彼の人の温もりと友情、その幸せな残滓を抱き締めて
第1話
ザザーッ。
マンション内の浴室とはとても思えない、20畳以上はありそうな広さの大理石の上を、湯船から溢れたお湯が緩やかに流れていく。
先に入って寛いでいる和也の横に身を沈めた有紗は、湯を浴びて解れた前髪を整えながら、口を開いた。
「話があるの」
久々に顔を見せた和也に、用件よりも先ずは夫婦の営みを優先させた彼女は、しっかりと満足させられて、上機嫌で言葉を紡いでいく。
「うちの系列がやっている、児童保護施設出身の
元々少し難しい娘なんだけど、心を開き出した施設の職員達と離れて、また最初から人間関係を構築するのに疲れたらしくて、ほとんど話さないらしいの。
学校にはちゃんと通っているみたいだけれど、そんなだから陸に友人もできなくてね。
このままいくと、辞めはしないまでも、学校自体に意味を見出せなくなる、そう思うの。
勉強とバイトばかりだった私が言うのも何だけど、・・あなた、助けてあげてくれない?」
彼女がこう頼むのには理由がある。
御剣グループは、今や学校経営にまで手を広げている。
以前から、有紗を理事長にして全国から生徒を集め、中高一貫の私立校を作る積りではいた。
当初は初等部も作る積りだったが、まだ幼い子供達を親元から離して教育するのはどうかという有紗の意見で、それは見送られた(御剣学園は完全個室の全寮制)。
開校してから数年で、その名は全国に轟き(建設当初から、あの御剣グループの運営する学園という事で話題が絶えなかったが)、今やそこに入るための推薦が、自他共に後を絶たない。
和也の方針もあって、御剣学園には学力試験という意味の入試は存在しない。
勿論、一般的な小学生レベルでの知識(掛け算などの四則計算や、ある程度の日本語能力等)は要求するが、重要視するのは、その意欲とそれを裏付ける、これまでの活動内容である。
スポーツ、地域活動、文学や芸術に関する受賞歴等、何でも良い。
日々を自主的に、有意義に過ごしてきたという証で審査する。
当然、勉強を精一杯やってましたというのなら、検定試験や模試の成績表でも構わない。
もう1つの判定要素、これが最も評価されるのだが、それはその個人の人間性である。
責任能力が備わって間もない、12歳の子供にそれを要求するのかと言う人もいるだろうが、和也としては、ここは譲れない所だ。
どんなに他の能力が高くても、人として大切なものを持ち合わせていない者を、和也は無償で教育しようとは思わない。
学校とは、そこに通う者達にとって、楽しい場所でなくてはならない。
毎日、今日は何を学べるか、友達とどんな事をして過ごそうか、学食は何を食べようか等、その者にとっての憩いの場であって欲しい。
そう願う和也は、他者を無意味に傷つけたり、中傷や嫌がらせで自己満足を図る輩を入学させないし、校則が緩い分、それこそ各自の自己管理能力が問われるので、この項目が最重要なのだ。
ただ、学校の教員にのみこれを評価させると、その者の、当該生徒に対する好き嫌い等、極めて個人的な要素が介入しかねないので、そこは和也が、偽りの内容なら、その文面が有紗や皐月にも赤く光って見えるように工夫してある(仮令酷評されていても、その者が真に入学させるに足る者であれば、内申書が青く輝いて見える)。
中高共に一応の定員は二百名だが、書類審査の試験官は、和也と有紗、皐月の三人だけ。
営利目的ではないので、毎年大幅に定員割れしても構わない。
逆に基準を満たす者が大勢いれば、その年はその者達を全員採る。
開校初年度の生徒達は、和也が全国に招待状を送り、入学させたいと思う者達を受け入れた。
教員達も厳選し、その知名度や実績よりも、教育への真の熱意を持ち、生徒達を人として高める事の可能な人材を、同様な方法で公募した(謙遜や諦めから応募してこなかった人材で、和也が是非欲しいと感じた者には、直接皐月を送って口説かせた)。
学費は勿論、その衣食住が、個人の経済状態に拘らず(家が裕福でも、親とは疎遠な子もいるから)全て無料な環境で、余計な作業や事務から解放され、相応の給与と休暇を保証された教師陣による手厚い指導を受け続ける学園の生徒達は、各分野で見る見る成果を上げ、グループの七光りと揶揄されない、確固たる実績を残し続ける(野球やサッカー等の集団競技は、人数が集まらない年もあるから別)。
御剣学園の生徒達は皆、その制服に袖を通せる事を誇りに思っているし、時々顔を見せる、美しく優しい理事長を尊敬してもいた。
「その娘を御剣学園に入れたいのか?」
かの学園は一貫校ではあるが、高校からは勿論、学期や学年の途中入学さえも可能だ。
「本人が望めばね。
施設の行事で何度か会った事があるけど、根は良い
親には恵まれず、育児放棄されて施設で引き取ったのだけれど、変にひねくれる事なく、きちんとした考えと、思い遣りを持って育った。
ただ、親との暮らしが原因で、周囲に気を遣い過ぎて疲れてしまうのと、人を信用するまでに時間がかかるのが難点でね。
施設からその高校に行ったのは彼女だけで、他に頼れる人がいないし、かといって、今の状態のまま学園に入れるのは少し問題がある。
幸い、と言ってはご本人に失礼だけど、彼女の寮の寮母さん、定年を機に仕事を辞めるそうで、来月からその職に空きができるの。
だから透かさずあなたを後釜に推薦しておいたわ。
宜しくね」
「ちょっと待て。
先ず、明らかに可笑しな点がある。
高校ともなれば、その寮、確実に女子寮のはずだ。
自分がそこで働くのは、大問題になるだろう?」
「大丈夫よ。
既にあちらの了承も得たわ。
もし何かあれば、うちが全責任を取ると言ってあるし、あなたの給料もこちらで払う事にしてある。
それに、もう古い建物だからあまり入寮している生徒はいなくて、彼女を入れて全部で三人らしいから」
「そうだとしても、よく向こうが了承したな。
寮生の者達の同意も、きちんと得ているのだろうな?」
「私があなたに任されている地位と立場は、この世界でなら、大抵の事を可能にできるの。
私が強いてさせなくても、向こうが勝手に忖度(今はあまり良い意味では使われないけど)してくれる。
悪い事、違法な事を強要する訳ではないし、女子寮の管理人に男性が就けないなら、銭湯で男性が女湯の番台に座るのだって、可笑しな話になるでしょう?
あなたの好きなゲームにだって、そういう設定が幾らでもあるじゃない」
「『それは制作側に何か別の意図がある気がするが・・』寮生全員の同意は?」
「・・それはほら、あなたを拒む女子なんていないと思うから」
「取ってないのだな?」
「大丈夫よ!
いつものように、皆あなたに惚れさせちゃえば良いんだし」
「・・自分は一度だって、そんな事をした覚えはないのだが?」
「あら、自覚が無いのね。
ならこの後、皐月にも聴いてみると良いわ。
さっき、『旦那様がいらしてるわよ』と念話で教えたら、直ぐに来るって喜んでいたから」
「・・・」
結局この後二人に押し切られるような形で、和也は渋々、とある田舎の寮へと向かう事になるのであった。
「・・ここか」
2週間後、和也はこれから暫く暮らす事になる、とある建物の前に居た。
『私立○○高校女子寮』
築50年以上は経っていそうな、古びた木造の2階建て。
女子寮だけあって、きちんと門構えはあるが、その鉄の扉さえ、キイキイ音を立てそうな程、がたが来ている。
暫く建物を眺めていると、突然後ろから声をかけられた。
「・・あの~、うちの寮に何か御用でしょうか?」
若そうな女性の声に和也が振り向くと、少し離れた所に一人の女生徒が立っている。
全身黒ずくめの彼を、少し不審げな眼差しで見つめてくる。
「自分は、今日からこの寮の管理人として働く事になっている、御剣和也という者だ。
君はこの寮の住人だろうか?」
「ええ。
・・貴方が寮母さんの代わりの・・。
随分お若いんですね」
暫く何かを探るような眼を向けてきた後、警戒したような視線でそう告げてくる。
「頼りなく見えるかもしれないが、これでも一通りの技能は習得している。
仮令給料は安くても(和也が御剣グループの関係者だという事は、この高校の極一部の者しか知らないので、他の者達には勤労少年で通すよう、有紗から言われている。因みに給料はない。『要る?』とは聴かれたが)、仕事はきっちりやる。
早速で悪いが、中を案内して貰えないだろうか?」
「御免なさい。
多分まだ誰も中に居ないだろうから、それはお断りします。
済みませんが、他の二人が帰って来るまで、管理人室で待っていて貰えませんか?
玄関を左に折れた、直ぐ突き当たりの部屋です」
『ほう』
そう言われた和也は、少し戸惑い、それから直ぐに感心し直した。
彼がよくやっていたゲームでは、このような時、大抵は直ぐに案内される。
街で見知らぬ誰かにそう声をかけられれば、その事を不審に思うであろう者も、自分達のテリトリーで、その関係者だと言われれば、相手が拍子抜けする程に、警戒心が薄れる者もいる。
だが、世の中誰もが善人ではない。
年頃の(それに満たない者を好む者さえ存在するが)女性が一人だけで、会う約束さえした覚えのない初対面の男性と密室に入るのは、余程身の安全が確立された状況でない限り、控えた方が無難だ。
残念な事に、最近は警察官でさえ、完全には信用できなくなってきているのだから。
「了解した。
では君が先に建物に入り、部屋の鍵を掛けると良い。
自分は5分間、ここでそれを待っている」
こちらの提案を、少女は再度、やんわりと断る。
「お気遣いは嬉しいのですが、この寮、部屋の中から鍵が掛けられないんです。
正確には、掛けられはするのですが、外からの鍵で、開くようになっています。
部屋鍵は2つしかないですが、その1つを、管理人の方が持っているはずですので・・」
言われて和也は、唯一持参した、旅行鞄(黒)の中を漁る。
出かける前に有紗から渡された封書の中に、確かにそれらしき鍵の束が入っている。
彼女をずっとここで待たせる訳にはいかないし、自分の方が出直して来よう、和也がそう考えた時、別の少女の声がした。
「ん、
「
良かった、今日は早かったのね」
今まで話をしていた少女が安心したようにそう口にした相手を、和也も振り返って確認する。
茶色に染めた短めの髪と、何かのスポーツで鍛えていそうな、引き締まった身体。
衣替えはもう少し先なので、シャツのボタンを1つ外し、ネクタイを緩めて涼を取っている。
両袖は肘まで捲られ、膝よりかなり上の丈しかないスカートの下には、白いソックスと茶色のローファーを履いている。
沙織と呼ばれたもう一人の少女とは対照的に、おおらかで親しみやすそうな雰囲気を醸し出していた。
「部活が休みになったからね。
何だか知らないけど、今日は寮に早く帰れと教師に言われたんだ。
・・取り込み中?」
「この方、辞められた寮母さんの代わりだって。
まさか男性の方だなんて聞いてなかったから・・」
「ああ!
・・男なのは良いとしても、若過ぎない?
あたしらと大して変わらない歳のように見えるけど」
「自分は恐らく18歳だ」
「んん?
恐らく?」
美樹という少女が、自分達の会話に割り込んできた相手に、訳が分らないというような表情をする。
「生まれた時から親がいなかったからな。
実際は幾つなのか、自分でも分らん」
「・・あ~、成程。
それで中卒(?)で働いてるんだ。
見かけによらず、結構苦労してんだね」
質の良い服と小奇麗な身なりからは想像もできないような人生を歩んでいるらしい。
どうやら、勝手にそう解釈してくれたようだ。
「歳がほとんど変わらないから、ため口で良いよね?
それで、今日からもう働いてくれるの?」
「ああ」
「良かった!
これでやっとまともなご飯にありつける。
もうカップ麺はうんざりだわ」
「何言ってるの。
まだたったの3日じゃない。
私は1週間だって平気よ」
「あんたは金持ちのくせに、変に耐性があり過ぎんのよ!
あたしは、炊き立てのご飯を美味しいおかずでがっつかないと、食べた気にならないの」
「女の子なんだから、もう少しお行儀良く食べたら?」
「食べ方で味が変わるの?」
「よく噛んでゆっくり食べれば、少なくとも、その料理の味はより分るはずよ?」
「・・幾ら男の目が無かったとは言え、ジャージに半纏羽織って食べてる人に言われてもなあ」
「それは冬だけじゃない!
貴女だって、夏は下着姿で食べてるくせに!」
「・・済まんが、他にも人が来たようなので、その辺で一旦矛を収めてくれないか?」
「ん?」
和也の声に反応した美樹が、寮に向かって歩いて来る、三人目の少女に気付く。
「・・ああ。
やっぱり早く帰るように言われたんだね」
その少女に向けて、呟くようにそう口にした彼女は、何だか落ち着かない様子で沙織を見る。
視線を向けられた彼女は、こちらも少し話辛そうに言葉を紡ぐ。
「この方、新しい寮長の御剣さん。
一応、ご挨拶しておいて」
自分達がまだなのは棚に上げ、直ぐ側まで来ていた少女に、そう念を押す沙織。
その言葉に反応した少女は、徐に和也の方を見た。
「・・御剣?」
何かに驚いたかのように、心地良い声音で言葉を紡ぐ彼女。
「かのグループとは何の関係もない。
単なる偶然の一致だ」
「・・そうですか。
初めまして、私、
「御剣和也だ。
これから宜しく頼む」
礼儀正しく、丁寧にお辞儀をしてくる相手に、和也も穏やかな笑みで以て応える。
彼女はそれを聴くと、もう用は済んだとばかりにさっさと寮に入って行く。
「あ、ちょっと・・」
沙織が更に何か言おうとするが、結局は言葉にならず、そのまま彼女を見送る。
「あたし達も、いい加減中に入ろうよ」
美樹がそう言って馨に続く。
その後を追う沙織に、和也は一言、『少し買い物をしてくる』と告げて、寮とは逆の道を歩いて行くのだった。
コンコン。
1時間後、自室に居る彼女達の一人一人を回り、和也は早速寮長としての仕事を始める。
「はい」
制服から私服に着替えた沙織が、ノックに応えて薄くドアを開ける。
「仕事をしたいのだが、今、部屋に入っても大丈夫か?」
「え?
・・済みません、少し待って貰えますか?」
そう言うと直ぐにドアを閉め、中で何かをしていた彼女。
暫くして、再度ドアを開けてくる。
「お待たせしました。
一体何のお仕事ですか?」
訝しげに尋ねてくる彼女に、和也は手短に説明する。
「内鍵を付ける」
「え!?
・・良いのですか?」
これまでにも何度か、過去の寮生達から要望があったらしいが、寮長がずっと女性だった事もあり、中で何をやっているのか分らないのは好ましくないと、寮を管理する学校の許可が下りなかった。
「上の許可は既に取った(有紗から好きにやって良いと言われている)。
・・中に入っても良いか?」
「どうぞ」
少し嬉しそうに、そう言ってくる。
部屋数が少ない分(生徒用の部屋は全部で6部屋)、8畳程と、ゆったりとした広さの部屋に、品の良いカーテンと家具が揃う。
あまり中を見ずに、直ぐに作業に取り掛かる和也。
少し隙間ができてしまうフック式ではなく、完全に閉じたままにできる閂式の物を選び、ドアの上下にさっさと取り付ける。
作業を終え、退室しようとする彼に、沙織が『待って下さい』と声をかける。
「ん、何だ?」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。
私、2年A組の
これから宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しく頼む。
何か問題点があれば、遠慮なく言ってくれ」
「はい」
やっと警戒心を解いてくれたのか、初めて笑顔を見せる。
肩甲骨辺りまでの黒髪をストレートに伸ばし、158㎝くらいの背丈に、上着をやや押し上げる程の胸を持つ彼女。
その真面目そうな外見には、笑顔が殊の外映えた。
和也は次に、美樹と呼ばれた者の部屋を訪れる。
ドアをノックすると、『は~い』と間延びした返事が返って来る。
「内鍵を付けたいので、少し時間を貰えるか?」
「どうぞ~」
向こうから開けてくる様子がないので、こちらからドアを開ける。
ベッドに寝そべって漫画を読んでいる彼女に一瞥をくれ、和也は作業を開始する。
去り際、漫画を読むのを止め、身を起こしてこちらに寄って来た彼女から挨拶される。
「気を遣ってくれてありがと。
あたしは2年の
これから宜しくね。
・・ところで、夕飯は何時くらい?」
「寮の決まりには19時とあるが」
「もうメニューは決めてあるの?」
「献立はこちらで好きに決めて良いと言われているから、今日はかつ丼にしようと思うが・・」
「おお、分ってるじゃん。
やっぱお肉だよね。
楽しみにしてるよ?」
上機嫌の彼女と別れ、最後の部屋へ。
コンコン。
「・・はい」
「寮長の御剣だが、部屋に内鍵を付けたい。
今、少し時間を貰えるだろうか?」
「・・分りました」
少し経ってから、ドアがゆっくりと開けられる。
制服から地味な部屋着に着替えた馨が、視線を下に下げながら迎えてくれる。
間近で見ると、160㎝に満たない背丈と、黒髪を、首が隠れる程度に短めに刈り揃えた、ほっそりとした体形だと分る。
ちらっと目にした室内は、本当に簡素で何も無い。
目立つのは机と本棚くらいだ。
ベッドもないから、恐らく布団で寝ているのだろう。
和也が作業している間、少し離れた場所に立って様子を眺めていた彼女は、取り付けが終わり、彼が部屋を去る段になって、小さな声で尋ねてきた。
「お若く見えますが、高校を出て直ぐ社会に?」
ここに他の二人が居れば、きっと驚いたであろう。
彼女が自発的に口を開くなんて、とても珍しい事なのだ。
増してや、ほぼ初対面と言って良い相手に。
「残念ながら、まだ高校には通えていない。
何時かは行きたいと、そう思ってはいるが・・」
「え?」
本来なら、今時の少年で高校にも通えないのなら、そこには何らかの負の感情が滲むであろう。
自らの意思で通わない、若しくは一度通って挫折した等の理由からなら、このような言い方はしないはずだ。
彼の言い方や表情からは、高校に対する憧れは確かに在って、でも何らかの事情でそれができない、そう言っているように思える。
自分のような経済弱者でも、多少の運が介入したとはいえ、無事に通えている。
育ちは良さそうに見えるこの人には、一体どんな理由があったのだろう。
初めは、自分も高校を卒業したら働きに出る積りだから、何となく波長の合いそうな、この優しげな人に、その後の生活がどんなものになるかを聴いてみるくらいでいた。
決して自分の好みに合う、男前だったからではない。
男性と言えば、多少の付き合いがあるのは父と施設の職員だけだが、父は私に興味など無く、年中母と家を空けていたし、施設の方も、他にも大勢の子供達の世話をしていたから、遠慮して、陸に話せなかった。
年に一、二度視察に見えられた、あの御剣グループの社長さん、あの方は何故か私にとても親切にして下さって、いらした度に、皆にはお菓子を、私にだけはそれに加えて内緒で数冊の本も下さった。
何か言っても無視されて、願い事を言えば怒られた、実の両親との暮らし。
その中で自然と身に着いた処世術、余計な言葉を話さない、無闇に人の視界に入らない。
でもあの方は、そんな私を必ず見つけて下さって、しかも微笑んで下さった。
彼に初めて会った時、その御剣という苗字に反応してしまったのは、もしかしたら、あの方がまた私に手を差し伸べて下さったのかなと、ほんの少しだけ期待してしまったからだ。
お忙しいあの方に、私なんかを気にする時間なんて、あるはずがないのに。
そんな自己嫌悪もあって、いつものようにさっさと一人で寮に入ってしまったけれど、どうやらその事を気にされてはいないご様子で、安心した。
ドアを開ける際、不安で思わず視線を下げてしまったけれど、失礼に思われなかったかな?
「・・今時珍しいか?」
「い、いえ、そんな事はないです」
見透かされたような、それでいて、優しく穏やかな響きを持つその声に、慌ててそう取り繕った際に見た彼の瞳は、気のせいだろうが、一瞬蒼く光って見えた。
「・・異性の自分がここで仕事をする以上、君達には迷惑となる事もあるだろう。
その際は、遠慮なくそう言ってくれ。
己の家とは、本来はその者にとって、安らぎと癒しの場であるべきだ。
そう考える自分は、君達が楽しく暮らせる寮を目指す。
幸運にも、人口密度の低いこの地域は、都会に住む大多数の者達が甘受する、狭さや雑音、異臭といったものからは程遠い。
これから宜しくな」
「・・それって、遠回しに田舎と言ってますよね?
フフフッ」
自然に笑う事ができた。
前に笑った記憶さえ、はっきりとは思い出せない自分が、こんなに簡単に笑える事に内心では驚きながらも、私は今日、ここに来て良かったと初めて思えた。
この不思議な人と一体どんな暮らしができるのか、まるで本を読む時みたいにわくわくしている。
・・念のために言っておきます。
決して、彼が男前だからではないですよ?
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