彼の人の温もりと友情、その幸せな残滓を抱き締めて、アフター
『相談事があるの』
その夜、自身の居城の謁見の間で、壁に飾られた妻達の肖像画を眺めていた和也に、有紗からの念話が入る。
天井から僅かに差し込む月明りが、妻達の絵に程良い陰影を与え、暗闇でそれを眺める和也の心に、其々との思い出が甦る。
『こんな夜更けにどうした?』
『・・単刀直入に言うわね。
あの娘達の記憶、戻してあげて欲しいの』
『・・あの三人の事か?』
『そう。
・・あれから3年、彼女達は其々の道を歩み始めた。
だけど、その心だけは、あの時から止まったまま。
今でもそこに居るはずの誰かを探し、不安と悲しみの中で、自分達の気持ちに戸惑っているようにしか見えない。
・・どうにかならないの?』
『自分が記憶を弄った以上、決してそれが解ける事はない。
その内完全に忘れるだろうし、その方が彼女達のためにもなると思う。
『器』ならともかく、普通の女性をあまりに自分が受け入れてしまえば、世の男性達が素敵な女性と出会う機会が減る。
その女性にとっても、幾つかの例外を除いて、本来なら己一人を愛して貰えるはずなのに、自分が受け入れてしまえば、仮令時間という概念から逃れて常人より長い時を共有できても、大勢の中の一人になってしまう。
まだ若く、多くの出会いと選択肢が残された彼女達には、きっと今の方が良い』
『それを決めるのはあなたじゃない、彼女達よ。
あなたが言うように、まだ多くの出会いや選べる道があったとしても、そこからあなたという選択肢を除外する理由にはならない。
せめて選ばせてあげてよ。
記憶を戻して、あなたとの時間を与えてあげて、それでも彼女達が他の誰かを選ぶならそれで良い。
・・安易にあなたに頼んで、きっかけを作ってしまった私が言うのも何だけど、見ているのが辛いの。
馨があなたに向けて無意識に作ったあの曲を耳にする度、学園で食事をしながら時々ぼんやりと何かを考えていた彼女達の姿を思い出す度、今でも黒い服に反応するという彼女らが、過去の私と重なって見える。
今の私の、その幸せが大き過ぎる分、あの時の私の辛さが、余計に胸に刺さる。
・・私は知ってるわ。
仮令数多い女性達の内の一人でも、その幸せは、あの時の比ではない。
色々な人に、様々な幸せの形があるように、あの娘達にも、其々の幸福が存在しても良い。
お願い。
どうかその機会だけでも与えてあげてくれない?』
静寂が支配する謁見の間に、ただ和也の靴音だけが響く。
有紗の肖像画の前まで来る。
出会った頃とは少し異なる、屈託が無い、穏やかな笑顔。
怠け者の自分のせいで、相当忙しいだろうに、それでも幸せだと言ってくれる。
『・・仮令再び記憶を戻しても、今の彼女らが自分の下に足を運ぶかは定かではない。
何処かのおじさんのように、わざとらしく校門前を箒で掃く自分を見ても彼女らが素通りしたら、それで負った自分の心理的ダメージを、きちんとお前がケアするのだぞ?』
肖像画に向かい、苦笑しながらそう話す和也。
『我が儘を聴いてくれて有難う。
その時は、紫桜さんも呼んで、二人がかりでしっかり癒してあげる。
但し、その時間は『夜の予約権』からは除いてよ?』
クスクス笑いながら、嬉しそうにそう言ってくる。
『分った』
和也は肖像画に背を向けると、暫く靴音を響かせた後、静かにその場から姿を消した。
「お疲れさん」
「お疲れ様でした」
練習を終え、仲間やコーチが声をかけながら去って行く。
高校を卒業し、実業団のチームに入ったあたしは、他の人が仕事に励んでいる間、こうして練習させて貰える。
来年に迫ったオリンピックでメダルを期待できる一人。
新聞や雑誌の記事には、まるで女性ならその単語は付けなきゃいけないみたいに、『美人』アスリートとして紹介されている。
学園出身だからか、普段はあまりスポーツ面で広告を載せない御剣グループが、有難い事にコマーシャルのスポンサーに名乗り出てくれて、そのお陰で、あたしの知名度は今やかなり高まっている。
正直、撮影があんなに面倒だとは思わなかったし、自然な笑顔とやらを作るのにかなり苦労したけど、先達の方々の努力のお陰もあり、アマチュアなのに多額の広告収入を頂けた。
尤も、良い事ばかりではない。
練習や大会で、何時の間にか写真を取られ、酷い時にはそれがネットで拡散している時もある。
学校の部活からブルマが消えて久しいが、コンマ1秒を競う陸上の世界では、相変わらず似たような格好の人が多い。
あたしは流石にへそ出しまではしないが、その気持ちは痛い程分る。
大会の順位やメダルの有無で、その待遇や収入は大きく変わる。
一応会社員扱いのあたしと違って、プロの皆さんは毎月のお給料が貰えない。
人気に火が付けば、広告料だけで一生食べていけるが、そんな人はほんの一握りだし。
私物を持ってシャワーを浴び、更衣室で着替える。
何時からだろう。
その身体に、誰かの優しい感触が残っている気がし出したのは。
誤解しないで貰いたい。
あたしはまだ未経験。
そっち方面の意味ではない。
時々指圧の店で身体を解して貰うのだが、どうも何か違う気がするのだ。
プロの方にして貰うのだから、上手なのは上手なのだが、指使いや強弱、重点的に押してくる際に感じる何かの物足りなさが、居るはずのない誰かを連想させる。
今は名が売れているから(『美人』で通っているし)、流石に昔ほど馬鹿はやらないが、あたしのマッサージは、もっと賑やかだった気がするのだ。
大して痛くもないのに、『痛い痛い』と騒いでは、『噓つきはデザートなし』と脅され、お決まりの『アンアン』と妙な声を漏らした際は、『君はもしかして動物なのか?』と揶揄された。
相手の容姿は映らないのに、そんな楽しい光景だけが、脳内に浮かぶ時がある。
食事中の軽い違和感も、相変わらず治らない。
『ん、あたし、これ好きだったっけ?』
実家に帰った際、以前は決して食べなかったおかずに箸をつけ、家族からそれを指摘された事もある。
案の定、あまり美味しくなくて、直ぐに食べるのを止めるのだが(お母さん御免ね)、何故それに箸をつけた(つける気になった)のかも分らない。
食べるまで、あたしはそれが美味しい物だと認識していたのだ。
今や一人暮らしとなったあたしは、夕食のメニューを考えながら、夕暮れ前の街を歩く。
その耳に、もうすっかりお馴染みになった、馨のあの曲が流れ込んで来る。
『どんな時にも 必ず夢に見ている
頬を撫でる 大きな掌 温かい その温もり
・・・・・・・』
「え?」
不意に、あたしの頭の中に、懐かしい光景と、自分の言葉が甦ってくる。
『見かけによらず、結構苦労してんだね』
『え、弁当まで作ってくれんの!?』
『そんなに給料良くないんでしょう?
あたしには、きっとそんな価値ないよ?』
「何で?」
『お礼に、マッサージの時、お尻くらいなら触っても良いですよ?』
『御剣さんって、きっと今までに相当女を泣かせてきたよね』
「どうして忘れていたの!?」
『本当にこんな所に泊まれるの?
まるでドラマのようじゃん』
「信じられない!」
あたしは急いでタクシーに手を挙げ、その行き先を告げる。
「御剣学園までお願いします」
頭に浮かんでは消えて行く、思い出や言葉の数々。
泣きそうになるのを必死に耐えて、あたしは座席に凭れ掛かった。
「今日これから飲みに行かない?」
授業が終わると、まるで日課のように、同じ学部の人達から誘われる。
学生の本分は勉学であって、飲み会やサークル活動ではない。
彼らは一体、何をしにここに来ているのか?
この国では一流と呼ばれる大学に入れて、これまで苦労した分、多少息を抜きたいのは分るが、こう毎度毎度だと、流石に少しうんざりしてくる。
いつものように、予定があるからと軽く往なして、校門に向けてキャンパスを歩く。
一人暮らしを始めた小さなマンション。
そこに荷物を置いたら、1週間分の買い物に出かける。
今日はその日じゃないが、週に3日、専門学校での授業がある。
私の進む道を両親に受け入れて貰えたお陰で、今は十分な額の仕送りがあり、有難い事に、バイトをする必要はない。
好きな道に進んで、定年までにやりたい事を形に残せたなら、その後は、母の会社を継いでも良い。
今はそう考えている。
学生街だけあって、大通りの左右には、飲食店や古書店、娯楽施設が数百メートルに渡って軒を連ねている。
楽しそうにそこに入って行く人達を尻目に、買い物の後、今日は何のゲームをしようか考える。
4が出てかなり経つのに、未だに2のゲームをしている私。
どうやって入手したのか依然として思い出せないが、私にとって、その4つのゲームは宝物だ。
ただ、それをやっていると、毎回奇妙な感覚に囚われる。
私の左肩が、誰かの右肩を覚えているような気がするのだ。
未だ男女交際すらした事のない私に、そんな親しい相手がいるはずもないのに、何故かその感覚が抜けない。
心から安心できる誰かに寄りかかって、大画面のテレビで、戦闘そっちのけで景色や台詞を楽しんでいた気がする。
ありきたりなタバコの臭いではなく、豊かな香りの珈琲と共に、その時間に身を委ねていた自分を思い浮かべる事ができるのだ。
親からは、良い人ができたら紹介しなさいとも言われている。
私がまだ会社を継ぐとは言っていないから、もしかして孫にでも賭ける積りなのか。
でもそんな人は一向に現れない。
男性だから仕方がないのかもしれないが、私という人間を見る時、先ず胸や身体の線を見るのはどうかと思う。
顔を見つめてくる人でも、大体が目の中に邪な色を帯びている。
実家が裕福だと分ると、露骨に態度を変える人なんて論外だ。
私の理想は、先ずは男らしい人。
口先ではなく、行動で信念を語れる人。
容姿は良いに越した事は無い(少なくとも、若い内はね)。
地位やお金の有る無しに拘らず、人を公平に見れる人。
趣味が同じなら猶のこと良い。
腐女子なんて失礼な言葉で自分を語られたくはないが、このままでは、何時かそう呼ばれてしまうかもしれない。
家に着き、手洗いとうがいをして、買い物前に珈琲を淹れる。
その間点けていたテレビから、あの曲が流れて来た。
馨がこれを作ったと聴いた時、ああやっぱりと納得できた。
その歌詞は、私の中にある、姿の見えない誰かを連想させる。
三人で行った、何処かの海が頭に浮かんでくる。
「え?」
急いで書棚からアルバムを引き抜く。
三人で撮ったはずの記念写真に、もう一人、別の男性が写っている。
「ああっ!
・・あああ!」
『あの~、うちの寮に何か御用でしょうか?』
真っ黒な出で立ちの不審者。
最初はそう思った。
『あ、でも、下着は自分で洗いますよ?』
彼なら触られても嫌じゃないけど、恥ずかし過ぎる。
『ゲームをなさるんですか!?』
もしかして、同士?
『時々貴方が、ずっと年上のように感じる事があります』
だって、いつも優しく、素敵に包んでくれるから・・。
「何で!
どうして忘れていたの!?」
『容姿にさえ恵まれた、天性の女たらし。
私達も気を付けましょうね』
実はもう、遅かったりして・・。
『御剣さん、どうですか、この制服?』
もっと私を見て下さいよ。
『用務員室に遊びに行っても良いんですね!?』
貴方とこれでお終いなんて、絶対に嫌です。
「じゃああの時、校舎の庭を掃いていたのは・・。
・・私の馬鹿。
大馬鹿!
信じられない!!」
財布を摑むと、鍵を掛ける間も惜しい程に玄関を飛び出る。
やや強引にタクシーを拾うと、直ぐに行き先を告げる。
「御剣学園までお願いします!」
あれから3年。
その間、何故彼は私達に声をかけなかったのか?
どうして三人共彼を忘れていたのか?
聴きたい事は山ほどある。
だけど、今彼に言いたい事は、たった1つしかない。
お願いだから、まだあそこに居て。
赤信号で停車する度にいらいらする自分の気持ちを静めるために、彼女はそっと目を閉じた。
「森川さん、それを片付けたら、今日はもう上がって良いわよ」
「はい」
アルバイト先の図書館で、司書さんからそう言われる。
学園の充実した学習プログラムのお陰で、東京の、教職を目指す学生に人気が高い国立大学に合格した私は、そこでサークル活動をする代わりに、この区立図書館での仕事を選んだ。
有紗さんのお口添えかどうかは分らないが、大学からは施設ではなく、御剣財団から奨学金を頂く事になり、それまでも勿論給付ではあったが、その額が月20万円と倍になった(学費は別枠で全額支給される)。
学園に入るまでは、田舎にいたから寮費以外はほとんどお金を使わなかったし、学園では一切の費用が掛からなかったから、私的な買い物以外、ほぼ丸々お金が残った。
それに加えて、私がネットに流した曲が商業化され、びっくりするくらいのお金が振り込まれているから、家賃が高い東京でも、アルバイトをする必要はなかった。
でも、石山先輩達のお陰でもうほとんど普通に人と接する事はできても、まだ敢えて人込みに入ろうとは思えないし、よく知りもしない人と、飲み会や行事活動をする気も起きない。
学園では友人と呼べる人もできたが、その娘達は今海外にいる。
だから静かなこの場所で、好きな本に囲まれて、少しずつ人と接する時間を持っている。
本に囲まれていれば、本を読んでいれば、その時間はまだ心が穏やかでいられる。
家に帰り、明かりを消したベッドの中で、感じる不安。
外で黒いスーツを着た人とすれ違う時に生じる違和感。
誰か大切な人を忘れていないか、取り返しのつかない時間を過ごしてはいないか、そんな強迫観念が、あの曲を私に作らせた。
曲作りの最中、必ず浮かんできた、誰かの面影。
曲を聴いてる時、今なお見える、何処かの光景。
前世なんて言葉を信じてもいないし、本の読み過ぎで、そこで得た情景が既視感となって表れているだけだ、そう思い込もうとしても、その時感じる左の頬の温かさが、警告を発するのだ。
『忘れちゃ駄目。忘れては駄目』と、まるでシグナルのように微熱を持つ。
ファンタジーはあまり読まないジャンルなのに、私にもお姫様願望があるのかな。
片付けに入っていた書庫で、思わず苦笑を漏らし、時間を確認するため、スマホを開いて画面を見る。
ギャラリーに入れてある写真を、ランダムで映し出すようにしてあるその画面は、あの夏先輩達と訪れた、海辺の別荘での1枚を表示している。
「え?」
いつも思っていた。
三人で撮ったにしては、その間に微妙な空間がある。
皆の手が、まるで誰かに触れているかのように、宙で浮いている。
今自分が目にしている画像は、それに対しての明確な答えを示していた。
・・私の心の闇を祓い、不安を優しく包み込み、自信さえ与えてくれる、その素敵な笑顔。
傍に居るだけで安心できる、同じ建物で眠るだけでも安眠できる、私を護ってくれる、大切な守護神。
どうして忘れていたのだろう。
何故消えていたのだろう。
この3年で失った時間を返して欲しい。
『それって、遠回しに田舎と言ってますよね?』
私の、人生初のツッコミ。
『君の歌が聴きたい』
私への、それまでで最大の誉め言葉。
『まるでお守りみたいだな』
だって本当にそうだから。
『上手に歌えたら、頬を撫でてくれますか?
嬉しい時、悲しい時、辛い時には、お部屋のドアを叩いても良いのですね?』
御剣さん、まだあの学園に居てくれてますか?
和也さん、これから今までの分、しっかり取り立てに行っても良いですか?
私、我慢できました。
私、ずっと耐えられました。
だからもう、会いに行っても良いですよね?
先程から止まらない涙が、到頭スマホの画面まで濡らし始めた。
室外に出るにはまだ時間が要る。
せめて涙を止めないと。
でもそれが済んだら、仮令幾ら掛かっても良い。
タクシーを飛ばして、今日、これから彼に会いに行く。
あの二度と忘れてはならない、大切な笑顔を見るために・・。
オレンジ。
そう表現するのが1番相応しい空の色。
今は無粋にしかならない、鳥影も、飛行機の姿も見えない。
広大な敷地を走る、3台のタクシー。
それが全て校門前で止まる。
「美樹、貴女もなの!?」
「沙織もか!?」
先に着いた先輩達が驚き合っている中、私は直ぐに門を潜る。
「あ、こら、感動の再会はあたしが先だ」
安西先輩が走り出す。
「負けないわ!」
石山先輩が、無謀にもそれを追いかける。
その先の光景が何となく想像できる私は、逸る心を押さえて、ゆっくりと歩いて行った。
「御剣さ~ん!」
校舎までの長い通路は、所々が庭や樹木で遮られ、緩やかなカーブになっている。
その途中で箒を走らせる彼の後ろ姿に、安西先輩が、抱き付くような勢いで迫る。
「む、殺気?」
先輩が彼に抱き付こうとした途端、さっと横に躱される。
「酷い」
勢い余って、数歩先で転びそうになる先輩。
「ハア、ハア、み、御剣さん・・会いたかった」
オリンピックに内定している安西先輩に敵うはずもないのに、必死になってその後を追いかけた石山先輩は、陸に息もできない程に、膝に両手を当てて、呼吸を乱している。
思った通りの光景に、私は内心でガッツポーズをしながら、彼の胸に飛び込む。
私なら、避けられない自信があった。
彼にそうさせるには、あるコツが要るのだ。
「・・やっとここに帰って来た」
3年間、漠然と抱いていたその姿。
肌が覚えている懐かしい感触に、またしても涙が溢れ出る。
「狡いぞ」
安西先輩が、彼の後ろから抱き付く。
それを見た石山先輩は、少し怖い顔で寄って来る。
前後から抱き締められている彼の横に立つと、大きく両手を広げて、私達三人ごと抱き締めてきた。
「今はこれで許してあげる」
背伸びして、彼の頬に自身の頬を擦り付ける先輩。
「・・失礼だが、君達は一体どなたかな?」
御剣さんが、大根役者さながらの演技でそう言ってくる。
「「今度そんな事を言ったら、酷い目に遭いますよ(遭うよ)」」
私達三人の声がハモる。
「む、今思い出した。
どうして自分は、これまで君達を忘れていたんだろう?
可笑しい。
何らかの、超自然的な力を感じる」
「「・・・」」
この時、きっと皆が同じような事を思ったに違いない。
でももうそれを追求したところで、利点などない。
大切なのは、二度と彼を放さない事、決して彼を忘れない事。
そのためならば、多少の嘘や疑問はスルーしてあげる。
3年前と全く変わらない姿の彼を見ながら、私達三人は、内心で堅くそう誓った。
月日は過ぎ、私達は更に歩みを進める。
安西先輩は、オリンピックの幅跳びで銀メダル(200m走は5位)を取った後、何と会社を辞めて、推薦入学で大学生になった。
そこで教職免許を取得し、将来は御剣学園の体育教師を目指すそうだ。
彼女は可愛いし、メダルも取った事で、芸能界や政治方面からもお誘いがきたそうだが、そんなものには見向きもせず、あまり好きではない勉学に勤しんでいる。
先輩曰く、『お金じゃ買えないものが欲しい』そうだ。
残りの二人の感想は、『あ、そう(そうですか)』である。
石山先輩は、大学と専門学校の二足の草鞋を履きながら、最低でも月に1、2度は学園の用務員室に遊びに来て、彼と一晩中ゲームをしている。
徹夜でやった翌朝は、彼のベッドを借りて仮眠を取り、学食で遅い朝ご飯を食べて行く。
お願いだから、あまり疲れたような顔で用務員室から出て来ないで下さい。
学園生に、要らぬ誤解を招きます。
それから、彼の部屋にあまり私物を持ち込まないで下さい。
ゲーム関係ならともかく、歯ブラシや着替えは、何かの陰謀を感じますので。
教職課程であれこれ迷った私は、結局、国語の先生になる道を選んだ。
歌は、飽く迄趣味でやっていたい。
私が本当に聴いて欲しい相手は一人だけだし、ネット活動も偽名だったから、それで済ませる事にした。
アルバイトは責任を持って続けながら、時々学園の音楽室に侵入して、深夜に彼と二人だけの音楽会を開く。
彼のピアノやヴァイオリンに合わせ、私が歌を歌う。
曲の選択は適当だ。
今日は月が奇麗だからこれ、今はこの時期だからあれ。
そんな感じだ。
1、2時間でお開きにした後は、一緒に温かいレモネードを飲みながら、雑談をする時もあれば、ただ黙って身を寄せている時もある。
私にとっては、何をして過ごすかより、彼と共に居る時間の方が大切。
二人で居られれば、結局は何でも良いのだ。
大学を卒業すれば、ここで教師として働く事が、有紗さんによって確定している。
そうなれば、今よりもっと自由に、用務員室へと足を運べる。
忙しい彼に会うには予約が必要だが、そのくらいの手間は何でもない。
今ではもう、辛かった過去の夢は見ない。
実の親の顔でさえ、半分忘れかけている。
恩師や恩人は沢山いても、私の家族は一人だけ。
それで良い。
それだけで良い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます