第2話
「ふー、食べた食べた」
寮にしては手狭な浴場で湯に浸かりながら、美樹が溜息と共にそう漏らす。
それを聞いた沙織は、洗い場で身体を擦りながら、苦笑する。
「食べ過ぎよ」
あの後、和也が用意した夕食を半信半疑で口にした彼女らは、一口食べて目を丸くした。
『『美味しい』』
ご飯に飢えていた美樹はそれから凄い勢いでかっ込み、沙織も黙々と食べ、馨までが嬉しそうに箸を運んでいた。
かつ丼と豚汁、お新香だけのシンプルな献立だが、素材の良さと味は折り紙付きだ。
何しろ和也はここに来る前、寮で出す予定の献立の内、巷の有名店でそれを出す店があれば、わざわざそこに足を運んで、その技術と味を盗んできたのだがら。
仕込みや使う食材まで、過去に亘ってトレースし、それを忠実に再現した。
時間が限られていたので、1日に10軒以上食べ歩いたが、呑み込めば消滅してしまう和也の身体には、何て事は無い。
勿論、だからと言って、その食事を軽んじたりはしない。
作り手への敬意もあるが、食べる事が好きな和也は、口に入れる前、呑み込むまでのその時間を、とても大切にする。
嘗てはただ、他者が食べているのを眺めるだけだった、食事という行為。
彼らの嬉しそうな表情や満ち足りた顔を見ていると、自分も無性に食べたくなったものだ(好き嫌いはあるが)。
あの時の気持ちを忘れず、現実に食する事が可能になった今でも、一品一品を丁寧に食べる。
そんな和也を、仮令一見と雖も、店主達は目の端で嬉しそうに眺めていた。
「仕方ないじゃん。
あんなに美味しいご飯、あたし、初めて食べた」
「それにしたって、かつ丼2杯は食べ過ぎよ。
豚汁だって御代わりしてたのに」
「そういう沙織も、御代わりするか、少し悩んでたじゃん。
デザートにゴマのプリンがあると聞いて、留まっただけじゃないの?」
「・・正直に言うと、危なかったわ。
でも、よく御代わり分まで用意してたわよね。
普通は女子だからと、量を加減しそうなものだけど・・」
「あたしらの事、しっかり調べてきたんじゃないの?
彼、かなりのやり手だよ?
沙織も見たでしょ?
あの馨が、食べながら微笑んでたし」
「ええ、見たわ。
正直信じられなかったけれど、確かに微笑んでた。
ここに来てから、一度だって笑った事ないし、口を利いた事さえ、数える程なのに・・」
「何かさ、彼女、彼の事ばかり見てなかった?
食べながら、時々ちらちら見てたよね?」
「やっぱり気が付いた?
珍しい事もあるものだわ。
私、彼女は人に興味がないものだとばかり思ってた」
「そうだね。
悪い
でも今日の夕飯の時には、それを感じなかったよね?
・・鍵を付けに行った時、彼と何かあったのかな?」
ニヤニヤしながらそう話す美樹。
「あの人、そんな人じゃないわ。
美樹が来る前、私、彼に結構失礼な事を言ったけど、それに眉一つ顰めなかった。
仮令正しい事を言った積りでも、言われた側では納得できない事もある。
なのに彼は、その後直ぐに対応してくれた。
今まで散々要望を出して、一度も叶えられなかった事によ?
彼の年齢なら、私達の気を引こうとして、用もないのにあれこれ話しかけてきそうなものじゃない?
でも、部屋に入ってもじろじろ中を見ずに、直ぐに取り掛かってくれたし、終わってから、さっさと帰ろうとしたでしょう?
違う?」
「・・違わない。
ベッドに寝転んで、パンツが見えそうな格好で漫画読んでたけど、一度確認した後は、こちらを見もしなかった」
「ねえ気が付いた?
このお風呂場だって、かなり奇麗になっているでしょう?
あの辺りの黴とか汚れが、全部落ちてるし」
前の寮母もそれなりに働いてはくれたが、もうある程度の歳だったし、一人で切り盛りしていた事もあり、細かい所までは行き届かなかった。
寮費が安かったから、文句は言えなかったのだが。
「あたしらが食事した後、自分は食べずにお風呂の用意してたもんね。
彼じゃなかったら、今だって覗かれる事を心配する所だし」
「これまで随分苦労してきたのかな?
私達と同じくらいなのに、纏ってる雰囲気は完全に大人のものだわ」
「・・まあ何にせよ、あたしは彼が来てくれて良かったよ。
胃袋が、物凄く喜んでる」
「結局はそこなのね」
会話が弾む彼女達であったが、翌朝青くなる。
晴天の庭で、和也が洗濯物を干しているのを見て。
そよ風に揺れるそれは、間違いなく自分達の下着。
昨夜、いつものように脱衣籠の中に放り込み、そのままにしていた。
これまで寮母がやってくれていたから、つい習慣で見過ごしていたのだ。
慌てて駆け寄って、『下着は自分達で洗います』と申し出たが、和也の、『ちゃんと手洗いしているぞ?』との返事に、恥ずかしさで下を向くのが精一杯であった。
因みに馨は、いつも最後に風呂に入っていたので、その風呂上りの際、和也が洗濯物を取りに来た所で気付き、それとなく抜いておいた。
ただ彼女の場合、その恥ずかしさの重点が、地味な下着を着けているからという、他の二人と少しずれてはいたのだが。
制服に着替えた三人が、其々学校へと向かう際、和也は一人一人に弁当を手渡す。
昨夜の夕食時、各々の好き嫌いを聞き取り、それを反映させている。
彼は、身体に良いから嫌いな物でも食べろとは決して言わない。
子供のように、食わず嫌いという事もあるが、ある程度味覚の完成された大人でさえ、どうしてもその者が受け付けない食材、調味料という物はあるものだ。
折角の楽しい食事(そうであって欲しいと思う)に、わざわざ嫌な物を混ぜなくても、今はその栄養の代替品など幾らでも手に入る。
自身も好き嫌いがある和也は、その辺りにも理解があった。
忙しい親達の頼もしい味方である、冷凍食品も使わない。
昨晩から下ごしらえをしておいた、肉や魚、煮物などを詰めてある。
学校で食べる女子の弁当故、ニンニクなどの臭いのきついものを避け、単色のおかずにならないよう、彩にも気を配る。
弁当箱を包み込む布も、品があり、雅な柄と、明るいお洒落な柄を、渡す相手によって使い分けた。
「え、弁当まで作ってくれんの!?」
美樹が驚いた声を発する。
彼女は本来、部活の朝練があるのだが、授業前に汗をかき、そのまま勉強する気にはならないという理由で、参加しない(学校にシャワールームなどないから)。
「要らなかったか?」
「いやいや、作ってくれるなら大歓迎だよ?
昼食代も浮くし(学食はないので、普段は購買で買っている)。
・・何か、弁当箱が2つあるみたいだけど?」
渡された紙袋の中を覗き込む彼女。
「君だけは、ご飯とおかずを別にしてある。
このくらいは量が欲しいと思ってな」
「分ってるじゃん!
サンキュ」
嬉しそうに寮を出て行く彼女。
沙織も喜んで受け取り、馨は俯いて、恥ずかしそうにしていたが、やはりしっかりと手に取ってくれた。
三人を送り出した和也は、掃除などの作業(勿論魔法で)の前に、ゆっくりと珈琲を飲んでいたが、そこに有紗からの念話が入る。
『どう、上手くやってる?』
『ああ、何とか信用はして貰えた気がする。
まだ多分に手探りな状態ではあるが・・』
『ネットが発達し、何もかも便利になっているとはいえ、この世界の人は魔法が使えないから、迂闊な事はできないしね。
私も以前、人前で移動に転移を使いそうになって、凄く焦った事がある。
あなたから貰った後天的な力(子種の代わり)で、今は相手の考えや感情まで、かなり理解できるようになってきているから、それを表情に出さないよう、気を付けてもいるし』
『便利な事は、利点だけとは限らない。
互いに暫くは試行錯誤していくだろうが、今はそれを楽しもう』
『そうね。
・・時に、弥生、頑張ってるわよ?』
『今年入社したのだったな。
配属先は秘書課だったか?』
数年前の有紗とのクリスマスデートの際、寒空の下たった一人で募金活動をしていた彼女と知り合った和也は、彼女に手を差し伸べ、その後を見守ってきた。
奨学金を支給する傍ら、皐月と同じアルバイトを紹介し、大学の4年間を、有意義に過ごさせてやった。
有紗や皐月ができなかった、サークル活動なんかも楽しみ、勿論勉学にも懸命に励んで、就職試験を受ける事なく御剣グループの中核企業(主要4社の内のIT企業)に入社した。
『そう、私個人のね。
彼女、これまで何度か会ってきた(バイトの紹介や入社案内等)皐月に憧れているらしくて、その方が良いと思ったの。
あの
『分るか?
最終的には本人次第だが、できればお前や皐月と共に、御剣グループの社長の地位を、ローテーションで任せたいと考えている』
『皐月と似たような境遇だったし、その後の努力も十分評価できるものだったけれど(英、独、中、仏の4か国語の習得と、情報処理技術者試験の上級合格等)、一体何が決め手だったの?』
『・・結論から言うと、個人の能力は然程重視していない。
彼女の場合は、その性格、考え方、そして心の清さだ』
『能力なんて、あなたの眷族になれば自然と身に付くものね。
性格は大事だわ。
あなたを独り占めしようなんて考える娘なら、必ず他の妻の方々『特に紫桜さん』から排除されるもの。
私だって怒るしね』
『何を言ってる。
眷族になったからといって、そのような関係を持つ事は希だ。
現に、まだ皐月を含めて三人しかいないではないか』
『それは語弊があるわね。
他の方々はまだ眷族化していないだけであって、将来的にはほぼ確実に求めてくるもの。
あなたのファンクラブの面々や、あなたを崇める方々、この方達は確定だと思うわよ?』
『考え過ぎだ。
彼女達はもっと別の、絆のようなものを求めているのだろう』
『『それを男女の営みと区別しては駄目よ。
愛し合うのは、その最たるものなのだから』
まあ良いわ。
とにかく、彼女、今は私と皐月の下で働いているから、会いたくなったら何時でも言って。
あの
『あそこは逢引のために造ったのではないのだが・・』
『ほら、やっぱりそういう気があるんじゃない』
『違う。
今のは話の流れで・・』
『フフフッ、冗談よ。
御免なさい。
・・人の出会い、心の交流、葛藤や離別。
そのどれもが今の私達には眩しくて、懐かしいものばかりよね?
大切にしてあげてね?
寮の
あなたなら何の心配もないけれど、時々変に朴念仁になるからね。
それから、紫桜さんから伝言。
『また増えるのかしら?』だって。
自分の口から言えば良いのにね、フフッ。
時間を取らせて御免なさい』
仕事にでも戻ったのだろうか、そこで念話が途切れる。
冷めてしまった飲みかけの珈琲を魔力で温め、ゆっくりと口に含む。
眺めるだけだった過去とは異なり、今は己の言動が、直に人との関係に影響を及ぼす。
ある者との出会いが別の者との出会いを生み、一人に差し伸べた手が、より大きな広がりを帯びる。
神である自分でさえ、意識しなければ分らない、他者との未来、その結果。
これまで大きな幸運に恵まれて、自分は幸せな時間を過ごしてこれた。
願わくば、妻達から受けた愛情、その恩を、別の形で少しでも人々に分け与えてやれますように。
今は勉学に励んでいるであろう、ここの寮生三人(一人だけ居眠りしていたが)に、一体自分は何を残せるか。
再度淹れた珈琲の香りが充満する中、和也は暫く、その思考の中に身を沈めた。
「石山さん、今日はお弁当?」
「ええ」
「うわ~、美味しそう。
寮母さん、料理上手なんだね。
確かお婆さんだったっけ?
いいなあ~」
クラスでも人気者の沙織は、昼食も共に食べる友人が多い。
これまでは学校近くのコンビニ(全国チェーンではない)で買っていたが、その彼女が初めて弁当を持ってきて、しかもそれが彼女に相応しい、上品な布に包まれているとなれば、当然の如く周囲の目を引く。
ありきたりな弁当箱ではない、職人の手による木箱の中には、おせちの縮小版のような、華やかなおかずが並んでいる。
今はある理由で一人暮らしをしている彼女だが、元は地元の資産家の娘でもあるため、その舌は肥えている。
その彼女が食べても舌を巻く程、其々の料理の味が洗練されている。
昨夜や今朝の食事もそうだが、ここまでの味は、そうは出せない。
料理の技術だけでは、この味は出せないからだ。
シンプルな料理ほど、その素材が味の決め手になる。
刺身なんかは、その最たる例だろう。
ここに並ぶローストビーフの切れ端や、鴨肉のソテーなどは、素材自体が良くないと、どんなに上手く調理しても、そこそこの味しか出せない。
勿論それを美味しいと言って食べる人を、どうこう言う積りなどないが、それなりの値段を払って食べる場所でそれが出されれば、その店はあまり奮わないだろう。
『こんな食材を使って、予算は大丈夫なのかしら?』
自分達が払う寮費(2食付きで、月額4万円)を考え、少し不安になる彼女。
『最初だからと張り切り過ぎて、月末に足りなくならなければ良いけど』
箸と会話は止める事なく、頭の片隅でそう考える沙織。
後の二人、美樹と馨は、其々が別の場所で、無言でかっ込み、若しくは一言も喋らず、静かに味の余韻に浸っていた。
「少しお話があるのですが、今、お時間大丈夫ですか?」
学校から帰り、着替えた後、沙織は和也の居る管理人室の戸を叩く。
「構わない。
入ってくれ」
和也の声に応えて静かに戸を開き、その戸を閉める事なく少し開けたままで部屋に入ると、お昼の疑念を口に出す。
「あの、差し出がましいかもしれませんが、寮費の遣り繰りは大丈夫なのでしょうか?
昨晩のかつ丼や、今日のお弁当の食材といい、少し無理をなされてはいませんか?」
できるだけ穏やかに、丁寧に、彼の気持ちを傷つけないように尋ねる。
良い人なのは分ったし、仕事も熱心過ぎるくらいにしてくれる。
ただ、もしかしたら、経営面では少し経験が足りないのかもしれない。
それだけなのだ。
「良家の子女だとは聞いているが、よくあの素材に気が付いたな。
確かに、君達が支払う寮費であのレベルのものを出し続ければ、必ず赤字になる。
恐らく、10日持たないだろう」
かなり深刻な話のはずだが(下手をすれば、3日どころか3週間くらい、カップ麺すら怪しくなるのだから)、口にする彼の表情には、負の要素がまるでない。
訝しく思っていると、追加の説明があった。
「皆には言っていないが、足が出た食費と、老朽化した設備の補修や必要な家電製品等の購入については、ある人物からの寄付で全て賄える事になっている」
「・・そんな事が本当にあるんですか?
こんな田舎の、大して名も知れていない高校の、しかも数人しか入居者のいない女子寮に、一体誰が寄付をしてくれるというのです?」
流石に信じられなくて、少しジト目になる。
「君が疑問に思うのは尤もだ。
だが、世の中には損得や道理を無視した行為というものが存在する。
その人物にとっては、当該目的のためならば、数百万のお金など大した額ではないという事だ」
「・・貴方はその方がどなたかご存知なんですか?」
「知っているが口には出せない。
そういう条件だからだ」
「正直、今回の一件については可笑しな点が多過ぎます。
女子寮の管理人に若い男性を宛がうとか、あ、これは貴方を非難しているのではありませんよ、今まで通らなかった申請があっさり通るとか、今の寄付のお話もそう。
・・貴方は本当に、御剣グループとは何の関係もないのですか?」
「ない。
仮にあったとして、ここに援助をする事が、グループの利益にどう繋がる?」
「それは・・分りません。
ですが、貴方がお召しになってるその服、かなりのものですよね?
失礼ですが、ここの管理人のお給料程度では、到底買えない代物だと思いますが」
「これは自分の一張羅だ。
故に、奮発したに過ぎない」
「・・分りました。
私としては、寮費が足りなくなったり、その穴埋めに、貴方がご自身のお金をお使いにならないのなら、それで良いのです。
もしそうなら、それは心苦しい事ですから。
・・最初は、正直に言うと、貴方を少し信用できませんでした。
邪な目的で来られたのではないかと、疑ってしまいました。
まだお若いのに、男性の方なら定年後に選択なさるような、管理人のお仕事に就いておられたから(彼女の偏見が多分に含まれている)。
でも、今は貴方にずっとここに居て欲しいと考えています。
お弁当、とても美味しかったです。
出汁の優しい味がしみた煮物、お弁当箱を包んであった布から香る、仄かな桜の香り。
貴方のお心遣い、しっかりと届きました。
これから宜しくお願い致します」
たおやかに頭を下げる彼女は、良家の子女そのもの。
「あ、でも、下着は今日から自分で洗いますよ?」
「分った」
苦笑いしながら、彼女を見送る和也であった。
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