幕間(番外編的なものとしてお読みください)

 「「明けまして、おめでとうございます」」


「おめでとう」


妻六人が一斉にそう挨拶して頭を下げてくる中、和也も珍しく和服姿(勿論黒)で彼女らに挨拶を返す。


ここは地球の、有紗が所有する億ションの和室。


和室といっても普通の旅館の大広間くらいの広さがあるので、七人で寛いでもまだかなりの余裕がある。


最上階が全て彼女の住まいという(億ションの4区画分)、贅沢な造りならではのゆとりである。


六人全員が豪華で華やかな着物姿であり、それを初めて身に付ける三人(マリー、アリア、ヴィクトリア)の為に、紫桜が、着付けや正座の仕方を丁寧に教えていた。


エリカは以前、和也に乞われて何度か着た事があるので、もう手慣れたものだ。


胸の大きな妻達ゆえ、和服は息苦しいだろうと和也は普段着で良いと言ったのだが、地球での、それも日本における新年の挨拶くらいは、その土地に伝わる伝統衣装で臨みたいという彼女らの意向に有難く甘える形になった。


其々を象徴する花をあしらった簪を指し、皆が異なる色の着物を身に着けて左右に並んでいる様は、和也でなくても何らかの媒体に記録を残したいと願う事だろう。


「皆忙しい最中さなか、わざわざ自分の為に時間を作って貰い、感謝している。

今日はゆっくり寛いでくれ」


挨拶が終わったのを見計らい、この日のために呼ばれたエレナが、軽い食事とお酒を運んでくる。


彼女にも冬の休暇を与えようとしたら、ここを手伝ってから、エリカと温泉に行きたいと控え目な要望が出されたので、その二人の為に、既に『花月楼』を予約してある。


日本酒や刺身が初めてのヴィクトリアは、興味深そうにそれを口にし(アリアは和也と暮らしていたから経験がある)、マリーはひらひらする着物の袖に気を付けながら、不慣れな箸を使い、黒豆と格闘している。


そんな中でも、全員の姿勢が美しいのは流石だ。


誰一人、背骨が曲がっていたり、着崩れしている者がいない。


自分達の恥は旦那様の恥に繋がる。


そう考える彼女達であるから、初めてな事、不慣れな事には予めそれに精通した仲間の誰かに教えを請い、練習してから場に出てくる。


夜の予約については互いがライバルであるが、他の面では其々が仲の良い、家族や友人でもあるのだ。


和やかな談笑を伴う食事が済むと、エレナを含めた全員で風呂に行き、浴室の壁面に和也が映し出した、各地の映像を眺めながら湯に浸かる。


その映像の1つに、ヴィクトリアが疑問を呈した。


「あれは何をしているのですか?」


大勢の参拝客が神社でお参りしているのを見て、そう口にする。


「神に祈りに来ているのだ」


「あなたにですか?」


「いや、この国で祀られている諸神にだ」


苦笑しながらそう答える和也。


そう言えば、彼女にはまだ説明していなかった。


「この星では、人前で魔法を使ってはいけない事は既に伝えたと思うが、ここではまだ、自分は民に正体を晒していない。

色々と厄介な問題が起きるのでな。

だから、現代ではほとんどの地域で、人々は自由に己の信じる神に祈る事ができる。

自分の名を唱えている者など、誰も居らんよ」


「あちらの世界では、徐々にあなたを敬う者達が出始めましたよ?」


「エメラルドのせいだな。

まあ、苗字だけで、外見も何も分らないのだから、放置しているが。

本来自分は、人から信仰されるような立場ではない」


「何故です?

旦那様は、この世界の創造主にして唯一神なのでしょう?

十分、その資格がお有りではないですか」


納得がいかないと言わんばかりのヴィクトリアが身をよじったせいで、静かだった浴槽のお湯に波ができ、縁から溢れて大理石の床を洗う。


「祈りや感謝の気持ちというのは、自然に湧き出るからこそ価値がある。

他者から強制されたり、此れ見よがしに力を示して強いるものを、自分は欲しない。

勿論、食事時の祈りのように、習慣化しているものまで否定している訳ではないぞ」


「・・まあ、私も存在していなかった魔法神を信仰していたのですから、他者をとやかく言う事はできませんが。

せめて、ビストーの国教にしては駄目ですか?」


「駄目、絶対」


二人の遣り取りを見て、クスクス笑うエリカを見ながら、和也が笑みを浮かべて付け足す。


「エリカを女神として敬う宗教なら、興しても構わん」


「そうしたら、わたくしは信者の為に時間を割かなくてはなりませんね。

あなたとの時間をもっと減らさなくては・・・」


「余計な発言だった。

今のは取り消す」


エリカの言葉が終わらない内に、和也が自らの発言を撤回する。


「・・どうせ口ではエリカさんに敵わないのだから、最初から喧嘩を売らなければ良いのに」


少し面白くなさそうに、紫桜が呟く。


「あら、こういう遣り取りは必要ですよ?

人ではなくなり、時間や世事に疎くなりつつある身に風を通す意味でも、このような些細な漫才は、心の活性化に繋がります」


「別に漫才をした積りはないのだが・・」


「?

夫婦二人でやるボケとツッコミを、夫婦漫才と言うのでしょう?」


「何処がボケとツッコミよ?

惚気にしか聞こえないわ」


紫桜がそう言うと、有紗が透かさず他の四人に向けて説明する。


「ええと、一応ここまでが、漫才と呼ばれるこの国の芸のワンセットです。

少し分り辛いと思いますが」


「成る程。

芸だったのですね。

口論にしては、些か熱が足りないと感じておりましたが」


マリーが納得したように頷く。


「芸だったんだ。

いつものように、エリカさんにからかわれてるのかと思った」


アリアが笑みを漏らす。


「・・だから、漫才をした積りはないと言っているのに」


和也はもう一度そう呟くと、諦めたように、壁面に移る光景を眺め出した。



 「凄い人出ね」


あの後、既に出かけたエリカとエレナを除く五人が阿弥陀籤あみだくじを引き、和也からのお年玉を貰った。


勿論、お金などではない。


1から5までの番号を当てた者達が、数字に相当する景品を取っていくものだ。


因みにその中身は、彼女達の希望を聴いてある。


1等、和也との夜の予約権3日分。


2等、和也との泊りがけデート券。


3等、和也との1日花見券。


4等、和也との初詣券(食事付き)。


5等、和也に何かをして貰う券(夫婦の営みを除く)。


カッコ内は和也によって書き足されたものだが、その内容から、誰がどれを望んだのか、大方の予想はつくだろうか。


素直に当人達が望むものを与えないのは、『それでは面白くないから』という、彼女らの意向による。


1等はマリーが引いた。


引いた瞬間、普段は凛々しく、あまり表情を崩さない彼女が、口元が緩むのを意識的に抑えるくらい、嬉しかったらしい。


慎み深い彼女は、人前で露骨にそれを表に出す事はしないが、和也との夜を、何よりも大事にしている。


場がお開きになると、そそくさと自国に戻り、スケジュールを調整し始めた。


2等はヴィクトリア。


本人は遠慮して、それより下のものを望んだらしいが、勿論これでもお釣りがくる。


他の妻達に気を遣い、大袈裟には喜ばなかったが、顔に出た嬉しさまでは隠そうとはしなかった。


3等は有紗。


自らが望んだものとは少し異なるようだったが、これを機に、二人で異世界の桜並木を歩きたいそうだ。


神ヶ島では、和也によって植樹された桜が毎年見事に咲くし、和也の居城がある星でも、勿論、あちこちにある。


教員としての時間が長い彼女は、その学び舎で必ず目にするかの花に、二人だけの姿を晒す事は今までなかった。


有紗にとっての桜は、学校という、生徒達にとっての特別な場所を象徴する花であり、自らが学生であった間は、その咲く様を見て、『やっとここまで来れた。またもう1年頑張ろう』と奮い立つ、励みの存在でもあった。


そんな桜に、愛する人と一緒で終始ニヤニヤしているだろう自分の姿を見せるのが、とても恥ずかしかったと後日述べている。


4等を引いたのは紫桜。


己が差し出した望みを大幅に下回るものであったが、和也が付加した条件と、『認識不全の魔法をかけるが、地球の神社に参拝しよう』という、願っても無い言葉に、満面の笑みを浮かべる。


頻繁にではないにせよ、幾度となく有紗の家に顔を出す彼女だが、まだ和也から、外出許可を貰ってはいない。


和也同伴なら許されるが、それも今までにたった一度しかない。


どういう風の吹き回しか知らないが、彼女はこの幸運をいたく喜んでいた。


最後の5等を引いたのはアリア。


これは本人の希望通りだったらしく(カッコ内はどうか知らないが)、何をして貰うか、既に決めてあるらしい。


彼女もその準備があるからと、お開きになるとさっさと自分の家に帰って行った。


皐月を伴い、これから新年の挨拶に臨むという有紗、二人の邪魔をする事なく、この家で地球の情報をもっと収集したいと申し出たヴィクトリアと一旦別れ、和也は紫桜を連れ、その約束を実行すべく、初詣のため伊勢へと転移した。


内宮の入り口付近、駐車場に停められた車の陰に転移した彼らは、何食わぬ顔で歩き出す。


紫桜には既に認識不全の魔法がかけられ、その容姿が正確に他人の記憶に残る事はないし、偶然向けられたカメラ等にも映らない。


服装も、和也はいつもの一張羅、紫桜は普段着用の、黒い振袖姿で来ている。


この日はいつもより人出が少なかったらしいが、それでも途切れる事のない人の列に、人混みがあまり好きではない彼女は、溜息と共にそう漏らした。


「自分達の周囲1mに障壁を張ってある。

どんなに混んでいても、人とぶつかる事はないから安心しろ。

これくらいで音を上げていては、この世界ではやっていけないぞ?」


「わたくしは高貴な生まれだから、人混みの中にいる必要はないの」


「そうだったな」


紫桜が幾分抑揚をつけて言い放った言葉を、そのまま肯定する和也。


「ちょっと、そこはツッコミを入れる所でしょう?

肯定されてしまったら、わたくしが嫌な女みたいじゃない!」


「分ってないな。

ボケにボケで返す、高等テクニックを披露したというのに」


「・・ほんとかしら。

漫才というものは未だによく分らないわ」


「自分がお前の事を、そんな風に考えているはずがなかろう。

大事な妻の一人なのだから」


「・・・」


途端に機嫌を直した彼女が手を繋ごうとすると、和也の動作によって阻まれる。


彼は入り口の鳥居の前で立ち止まり、丁寧に頭を下げていた。


「あなたが他者にそんなに丁寧なお辞儀をするなんて、何だか変な感じね」


そう言いながらも、夫がそうした以上、自らも美しい動作で礼をする紫桜。


「その土地で大切にされているしきたりや慣習は、可能な限り、尊重する事にしている。

まあ、中にはどうしても無理な事も、あるにはあるのだが(発酵を促すため、作成者の唾液を用いて作る酒を、歓迎の証として訪問者に出してくる所など)」


「初対面の時、わたくしにさえ、ちゃんと頭を下げてたものね。

今考えると、わたくしの方が恥ずかしいけれど」


「人を初めて訪問する時、他者にものを頼む時、誰かに意見を述べる時など、こちらから先ず礼を尽くさねば、旨く行くはずの事も旨く行かず、本来なら聞き入れられるはずの事にも耳を貸しては貰えない。

最近のこの世界を見ていると、やたらに相手の粗やミスを攻撃するばかりで、己は矢面に立たず、善後策さえ示さない(示しても抽象的過ぎて役に立たない)者が目立つ。

人の上に立つ者は、勿論その責任を負わねばならないが、独裁者や国王でもない限り、その者だって、多方面からの要望にできるだけ沿うよう、頭を悩ませ、心を砕いているはずなのだ。

相手を支持し、期待を寄せているからこその苦言である事が伝わらなければ、その発言は、受け手にとっては只の中傷、嫌味や暴言にもなりかねない。

明らかにその罪を糾弾するような場合ならともかく、他者の為に何かを為してる者にかける言葉には、日頃から気を配りたいものだ」


「新聞やテレビ、ネットなんかでも、以前より攻撃口調が目立つものね。

支持を集めるには時流に乗る方が簡単だし、褒めるより貶す方が楽だけど、見ていて気持ちの良いものではない事だけは、確かだわ。

そうしてる人達の顔は、本来の凛々しさ、美しさを失っているようにも見える。

わたくしも気を付けないと」


「思い当たる節でもあるのか?」


「最近少し、焼き餅を焼き過ぎかな、なんて。

あなたにしか見せない顔だけど、あなた相手だからこそ、より気を付けないとね。

わたくしの醜い面など、仮令極僅かでも、あなたに知られたくない」


「感情に起伏があり、表情に富む事は、人の持つ魅力の1つでもある。

要はその折り合いだ。

常に自身を戒める気持ちさえ持てれば、心配ないだろう」


「・・『お前にはそんな所なんてない』、とは言ってくれないのね」


少し頬を膨らませた紫桜が、そう言ってくる。


「自分がそんなキャラではない事は、お前も知っているだろう」


照れたように幾分足を速めた和也の背に向かって、彼女は呟く。


「えーえー、よく知っておりますとも。

少しヘタレな所も、凄く素敵な所もね」


玉砂利を踏む音を若干強めて、先を行く和也に追い付く紫桜であった。



 『どうか今年こそは、○○と旨くいきますように。

長年の苦労が、報われますように!』


正宮前で手を合わせた和也の下に、隣に立っている少年からの、強い想いが流れてくる。


そのあまりの大きさ故、少しその心を覗いてみる和也。


過去にまで遡って見てみたが、何年にも亘って己を磨き続け、一途にその女性を想う様に、少し心打たれた。


少年の思念を追い、相手たる女性の心も垣間見たが、向こうも彼からのアプローチを待っている状態だった。


『その願い、叶えて進ぜよう』


応援の意味を兼ねて、彼の頭にそう語り掛ける和也。


「えっ!?」


びっくりしたように、閉じていた目を開けて、きょろきょろと周囲を見る少年。


後ろに他の参拝客が控えている事もあり、少ししてから去って行ったが、再度正宮に頭を下げ、物凄く嬉しそうに帰って行った。


和也が用いた言葉使いが、そこに祀られた神のものとは若干異なるであろう事は、喜びで満たされた彼は気付かない。


「まったくもう、子供みたいな事をして。

ちゃんと相手の気持ちも確認したのでしょうね?」


和也が何をしたのか薄々勘付いた紫桜が、苦笑しながら出迎える。


「それは勿論。

でもよく分ったな?」


「何となくね。

わたくしもあのゲームを何度かした事があるから。

尤も、その時は主人公であるあなたはいつも、最後に独りでゲームをしていたけどね」


「・・バイトのお姉さんすら来なかったのか?」


「ええ、誰も。

何でなのかしらね?

フフフッ」


「・・・」


そう言って嬉しそうに笑う紫桜を連れて、苦笑交じりに次の食事処へと向かう和也であった。



 「予約を入れた御剣ですが」


外宮の側にある『割烹 大○』は、全国的に有名な、伊勢海老料理を出す名店。


伊勢海老を食べるならここと決めている和也は、偶に一人でも訪れる。


「いらっしゃいませ。

・・個室をご予約ですね。

階段を上がった直ぐのお部屋をご用意致しております」


その声に見送られ、紫桜と二人で入り口から直ぐの階段を上り、左手の個室に足を踏み入れる。


テーブルを挟んで左右に座る座椅子の下は、掘り炬燵のように足が伸ばせる作りになっている。


「良い所ね。

静かで趣がある」


掛け軸や書などにざっと目をやってから、紫桜は姿勢を正し、正面の和也を見据える。


元々が大和撫子の頂点に位置するような彼女であるから、その容姿は、和の空間に入れば一層際立つ。


「都会に在れば、予約を入れるのさえ困難だろう。

味も量も、申し分ない。

店には悪いが、あまり人に教えたくはない場所だな」


店名を冠した大吟醸を飲みながら、静かに、ゆったりとした時間を楽しむ二人。


コース料理の他に、追加で天ぷらや刺身を頼みながら、小振りの酒を何本も空けてゆく。


「そう言えば、あの時何を見ていたの?」


和也にお酌をしながら、内宮での出来事を尋ねてくる。


正宮への道すがら、時々ふと立ち止まっては、誰かを見ていた和也。


その視線に現れた様々な色に気が付いていた彼女は、この場の酒の肴の積りで聴いてみた。


「かの人物達の、心を覗いていた。

他の人々より、漏れてくる思念が強かったのでな」


「今はチャンネルをほとんど閉じているのでしょう?

そんなに強かったの?」


和也が思念の海への扉をほぼ閉ざしている事を知っている紫桜は、その僅かにしか開かれていない扉を通ってまで漏れてくる思念に、少し興味を持った。


「実はあの場限定で、扉をかなり開けていたのだ。

内宮の中の空気は、明らかに他とは異なる。

大気が澄んでいる事は勿論、そこに居る者達も、普段よりずっと心が落ち着いている。

余程の者でない限り、醜く邪な考えを抱きながら、あそこを歩いてはいないからな」


「じゃあその人達、かなり酷かったのね?

でもそれにしては、あなたの瞳、紅くはなかったけれど」


「自分は犯罪者(予備軍)ばかりに目を遣っている訳ではないぞ。

彼ら(彼女ら)が抱えていた悩みや不満、そういったものに興味があっただけだ」


「差し支えなければ、どんなものだったか聴いても良い?」


和也の妻たる紫桜でも、彼が全てを語ってくれるとは考えていない。


殊に他者の秘密に関しては、裁きに必要なもの以外、ほとんど教えては貰えない。


和也に愛され、その能力を高め続ける彼女でも、他人の気持ちや感情は、それが自己に向けられたもの以外は、あまり分らない。


どうも和也によって、そういう制限が課されているようなのだ。


以前有紗も、二人でお茶を飲んでいた際、同じような事を言っていた。


「・・一人は、親との事で不満を抱えていたな。

自分の進路に経済的な面で反対されていたらしく、その事を根に持っていた。

『親なんだから、金くらい出せよ』ってな」


「随分身勝手な考え方ね。

わたくしのいた世界では、恐らくほとんど受け入れられないでしょう」


呆れたように、紫桜が口を開く。


「この世界は、殊にこの国は、お前の世界と比べれば、未だ豊かな生活を送る者達で溢れている。

周りと比較して、若しくは日頃の暮らし振りから、誤解を抱く子供達は多い。

親の多くが、苦しくても、お金が無くても、その姿を子には見せずに、頑張って何とかしようと励むからかもしれない。

中には確かに、自分の見栄のためだけに、子供にお金をかける者もいる。

だが大半は、自己の果たせなかった夢を子には諦めて欲しくないと、自身がした辛い思いを子にはさせたくないと、可能な限り子の望みを叶えようとしている」


僅かに眉を顰めながら、継ぎ足された酒を口にする和也。


「暮らしが豊かな間は良い。

しかし経済は生き物だ。

収入が減り、仕事を失い、体調を崩した親達が、如何に懸命にそのお金を稼いでいるかも陸に考えず、自己の欲求のみを口にしている(考えている)子(責任能力あり)の様は、正直、あまり目にしたくはない」


再度盃を干す和也。


「けれどな、自分は知っているのだ。

そういう子達の中から、やがて自己の振舞いを後悔し、改めると共に、それまでの恩を返そうとする者達が出始める事を。

自らが大人になって、似たような立場に置かれた時、初めてその苦労を悟り、人知れず涙する者達がいる事を。

だから今その時の姿だけで、彼ら(彼女ら)を判断するのは控えている。

既に取り返しがつかない罪を犯した者ならともかく、多くの若者には、幾つもの転機、岐路が残されているのだから」


「神様って大変よね。

善悪どちらに傾き過ぎても、人には良い結果にならないものね」


他人事ひとごとのように言わないで欲しいぞ。

自分が神であるなら、お前だって既に女神だろうに」


「わたくしはそのような存在ものになった覚えはないわよ?

わたくしは唯、あなたの妻になっただけ。

あなただけを愛し、あなただけに従う、あなた専属の『癒しの器』、それがわたくし。

他の地位や立場など、今のわたくしにはどうでも良いの」


「・・つまり、そっち方面にしか興味はないと?」


瞬間的に、部屋の中に猛烈な冷気が立ち込める。


「今度そんな事を言ったら、有紗さんと二人がかりで、1か月は部屋から出さないわよ?

わたくしの愛が、そこら辺の肉欲とは全く異なるという事を、その身体にたっぷりと教え込んであげる」


それ程低くはないのに、何故か震えが止まらない声と共に、形容しがたい視線が和也を貫く。


「も、勿論今のは冗談だ。

自分はまた、選択肢を間違えたらしい」


「ゲームではないのよ?

現実では、たった一度の間違いが、取り返しのつかない事にだってなるの。

尤もわたくしは、別にそうなっても良いのだけれど、有紗さんは今お忙しいみたいだから。

・・他にはどんな人がいたの?」


折角機嫌を直してくれた彼女に、『自分なら、仮令現実でもやり直せるが』と言わないだけの分別はある和也であった。


『一人は・・』というからには、他にも気になる者がいたという事だ。


酌をしながら、話を促す紫桜。


「・・もう一人の女性は、己の心の病と闘っていた。

その者は、職業として性風俗の仕事に就いていた。

だがそれは、本人の希望ではなく、他に割りの良い仕事がないため、生きていくために仕方なくしている仕事であった。

己一人なら、他にも選択肢はあったであろう。

だが幼い子供を抱えて、その子を養っていくためには、今の彼女には他に道がなかったようだな。

好きでもない男に日々身体を任せる苦痛と苦悩、それが徐々に彼女の心を蝕み、鬱を生じさせてはいたが、精神安定剤を飲みながら、子供の為に耐えていた。

今日あの場に彼女が足を踏み入れたのは、誰でも良いから、そんな自分の現状に、耳を傾けて欲しかったからのようだ。

仮令それが、未だに信じる事ができないでいる、神と呼ばれる存在であろうともな」


紫桜が柳眉を顰める。


そうせざるを得ない立場に置かれれば、何を置いても躊躇わずに死を選ぶ。


世界が和也の為だけに用意した、『癒しの器』たる彼女には、今しがた和也が話した女性の生き方が、全く許容できない。


それを自己に当て嵌めて考えた時、そこには激しい拒絶反応しか起きないからだ。


他の面では他者を慈しみ、哀れに感じる彼女も、そこだけは無慈悲になる。


尤も、それは和也との関係を前提に考えるからで、彼と無関係の、自己に置き換える必要のない存在になら、また別の感情が浮かぶのであろうが。


「自分は純愛主義者だ。

その周囲には、自分以外に身体を開く者を置かないし、完全には信用しもしない(勿論和也が妻として迎える女性に限った話)。

だが、自分が愛する者でないのなら、話は全く別だ。

その者の苦しみ、悲しみに共に苦悩し、痛みを分かち合うだけの心を持っている」


少しトーンが大きくなり過ぎたのを気にしてか、一呼吸置く和也。


「・・正直に言うと、今回はかなり迷った。

世に降りて、エリカやお前達と出会う前の自分なら、以前のように見過ごしたであろう。

たった一人、偶然目にした女性一人を助けたところで、世界が変わる訳でもない。

けれど、愛する者の腕に包まれる幸せを実感してしまった自分は、あの彼女にも、そんな時間を作ってやりたい、そう思ってしまった。

情けない神かもしれない。

意志の弱い存在かもしれない。

だが彼女に細やかなお年玉をやった自分を、今この時も、否定できないでいる」


黙って聴いていた紫桜が、徐に席を立ち、静かに和也の隣に腰を下ろす。


それからゆっくりと頭を和也の肩に載せ、口を開いた。


「あなたに具体的に愛して貰えるのは、わたくし達妻と、一部の眷族だけ。

その特権を安売りしたら怒るけど、それ以外の慈悲や救済の手までに、目くじらを立てる気はないわ。

わたくしも島の皆も、その手に救われ、現にここに居て、今を楽しく生きてる。

神様のあなたと、夫であるあなた。

それは同じようでいて、大きく異なりもする。

わたくしだけに見せてくれる顔があるなら、後はあなたの好きなようにやると良いわ。

わたくしも応援する。

有紗さんも言っていたもの。

それが1番、世のためになると」


「面倒ではなかったのか?」


「意地悪ね。

自分から率先してしないだけで、あなたのお手伝いなら、幾らでもするわよ」


テーブルの下で、和也の手にそっと指を添えてくる紫桜。


それから暫し、穏やかな時が過ぎていった。



 店から出ると、もう夕方。


夜の早いこの街は、既に多くの店舗が閉店の準備に入っている。


「あら、お店が閉まるの早いのね。

ヴィクトリアさんにお土産を買いたかったのに」


「既に準備してある。

ここに来たら、○○アワビは買わないとな」


「何時の間に?」


「自分を誰だと思っている。

在庫と売り上げが一致すれば、あの客数ならまず気付かれない。

魔法を使って購入してある」


「ふ~ん、手際が良いこと。

じゃあその分の時間が余るわよね。

もう少しだけ、わたくしに付き合ってね」


片手を和也の腕に添え、新旧入り乱れる街並みを、静かに歩く、紫桜であった。



 数日後。


「○○さん、ご指名だよ。

今日は貸し切りだって!

今時そうはいない客だから、手放すんじゃないよ」


ボーイさんが、控室で待機していた私に、そう声をかけてくる。


室内に多少険悪な空気が流れたが、気にしないで答える。


「はい、喜んで」


子供を託児所に預けながら働いている私は、早番しかできないから、この店のランキング入りする事は滅多にないが、それでも時々こうして雰囲気が悪くなる。


そんなに売れたいのかとも思うが、私が知らないだけで、彼女らにも色々あるのだろう。


4回分の貸し切りだから、それなりにまとまったお金が手に入るし、相手をするのも一人で済むから、心の負担はその分軽い。


個室の準備をしながら、今日もまた、心の牢獄の時間が始まる事に、思わず溜息を吐いた。



 「あ、服は脱がなくて結構です」


客を個室まで案内し、先に相手の衣服を脱がそうとしたら断られたので、仕方なく自分の服から脱ごうとした私に、彼がそう言ってくる。


「ご説明が遅れて済みません。

珍しい空間でしたので、少し見入ってしまって。

・・私はここに、所謂『客』として来たのではありません。

あるお方からのご指示で、貴女とお話をしに来たのです」


「話?」


「はい。

大変失礼ながら、貴女が今のご職業に不満を感じているのではと、あるお方がお気になさり、ご同意を頂ければ、他の職業をご紹介致したいと・・」


「え、何でですか?

以前取ったお客さんですか?

私、そんな事をしてくれそうな人に、心当たりなんてないですけど」


休憩中の会話でも、客に自身の身の上話などした事もない私は、訝って、お客様に対してついため口をきいてしまう。


「私も詳しいお話までは伺っておりません。

ただ仕事としてこちらに伺っているだけなので。

・・どうぞ、こちらにお座り下さい。

今書類をお見せ致します」


ぼけっと立ったままだった私に気を遣い、彼がベッドの端に座るように勧めてくる。


「こちらがその書類になります。

内容は、先ずは貴女のご意思を尊重する事。

次に毎月お支払いする金額にご納得いただく事。

そしてこの職種で良いかという事。

この3つが柱で、後は手続きに関する事や、当座のお住まい、お子様のお預け先など、必要事項が明記されております。

この場でご一読下さい」


信じられない思いで、渡された書類に目を通していく。


『私は決して、貴女が今お就きになっている職業を、軽んじている訳ではありません。

世に古くから存在し、多くの女性の魂の悲劇を未然に救済してきたであろう、悲しいですが、なくてはならない仕事であるとも認識しております。

この度は、突然で大変驚かれた事と思います。

どのようにして貴女の事を知り得たかは申せませんが、ここに記載された内容にご納得いただければ、直ぐにでも力をお貸しする用意ができております。

先ずはお読みいただき、その後で、使いの者に意思表示をお願い致します』


書き出しにこう書かれた文章を、一字も見落とさないよう、目を皿のようにして読んでいく。


給与は月額、手取りで30万円(昇給、諸手当、ボーナスあり)。


勿論今の仕事の方が稼げるが、この仕事は収入が安定しない上、心の負担が大き過ぎる。


新たに紹介して貰える仕事は相談員。


相談員!?


先を読んでいくと、その明確な説明がある。


御剣グループが新設する組織で、所謂『水商売』と言われて下に見られがちな職業に従事する方々の、日々心に溜まる不安や不満、悲しみについての話し相手となること。


主に電話やネットで、勿論可能なら対面で彼女ら(彼ら)の話を聴き、その心を僅かでも軽くすること。


『話す事が無ければ、世間話でも何でも良い。

自分の話に耳を傾けてくれる、そんな相手がいるだけで、救われる人もいるから』


その文面を読んだ時、思わず涙が出た。


自分と同じ様に苦しむ人がいる。


そしてそれに自分が、他ならぬこの私が力を貸せる。


握りしめて皺くちゃにならないよう、細心の注意を払いながら、更に先を読む。


私がこの場で了承すれば、その日の内に諸手続きに入る事。


私さえ良ければ、住まいとして職場近くにマンションの1室を用意してある事(家賃無料)。


え、只!?


託児所は、職場近くにグループが運営する施設があり、そのサービスを無料で受けられる事。


・・もうこの時点で、断るなんて選択肢は、私には有り得ない。


『ご病気の治療に当たっては、系列病院の医師が、責任を持って治療に当たります』とまで書いてある。


この頃、毎日飲む安定剤の量も、その強さも増してきている。


『貴女の活動を通して得られるであろう、未来のお仲間達と共に、この仕事を盛り上げていただけたら幸いです』


全てを読み終え、私は零れる涙を拭う事なく顔を上げる。


「こんなの、断る訳ないじゃありませんか」


「そう仰っていただけると信じておりました。

私も、慣れない場所で緊張した甲斐があります」


私が全てを読み終えるまで、ベッドの端で、安普請の壁を通して時折聞こえてくる嬌声に身を縮こまらせていた彼は、ほっとしたように笑う。


「では早速、諸手続きに入りましょう。

1日貸し切りにすれば、同伴での外出もオーケイと聞き及んでおります。

フロントにその旨、お伝えいただけますか?」


「はい」


涙を拭いて、直通のインターフォンに手をやる。


『私』という存在が、今新しく生まれ変わる。


でもそれは、過去の自分を全否定する事までは意味しない。


今までの苦しみ、経験があるからこそ、より親身になって相談相手と向き合える。


鬱に悩まされてきた私だが、珍しく前向きな考え方だなと我ながら感心して、その音を鳴らすのだった。

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