第5話 逆襲
美里が描くさまはそれ自体が絵になっていると菜津野は思う。
背筋を伸ばした美里がチョークを細い指先で握り、伸ばした腕を上から下へと降ろすとまっすぐな白線が黒板に生まれる。
黒板に近づいた美里がチョークに添わせた指先をしなやかにそらせていくと生き生きとした曲線が黒板に走ってキャラクターの頬になる。
大きな目が狙い定めて指先を伸ばし、ジョーイの瞳を一息に描き上げる。
描かれていく絵と美里がひとつの作品でもあるかのようで菜津野は見とれてしまう。
ベタの指示が書かれているのに菜津野は気付いて、慌てて塗り始める。
見つかる前に書き終わらないと生徒たちに見せられない。
風紀委員のルールが厳しくなり、報告簿に写した不死鳥伝は一般生徒の閲覧が禁止になってしまったのだ。学長の指示だった。
それでも菜津野は写し続けているが。
「そろそろ集合時間だよ」
菜津野に言われて、美里はチョークを置いた。
今日は港に集まるよう風紀委員長から命令されている。
春の港は潮風がきつくてまだ肌寒い。
入港していたフェリーから大型トラックが下りてくる。
出迎えるのは風紀委員たちだ。
大型トラックのハッチが開き、山積みの段ボール箱が姿を現した。
「荷物を運べ。行き先を間違えるなよ」
風紀委員長の大和田が怒鳴る。
大和田は坊主頭の大男で、学長の忠実な手下だ。怖そうな顔に似合わず甘いものが大好きで、褒美のジゴクマンジュウをもらうためならなんでもすると噂されている。
大きな段ボール箱はカートに乗せて運び、小さな段ボール箱は手持ちする。
力が有り余っている菜津野はカートの担当だ。
段ボール箱にはテレビと書かれている。
「ね、外の放送を見れるようになるのかな」
ガラガラとカートを押しながら菜津野が他の風紀委員たちに言うと、彼等は首を横に振る。
菜津野が運んでいる大きな段ボール箱に、美里が小さな段ボール箱を載せる。
その箱に書かれている文字を美里が読み上げる。
「三百六十度監視カメラ、面白くなってきましたわ」
「面白くないよ! どうするのよ!」
思わず菜津野は言ってしまう。
「ここからですわ」
美里は微笑んでいる。
教室にテレビが並べられて間もなく、全校集会が招集された。
ステージの上には椅子が置かれて学長が座り、マイクを持っている。
いつもの説教とは違った雰囲気に菜津野は戸惑う。
美里は興味深そうに眺めている。
学長が話し始めた。
「開校三年祭が近づいている。特区の監査議員団とうるさい取材屋どもがこの岩尾学園にやってくる。我々は身を正して学園と特区の正しさを示さねなばならない」
そこで学長は大げさに見回す。生徒一人一人をにらみつけるかのように。
「だが! 落書きが学園を汚している! 嘘の物語が健全な成長を妨げている! だから私が正しい物語を語ることにした! 真実の話だ!」
学長は一息置いて、語りだす。
「それは半世紀前、寒い冬の日だった。雪が降るその晩に、偉大な運命を持つ者、すなわち私が誕生したのだ。体重は三千六百二十グラム、元気で玉のような赤ん坊だった。ここから真実の物語が始まる」
学長は朗読していく。
「……赤ん坊はすくすくと育ち、母乳をよく飲んだ。健全な発育は健全な母乳に限るのだ。私の母は立派な人であって……」
菜津野はぽかんとした。なんだろうこの話。
皆も似たような反応だ。
「私はついにハイハイを成し遂げた。このころから私は努力に熱心で……」
菜津野は眠くなってきた。話がやたらと長くて冗長。しかもひたすら自慢話。
延々と四時間も語った学長は、幼稚園に入ったところでようやく続きは次回としていったん終了した。
ぐったりしながら教室に戻ってきた菜津野たちを出迎えたのは、新たに設置されたテレビに流れるさきほどの朗読だった。
美里だけは妙に楽しそうなのが菜津野には謎だた。
数日後、風紀委員会が招集された。
風紀委員室には新たにスチールラックが置かれていて、そこには機材が並んでいる。
機材には監視カメラの映像が映っていた。
説明に立った風紀委員長は、
「これで全部の教室が見れる。落書きもすぐに見つけられるぞ。使い方は説明書を読め」
と言って分厚い説明書を示した。どうやら本人は読んでも理解できなかったらしい。
「はいはい、読みます!」
菜津野は率先して読み始める。
ゲームが大好きでコンピュータもいじってきた菜津野にとって、これぐらいはなんでもない。
各教室に設置された監視カメラは三百六十度を二十四時間撮影し続ける高性能、撮影した映像は一週間分が保存されるそうだ。
ここの機材からはカメラの制御や映像編集が可能だ。つまり隙がある。
菜津野はにやりとした。
これが罠だとは気付きもせずに。
その深夜、監視機材をもう使いこなせるようになった菜津野は、風紀委員室に陣取っていた。
「カメラは切り替えたよ」
マイクに向かって小声でしゃべると、教室にいる美里に伝わって頷きが返ってくる。
監視カメラにはスピーカーも内蔵されていて、監視機材のマイクから放送することができる。どの教室に放送するかも個別に制御できる優れものだ。
美里がいる教室を写すカメラの録画は切られていて、録画は似たような教室を写すカメラに切り替えてある。
これが保存されないのはもったいないなと思いつつ、美里が描いていくのを菜津野は眺める。ベタ塗りや集中線を手伝えないのも残念だ。
一人だけで描く美里はいつもより時間がかかる。
深夜の風紀委員室で物音にドキドキしながら菜津野は待つ。まるで虜囚生活からの脱出を目指すジョーイみたいな気分だ。
美里が描き終わってチョークを置いた。
菜津野はすばやくカメラを元の設定に戻した。
モニターからの光に照らされた暗い部屋を出る。
風紀委員の見回り時間はわかっているから誰かに出会うことはないけど、慎重に静かに早足に寮を目指す。
見つかることなく菜津野は帰還した。美里も大丈夫だった。菜津野はすっかり安心していた。
その翌日にまた風紀委員会が招集された。
風紀委員室の奥には学長が座っていて、斜め後ろには風紀委員長が控えている。
風紀委員は学長の前に立って並ばされた。
「学長先生のありがたいお言葉を拝聴!」
風紀委員長が怒鳴る。
学長はゆっくりと話し始めた。
「今、この岩尾学園は極めて重要な時期を迎えようとしている。分かるかね。メディア閉鎖特区が生まれてまもなく三年、特区を更新するためにはこの学園が大きな教育的成果を収めてるのだと国に示さねばならない」
「はい、理解しております!」
風紀委員長だけが叫ぶ。
「そのために私は正しい物語を示している。なのに今日の朝、また落書きが発見された。監視カメラには描くところが記録されていない。この意味が分かるかね」
皆、静まり返っている。
「どうやったかはこの際の問題ではない。やれるのは監視カメラを動かせる者だけ。つまりこの中の誰かということだ」
数人がごくりとつばを飲み込んだ。
学長が言う可能性に思い至っていなかった風紀委員長は驚愕の表情を浮かべ、
「申し訳ございません! 裏切り者に気が付かなかったお詫びに腹を切って」
学長は手を挙げて風紀委員長を鎮めた。
学長はテーブルに置かれていた報告簿を開き、床に置いた。
菜津野が写した不死鳥伝のページだ。
「踏んでみたまえ」
皆に告げる。
「はい!」
風紀委員長が力強く踏みしめて、靴跡が絵に残る。
風紀委員たちが順番に踏んでいく。
菜津野は内心で歯ぎしりする。
でも、いつもだって黒板に描かれた見事な不死鳥伝を消してきたのだ。
これぐらいは耐えてみせる。けれども。
美里が何食わぬ顔でページを踏んでいくのは菜津野の心をちくりと刺した。
菜津野も自分が写したページを踏む。
自分が写したものを踏むからじゃなくて、ジョーイを踏みつけることに敗北を感じる。
「全員が踏んだか。ふむ、次はこの落書きの感想を書いていってもらおう」
学長が風紀委員室の黒板を示す。
また風紀委員長が率先してチョークを持ち、ガリガリと黒板に文字を刻みつける。
「百害あって一利なし」
他の風紀委員も続く。
「青少年の心に害悪」
「正しい心を病ませてしまう毒」
「健全な精神の発達を阻害する」
美里が描くときとは違い、チョークは醜く動いて嫌な音を立てる。
菜津野は気付いた。
このままだと美里も醜い文字を書くことに。
それは、それだけは嫌だった。
菜津野は順番を飛ばして黒板の前に出た。
力強くチョークを動かして書きつける。
口頭でも叫ぶ。
「ジョーイの勇気に励まされる、大好きなマンガです!」
皆に言葉の意味が伝わり終わる。
「お前か!」
風紀委員長が掴みかかってくるのを菜津野はかわす。
「全員、捕まえろ!」
風紀委員長は怒鳴る。
予想外の展開についていけていない風紀委員たちがのろのろと動く。
菜津野は身を沈め、隙間を縫って飛び出し、風紀委員室のドアを勢いよく開いた。
美里に目をやってから、あまり見ると美里にも疑いがかかることに気付いてすぐに目を外し、菜津野は脱兎のごとく駆け出した。
菜津野の目には、美里の面白がっている表情が焼き付いていた。
「鍵をかけておくべきだったな」
学長の言葉に、
「も、申し訳ございません! お前ら、追いかけるぞ!」
風紀委員長は部屋を飛び出していき、風紀委員たちも続く。
風紀委員室には学長と美里だけが残った。
「お前は行かないのか」
「わたしはまだ感想を書いていませんから」
美里は黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
「このマンガは致命的な問題を抱えていました」
チョークを走らせる。
「わたしはどうしても続きが書けなくなり、答えを求めてここまで来ました」
チョークは軽やかに走り続ける。
「そして遂に種を見つけたのです」
座っていた学長が腰を浮かせた。
「貴様、それは、まさか」
学長は大きく目を見開き、黒板をにらみつける。黒板に書かれていたのは学長だった。
学長のキャラクターがそこにいた。学長の物語が書かれていた。
小学生になった学長がいよいよ学校で活躍を始める。
「マンガだと! マンガなど許されん!」
学長は立ち上がり、よろよろと黒板に近づいてくる。学長は目を外すことができない。
「私を、私の考えを無視してきたマンガなど何の価値もない!」
学長は黒板にすがりつく。
「私がどれだけ心を込めて朗読しても生徒たちはろくに聞きもしない。私に力が足りないというのか。だが、このマンガ、なんと魅力的な私なのだ! これが本当の、私の物語なのか!、どうなる、この先はどうなるのだ!」
美里は笑った。
「続きを読みたいのでしょう」
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