い調子と変わって真剣な声音で告げた。

「お前さ……。就活うつってやつじゃね?」

「……は……?」

「いや。ごめん。なんか言葉にして『うつ』って決めつけて言うような発言に若干抵抗があったからさ。言って良いのか躊躇ってたんだけど」

「お前に何がわかるんだよ」

「いや、何か悩んでたのにちゃんと聞いてやれなくて……ごめんな……」

 尻すぼみに謝る梶田のその言葉を聞いた瞬間、はっと目を見開き、ついで両目から涙が溢れた。

自分でも何故泣いているのかわからないが、片手で口を押え、くぐもった嗚咽を漏らす。

「三島……、大丈夫か?」

 スマホ越しから梶田の心配した声が聞こえてきたが、その声を聞くと余計に涙が後から後から頬を伝う。

 薄暗い部屋でグレーのパジャマ姿の大地は一人で泣き続けた。

二十歳を超えてから初めて泣いたように思えた。

 大地を心配した梶田は、翌日・演習を放棄して大地の家を訪ねた。

暗い顔でドアを開けると、白い歯をにやりと見せながら満面の笑顔でコンビニのビニール袋を掲げた梶田は顔を覗かせた。

 その姿を見て、何故だかほっと安心して、胸に溜まっていた澱のような息をふっと吐いた。

 コンビニから買ってきたというおでんを折りたたみ式の小さい丸テーブルの上に広げながら、一緒に食おうぜと梶田は言った。

 無言で梶田の前に正座し、おでんに焦点を合わせず太ももに手を置いたまま押し黙る大地を気に留めないように、梶田は胡坐をかき自分用に用意した更に乗せたおでんをもりもりと食べる。

「あ、このはんぺん美味え。でもこんにゃくはセブンの方が上かな~」

 軽い口調で笑顔で箸を動かしながら自分に告げる梶田に目を向ける。

すると、急にぐ~と腹が鳴った。

「お、三島選手も腹減ってきましたか」

「うるせえ」

 数字ぶりに感じる空腹であった。

今まで、空腹感よりもただ虚無感と不安感だけが身を覆っていたように感じていたので、空腹感を感じている暇がなかったのかと思う。

 空腹を感じると、急に目の前のおでんの匂いが鼻に迫る。

湯気を立て、香ばしい匂いを発している温かいおでんに視線を向けると、口の中の唾液の量が増え、ごくりと唾を飲みこんだ。

 たまらず箸を握りしめると、素早く皿に手を伸ばし、自分の顔に近付けた。

おでんを綺麗に平らげてしまった。自分でもどこにこんな食欲が残されていたのかと思うほど早いペースで、汁まで飲み干した。

「お~。いい食べっぷりですなあ」

 茶化すように笑い、手を叩いた後ですっと真面目な顔になり、口元だけで梶田は微笑む。

「元気出てきたじゃん。やっぱおでんにしてよかったよ」

 両手を、組んだ足の付け根に置き、白い歯を見せる。

 その梶田の曇りのない表情を茫然と見ていた。

「梶田……」

 梶田は、背を屈ませ前屈みになると、ぐっと大地に顔を近づける。

口をぽかんと開け、驚く大地の瞳を真剣に見つめ、こう言った。

「なあ三島。高田馬場の狭い路地裏に、精神科医の名医がいる。そこに行け。そんで、完全に治してもらえ」

 かたんと箸が床に落ちた。


 梶田が教えてくれた精神科は、高田馬場の細い路地の一角にあった。

昼なのに挟まれたビルのせいで陽の光が当たらず、薄暗いその病院は、精神科だというのに、さらに精神病が悪化しそうな、錆びた佇まいであった。

(……こんなとこ、本当に大丈夫なのかよ……)

 病院の前まで来て大地は不安になり、錆びのついた銅製のドアノブを開くのを躊躇ってしまう。

 胸に手を置き、目を閉じた。親友の満面の笑顔を思い浮かべる。

 ふう、と少し開いた口から息を吐き出し、一瞬ドアを真剣な顔で見つめる。

 唇を噛みしめ、意を決して中に入った。


 待合室では2,3人の患者が上質なソファに座って、受付から名を呼ばれるのを待っている。

 セピア色の明かりが灯り、患者の頬を温めるように染めている。

 ちらちらと不安げに他の患者や、静かに受付で書類を見ている若い女性事務員たちを見ながら、大地も深緑色のソファに座った。


 先に来ていた他の患者が全員呼ばれては、数十分経ち、晴れやかな顔で診察室から待合室に戻って勘定を済ませて去って行く。

 その様子がまるで危ない薬を決めたかのような違和感があり、大地は瞠目しながら冷や汗をかいていた。

(何だここ……、皆ソープ帰りの「男になってきました!」みてえな晴れやかな顔で出てくるんだけど……やばいとこなんじゃ!?)

「三島大地さん、診察室へどうぞ」

 受付の女性がにこやかに大地に声をかけ、思考が中断される。

「は、はい!」

 しゅっと立ち上がり、大きく返事をしてしまった。

就活の面接練習のし過ぎで、名前を呼ばれると自然とそう反応してしまう体になってしまった事を思い知らされ、大地は絶望する。

(ま、まじかよ俺の体……)

 なんだかすべてがどうでもよくなった。

 どうせ診察しても何も良くはならないだろう、早く終わらせよう、と青白い顔で診察室に前屈みになり、よろよろと向かった。


 無機質に白い診察室のドアを、無気力に開けて入室する。俯いたまま、目の前に置かれていた丸椅子に腰かける。

「三島大地さんね。今日はよろしく」

 大地のつむじに玲瓏な声がぽつ、と一つの雫のように落ちる。

「私は当院の精神科医・桐谷喜和子(きりたにきわこ)だ」

 ぼうっと口を開けたまま顔を上げると、大輪の薔薇のような美貌の女性がそこにはいた。

「へ」

 想像していた精神科医の生真面目な姿とまるで違っていたので、驚きから間抜けな声を漏らす。

 ウェーブがかった長い髪を明るい茶髪に染め、うなじで一つに緩く纏めている。

 肌は健康的なイエローベースの肌色で、ぷっくりと厚い唇にオレンジがかった赤い紅を差しており、彼女の艶を増している。

 眸(ひとみ)はアーモンド形で、きりっと端が吊り上がった目元がクールな印象を美に変え示している。

 若い、明らかに若い。20代半ばであろうか。

「何見てる。どうしたというのだ」

「え」

 喜和子に指摘され、彼女のことをぽかんと見つめていたことに気付き、羞恥に包まれる。

 さっと頬に朱が差す。

 目の前でしどろもどろになっている青年のことを気にも留めない様子で、本題に入ろうと喜和子は冷静に問う。

「今日はどうされました?」

「あっ、えっと……」

 現在の自分の状況を説明しようとするのが、こんなにも難しいものなのか。いざ語ろうとしても上手く言葉が出てこない。

 大地は一度深く息を吸い、吐き出すのと同時に状況を語った。


「なるほどね……」

 大地の話を聞き終わると、喜和子は目線を横に逸らして、逡巡する様子を見せた。

 話を聞いている間の喜和子はずっと凪の状態で、瞬き一つせずにじっと大地を見つめていた。眸の奥を覗き込まれているかのようであった。

 まじまじと女性に見つめられたことが無かった大地は、焦りから額に汗を浮かせながら、それでも懸命に状況を伝えた。

 そして説明していくごとに体が追体験をしているかのように毛穴から冷たい汗が噴き出てくる。

 思考は淀み、自己嫌悪が心を襲う。口は止まらず、勝手にそのまま潤滑油のように喋り始めていた。何も考えず、胸の澱がそのまま唇から出て行くようだった。

「先生、俺、死んだ方がいいんじゃねえかって思うんですよ。この先就職しても、就職できなくても、不幸になる未来しか見えないんです。就職したらしたで、上司にへいこらして、出世気にして張り合って、営業成績悪けりゃ怒鳴られる。毎日同じことを繰り返して、それで一生が終わっていく。就職できなかったらフリーターんなってバイトで稼いで生きていくしかない。やっすい給金でその日暮らしだ。社会的には底辺として扱われる。先生、人間は何のために生まれてくるんでしょうね。俺、この社会の悪循環止めてやろうと思ってるんです」

 話す度に酷薄な笑みになっていく。声も乾いていく。

「だって、俺が死ねば社会の悪循環が枝が一つ折れるじゃないですか。だったら俺死んでやろうと思います。ねぇ先生?」

 最後は自分でも自分が何を言っているのかわからなくなっていた。ただ自分の心の闇から生まれた悪魔が口を乗っ取って、己に喋らせているような感覚であった。

 喜和子は冷静な眸で黙って腕と足を組みながら、つまらない映画を見ている観客のような態度で大地の話を聞いていた。その様子が、大地の中の悪魔を更に過激にさせ、眉間に邪悪な皺を刻ませる。

気付けば大地の肩は小刻みに震えていた。

「……」

 若い患者の様子を見ていた喜和子は、ふっと眸の色を消し、唐突に立ち上がった。

 喜和子の予想外の行動に、大地はびくっと体を震わせる。

「な、なん……」

 喜和子は大地など自分の前にはいないかのように、純白のドクターコートのポケットに両手を突っ込み、背を向けると、診察室の奥へと消えていった。

 先ほどまでの険しい眉間が消え、ぽかんとした顔で喜和子が消えていった方向を眺めている。

(どういうことだよ。え!? 俺診察室に一人で取り残されたままなの!? 胡散臭そうな匂い漂わせてたけど、どんな精神科医だよ!!)

 すると、何やら奥から女性同士が会話する声が聞こえてくる。ナースに何かを持ってくるよう指示を出し、ナースは半ば駆けていくようにどこかへ消え、そしてまた戻ってくる足音がする。

「何が始まるんだ……」

 訳が分からず鼓動が高まる。まさかうつ病で精神科医に来て、ジェットコースターに乗る前のような緊張感を味わうことになるとは思わなかった。

 コツコツ、と喜和子がヒールを鳴らしてこちらに戻ってくる足音が聞こえる。

 体を固くしていた大地の前に現れたその姿に、顎を極限まで落とし、瞠目した。

 喜和子の右手にはリボルバー式の銃が握られていたのだ。

「なっ……! なっ……!!」

 感情を宿さない冷たい眸で大地を認めると、彼女はゆっくりと右手を平行に上げ、

彼の額に狙いを定めた。 「うわああああ!!」

 一拍置いて、事態を把握すると、大地は音を立てて立ち上がった。勢いに任せて立った為、座っていた丸椅子がガシャンと床に倒れる。だが、それすらも視界に入らない程、目の前の丸く黒い銃口しか目に入らない。

 銃口自体は小さいはずなのに、大地にはそれが宇宙のブラックホールのように大きく見えていた。

「な、な、な、な!!」

 動揺して声が言葉にならない。

 胸の前で所在なさげに翳した手がざわざわと震える。

 喜和子はそんな大地の様子など意に介さないかのように、唇を一文字に引き結んだまま、微動だにせず銃を突き付けている。

 逆光となって彼女の顔には暗い影が落ちているが、眸に一筋白い光が差し込んでおり、それが鋭さを増していた。

 まるで狼が獲物に狙いを定めたかのような眼光。

 大地は恐怖で歯がかたかたと鳴った。

 緊迫した空気が続き、このまま訳も分からず撃ち殺されてしまうのかと思った矢先、閉じていた喜和子の艶のある唇がすっと開いて、玲瓏な、冷たい声を漏らした。

「おい、先ほど死にたいと言ったな」

「……へ?」

「本当に死にたいんだな」

「ぁっ……」

「お前が望んだのだから、私は担当医としてお前を殺してやる」

 表情を一歩も動かさず、そう告げられる。まるで死に神のように。

 大地は口を大きく開けたままであった。そしてその開いたままの口から涎が床に落ち、逆光に白く光って硬質な床に落ちる。

 その瞬間、大地の脳に意識が戻った。

「……死にたくねえ」

「嘘だ。さっき死にたいと言っていたくせに」

「死にたく……ありません……」

 声が震え、俯く。

「無理をするな」

 大地の返答も気にせず、喜和子はただ淡々と言葉を返していく。

「まだ、やり残したことがあるから……」

「ほう? それは何だ?」喜和子は眉を上に動かした。

「……こち亀と、BLEACHの最終回は見届けたけど、ワンピースとコナンの最終回をまだ見届けていません……」

「……それだけか?」

 大地は唇を舐め、続けた。

「この前電車の中で、イケてない男女のカップルが前の席に隣り合って座ってて、男が女の耳元でボイパするっていうネオ前戯見せつけられました……。オレなんて女の子と付き合ったことないのに……。オレは童貞です。どうせなら、アンタみたいな綺麗な女抱いてから死にたい」

「ふっ」

 喜和子は静かに聞いていたが、その言葉を聞いて、堪え切れず薄い笑いを零した。

 その笑いを聴いて、徐々に大地に怒りの意識が芽生えてきた。

「そうだ。オレはこれからも生き続けるんだ。こんなところでアンタなんかに殺されてたまるか。そうだ、たまるかってんだ!!」

 吠えるように叫ぶ。唾が飛ぶほどの咆哮。

 大地の脳裏には、走馬灯のように今までの人生の思い出が駆け巡っていた。どれも美しいとは言えない。汚い、忘れたい思い出も沢山ある。だが、その中で一際光を放っているのは。

――自分を心配して訪ねてくれた、親友の笑顔――

 喜和子は凪の表情で聞いていたが、糸が切れたように瞳を閉じ、薄ら笑いを唇に浮かべたままゆっくりと銃を下ろす。

それに気づき、はっと大地は顔を上げた。

「先生」

「三島くん。よく言えたね。自分の体を見てみなさい」

「えっ?」

 大地は言われるがままおずおずと自分の体の表面を撫でてみた。肩から胸、腕、手首。あることに気付く。

「震え……止まってる」

 憑き物が落ちたかのように、体が楽になっていた。そして体の毛穴という毛穴から大量に汗をかいたことによって、爽やかな心地になっている。

 喜和子はふい、と横を向いた。逆光が彼女の睫毛にあたり、切っ先が白く光っている。

「一種のショック療法だ。まあ、こんな療法私しか編み出していないし、使用していないがな」

「先生……」

 喜和子は大地の方を振り向くと、にやりと笑った。

「三島くん。極限状態を乗り越えた君はもう大丈夫だよ」

 大地に近付き、右手でぽん、と肩を叩く。近くに寄ったせいか、彼女の体から静謐な香りが感じられ、思わずドキっとした。白く滑らかな手は自分の肩に優しく添えられ、眸の奥まで見透かされているようだ。

その反動で、大地はすっ、と背筋を伸ばした。

 彼の眸にはもう、虚空は無かった。



「うわああああ!!」

 一拍置いて、事態を把握すると、大地は音を立てて立ち上がった。勢いに任せて立った為、座っていた丸椅子がガシャンと床に倒れる。だが、それすらも視界に入らない程、目の前の丸く黒い銃口しか目に入らない。

 銃口自体は小さいはずなのに、大地にはそれが宇宙のブラックホールのように大きく見えていた。

「な、な、な、な!!」

 動揺して声が言葉にならない。

 胸の前で所在なさげに翳した手がざわざわと震える。

 喜和子はそんな大地の様子など意に介さないかのように、唇を一文字に引き結んだまま、微動だにせず銃を突き付けている。

 逆光となって彼女の顔には暗い影が落ちているが、眸に一筋白い光が差し込んでおり、それが鋭さを増していた。

 まるで狼が獲物に狙いを定めたかのような眼光。

 大地は恐怖で歯がかたかたと鳴った。

 緊迫した空気が続き、このまま訳も分からず撃ち殺されてしまうのかと思った矢先、閉じていた喜和子の艶のある唇がすっと開いて、玲瓏な、冷たい声を漏らした。

「おい、先ほど死にたいと言ったな」

「……へ?」

「本当に死にたいんだな」

「ぁっ……」

「お前が望んだのだから、私は担当医としてお前を殺してやる」

 表情を一歩も動かさず、そう告げられる。まるで死に神のように。

 大地は口を大きく開けたままであった。そしてその開いたままの口から涎が床に落ち、逆光に白く光って硬質な床に落ちる。

 その瞬間、大地の脳に意識が戻った。

「……死にたくねえ」

「嘘だ。さっき死にたいと言っていたくせに」

「死にたく……ありません……」

 声が震え、俯く。

「無理をするな」

 大地の返答も気にせず、喜和子はただ淡々と言葉を返していく。

「まだ、やり残したことがあるから……」

「ほう? それは何だ?」喜和子は眉を上に動かした。

「……こち亀と、BLEACHの最終回は見届けたけど、ワンピースとコナンの最終回をまだ見届けていません……」

「……それだけか?」

 大地は唇を舐め、続けた。

「この前電車の中で、イケてない男女のカップルが前の席に隣り合って座ってて、男が女の耳元でボイパするっていうネオ前戯見せつけられました……。オレなんて女の子と付き合ったことないのに……。オレは童貞です。どうせなら、アンタみたいな綺麗な女抱いてから死にたい」

「ふっ」

 喜和子は静かに聞いていたが、その言葉を聞いて、堪え切れず薄い笑いを零した。

 その笑いを聴いて、徐々に大地に怒りの意識が芽生えてきた。

「そうだ。オレはこれからも生き続けるんだ。こんなところでアンタなんかに殺されてたまるか。そうだ、たまるかってんだ!!」

 吠えるように叫ぶ。唾が飛ぶほどの咆哮。

 大地の脳裏には、走馬灯のように今までの人生の思い出が駆け巡っていた。どれも美しいとは言えない。汚い、忘れたい思い出も沢山ある。だが、その中で一際光を放っているのは。

――自分を心配して訪ねてくれた、親友の笑顔――

 喜和子は凪の表情で聞いていたが、糸が切れたように瞳を閉じ、薄ら笑いを唇に浮かべたままゆっくりと銃を下ろす。

それに気づき、はっと大地は顔を上げた。

「先生」

「三島くん。よく言えたね。自分の体を見てみなさい」

「えっ?」

 大地は言われるがままおずおずと自分の体の表面を撫でてみた。肩から胸、腕、手首。あることに気付く。

「震え……止まってる」

 憑き物が落ちたかのように、体が楽になっていた。そして体の毛穴という毛穴から大量に汗をかいたことによって、爽やかな心地になっている。

 喜和子はふい、と横を向いた。逆光が彼女の睫毛にあたり、切っ先が白く光っている。

「一種のショック療法だ。まあ、こんな療法私しか編み出していないし、使用していないがな」

「先生……」

 喜和子は大地の方を振り向くと、にやりと笑った。

「三島くん。極限状態を乗り越えた君はもう大丈夫だよ」

 大地に近付き、右手でぽん、と肩を叩く。近くに寄ったせいか、彼女の体から静謐な香りが感じられ、思わずドキっとした。白く滑らかな手は自分の肩に優しく添えられ、眸の奥まで見透かされているようだ。

その反動で、大地はすっ、と背筋を伸ばした。

 彼の眸にはもう、虚空は無かった。


 「うわああああ!!」

 一拍置いて、事態を把握すると、大地は音を立てて立ち上がった。勢いに任せて立った為、座っていた丸椅子がガシャンと床に倒れる。だが、それすらも視界に入らない程、目の前の丸く黒い銃口しか目に入らない。

 銃口自体は小さいはずなのに、大地にはそれが宇宙のブラックホールのように大きく見えていた。

「な、な、な、な!!」

 動揺して声が言葉にならない。

 胸の前で所在なさげに翳した手がざわざわと震える。

 喜和子はそんな大地の様子など意に介さないかのように、唇を一文字に引き結んだまま、微動だにせず銃を突き付けている。

 逆光となって彼女の顔には暗い影が落ちているが、眸に一筋白い光が差し込んでおり、それが鋭さを増していた。

 まるで狼が獲物に狙いを定めたかのような眼光。

 大地は恐怖で歯がかたかたと鳴った。

 緊迫した空気が続き、このまま訳も分からず撃ち殺されてしまうのかと思った矢先、閉じていた喜和子の艶のある唇がすっと開いて、玲瓏な、冷たい声を漏らした。

「おい、先ほど死にたいと言ったな」

「……へ?」

「本当に死にたいんだな」

「ぁっ……」

「お前が望んだのだから、私は担当医としてお前を殺してやる」

 表情を一歩も動かさず、そう告げられる。まるで死に神のように。

 大地は口を大きく開けたままであった。そしてその開いたままの口から涎が床に落ち、逆光に白く光って硬質な床に落ちる。

 その瞬間、大地の脳に意識が戻った。

「……死にたくねえ」

「嘘だ。さっき死にたいと言っていたくせに」

「死にたく……ありません……」

 声が震え、俯く。

「無理をするな」

 大地の返答も気にせず、喜和子はただ淡々と言葉を返していく。

「まだ、やり残したことがあるから……」

「ほう? それは何だ?」喜和子は眉を上に動かした。

「……こち亀と、BLEACHの最終回は見届けたけど、ワンピースとコナンの最終回をまだ見届けていません……」

「……それだけか?」

 大地は唇を舐め、続けた。

「この前電車の中で、イケてない男女のカップルが前の席に隣り合って座ってて、男が女の耳元でボイパするっていうネオ前戯見せつけられました……。オレなんて女の子と付き合ったことないのに……。オレは童貞です。どうせなら、アンタみたいな綺麗な女抱いてから死にたい」

「ふっ」

 喜和子は静かに聞いていたが、その言葉を聞いて、堪え切れず薄い笑いを零した。

 その笑いを聴いて、徐々に大地に怒りの意識が芽生えてきた。

「そうだ。オレはこれからも生き続けるんだ。こんなところでアンタなんかに殺されてたまるか。そうだ、たまるかってんだ!!」

 吠えるように叫ぶ。唾が飛ぶほどの咆哮。

 大地の脳裏には、走馬灯のように今までの人生の思い出が駆け巡っていた。どれも美しいとは言えない。汚い、忘れたい思い出も沢山ある。だが、その中で一際光を放っているのは。

――自分を心配して訪ねてくれた、親友の笑顔――

 喜和子は凪の表情で聞いていたが、糸が切れたように瞳を閉じ、薄ら笑いを唇に浮かべたままゆっくりと銃を下ろす。

それに気づき、はっと大地は顔を上げた。

「先生」

「三島くん。よく言えたね。自分の体を見てみなさい」

「えっ?」

 大地は言われるがままおずおずと自分の体の表面を撫でてみた。肩から胸、腕、手首。あることに気付く。

「震え……止まってる」

 憑き物が落ちたかのように、体が楽になっていた。そして体の毛穴という毛穴から大量に汗をかいたことによって、爽やかな心地になっている。

 喜和子はふい、と横を向いた。逆光が彼女の睫毛にあたり、切っ先が白く光っている。

「一種のショック療法だ。まあ、こんな療法私しか編み出していないし、使用していないがな」

「先生……」

 喜和子は大地の方を振り向くと、にやりと笑った。

「三島くん。極限状態を乗り越えた君はもう大丈夫だよ」

 大地に近付き、右手でぽん、と肩を叩く。近くに寄ったせいか、彼女の体から静謐な香りが感じられ、思わずドキっとした。白く滑らかな手は自分の肩に優しく添えられ、眸の奥まで見透かされているようだ。

その反動で、大地はすっ、と背筋を伸ばした。

 彼の眸にはもう、虚空は無かった。


 「うわああああ!!」

 一拍置いて、事態を把握すると、大地は音を立てて立ち上がった。勢いに任せて立った為、座っていた丸椅子がガシャンと床に倒れる。だが、それすらも視界に入らない程、目の前の丸く黒い銃口しか目に入らない。

 銃口自体は小さいはずなのに、大地にはそれが宇宙のブラックホールのように大きく見えていた。

「な、な、な、な!!」

 動揺して声が言葉にならない。

 胸の前で所在なさげに翳した手がざわざわと震える。

 喜和子はそんな大地の様子など意に介さないかのように、唇を一文字に引き結んだまま、微動だにせず銃を突き付けている。

 逆光となって彼女の顔には暗い影が落ちているが、眸に一筋白い光が差し込んでおり、それが鋭さを増していた。

 まるで狼が獲物に狙いを定めたかのような眼光。

 大地は恐怖で歯がかたかたと鳴った。

 緊迫した空気が続き、このまま訳も分からず撃ち殺されてしまうのかと思った矢先、閉じていた喜和子の艶のある唇がすっと開いて、玲瓏な、冷たい声を漏らした。

「おい、先ほど死にたいと言ったな」

「……へ?」

「本当に死にたいんだな」

「ぁっ……」

「お前が望んだのだから、私は担当医としてお前を殺してやる」

 表情を一歩も動かさず、そう告げられる。まるで死に神のように。

 大地は口を大きく開けたままであった。そしてその開いたままの口から涎が床に落ち、逆光に白く光って硬質な床に落ちる。

 その瞬間、大地の脳に意識が戻った。

「……死にたくねえ」

「嘘だ。さっき死にたいと言っていたくせに」

「死にたく……ありません……」

 声が震え、俯く。

「無理をするな」

 大地の返答も気にせず、喜和子はただ淡々と言葉を返していく。

「まだ、やり残したことがあるから……」

「ほう? それは何だ?」喜和子は眉を上に動かした。

「……こち亀と、BLEACHの最終回は見届けたけど、ワンピースとコナンの最終回をまだ見届けていません……」

「……それだけか?」

 大地は唇を舐め、続けた。

「この前電車の中で、イケてない男女のカップルが前の席に隣り合って座ってて、男が女の耳元でボイパするっていうネオ前戯見せつけられました……。オレなんて女の子と付き合ったことないのに……。オレは童貞です。どうせなら、アンタみたいな綺麗な女抱いてから死にたい」

「ふっ」

 喜和子は静かに聞いていたが、その言葉を聞いて、堪え切れず薄い笑いを零した。

 その笑いを聴いて、徐々に大地に怒りの意識が芽生えてきた。

「そうだ。オレはこれからも生き続けるんだ。こんなところでアンタなんかに殺されてたまるか。そうだ、たまるかってんだ!!」

 吠えるように叫ぶ。唾が飛ぶほどの咆哮。

 大地の脳裏には、走馬灯のように今までの人生の思い出が駆け巡っていた。どれも美しいとは言えない。汚い、忘れたい思い出も沢山ある。だが、その中で一際光を放っているのは。

――自分を心配して訪ねてくれた、親友の笑顔――

 喜和子は凪の表情で聞いていたが、糸が切れたように瞳を閉じ、薄ら笑いを唇に浮かべたままゆっくりと銃を下ろす。

それに気づき、はっと大地は顔を上げた。

「先生」

「三島くん。よく言えたね。自分の体を見てみなさい」

「えっ?」

 大地は言われるがままおずおずと自分の体の表面を撫でてみた。肩から胸、腕、手首。あることに気付く。

「震え……止まってる」

 憑き物が落ちたかのように、体が楽になっていた。そして体の毛穴という毛穴から大量に汗をかいたことによって、爽やかな心地になっている。

 喜和子はふい、と横を向いた。逆光が彼女の睫毛にあたり、切っ先が白く光っている。

「一種のショック療法だ。まあ、こんな療法私しか編み出していないし、使用していないがな」

「先生……」

 喜和子は大地の方を振り向くと、にやりと笑った。

「三島くん。極限状態を乗り越えた君はもう大丈夫だよ」

 大地に近付き、右手でぽん、と肩を叩く。近くに寄ったせいか、彼女の体から静謐な香りが感じられ、思わずドキっとした。白く滑らかな手は自分の肩に優しく添えられ、眸の奥まで見透かされているようだ。

 その反動で、大地はすっ、と背筋を伸ばした。

 その瞳にもう虚空は無かった。


「どうだった? 桐谷先生の診察?」

 顔をこちらに近付け、迫る梶田の両肩を押し、無理やり引き離すと、彼はびっくりした顔で大地を見つめた。そしてへらっと口元を歪ませ、爽やかな笑顔になる。

「何だよ。元気でたみたいじゃん。三島選手」

「うるせえ」

「桐谷効果、やっぱあったみてえだな」

「……」

 2人が他愛ない会話をしているのは、大学の桜の木の下である。

 今は春の季節は過ぎ、深緑の葉が木々を覆っている。葉が擦れ合う静かな音をただ黙って聞いていた。

 その表情は憑き物が落ちたかのように落ち着いており、穏やかである。

 天を覆う木々を顔を上げて微笑みながら見つめている大地の顔を見て、梶田も柔らかい微笑みを浮かべた。

 心地いい沈黙を破ったのは、大地の方からだった。

「やっぱお前の言うこと聞いといてよかったわ。……口で言えないレベルの荒療治だったけど、喜和子先生のおかげで、就活鬱から脱却出来たような気がするわ」

「良かったじゃん。やっぱ梶田様の言う通りだったろ?」

 満面の笑顔で梶田は大地の背をばしっと叩いた。

「いてっ」

「へへっ」

 2人で笑い合い、笑いが収まると梶田はすっと真顔になった。

「……なぁ三島。お前、しばらく就活休んでいいと思うんだ」

「えっ?」唐突な提案に瞠目する。

「焦ることないよ。卒業してから決まった先輩だっていっぱいいるしさ。それに、内定出たからゴールって訳じゃねえし。内定出て、働いて、その先のことを皆忘れてる。内定っていう目先のメダルだけに捕らわれて、働くってことがどういうことかわかってないんだ」

「梶田……」

 薄氷の真顔から、ぱっと明るい笑顔になって大地を見る。

「だからさ。しばらくオレと2人で旅行でもしようぜ」

「お前……」

「どこかいい? お前寒いとこと熱いとこどっちが好きだっけ? 北海道は広くてチーズ・牛乳、ラーメン、スープカレーがマジで美味い。ジンギスカンも食いてえな。

あー沖縄も捨てがたいね。サーターアンダギーのノスタルジックな甘さは癖になる。紫芋、ソーキそば、パイナップル……やべっ、想像しただけで涎垂れてきた」

 じゅるり、とわざとらしく涎をすするポーズをする梶田の横で、大地は黙って聞いていた。

 やがて俯くと、ぐっと唇を噛んで震え始める。

 その様子に気付いた梶田は「えっ」と声を漏らし、大地に身を寄せると心配そうに顔を覗き込んだ。

「おい、三島。大丈夫か? どこか具合でも悪くなったか。それともまた就活のこと考えちまったのか」

 震える大地の顔は、前髪が覆いかぶさっていて見えない。美容院に行っていない期間が普段より長かったので、いつもの髪型と変化していた。

「おい……」

 もう一度深く覗き込もうとして、大地の頬に一筋の涙が流れていることに、梶田は気づいた。

「三島……」

 梶田が声をかけると、大地はゆっくりと梶田の方に顔を向けた。

 眸は泣いているが、口元には微笑みが浮かんでいる。

「梶田。ありがとな。内定はもらえなかったけど、オレは一生の親友を大学で得ることが出来た」

「三島……」

 普段の大地からは考えられない素直な言葉に一瞬ぽかんとなる梶田であったが、「だろ? やっぱこの大学選んだお前は天才だぜ」と笑顔で大地の肩に腕を回した。

 (終わり)

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ドクター喜和子のショック療法~就活生・三島大地の場合~ 木谷日向子 @komobota705

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