第4話

 (森川馨の場合)


私は運が良かった。


常に空腹を抱え、給食だけが満足に食べられる食事であったが、両親はその給食費を

払ってくれなかった。


その事に負い目を感じながらも、生きるために食べざるを得なかった私に、当時の担任の先生は、皆には黙って、ご自分で立て替えて下さっていた。


夏休みに入り、両親が長期の旅行で家を空けると、食べる物が無く、眠る事で空腹を紛らわせていた。


担任の先生が心配して様子を見に来てくれなかったら、多分、あの時餓死していたのではないだろうか。


その後、先生が当時運営を始めたばかりの御剣グループの児童施設に連絡を取って下さり、そこに引き取られた。


私が中学1年生の時である。



 私の両親は、私に全く関心が無かった。


私が生まれたのも、高をくくって避妊をしなかったせいらしい。


お酒が回ると、よくその事で二人が言い争いをしていた。


堕胎しなかったのは、当時の二人に、そんな余分なお金が無かったからだとも(出産費用は踏み倒したらしい)。


両親の実家については、聞かされた事もない。


家には、何かの集金を催促する人以外は誰も訪ねて来なかったし、固定電話もなかったから、電話すらかかってこなかった(時々、親のスマホの着信音はしたけれど)。


小学校に上がるまでは、母は、それでも渋々育ててくれてはいた。


自分達が食べ残した物の他に、日に一度か二度(機嫌の良い時)、食パンをくれたし、偶に、パチンコで取った景品のお菓子をくれたりもした。


洗濯は週に一度くらいしかしてくれなかったけれど、お風呂は3日に1回くらいは入れた。


けれど、バイト先をクビになり、父も同じようにクビになって、何をしているか分らないようになると、それすらもしてくれなくなった。


それまでは、私が何かの許可を求めると、一応は振り向いてくれた母も、面倒臭そうに『うるせえ!』と怒鳴っていた父も、全く私を気にかけなくなり、空腹を我慢できずに『お腹が空いたから何か下さい』とお願いした際に、そこで初めて殴られた。


それまでは、言葉で罵られる事は多くても、暴力を振るわれた事はなかった。


何度も叩かれはしたが、殴るとか蹴るというような、身体に痕が残るような暴力を振るわれた事はなかった。


ショックを受けた私に、『跡が消えるまで学校に行くな』とだけ言って、両親はそのまま何処かに出かけてしまった。



 それからの私は、生きるために必死だった。


親の隙を見ては、食べ物や小銭(500円玉やお札は直ぐにバレるから)を少しだけ盗み、それで食い繫ぎながら、なるべくその視界に入らないよう、親が在宅の間は外で時間を潰した。


毎回給食費を持って来ず、項垂れるだけの私に、小学校の担任の先生達は良い顔をしなかったが、それでも、『食べるな』とは言わないでくれた。


3年生くらいには、私の家庭事情は学校の先生方に知れ渡り、授業で使う教材のお金や、修学旅行費の積み立て等を催促されない代わりに、学校にあった誰かのお古の教材を渡され、遠足や修学旅行は休まされた。


私はそれを恨んだりなどしなかったし、寧ろ当たり前の事だと思っている。


お金を払わないのに何かを得れば、その分、それを作った人や用意した人が困る。


形の無いもの、余り物ならともかく、商品として売れる新品には、それを作るのに手間も費用もかかるのだ。


他の人の分を少なくする事でどうにかなる給食(最初はそう思っていたが、後の親切な担任の先生が、『PTA会費の裏金から出してるから』と、こっそり教えてくれた)とは違う。


家庭訪問等の手間を省いた代わりに、先生方は、少なくとも私に、必要以上の恥をかかさずにいてくれたのだ。


中学に入る際も、内緒で、何処かの家庭から調達したお古のセーラー服を用意してくれたし。



 中学では、更に幸運に恵まれた。


親切な担任の先生が、何かと気にかけてくれ、死にそうだった私を、御剣の施設へと入れてくれた。


これも後で知った事だが、児童施設にも色々ある。


その中には、まるで刑務所並みの、酷い扱いを受ける場所もあるという。


それを知ってか、あの先生は、ネットで詳しく調べ、あちこち連絡を取っては、私を最善と思える施設へと導いてくれた。


幸いにも両親は、私がいなくなる事を寧ろ喜んだから、施設に入る際の手続きもスムーズに済んだし。



 施設に入ってからは、暮らし振りががらっと変わった。


毎日3食、それも、好きなだけ食べられる(尤も、それまでの暮らしで、あまり食べられない身体になっていたのだが)。


お風呂にも毎日入れ、着る物や持ち物は、幾つかある選択肢の中から好みの柄を選んで、新品の物を渡される。


通う学校は異なったけれど、以前の私を知る人は居なかったから、せいぜい施設の子くらいにしか思われず、かえって気が楽だった。


自分専用の部屋があり、そこで静かに過ごせる幸せ。


誰に気を配る必要も、怯える事もなく、眠り、本を読める喜び。


その価値を知ってしまった私は、学校の図書室で沢山の本を借りては日々読み耽り、施設の職員の方々に、『何らかの心理的要因で引籠っているのでは』と、ご心配をおかけしてしまった程だ。


そんなある日、施設にとても偉い方がお見えになった。


食堂にあるテレビの画面では、間近に迫ったクリスマスに備え、次第に華やかさを増す街並みが映し出されていたが、『私には無縁の事』、そう思っていた所に、沢山の贈り物を持参したあの方がお見えになったのだ。


自身の周囲を見渡せば、何かしらその関連商品が目に入るとまで言われる程の、かの御剣グループの社長、香月有紗さん。


今は引退してお姿を見せなくなった、そのお母様と全く同じお名前。


余りにお綺麗でお若い方だから、職員の方からご紹介されるまで、何処かの芸能人かモデルさんがイベントで来たのかと思っていた(尤も、テレビで見た事のあるどの人よりもお綺麗だったけれど)。


お連れの方お一人(この方も凄い美人さんだった)だけで、事前連絡も無しにお見えになったから、職員さん達も慌てていて、少し可笑しかった。


雲の上のお方なのに、『本当はクリスマス当日に来るべきなんだけど、その日は大切な予定があるから。御免なさいね』と謝られて、私達一人一人にプレゼントを手渡し、何かしらのお言葉をかけてくれていた。


私と対面した際、不意に悲しそうなお顔をなされたが、直ぐに溢れんばかりの笑顔で、お菓子のセットを手渡してくれた。


お帰りの際、陰で隠れるようにお姿を見ていた私に何気なく近寄り、ハンドバックから、欲しかった本をこっそりと服に忍ばせていただいた。


それが偶然かどうかまでは分らなかったが、私の心に、再度(最初は元中学の担任)、暖かな光が灯ったのだ。


それ以降、施設の行事でお見えになる度に、隠れてお姿を拝見していた私を見つけてくれ、その時欲しいと思っていた本を頂けた。


何でお分りになるのかは知らないが、私には、あの方が神様のように思えた。


修学旅行にも参加できた中学を卒業し、幸せだった施設を出なければならない際、唯一心残りだったのは、あの方との接点がなくなってしまう事。


あの笑顔を、あのお声を、もう二度と拝見できない、拝聴できないと思うと、凄く切なく、悲しかった。



 グループからの十分な奨学金(其々の状況によって異なるが、私の場合、学費を除き、月額10万円)を得てこの寮へとやって来たが、二人いた先輩方も、皆良い人ばかりだった。


ただ、やはり私は人付き合いが下手で、どうしても独りになりたがる癖が抜けない。


先輩方が色々と気を遣って下さるのは分るのだが、中々自分からそれに応える事ができない。


施設でも、『もっと素直に自分を出して良いんだよ』と偶に言われたが、何で叩かれるのかが分らなかった両親との生活で、そうする事に、とても大きな勇気が必要なのだ。


学校では輪をかけて無口でいた私だが、衣替えが近付いたある日、その状況が一変する。


御剣和也さん。


私を変えてくれた人のお名前。


初めてお会いした時、その方は全身真っ黒の出で立ちで、石山先輩とお話しなさっていたから、てっきりその関係者だとばかり思っていた(お金持ちの秘書やボディーガードには、私はそんなイメージを持っている)。


けれど、その彼女から新たな寮長、しかも『御剣』という苗字だと聞かされて、内心で酷く驚いた。


厚かましくも、『もしかして、あの方が私を案じて使いの方を寄越して下さったのかも』なんて、浅ましい期待を抱いてしまった。


実際は違うと分ったが、今度は別の事で彼が気になり始める。


だって、凄く素敵な方だから。


そのお顔はもとより、お考え、行動、そして何より、纏われている雰囲気がとても温かい。


私の部屋の内鍵をお付けになっている間、そのお姿をただ拝見していた私は、少しも負の要素を感じなかった。


自分の領域に他者が入り込み、それを甘受せねばならぬ時に感じるある種の息苦しさも、相手の機嫌を損ねないかという怯えも、あの時は全く感じられず、それどころか安心して、つい友達のように話しかけてしまった。


彼は、『まだ高校に通えていない』、そう仰っていた。


その身なりや人となりからは想像もできないが、きっとこれまで色々なご苦労をされてきたのだろう。


人の不幸には、それこそ様々な形がある。


お金が無い、健康でないというようなものから、大切な人やものを失った、愛する人に愛されない等、その内容は人によっても異なる。


私は施設に入るまでの自分を、正直かなり不幸だと考えていた。


親に愛されず、放置された挙句に、死にはぐった。


親が自分に向ける笑顔を見た事がないなんて、きっと珍しいのではなかろうか。


でも、あの時先生に助け出されてからは、少なくとも人並みの生活は送れている。


もう二度と会えない誰かを思い、いつまでも続く悲しみ。


取り返す事のできない過去を、嘆き続ける苦しみ。


そういった、心が悲鳴を上げ続ける痛みを伴わないだけ、私は増しな方なんじゃないか。


最近になって、そう思えるようになった。


特定の誰かの為に、作られた温かな食事。


施設でもそうだったが、ここではより一層それを感じ、味わう事ができる。


『美味しかった』、『ご馳走様』と、相手の顔を見て言える喜び。


親の目を盗んで、こっそり食べてたあの頃にはない、確かな信頼と、感謝の気持ちが自然と滲み出る。


御剣さんのお作りになる食事は、空腹を満たすという本来の意味を遥かに超え、私に生きる意味と目標を与えてくれる。


この人の為に何かしたい。


この方にその存在を喜んで貰える、そんな自分で在りたい。


お弁当なんて生まれて初めて頂いた私は、一人でその幸せを静かに噛み締めるために、いつもより入念に独りになれる場所を探して、それを味わった。



 『もう、あなたには分っちゃったわよね』


『ああ』


『・・何となく似てるのよ、あの

昔の私にね。

私は虐待はおろか、食事を抜かれた事さえなかったけれど、その存在を無いものとして扱われる事は度々あった。

同じ家に住んでいても、遠慮して陸に相手の顔さえ見れなかった私が悪いのだけれど、その家の子にはあった誕生日やクリスマスのプレゼントが、私にだけはなかった。

勿論、お正月のお年玉もね。

あからさまではなく、私に隠れて自分達の子供に渡していた分、まだ傷が浅かったと感謝しなければならないわ。

それを知らない振りしてるのも、結構大変だったんだけどね、フフフッ』


『・・お前は実の親の記憶があるのか?』


『薄っすらとね。

小学校に入る前だったし、何で死んだのかも覚えてないわ。

両親に関するものは、親族が皆処分してしまったし』


『過去を覗く事もできるが?』


『今更良いわよ。

仮令彼らが親の財産を奪っていたとしても、私が今の地位に就いてから、一度も連絡を寄越さなかったのですもの。

それだけでも、十分評価に値するわ。

それに、あなたと一緒になれて、愛されて、今はこれ以上ないくらいに幸せだから』


『随分安上がりな事だ』


『それ、他の人には言っちゃ駄目よ?

きっと凄く叱られるから』


照れ隠しに和也が言った言葉に、有紗は笑いながらそう告げて念話を切る。


暫くぼーっとしていた和也だが、考えが纏まったのか、徐に腰を上げ、管理人室を出て行くのだった。



 その音に最初に気が付いたのは沙織だった。


もう直ぐ寮に着くという帰り道で、そよ風に乗り、微かに聞こえてくるピアノの音。


通常の下校時刻を過ぎているとはいえ、初夏の空は未だ明るく、光に満ちている。


『うちの寮にピアノなどないし、彼が音楽でも流しているのかしら』


寮に近付くにつれ、次第に音量を増していく演奏に聞き惚れながら、玄関へと辿り着く。


そのドアを開けて初めて、それが実演だと分る彼女。


2階の空き部屋から聞こえてくる音に訝りながら、そっとそのドアを開けた。


「お帰り」


ピアノを弾いていた和也が、演奏を止め、沙織に穏やかな声を投げかける。


「ただいま。

・・どうしたのですか、それ?」


これまで空き部屋だった所に、立派なピアノが置いてある。


「暇潰しに購入した。

ちょうどやりたいゲームも一段落したしな」


「ゲームをなさるんですか!?

何の!?」


普段はおしとやかというか、物静かな彼女が、凄い勢いで聴いてくる。


「・・大体はロールプレイングやシュミレーションRPGだが、良いものがあれば、ノベライズやアクションものもやる。

後は、偶にだが、まだ君達には早い内容の、PCゲームだな。

純愛ものに限るが」


「・・もし宜しければ、今度、お持ちの物を見せていただけませんか?」


「ん?

ゲームが好きなのか?」


「え、・・ええまあ、そうですね。

人並みには」


「大人向けの物以外なら、別に構わんが・・」


「是非!

・・それで、話は変わりますが、そのピアノ、ご自分でご購入されたのですか?」


己のテンションの高さに気が付いたのか、少し恥じ入るように、話題を変えてくる彼女。


「そうだ。

この間、偶々5連単を当ててな。

軽く年収分を超えたので、自分への褒美の積りで購入した」


「5連単?

・・何だか分りませんが、宝くじのようなものでしょうか?

そのピアノ、百万近くしますからね」


近寄って来て、繁々と鍵盤を覗き込む。


「お給料が安いと仰る割には、随分豪気な使い方ですね」


和也を未だにグループの関係者だと疑っていそうな、ジト目で見てくる。


「使いたい時に使ってこその、お金だろう。

墓場まで持っていく訳にはいかないのだから」


「そのお考えには同意致しますが・・」


完全には納得していないようだが、頭を切り替えたらしく、本来の疑問をぶつけてくる。


「暇潰しと仰いましたが、先程の演奏から察するに、相当な腕前ですよね?

子供の頃から習っていたのですか?」


「いや、ほぼ独学だ」


「・・譜面も読めずに耳から入る音だけで、あの曲を弾いていたと?」


「暇潰しだからな。

適当に音を出しながら、頭の中でそれを組み立てるだけだ」


「貴方って、存在そのものが出たら目ですね。

お料理の腕といい、一体どういう人生を歩まれてこられたのですか?」


「単に凝り性なだけだ。

気に入った事やものは、とことんやって、味わってみたくなる。

念入りに調べて、研究や改良をしたくなる。

・・君も長く生きれば、自然とそうなるさ」


「お爺さんのような事を言ってごまかしましたね?

・・森川さんが貴方を気にする理由が、今なら何となく分ります」


急に穏やかに、落ち着いた声音でそう語り出す彼女。


僅かに開けた窓から入る風が、彼女の髪を揺らし、部屋の空気を入れ替える。


「貴方の瞳には、濁りが無いのですわ。

夏用の制服を着た私に向ける、その穏やかな目。

色欲の影も見えない、澄んだ瞳。

こんなに傍でお話しているのに、まるで緊張を感じないのですもの。

きっと、自分に決して危害を加えない、優しく包み込んで守ってくれる、それが本能的に分るのでしょうね」


和也を見つめながら、彼女が静かにそう言ってくる。


徐に椅子から立ち上がり、部屋のドアへと歩いて行く和也。


「喉が渇いているだろう。

何か用意しておくから、着替えてくると良い。

もう直ぐそのも帰って来る」


「有難うございます。

今日のお弁当も、凄く美味しかったですよ?」


「・・アイスも付けてやろう」


「フフフッ、本当に、貴方で良かったですわ」



 楽しい夕食が終わり、各自が自分の部屋で食休みをしている。


和也の方針で、入浴の時間には大幅な改善がなされた。


掃除の時間以外は、何時でも入れるようになったのだ。


部活や自主練でかいた汗を我慢せずとも、帰宅時にさっぱりしたい時にも、シャワーや浴槽を使えるようになったのだ。


下着の洗濯は自分でするという彼女達に、そのための機会を増やしてやったのである。


これまでは、食べ過ぎて苦しいお腹(約一名)を抱えて、或いは見たいテレビがある時でも、決められた時間内に入る必要があったが、もうその心配はない。


お腹が落ち着くまでベットで寝転んで漫画を読む美樹。


学校の課題を先にやってしまおうとする沙織。


いつもは先輩二人が入った後に、そっと部屋を出て、浴場へと向かっていた馨は、夕食時の話題を思い出しながら、どうするかを悩んでいた。


和也が来た事で、彼に対する自主的な発言が見られ始め、それに連鎖して、他の二人とも話す頻度が高くなった彼女のお陰で、以前とは食事時しょくじどきの雰囲気がまるで違う。


通夜とまではいかなくても、それに近しい雰囲気で、黙々と食べていた頃とは違い、会話があり、時に笑いが起こり、団欒と呼べる、和やかな空気が流れている。


今晩も、和也がピアノを買った、『それも凄く上手なの』という沙織の話から始まり、美樹の『へえ、今度聴かせてよ』へと続き、和也の『良かったら、君も来ないか?』という嬉しいお誘いへと繋がって、それに対する自分の反応に、先輩達がニヤニヤし出すという、穏やかな時間が過ぎていった。


彼の表情や言葉の温かさから、社交辞令ではない事は理解できるが、皆で行くのならともかく、自分だけで向かうのは何だか図々しいような気がして、二の足を踏んでいる。


だが、それもある曲が聞こえてくるまでだった。


ピアノの搬入と共に、防音壁まで取り付けたと仰っていたから(『やりたい放題ですね』と、石山先輩が呆れていた)、仮令通路を隔てて反対側の、1番近い部屋であるとしても、薄く扉を開けてでもいない限りは、音は漏れてこないはずだ(2階には、各寮生の部屋と、トイレ、洗面所しかない)。


『もしかして、誘って下さっているのかな』なんて、淡い期待を抱きながら、そっと覗いてみる。


「遠慮しないで入ってくれ」


こちらに視線を向けている訳ではないのに、直ぐにそうお声をかけていただける。


「済みません、お邪魔ではないですか?」


「可笑しな事を言う。

君は寮生であり、ここは空き部屋を改装した共有スペースだ。

何時来ても歓迎するし、今日君をここへ招いたのは自分の方なのだ」


「私の勘違いではなかったのですね。

・・良かった」


ほっとして微笑む彼女。


「それで、私へのご用とは何でしょう?」


「君の歌が聴きたい」


ピアノを弾く手を止め、閉じていた瞳を開けて、和也が馨を見る。


「・・え?

あの、今この場でですか?

何故?」


予想外の言葉をかけられ、困惑する彼女ではあったが、不思議と嫌な気は起きない。


人の視線を避け、他者から認識される事を極力避けてきた彼女なのに、人前で歌を歌うなんて、ある意味物凄い自己主張に、強い拒絶を抱かない。


言われた相手が和也だった事もあるが、自分でも不思議だったようだ。


「君の声は素敵だ。

耳に心地良く、心に染み渡り、気分をさっと落ち着かせてくれる。

・・自分は君に、自身の生に前向きな人であって欲しい。

堂々と、その道を歩んで欲しい。

独りで過ごす時間は、内省を促し、客観的な視点と深い思慮を君に与えるが、同時に他者との繋がりを希薄にさせ、君へと手を差し伸べたい者の意思を挫いている。

君が将来歌うであろうその歌には、きっと多くの者が共感し、自身の周囲へと配る、その温かな視線を育てるだろう。

・・これから暫く、仮令少しずつでも歌の練習をしてみないか?

自分は君の、君の本当の歌が聴いてみたい」


この時間、この言葉こそが、それからの馨の人生を、非常に大きく変える事になる。


仮令それを、はっきりとは思い出せない日が来ようとも。

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