第7話

 「いなあ~、海。

最近全然行ってないし」


夏休み中の、寮での昼食を終えた美樹が、食堂にあるテレビ画面を見ながら、そう呟く。


何処かの海水浴場で、楽しそうに水浴びをしている人々を映す番組に視線を送った沙織も、懐かしそうに目を細める。


「泳ぐの好きなのか?」


和也がそう尋ねると、今度は沙織が口を開く。


「子供の頃は、よく家族で出かけました。

でも、中学生くらいから段々胸が大きくなり始めると、人の視線が気になり出して、徐々に行かなくなりましたね」


妻達の身体を基準に考える和也は、『それ程心配せずとも良いのでは?』とも思うが、勿論口には出さない。


会話に加わる事なく、寂しげに画面を見つめる馨に、代わりに一声かける。


「海、行ってみたいか?」


「え?

私ですか?

・・泳げないし、水着さえ持っていないので。

楽しそうだとは思いますが」


「スクール水着もか?

今まで水泳の授業はどうしてたんだ?」


「小学校の時は、全く入らなくても先生方は何も言いませんでしたので。

中学からは、色々と理由を付けては見学してました」


「今は?」


高校でも、夏になればプールの授業くらいあるだろう。


「・・皆の前で、裸になって着替えるのが恥ずかしいので」


施設に入るまで満足に食べられなかったせいもあり、彼女の身体は線が細い。


それを気にしているのか。


そう言えば、彼女が他の寮生達と一緒に入浴する事はなかった。


ここで和也は、ある可能性に気付き、その疑問を解消すべく沙織を見る。


どうやら彼女もその事に思い当たったらしく、僅かに頷いた。


「ねえ、良かったらだけど、今日は私と一緒にお風呂に入らない?

恥ずかしがる事ないわ。

女性同士ですもの、偶にはどうかな?」


なるべく穏やかに、微笑みながら、馨にそう告げる沙織。


もしかしたらその身体に、親から虐待された痕でも残っているのではないか。


そうであったなら、今後はこの手の話題を避けねばならない。


馨の返答次第では、以後気を付けようとする二人に向けて、彼女は口を開いた。


「・・沙織先輩と比べられたら、私なんて・・。

笑わないで下さいね?」


和也も聞いているせいか、恥ずかしそうに、俯き加減でそう告げてくる。


「そんな事誰も気にしないから大丈夫。

これからは時々でも良いから、一緒に入りましょ」


どうやら杞憂であったらしく、ほっとして、明るい声で沙織がそう答える。


「時に、自分の知り合いが海辺に別荘を所持していてな。

向こうが使用していない間は、好きに使っても良いと言ってくれている。

時間があるなら、この休み中にどうだ?」


「えっ、マジ?

行きたい、是非お願いします!

場所何処?」


和也の提案に、美樹が凄い勢いで食いついてくる。


インターハイに向けての最終調整にある彼女も、偶にはゆっくりしたいのだろう。


沙織も賛成のようだし、同じく肯定的な表情の馨に、もう一押ししてみる。


「水着の事なら心配要らない。

経費で落とすから、行きがけに街で買えば良い」


「二人とも、彼女を手伝ってあげてくれるか?

勿論君達の分も買って良いぞ」


勝手が分らないであろう馨の為に、沙織と美樹にもそう頼む。


「・・経費って、一体何の経費ですか?

でも、有難うございます。

お言葉に甘えますね」


笑って突っ込みながら、沙織が答える。


自分達が遠慮しては、馨がそうし辛い。


「そのお金は、君の今後のために取って置くと良い」


施設から毎月の生活費を得ている馨は、『自分の物だから、自分で・・』と、遠慮してそう口に出そうとしたが、和也に穏やかにこう告げられて、思い止まる。


親の下で食べる事にさえ苦労した彼女は、自由に使えるお金を得た今でも、極力無駄遣いを避けている。


和也に見せるためでもある水着(馨はそう考えている)を、無駄とは考えない今の彼女だが、1万円を超えるお金の使い道には、未だに結構な勇気が要るのだ。


「御剣さんって、きっと今までに相当女を泣かせてきたよね」


馨の表情を見ながら、美樹がぼそっと口に出す。


「ええ、間違いないわ。

容姿にさえ恵まれた、天性の女たらし。

私達も気を付けましょうね」


沙織が尤もらしく追従する。


「・・この後デザートを出そうと思っていたのだが、どうやら君達二人は要らないと見える」


「あ、嘘嘘、冗談です」


慌てて前言撤回する美樹に、苦笑する和也。


この後、出されたデザートを口にしながら、お互いの予定を話し合う彼女達であった。



 「西伊豆まで乗せてくれないか?」


駅前で客待ちをしていたタクシーの運転手に、和也はそう声をかける。


大きな街ではないので、タクシー自体の数も、まばらにしか存在しない。


和也はざっとそれらを見渡し、居眠りや、車内で喫煙している運転手の車を避け、身だしなみのきちんとした、初老の男性を選んだ。


タクシー乗り場があれば、客は順番に乗っていかねばならないが、ここにはそんなものはなく、好きな場所に停車している車を自由に選べた。


「西伊豆ですか?

・・ここからですと、高速を使っても3時間近くかかる上、料金が、電車で行くより相当お高くなりますが・・」


男の表情に戸惑いが生じる。


長距離のお客は疑ってかかれ。


最後まで乗せても半数以上は無賃乗車だ。


この業界では、それが当たり前のように囁かれている。


実際、この仕事に就いて長い男も、わざわざ高い金額を払ってそんな事をする例を、収録の押した芸能人くらいしか知らない。


「先に15万渡しておこう。

人数は四人。

それでも駄目か?」


男の葛藤を読んだかのように、その少年が好条件を提示してくる。


それならこちらからお願いしたい。


一人ではなく四人なら、最初から踏み倒す気もないだろうし、その料金も、昼間なら10万円を超える事はないはず。


そう考えた男は、丁寧な言葉で返事を返す。


「お気遣い有難うございます。

是非お願い致します」


話が纏まり、和也は少し離れた場所に居た三人に手招きする。


前金と、行き先の書かれたメモを運転手に渡した和也は、彼女らの荷物をタクシーのトランクに積むと、その助手席に座り、『途中で一度、休憩を入れてくれ。場所は任せる』とだけ告げて、目を閉じるのだった。



 その男は、タクシーの運転手の職に就いて、もう30年になる。


大学を出て、一度は人並にサラリーマンというものを経験したが、当時の会社は年功序列を重視し、どんなに働いても、新人の給与や待遇に、そう差は出なかった。


若かった男は、それに我慢できずに離職し、自己の頑張り次第で給与に差が出るこの道を選んだ。


だが、初めは思う通りに進んでいた人生設計も、壮年を過ぎた所で躓き、初老となった今では、将来には不安しか残らない。


若い頃と異なり、基本給の割合が大きく上昇し、それほど歩合を稼がなくても何とか生活できるが、家族に楽はさせてやれない。


あの頃は良かった。


男は最近、当時の様子を懐かしむ事が多くなった。



 バブル。


男がこの職に就いてから、間も無くやって来た、未曽有の好景気。


まるで国民誰もが満たされ、幸せそうに見えた、狂乱の時代。


深夜になると、繁華街では万札をぴらぴら振ってタクシーを呼ぶ者で溢れ、お釣りを受け取らない客も多かった。


昼間でも、デパートや観劇に向かうご婦人達が頻繁に利用してくれ、月収は、多い時では100万を超えた。


それが、バブルが弾けた途端、あっという間に消え去った。


弾けて1、2年の間は、まだ上得意客を得られる事もあったが、3、4年もすると、深夜中走り回っても、1日に稼ぎ(自分の取り分)が2万を超える事はなくなった。


その後も、少し盛り返しては、リーマンショックのような大打撃に見舞われるといった事の繰り返しで、もうあの頃の夢を見る事はできないだろう。


それは男にも薄々分っている。


それに、これまでのタクシー運転手に対する不満から、仮令景気が戻っても、もう以前のようには利用されない気もする。


バブル当時、夜間に巷に溢れたタクシーは、ほとんど女性客を乗せようとはしなかった。


男性と一緒なら停まったが、女性のみではほぼ素通りしていた。


その理由は、女性は近場までしか乗らないから。


稼ぎ時の時間帯に、1000円や2000円の料金しか払わない客を乗せていては、自己の売り上げに響く。


その客を降ろして、また元の稼ぎ場所に戻る時間も勿体ない。


そう考える運転手達は、残業でくたくたになり、若しくは友達と楽しく飲んで終電を逃した女性達の前を、これ見よがしに素通りした。


男が、そんな女性達を見兼ねて優先的に車を走らせると、皆がほっとしたように笑ってくれたのを思い出す。


男性でも、その身なりが悪ければ(スーツ姿でないなど)、同様の理由で似たような目に遭う事も多かった。


その様は、可笑しな歌となって、当時流行した程である。


更に、不景気でリストラされた男達の受け皿として、政府が業界の規制を緩和した事も大きい。


配車を増やせば会社としての取り分は増えるから、業界も一時は歓迎したようだ。


個々のドライバーの収入は減少しても、その者達から売り上げの一部を徴収できる会社としては、数字の上では不利益がない。


出店(ここでは台数)を増やすだけで儲かるなどという、何処其処の三流社長の考えそうな事が、運転手の質を更に押し下げた。


やくざ崩れやチンピラもどきが入り込み、客に対して失礼な対応をするケースが増えた。


『婆さん、ちゃんと財布持ってる?』


以前乗せたお客さんが、他社の運転手からいきなりそう言われたと、未だにご立腹なされていた。


道もよく分らないのに、乗車したらもう駄目だと降ろさずに、散々遠回りされたと憤るお客さんもいた。


『酔って車内で寝てしまったら、いつもの倍の料金がメーターに表示されていた』、なんて話も聞いた。


自身は真面目に、丁寧に、お客と向き合ってきた男は、そんな話を聞かされる度に遣る瀬無くなる。


変わったのは運転手だけではない。


お客さんの質も、昔ほど良くはないと感じる。


リストラや、その他の人間関係で抱え込んだ憂さを、車内で晴らしていく人が増えた。


ちょっとの事で、直ぐ暴力を振るう人。


あからさまに殴れば警察沙汰になるから、足で運転席の後ろをドカドカ蹴ってくる。


暴言を吐くのなんて珍しくもない。


禁煙の車内で、平気でタバコに火をつける。


平成の初めくらいまではあまり見なかった、人としての品格を持たない者がより増えた。


大都会における長年の乗務で、すっかり心を擦り減らした男は、高齢に差し掛かったのを機に、仕事を辞め、田舎に越してくる。


今は地元の小規模な会社に勤務し、妻と二人、細々と暮らしていた。



 男は、隣に座り、前金と指示を出した後は一言も話さない少年の事を考える。


まだ10代だろう。


その端正な顔立ちは、後部座席に三人もの少女を乗せている事からも判断できるが、さぞかし女性を惹きつけるだろう。


身なりも良い。


そのスーツは、バブル時代、多くの富裕層を乗せてきた男から見ても、一級品だと確信できる。


あまりテレビを見ないので、今時の芸能人には疎い男だが、この少年はその類ではない気がする。


ゴシップになりそうな事を、ここまで堂々としているのだから。


何処かの御曹司か、将又はたまた莫大な遺産でも引き継いだのか。


色々想像は尽きないが、自分とは最早住む世界が異なる少年相手に、それ以上の詮索は無粋でしかない。


後ろに座る少女達は、時折片言の会話をする程度で、それ以外は至って大人しくしている。


大声で騒ぐでもなく、車窓を流れる景色には目もくれず、ひたすらスマホを弄っているだけの若者達とも違う。


この少年に選ばれるくらいだから、きっとそれなりの人物なのだろう。


高速の途中で、休憩にと、インターチェンジに立ち寄る。


男が休憩を取り易いように、少年ら四人が一斉に車を降り、20分後に再度戻ると告げられる。


お陰で男は用も足せ、身体を伸ばす事もできた。


3時間後、到頭目的地に辿り着く。


車内では終始眠るように目を閉じていた少年が、荷物と少女達を先に降ろすと、再び助手席に座り、清算をしようとした男の手を止めて、話しかけてきた。


「お釣りは要らない。

それは貴方が正確に走ってきた代償だ。

回り道をせず、無駄なく走ったからこそ大きく浮いた分。

運転も丁寧で、車内もきちんと掃除されている。

タバコの臭いもしなかった。

彼女達も、きっと不快な思いをせずに済んだことだろう」


メーターに表示された金額は7万円弱。


実に8万円がチップとして頂ける計算になる。


「お客様、流石にそれは多過ぎます」


運転手として、ごく当たり前の事をしただけで頂けるようなチップの額ではない。


男としても、久々に好感の持てるお客さんだったから尚更だ。


「貴方はこれから元の場所に帰るのだろう?

その分は、(運よく向こうに行く客に出会わなければ)全く利益にならないではないか。

こんな場所まで乗せていただいたのだ。

せめて帰りの分くらい、お支払いしたいのだが」


「・・・」


長年この仕事をやってきて、こんな事を言われたのは勿論初めての男。


咄嗟に言葉が出ない。


「時に、自分達は3日後の昼、再びあそこに戻るのだが、貴方の都合はどうだろうか?

当然、迎車扱いにして、往復の料金をお支払いするが」


その時、男が何と答えたかは分らない。


ただその数か月後、御剣グループの社用服を着て、その重役達を乗せて走る男の姿が確認されたという。



 「素敵な所ね」


高台に建つ、洒落た洋館を眺めながら、沙織がそう口に出す。


周囲に他の人家が存在せず、よく手入れされた庭と掃除の行き届いた建物が、心地良い潮風に晒されて、輝く海を見下ろしていた。


「本当にこんな所に泊まれるの?

まるでドラマのようじゃん」


美樹も興奮を隠せない。


「部屋に案内しよう。

個室と大部屋のどちらが良い?」


沙織が馨の顔を見る。


彼女が頷くのを確認した沙織が、序でに美樹の顔を見て、笑顔で返事をする。


「大部屋で」


三人の荷物を持ち、彼女達を部屋まで案内した和也は、その内装に見惚れる彼女らに向けて言葉を発した。


「浴室は何時でも使える。

温泉だし、オーシャンビューだから眺めも良い。

お勧めは夕方だ。

ここの夕陽は一見の価値があるぞ。

ガラス戸はマジックミラーになっているから、外からは内が見えない」


「食事は3食、寮と同じ時間に出すが、今日は今から何か軽いものを作ろう。

腹が減っているだろうしな」


休憩場所で、立ち食い蕎麦を食べただけの美樹を見て、そう付け足す。


「18時までなら泳げるだろうが、今日はもう散歩くらいにしておけ。

明日以降は朝から泳げる。

プライベートビーチだから、人の目を気にする必要も無い。

・・君さえ良ければ、泳ぎを教えてやれるが?」


今度は馨の顔を見て、和也はそう告げる。


「良いのですか?」


遠慮がちに、でもとても嬉しそうに尋ねてくる。


「勿論。

それもまた、寮長の仕事でもある」


「いやいや、そんな訳ないって!」


美樹の、笑いながらの突っ込みが入る。


この後、軽食を取り、周囲を散歩した彼女達は、入浴中の美しい夕陽と星空に感動しながら、少し早めの床に就き、寝入るその時まで、話に花を咲かすのであった。



 『使い心地はどう?』


深夜、そろそろ眠りに入ろうとした和也の下に、有紗からの念話が入る。


『まだ仕事をしてるのか?』


『もう少しで終わるわ。

皐月が眷族になってくれたお陰で、体力的に心配のなくなった彼女に、今までの倍の仕事を回せるから。

それに、あまり早くベッドに入っても、隣にあなたが居なければ、時間を持て余すだけだから』


『ベッドは基本的に、身体を休ませるためにある。

お前達のように、持久力を鍛えるような使い方は、本来の用途ではないぞ』


『失礼ね。

ただあなたに寄り添っているだけの時間の方が、ずっと長いでしょ』


穏やかな口調で、まるで和也の頬にその掌を宛がうような声音で、そう告げてくる。


『そうだな、今のは失言だった。

自分も、そんな時間に随分と癒されてきたのだから。

・・ここは良い所だ。

大き過ぎず、過度な装飾もない代わりに、自然と溶け込む緩やかな時間を持てる。

お前が見つけたのか?』


『ええ。

見つけたと言うより、仕事上の知り合いの方から、買ってくれないかと頼まれたの。

子供に残すと適当に売られてしまうから、その価値が理解できて、大事に使ってくれそうな人に譲りたいと。

・・大切な人との、思い出の場所なのですって』


『ではその人物はもう…』


『ええ。

・・先月、お亡くなりになられたわ』


『長く生きるという事は、それだけ託されるものが増えるという事でもある。

その地位にいる間は、これからも増えていくだろう。

・・辛いか?』


『私一人じゃないから大丈夫よ。

この姿に戻る前からの、20年来の知り合いの方だったから、今は少し感傷的になっただけ。

・・それより、複数の女子高生達と海辺の別荘で遊べるなんて、まるでゲームのようだけど、イベントは起こしたら駄目よ?

私が後で、紫桜さんから叱られるんだからね、フフフッ』


『現実では、あんな事は極希ごくまれにしか起きない。

制作者という、神の意思が働かない限りはな』


『あなたが正にそうじゃない。

この世界は、他ならぬ、あなたが創ったのよ?

ゲームのやり過ぎで、誰が本当の神様なのかを忘れないでね』


『お休みなさい』と、笑いを含んだ声で伝えながら念話を閉じた有紗に向け、和也は独り言つ。


「そう言えば、そうだったな」



 翌朝、波の音で眠りから覚めた彼女達は、少し開けられた小窓から香る潮の匂いに食欲をそそられ、朝からしっかり食事を取る。


それから半時はんときほどの休憩を挟んで、全員が水着に着替え、直ぐ側のビーチへと向かう。


タクシーを拾う前、駅前のビルに入るショップで急いで買い揃えた水着を初めて和也に披露した三人は、パーカーを脱いでビーチパラソルを立て始めた和也の肢体に目を奪われる。


普段の黒スーツの下に隠された、芸術と呼んで良い程の肉体美。


ボディービルダーの、見せるための筋肉とはまた違う、実戦的、実用的な美しさがある。


「御剣さんって、何か武道でもなさっているのですか?」


眩しいものでも見るかのように、白いビキニ姿の沙織が尋ねてくる。


「特に何もしていない。

強いて言えば、寮長の嗜みだな」


「じゃあさ、もしあたしが溺れたら、その身体でカッコよく助けてね?」


オレンジ色のビキニを着た美樹が、慣れない媚顔を作ってそう茶化してくる。


「済まん、自己責任で頼む」


「ひどっ!」


「そこに浮き輪を置いておくから、自由に使ってくれ。

クーラーボックスの飲み物も、好きに飲んで良い」


体育会系の女子らしく、砂浜で準備運動を始めた美樹と、それに付き合う沙織にそう声をかけ、和也は馨の側に行く。


ブルーのワンピース姿の馨は、顔を真っ赤にして照れていたが、和也に『先ずは軽く水に慣れよう』と手を差し伸べられると、大人しくその手を取ってきた。


素足になり、ごみの無い砂浜を、二人で歩く。


行事以外で男性の手を初めて握った彼女は、その大きさ、力強さに自然と鼓動が速くなる。


「温かいですね」


「ん、何がだ?」


「御剣さんの手。

以前読んだ小説では、『手の冷たい人ほど、心は温かい』なんて書いてありましたが、当てにはなりませんね、フフッ」


「それはまあ、雪の中に手を突っ込めば、誰でも暫く手が冷たくなるからな」


「御剣さんって、もしかして照れ屋さんですか?

ご自分が褒められると、そうやってけむに巻こうとしますよね」


「・・自分の周りには、こんな自分を過大評価してくれる者が多い。

それはとても幸せな事かもしれないが、その期待に陸に応えてやれない身には、彼(彼女)らの言葉が些か重い時もある」


その表情に、僅かに悲しみの色が浮かんだ事に気が付いた馨は、更に言葉を付け足す。


「他の方は知りませんが、私は貴方に、側に居て下さる事以外、何も求めません。

そこに居て下さるだけで良い。

それだけで安心して眠れ、笑い、そして話せる。

色々お世話をしていただいている身で言えた事ではありませんが、御剣さん、ただ貴方が傍に居るだけで、私は幸せなのです」


「まるでお守りみたいだな」


「そうですよ。

心を開放し始めた私が、不安に負けないよう、常に内心で抱き締めている人、それが貴方ですから。

・・だから、この手もまだ放してあげません。

しっかり握っていて下さいね」


何時の間にか、海水が彼女の胸くらいまで達している。


「済まん、この辺りで始めよう。

もう片方の手もこちらに。

・・砂をゆっくり蹴って、先ずは顔を海水に浸ける事から慣れていこう」


水の精霊が気を利かせ、彼らの周囲の海水から、不純物を取り除く。


只でさえ奇麗な海水が、更にその透明度を増して、息継ぎで顔を上げた馨の顎を伝っていった。



 「花火でもするか?」


夕食後、お茶を飲んでいる三人に、そう尋ねる和也。


「花火?

・・懐かしいな。

もう随分やってない」


美樹が感慨深げにそう言うと、沙織も同意する。


「小さな頃は両親と毎年してましたが、中学に入ると、もうやらなくなりましたね。

何をするにもゆっくりと流れていた時間が、その頃には急に慌ただしくなったからかもしれません。

・・でもここでは、再び時が緩やかに流れています」


立ち上がった二人は、まだした事のない馨に声をかけ、玄関へと歩く。


少し遅れて、大型のボストンバッグとバケツを持った和也が外に出てくる。


「何その荷物」


美樹が目を丸くする。


「当然花火だが」


「それ全部ですか!?」


てっきり、駄菓子屋さんで売っているような、小さな袋詰めの物だと考えていた二人は、バック一杯に詰められた花火に驚いて、少し呆れる。


鞄からは、大型の打ち上げ花火までが、顔を覗かせていたから。


「初めての者も居るし、一通り見せてやろうとしたのだが・・」


結局、打ち上げ花火は和也お勧めの1発だけにして、後は大人しいものだけにする。


嬉しそうに線香花火をする馨を見て、美樹が『似合い過ぎ』と、苦笑いしていた。



 次の日は和也が小型のクルーザーを出し、少し沖合に出て皆で海に潜り、水中眼鏡を使って、岩場に棲む生き物達を観察した。


水深が5mくらいあるから、馨と和也がペアになり、他の二人も、潜る時は専用スーツに命綱を付けていく。


伊勢海老やアワビを見ても取りはしないが、彼女達はまるで宝探しをするかのように、海底を探検していた。


海上に出る時は、和也の首にずっと腕を回して、まるで抱き合うような格好でいた馨の顔からは、深い水の底に対する恐怖がまるで感じられなかった。



 3泊4日の滞在は、彼女達三人の絆をより強固にし、和也を介さなくても、馨は二人と自然に話せるようになる。


帰り際、『三人の集合写真を取ってやろう』と言う和也を皆で引き込み、輝く海を背景に、記念撮影する。


シャッターが切られる際、其々が和也の身体に身を寄せ、彼にそっと手を添えていた。

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