第6話 逃走
廊下を駆け抜ける音、それを追う複数の足音。
荒い呼吸音、待てと叫ぶ声。
学園は今日も騒がしい。
菜津野が風紀委員室から逃げ出して実に一か月。
今日も彼女は逃げ続けていた。
菜津野は美里との活動を通じて学園内の構造や監視カメラの位置を熟知している。その知識をフルに活かして追跡者たちの先を行っていた。
「くそ、確かにここを曲がったはずだ!」
風紀委員長の大和田が怒りで壁を叩き、壁の塗料が少し剥げてしまって、学長に見られてやしないかと慌てて周囲を見回す。
「新しい落書きを見つけました」
風紀委員の一人が報告しにきた。
大和田は表情を取り繕ってから、
「証拠をとったら、すぐに消せ」
と命じる。
逃走者の厄介なところはただ逃げているだけでなく、学園内のあちこちにマンガの落書きを残していくことだった。
落書きは一般生徒たちに悪影響を与えてしまう重大行為だ。
でも逃走者がどれだけがんばったとて人間なのだ、食べて寝なければならない。じきに体力の限界が来る。そのときを狙えと学長からは命じられていた。
問題は逃走者が予想外の体力を持っていてなかなか力尽きず、開校三年祭が間近に迫っていることだった。
開校三年祭の準備にも忙しくて追跡ばかりに人手を割けない。
しかも学園内のあちこちで展示の準備作業が進められていて、大勢が動き回っている。
その騒乱に紛れて逃走者は身を隠していた。
厄介さに大和田は頭が痛い。このままでは学長からジゴクマンジュウをもらえない。
「探せ、探すんだ!」
大和田は闇雲に駆け出した。
菜津野は天井裏のパネルを開いて廊下に降り立った。
周囲に人影がなく監視カメラの死角にも入っていることをさっと確認する。
油性ペンを取り出してキャップを外し、廊下の窓に手早く線を走らせる。
窓には不死鳥伝の一ページが再現された。
ここでの目的を達成、次に移ろうとして菜津野は気付く。
廊下の壁に鉛筆で絵が描かれている。不死鳥伝の主人公ジョーイ、菜津野が描いたものではないし、美里のタッチでもない。
こうした絵が校舎のあちこちにバラバラなタッチで増えていた。
菜津野のゲリラ作画を隠れ蓑にして、描く者たちが活動を始めているのだ。
菜津野は確かな手ごたえを感じていた。
菜津野は天井裏に戻って、ほとんど真っ暗な中を音も立てずに進む。
最初はあちこちにぶつかったりして痛い思いをしていたが、今は天井裏も自宅の庭みたいなものだ。
故郷の山を駆け巡っていたころに培った野生の勘が役立っている。
記憶している校舎構造からルートを割り出し、目的の部屋へと進む。
奥深く隠されているこの部屋を見つけるのにはかなり手間取った。
部屋の上まで来てから耳を澄ます。
聞こえるのはチョークが黒板の上を踊る心地よい音だけ。
天井裏のパネルをずらして、菜津野は部屋に降り立つ。
そこは広く豪奢な部屋だった。
壁や床は黒く重厚な木製、高級そうな漆塗りの棚や大理石のテーブルが鎮座している。
天井にはシャンデリア、奥には暖炉まで設置されている。
壁や棚には表彰状やトロフィーが過剰に並んでいて美しさを欠く。
空調がよく効いてきて室温や湿度は快適そのものだ。
壁には黒板が軽く十枚以上も立てかけられていて、一枚は壁に架けられている。
それに作画中だった美里が、菜津野に目をやった。
「そこのサンドイッチ、食べていいわよ」
言われる前からぱくついていた菜津野は、ほおばったまま頷く。
食べ終わった菜津野は部屋に隣接した浴室に入り、服をぱっぱと脱ぎ捨てて、暖かいシャワーを浴びる。
頭から足まで流れていく温もりに身を包まれて、心地よさに菜津野は身を震わせる。
ぶるぶる体を震わせると水滴が浴室に飛び散った。
狭い天井裏を動き回ってばかりでこわばった体をお湯が優しく解きほぐしてくれる。
腕をぶんぶん振り回したり、スクワットしてみたりして、体の回復を確かめる。ばっちりだ。
この部屋は学長がくつろぐために用意されていたもので、学長室の奥に隠されている。
そこに美里は監禁されていた。
美里用の着替えを拝借して、湯気を立てながら美里の部屋に戻ってきた菜津野は、美里が描いているものを見て眉をひそめる。
「まだ書かされてるの。もう止めて脱出方法を考えようよ」
美里は手を止めない。
菜津野はため息をついた。
「学長の話なんて、全然面白くなかったじゃない。そりゃ美里がマンガにするとすごく面白いけどさ」
美里のチョークが黒板を弾む。
苦悩する学長の姿が黒板に浮かび上がっていく。
「そうね、学長の話は貧相で、想像も創造もなくて、あまりにも空虚」
「でしょ!」
「だからこそ救済を求める、これが私の探し求めていたキャラクターだわ」
菜津野は口をとがらせる。
「学長はさ、このマンガを自分だけ読みたくて、美里を閉じ込めてるんでしょ。美里は学長に尽くしているみたいなものじゃない。あたしたちは学長と戦ってきたのに」
美里は顔を上げた。
「わたしは学長と戦うために描いてきたのではないわ。菜津野はそうだったの?」
「え?」
「私は私のために書いている」
美里は目をぎらつかせる。
「不死鳥伝を虜囚編に進めたわたしは続きが描けなくなってしまった。なにかが足りなくて、ジョーイと対立する者を描ききれなかった。だからわたしは探し求めてここまでたどり着いたのよ。そして見つけた」
「これが答えなの?」
「答えを出し終わるところなのよ、でも最後の一歩が足りない。まだ終われないわ」
美里はチョークを置いた。
「菜津野、あなたは何のために何をしているの。学長と戦えばそれでいいの?」
「あたしは、そう、不死鳥伝が好きで…… だから美里を手伝って…… でも学長のせいでやれなくなったからゲリラをやって……」
「そして、どうしたいの」
菜津野は答えに詰まり、しばらく考えてから言った。
「あたしは自由を求めて戦うジョーイが大好きだから、ここで折れたらジョーイに恥ずかしいよ。あたしはジョーイから凄いって言われたい。そう…… ジョーイを超えたいんだ!」
美里ははっとした表情を浮かべた。
「……最後の一歩が見えたわ。ジョーイはジョーイを超えねばならなかったのね。菜津野に会えてよかった」
美里は菜津野に歩み寄り、両腕で抱きしめた。
「あたしもだよ。やることが見えた。もう逃げるのはおしまい」
菜津野も抱きしめ返す。
互いの体温と気持ちが伝わってくる。暖かくて熱い。
「対決しなくちゃ」
二人は唱和する。
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