第9話

 「・・手間が省けたというべきか、相応の報いというべきか」


皆が学校で勉学に励んでいる最中さなか、管理人室で独り珈琲を飲んでいる和也。


『神の瞳』を用いて覗いていた先は、とある大国の都市、その中に林立する古びたビルの一室だった。


そこで先程まで交わされていた会話を聴いていた和也は、少し困ったという顔をしながら、そう呟いた。


自分達との生活で、随分と少女らしい表情を取り戻した馨。


学校ではまだ幾分ぎこちないそうだが、この寮内では、他の二人とも自然に会話ができる。


これまで1番最後に一人で入っていた風呂も、今では沙織や美樹と一緒に入っている。


夜間を利用して続けている歌のレッスンでは、大分声量が増し、表現が豊かになっている。


そんな彼女における唯一の不安要素、何処で何をしているのかすら分らないというその両親の事だが、馨が大人になって幸せを摑んだ後に、その足を引っ張りに来ないよう、和也の方で何らかの対策を講じようとした。


馨が施設に入るまでの報告を聴く限り、どうしようもない連中だそうだから、その余罪を粗方暴いて刑務所で反省させようか。


拘束して、法の支配の及ばない、何処かの途上国で強制労働でもさせて、彼らの人格を矯正しようか(他者の痛みが分る人間に)等、色々と考えていた和也だが、先ずはその所在を確かめるべく、彼らを探した。


馨の記憶にある両親の顔を基に、その遺伝子情報をも組み合わせて探した結果、残念な事に、彼らは既にこの世に居なかった。


国外を拠点とし、日本を相手に詐欺を働いていたグループ、そのメンバー達により、殺されていたのだ。


裏にはならず者や地方役人が絡んでいたその組織で、実際に相手に電話やメールを送る、掛け子と呼ばれる存在だったらしいが、彼らの目を盗み、時々自分達の口座に金を振り込ませていた事がばれて、見せしめのため、夜間に田んぼで銃殺されたらしい。


その遺体が無造作に埋められた場所から時間を遡り、グループのアジトを探し出した和也だが、馨に何て説明しようか悩む。


そして、この組織のメンバー達、彼らをこのまま野放しにはしないが、正当な手続きを踏もうにも、かの国では司法が役に立たない。


馨の両親の身元を確認するには手続きを踏んだ方が良いが、そうすると彼女に、また親の事であらぬ噂が立ちかねない。


少し考えた末、和也は彼らが詐欺で得た、これまでのお金を全額没収し、それを被害者達に返すと共に、幹部連中の現金資産を粗方自己の収納スペースに転移させ、後はそのまま放っておく事にした。


突然消えた巨額の資金の行方を巡り、彼らが内輪揉めで殺し合うのは明白だったし、その方が、内部抗争として事後処理もスムーズに進む。


『返します』と記されたメモの付いたお金を、その被害者達の下へと転送すると、和也はまた、独り静かに珈琲を楽しむのだった。



 「少し休憩しよう。

君に話がある」


夜間の歌のレッスン中、ピアノを離れ、喉を潤す特製のレモネードを手渡しながら、和也は馨にそう切り出す。


視線だけでその先を促す彼女に、和也は何気なさを装って語り掛けた。


「君はもし、両親の現状を知る機会があるとしたなら、それを得たいと思うだろうか?」


馨の顔が強張る。


それから少しして、酷く辛そうに言葉を発した。


「もしかして、彼らが御剣さんに、何かご迷惑を?」


流石の馨も、和也が只の管理人ではない事くらい、うに気付いている。


相当の資産家であろうという事にも。


そしてその彼に、事情を知ったあの両親が、一体どんな真似をしようとするのかも正確に理解できる。


十中八九、お金をせびりに来るだろう。


その理由は、あの両親の事だ、何とでも言ってくるに違いない。


馨自身としては、親の事には心中しんちゅうで既に整理がついている。


自分からはもう係ろうとは思わないし、仮令向こうから近寄って来ても、一切相手にしないと決めている。


施設に赴く際、『しっしっ』と、まるで動物でも追い払うかのような仕種を彼らが見せた時、『この人達とは決して分り合う事はできない』と、子供心に悟ってしまったのだ。


だが、もし彼らが御剣さんに害を及ぼそうとするのなら、自分は戦わなくてはならない。


そこには、以前は確かに存在した、恐怖や怯えなど微塵もない。


自分がどうなろうが、彼らに何をしようと、そんな些細な事など一々考慮しないしできない。


こんな良い人を、こんなに素敵な人を苦しめるなんて許せない。


それが諦めや失望に転化されたせいで、これまでは怒りというものを感じてこなかった馨は、この時初めて、身を焦がすような強烈な怒りと憎しみに、その身体を支配されていた。


「いや、自分は何もされてはいない。

だから、そんな顔をしてはいけない」


和也の右の掌が、馨の頬に優しく触れる。


「自分(和也)の為に、腹を立ててくれたのだな。

・・有難う。

だがな、自分はそんなに弱くはない。

自分は寮長、君達寮生を護る、ここの守護神だからな」


ゆっくり、語り掛けるようにそう和也が告げると、馨は頬に当てられた手に、己の掌を重ねる。


「はい。

・・はい」


徐に目を閉じ、静かに涙を流す彼女。


「この際だから言ってしまうが、君の両親は、既にこの世に居ない。

とある国で、ある事が原因で殺害されている」


一瞬、馨が目を見開くが、直ぐにまた閉じられる。


「恐らくだが、こちら側から何かしらの手を打たない限り、殺害されたという事実も、その身元さえ、判明する事はないだろう。

尤も、この国には失踪宣告という便利な制度があるから、別に困りはしないがな」


突然の知らせをどう解釈し、如何に納得したのかは分らないが、和也の手を押さえるその小さな掌は、相変わらずの柔らかさを保っている。


「自分は、この件を放置しておく方が、より君のためになると判断した。

事実をはっきりさせる事も可能ではあるが、それで良いか?」


「はい、御剣さんのお考えの通りに」


そう言った後も、彼女は頬に当てられた手を放そうとはしない。


「・・どうした、自分の手が、そんなに心地良いのか?」


「もし私に、自分の事を愛してくれる父親がいたとしたなら、その掌は、きっとこんなに優しく、温かく、力強いものなのかなって。

テレビやネットで音楽を聴いていても、親の愛を歌う歌詞には、どうしてもピンとこない時があります。

そんな時、私は御剣さんを思い浮かべるのです。

勿論、愛や恋を歌う歌詞にも、貴方は出てきますよ?

でも、1番鮮明になるのは、家族、父親としての像なのです。

ほとんど歳も違わないのに、可笑しいですよね」


自分の掌に頬を擦りつけ、それから未練がましく放そうとした馨に、和也は言う。


「もう少しそのままで良い。

・・目を閉じたまま、頭を空にしてくれ」


よく分らないが、言われた通りにする馨。


やがて、その光景は彼女の頭の中にやって来た。



 『生まれた!

生まれたよ!

無事生まれた!

○○も無事かな?

早く顔を見たい』


廊下で神妙に待つ男の耳に、病室から僅かに赤子の泣き声が届く。


『おめでとうございます。

無事に生まれましたよ。

女の子です』


暫くして、看護師さんがドアを開け、そう教えてくれる。


産着に包まれた我が子を見ながら、男は語り掛ける。


『有難う。

よく会いに来てくれたね。

君は僕と○○の、両方の可能性を備えた子だ。

どんな風に育つか、どう生きていくのか楽しみだけど、1つだけ約束してくれ。

僕達より長生きすること。

それだけで良い。

唯それだけで良いから』


妻の身体を気遣った男は、早々に病室を後にする。


そして、湧き上がる喜びで思わず走り出し、職員に叱られた。


『廊下を走らないで下さい!』


『すみませ~ん』


大病院の長い廊下に、男の声が響いていく。



 場面が変り、ゆりかごの中で大人しくしている赤ん坊に、男が話しかけている。


『昔々、お父さんとお母さんがいました。

お父さんは会社で働き、お母さんは赤ちゃんのお世話をしていました。

でも、お父さんはずっと思っていました。

お父さんも赤ちゃんのお世話がしたい。

もっともっとお世話がしたい。

到頭それに耐えきれなくなったお父さんは、ある日、会社の偉い人に言いました。

『私、育休を取りたいのですが』

そしたらその偉い人は言いました。

『何なら、定年まで育休を取る(辞める)?』

お父さんは思いました。

何時か絶対、倍返ししてやる。

馨も、そう思うよね?』


『キャッキャッ』


男の表情が面白かったのか、赤ん坊がにこにこ笑っている。


『ちょっとあなた、馨に変な事教えないで下さいね?

馨は、争いとは無縁の、優しい娘に育つのですから』


洗い物をしていた母親が、男にそう言って微笑む。


男は少し不満げに、自分を見つめる赤ん坊の小さな掌を、その指先で、ちょんちょんと優しくつつくのだった。



 更に場面が変わる。


『部長、身内に不幸がありまして、明日はお休みを頂きたいのですが』


何処かの会社の一室で、男がそう言って頭を下げている。


『可笑しいねぇ~、君のご両親は既に亡くなっているはずだし、確か兄弟(姉妹)もいなかったよね?

君の結婚式で仲人をした僕は、その事を非常によく知っているよ?』


『ですから、妻の方に…』


『この間、買い物に出かけてあちらのご両親にも会ったけど?

奥さんのご実家、お肉屋さんでしょ?

あそこのコロッケ、美味しいよね』


『むむむ』


上司にニッコリと微笑まれて、仕方なく自分の席に戻る男。


それから徐にスマホを弄り、妻宛にメールを打つ。


『明日の入学式、必ず動画撮っておいてね。

できれば保存用に、パソコンに入れといて。

今日は遅くなります。

ご飯、先に食べていて下さい』


男は、その悔しさを晴らすべく、それから猛烈に仕事に励むのだった。



 場面がまた変わって、今度は同僚との昼食の席の光景になる。


『何だお前、ダイエットでもしてるのか?』


男が注文したかけそばを見て、共に食べる同僚の一人がそう声を上げる。


『いや、別にそういう訳じゃないんだけど、再来月までに、どうしても買いたい物があるからさ‥』


『もしかしてまた娘さんがらみか?

お前、確か小遣いからも貯蓄してたよな?

今度は何だ?』


『再来月には、娘の誕生日があるんだ。

もう直ぐ中学生になるし、記念に良い腕時計でも買ってやりたくて‥』


『相変わらずだなぁー。

そんなに娘が可愛いもんかね?

うちなんて、最近は憎まれ口しか聞いた事ないぞ』


『それはほら、きっと照れてるんだよ。

思春期って、そういうもんだろ?』


『だと良いんだがねぇ。

・・ほら、このイカ天やるよ。

幾ら何でも、それだけじゃ足りないだろ?』


『いつも済まん。

この恩は、何時か必ず返すから』


『ああ、出世払いにしとくよ』



 再度、場面が変わる。


今回は中学の体育祭の動画を、自宅で見ている時のようだ。


『何だあの男、馨と手を繋いでいるじゃないか!』


『仕方ないじゃありませんか。

ダンスの演技なんですから』


母親が、また始まったとばかりに苦笑する。


『それにしたって、素手で繋がなくても良いだろう?

ゴム手袋くらい嵌めた方が良い。

馨に変な菌でも付いたらどうする?』


『はいはい、そうですね』


『馨、帰宅後に、ちゃんと石鹸で何度も手を洗ったか?

最近の菌はしぶといやつが多いから、気を付けるんだぞ』


毎度の事で妻に相手にされない男は、神妙な顔を娘に向けて、そう口にする。


『え~、○○君、格好良いし奇麗好きだよ?

でもそんな事言うのだったら、もうお父さんの洗濯物と私のを、一緒に洗えないね。

外でお仕事してくるお父さんは、何時何処で雑菌を付けてくるか分らないもんね』


『ちょっと待って!

・・分った。

お父さん、これからテレワークにする。

会社で部長にそう頼んでみるから』


『う・そ。

お父さん、管理職になったばかりでしょ。

これからは、部下になる皆さんの分まで頑張らないといけないんだし・・。

私も応援するからさ?』


『馨・・いつの間にかこんなに大人になって・・。

お父さん、もっともっと頑張るからな。

家族のために、一生懸命働くから。

だから、・・洗濯物は、今まで通りで良いよね?』


『もう、折角良い話の流れだったのに・・。

はいはい、仲間外れにしないで一緒に洗ってあげるけど、干すのも畳むのも、私がやるからね?

お父さんは畳んじゃ駄目だよ?』


嘗ての休日、取り込んだ洗濯物を畳む際、より丁寧に畳もうとして、娘の下着を何度も弄ってた姿を目撃されて以来、男が洗濯物を畳むのは禁止されている。


『・・はい』


パソコンにアップした動画では、馨が次の相手と踊っていた。



 それから幾つかを経て、到頭最後の光景になる。


高校の入学式。


制服姿の馨を後方で見ている男が、娘の後ろ姿に心中で語り掛けている。


『入学おめでとう。

早いもので、君が生まれてからもう十六度目の春だね。

大きな病気もせず、ここまですくすくと育ってくれた事、お父さんはとても感謝しています。

あと何年、日々成長する君の姿を、こうして間近で見ていられるかな。

きっとこれから、君には好きな人ができて、その人を、何時かはお父さんより大切だと思う日が、やって来るのでしょう。

二人きりで旅行がしたいからと、お父さんに嘘を吐く日も来るのかな?

・・でもね、覚えていて欲しいんだ。

お父さんは、いつまで経っても君の父親だ。

君が困った時、苦しい時、辛い時に、無条件でこの手を差し伸べられる。

君があの日の約束を、たった1つの僕との約束を守ってくれるなら、お父さんはいつまでも君を見てる。

その笑顔がいつまでも絶えませんように。

それが、お父さんの真摯な願いでもあり、心からの祈りでもあります』



 馨の脳内に映し出された光景では、男の顔がぼやけている。


だが、黒くしか表示されないその顔は、彼女の知る、実の親のものでは決してない。


表情が全く分らないのに、何故かその感情は鮮明に把握できた。


浮かんでは消えて行く光景の途中から溢れ出た涙は、今なお頬に当てられている和也の手を濡らし、そこに重ねられた、己の掌さえも湿らせている。


「何か見えたか?」


映像を見せている途中で、馨の手から零れ落ちたカップを受け止めた和也が、何気なくそう尋ねる。


その問いに、馨は瞳を閉じたままで答えた。


「父の姿が見えました。

・・現実ではない、もしかしたら、私の心の奥底に眠る願望が齎した、只の理想像なのかもしれません。

実の親から逃げるためだけに出ていた外で、何度も見せられた、極普通の親子の姿。

何時か私にも訪れるかも、そんな淡い期待は、施設に入る時に、捨てねばなりませんでした。

運が良かった私は、親の代わりに素敵な方々に出会い、その方々から人の優しさを学んで、ささくれだっていた当時の心を、何とか修復してこれたのです」


馨が目だけを開いて、和也を見る。


「・・和也さん、貴方と出会ってからは、本当に幸せです。

貴方のこの手の温かさは、正に貴方の心そのもの。

貴方は私の憧れ、理想。

私が男性へと向ける、あらゆる好意の視線と感情を独占してしまう」


馨がやっと、押さえていた和也の右手を放す。


そして、徐に和也に抱き付いてくる。


「お願いします、もう少しだけ、このままで。

その後で、またレッスン頑張ります。

今夜は何故か、よく歌えそうなんです。

・・今までは難しかった、家族の愛を歌う歌が」


和也の胸に押し当てられた唇が、細く小さな言葉を紡ぐ。


その小さく華奢な頭は、和也の大きな手によって、その間ずっと支えられていた。

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