第2話 黒板
岩尾学園は山の上にあった。
菜津野が周囲を見渡すと、ここは小さな半島だということがよくわかった。
港がある場所以外は断崖絶壁に囲まれ、それを高く長大な防波堤がさらに取り囲んでいる。高さは十メートルほどか。防波堤というよりも人や娯楽の出入りを防ぐための長城みたいだ。
半島が陸につながる部分にも高い長城が端から端まで走っている。
この半島から海に脱出しようとしても陸に逃げようとしても長城に阻まれる。
ジゴクはエリア中を高い壁で囲まれていて、メディアやネットワークを物理的に遮断していると菜津野も聞いてはいたが、実物を見ると衝撃は大きかった。断固として交流を拒絶する意志が巨大な形をとっていたからだ。
不気味な悪意を感じて、菜津野は身体を震わせた。
岩尾学園には殺風景な四角い箱型で灰色の校舎が並んでいる。
ひと際大きい箱が講堂だ。
その中に生徒たちが詰め込まれ、菜津野もしぶしぶ並んでいる。
入学式、ありがたい学長の講話である。
講堂のステージ上に立った岩尾学長は、背が高くていかつい雰囲気の女性だった。
歳は五十代後半ぐらいに見えるがスーツは筋肉で盛り上がっており衰えを見せない。
がっちりした骨格の顔立ちは強靭な意志を感じさせる。
鋭い目つきが生徒たちを一人一人チェックして回っているようだ。
視線が合った菜津野はびくりとする。
内心まで探られたような気分だ。
周りの生徒たちは生気がなくて、従順な奴隷のように見えた。
いきなり放り込まれた自分みたいな例はたぶん少なくて、元々娯楽を奪われた生活の者が多いのだろうと菜津野は考える。
皮肉にも風紀委員の本城美里は生き生きとして見える。
菜津野の斜め前に立ち、まるで憧れるみたいな目つきで学長を仰ぎ見ている。
講話の前には、制服の乱れを細かくチェックして回っていた。なんであんなにやる気があるのか菜津野にはちっとも理解できない。
学長の話はヒートアップしてきた。
「この特区には不健全なものが何もない! ゲーム、マンガ、ネットワーク! 貴様らを惑わし堕落させる悪しきものを我々は苦労して排除してきた! すべては貴様らのため、未来のためだ!」
あーはいはい、菜津野は心中でつぶやく。
「今は不満を持つ者もいずれ分かって私に感謝することになる! いずれ貴様らの子どもを貴様ら自身の意志でここに通わせることになる!」
否定したいところだけど、自分の親に放り込まれたからなーと菜津野は嘆息する。
ふと美里に目をやると、肩が少し震えているようだった。そんなに感動するほどありがたいのだろうか、まったく理解しがたい。
長い話が終わり、ぞろぞろと生徒たちは教室に戻っていく。
菜津野はどんより曇った空を仰ぎ見る。
記憶に焼き付いた不死鳥伝のエピソードを反芻して心に活を入れる。
「あきらめるな、ピンチをチャンスにひっくり返すんだ。ジョーイに笑われるぞ」
ひとりつぶやく。
不死鳥伝は初期こそマイナーなマンガで菜津野以外に読んでいる人を見つけられなかったのが、ライバルのホルストが出てきたあたりで人気急上昇、連載も月刊から週刊に変わり、掲載される火曜日には教室で皆が感想を言い合っていた。大ピンチ展開の虜囚編に入ってからはなおさらだ。
そんな不死鳥伝もこの二か月ほどは作者体調不良で休載が続いており、菜津野は再開を心待ちにしていたところだった。
それが三年間出られないジゴクに捕まってしまうとは一生の不覚だと菜津野は歯ぎしりする。
重い足取りで教室に向かっていると、妙に教室がざわめいていた。
さわぐ言葉の中に不死鳥伝という単語が聞こえて、なんのことかと教室に入った菜津野は目を見開いた。思わず息が止まった。
黒板にチョークを使って不死鳥伝が描かれていた。
黒板を左右いっぱいに使って四ページ分、ベタが塗りつぶされていないラフタッチだが、確かに不死鳥伝だ。しかも、
「しかも、しかも、虜囚編の続き!」
菜津野は興奮して口走る。
「なるほど、こう来る! さすが!」
菜津野は黒板のマンガに没入した。予想外の展開だ、面白い! 絵もたまらん!
「いや、いやいやいや、これって誰かが勝手に続きを作ったんだよね」
菜津野は考える。このマンガ禁止のジゴクでマンガを読みたければどうする?
「自分で描けばよかったんだ!」
菜津野は興奮した。誰だか知らないけど凄いやつがこの学園にもいる!
教室に風紀委員、本城美里が入ってきた。
黒板にちらりと目をやってから、教室の皆に語りかけ始める。
「皆さん、これを読みましたか。読んだ者は手を挙げなさい」
さっきまでさわがしかった教室が静まり返る。
菜津野はひとり手を挙げた。
「読んだよ! やっぱり不死鳥伝は最高だよ!」
本城美里は菜津野に歩みより、微笑みながら黒板消しを菜津野の手に押し付けた。
「消すのよ。そうすれば菜津野さんの心からも消せるわ」
「な!」
菜津野は怒りが沸騰して黒板消しを投げつけようとしかけ、しかし気付く。
自分が消さなくても誰かがすぐに消す。
だったら、最も近くで目に焼き付けたほうがいいんじゃないか。そうすれば写すことだってできる。
菜津野は歯を食いしばって黒板へと進む。
黒板消しを持ち上げ、心を鬼にして、ゆっくりと、丁寧に、線をなぞるように消していく。
菜津野は自分を説得する。これは消してるんじゃない、スキャンしてるんだ!
それでも罪深さに心が痛い。血の涙が出そうだ。
長い時間をかけて、跡形もなく黒板から不死鳥伝が消えた。
菜津野は心の中で謝る。誰か知らないけど、本当にごめんなさい。でも焼き付かせたから!
美里がゆっくりと拍手する。
「すばらしいですわ、この行為であなたは健全な心を取り戻したのよ」
数人がつられてぱらぱらと拍手する。
菜津野は美里の手を力強くつかんだ。
「どうなさったの?」
美里が怪訝な声。
「あたしをさ、風紀委員に入れてよ! 消すのはあたしに任せてよ!」
美里は小首をかしげて、
「見上げたことですわね。どうぞ、風紀委員へ。健全な心を守るための戦士はいつでも歓迎ですわ」
「うん、よろしく!」
菜津野は美里の手を勢いよく上下に振る。
菜津野は誓っていた。
これからも不死鳥伝の続きを描かれたら、あたしが見つけて、あたしが心に保存して、そして復活させてやる!
これが菜津野の戦いの始まりだった。
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