第14話
「もう直ぐ貴女が教皇に就任して20年目よね?
お祝い事か何かしないの?」
建設が始まって同じく20年になる大聖堂の内部で、ミューズが高い足場の上に設えた専用の台座の上で寝そべりながら、天井画を描きつつ、見学に来たリセリーに話しかける。
「特に何もする気はないわ。
そういうのは自分からするものではないと思うし、教団にとってめでたいのは、私の在位期間ではなく、その存続期間の方だもの」
「相変わらず真面目ね。
今はもうかなりの数の信者がいるのだし、そういうのって、お祭りのようなものだと思うけど」
「ここが完成したら、それこそ盛大にやるわよ。
御剣様も、お顔を見せて下さるお約束だし」
「この調子だと、あと100年以上かかるわよ?」
大聖堂の建物自体は、外壁の建設はほぼ完了している。
まだ細かな装飾までは手が回らないが、人が中で活動する分には、何の支障もない。
事実、リセリーは仮の教団本部から一人でここに越して来て、そこだけ急いで職人達が手を加えた教皇室で、日々生活している。
執務室というより、彼女のプライベートルームと化していて、ベッドやクローゼットまで置いてある。
建設開始から20年経ってもまだ外側しかできていないのは、それに携わる者達の拘りが半端ではないからだ。
柱の1つ1つ、塗装の1塗りに至るまで、手に入る最高の素材で、細心の注意を払って造られている。
作業員の多くが、現に御剣教の熱心な信者であり、リセリーの熱狂的な支持者でもある。
彼らは、教団に対するお布施の如く、利益度外視で働いてくれるのだ。
同じく、ここの装飾においては本業以上に完璧を求めるミューズと、彼らは大分気が合うようである。
「それは仕方ないわ。
この大聖堂は教団の、いいえ、御剣教の象徴そのもの。
完璧を求める姿勢を称えこそすれ、文句など、あるはずがない」
「象徴は貴女じゃないの?」
「私はずっとここに居る訳じゃないのよ?
できる事なら少しでも早く、あの方のお側に行きたいのだから。
でもまあ、あと数百年は無理かしらね。
この教団の礎を、永遠に盤石なものとするまでは・・」
「当たり前よ。
自分だけ先に約束の地に行かないでよね?」
「ファンクラブだっけ?
私の許可なくそんなものを作って、御負けに私を除け者にした事、まだ忘れてないからね」
「もう散々謝ったじゃない。
それに、世界にたった4体しかない、あのお方の像を渡したでしょ。
あの時はまだ貴女は子供だったんだもの、仕方なかったのよ」
「・・まあ良いわ。
『今は私だって、彼と交換日記をしてるしね。
あんまり返事を書いてくれないけど』
切りの良い所で呼んでね。
今日のお茶にはアンリのケーキがあるわよ」
「ほんと!?
最近直ぐ売り切れて、中々手に入らないのに・・」
「例の温泉の件で少し問い詰めたら、これからは時々くれると言ってたわ。
『魔眼で調べたら、彼と一緒にお風呂に入ってたものね。
ミューズには内緒だけど』」
「ああ、あれは羨ましいわよね。
御剣様のお手製だもの」
「貴女、ほぼ毎日通っているじゃない。
後でちゃんと何かお礼しなさいよ?」
「ここの仕事の後には、あの湯は欠かせないのよ。
入らないと、次の日筋肉痛が凄いんだから。
それに、私達の仲にそんな遠慮は要らないの」
「それにしては、ファンクラブ憲章に『抜け駆け禁止』があるじゃない」
「その事だけは、友情とは別物なの。
貴女だって、私達だけがあのお方に可愛がられたら、思う所があるでしょう?」
「間違いなく、貴女達を異端者と見做すわね」
「・・それ、冗談になってないわよ?」
「フフフッ、作業頑張ってね」
そう告げる彼女もまた、溜まっている仕事をこなしに、己の執務室へと向かうのであった。
『もう直ぐご就任20年目を迎えるリセリー様に、何かお祝いをしてあげたい』
セレーニア王宮お抱えの管弦楽団のメンバー達は、自分達の楽団立ち上げに並々ならぬお力添えをして下さった彼女の為に、皆そう考えていた。
今では世界中に広がったピアノやバイオリンの他にも、フルートやトランペットなど、楽団の主要な楽器の制作や練習に、彼女は精力的に関わってくれた。
初めて尽くしで何も分らなかった自分達を、辛抱強く、丁寧に指導してくれた。
彼女が自ら書き写してくれた各楽器の練習書は、その後多くの者達に写本され、集団での練習方法や楽器の手入れに至るまで、事細かく書かれていると今でも絶賛されている。
マリー将軍と二人だけで魔の森を駆け回り、ヴァイオリンに使うニスの原料や、楽器の素になる木を探し求めた事は、子供用の劇にまでなった。
声楽より費用がかかり、練習場所も限られてくるため、エルクレールでの音楽祭では今一つ参加者の数で声楽に及ばないが、今後曲目が増えてくれば、より注目度が増す事は間違いない。
ただ、まだその肝心の曲を書ける作曲家の数が圧倒的に足りない。
リセリー様から最初に頂いた20曲の楽譜を練習しながらも、楽団員達は、今年の音楽祭で彼女の為に演奏する目玉の曲を欲していた。
その日、練習に励んでいた楽団員達の下に、それは現れた。
ホールの上空がパアッと光ったと思ったら、その光の収束と共に、1冊の楽譜が降りてくる。
緩やかに降って来た楽譜にはメモが添えてあり、『リセリーに贈る。交響曲「
その楽譜を手にした楽団員達は、喜び勇んで内容を見て、絶句する。
・・難しい。
だが恐らくこれは、神からリセリー様への贈り物。
できないでは済まされない。
その日から、彼らの受難と充実の日々が始まった。
ティンパニーが、コントラバスが、バスクラリネットが、深い闇を纏った心の表現に苦しんでいる。
自身では未だ体験した事のない、黒く静かな怒り。
その音が出せないで悩む彼らの心の中に、何処からか声が入り込んでくる。
『違うわよ。
そんな上辺の音じゃない。
もっと深く、もっと激しく、それでいて妙に静か。
あの時の、お父様の怒りの音はこう!』
「ひっ!!
あああ、・・・た、助けて、・・あああっ」
心に沁みつくような粘り気を持つ、鋭く、凍える怒りの視線。
それが音に変えられて、奏者達の心に送られてくる。
『この音よ。
これが出せるまで、しっかり練習なさい』
ピアノ、第2ヴァイオリン、オーボエ等が、救いようのない悲しみ、寂寥感、心の痛みを表現できずに踠いている。
人よりずっと長寿であるはずの彼らが、全く想像つかない長き年月、その間の、心が潰れそうな感覚。
楽譜上の音を如何にそれに近付けるかで苦しむ彼らの心にも、何処からか声が聞こえてくる。
『想像しなさい。
数千、数億年の間、他者との交流を渇望しながらも、こちらからは声さえかけられずに、ただ一方的に怒りや悲しみ、怨嗟の声を受け続けるという事を。
言い訳も、謝罪すらできない環境で、己を謗る他者の声だけが聞こえてくる様を。
その時の気持ちを敢えて表現するならこういう音です』
「うう、・・あああ、止めてくれ、それ以上は止めてくれ。
可笑しくなってしまう!」
『人の数倍も生きている割には柔ね。
でも、お父様のお気持ちを、あの時のお心を、中途半端になんか表現させないわよ』
第1ヴァイオリン、フルート、ハープの奏者が、他者と心が通じ合えた際の喜び、初めて愛を知った時の嬉しさを、型通りにしか表現できていない。
その長い生故、色恋沙汰に関しては他の種族より淡白な彼らは、人を愛した時の燃え上がるような情熱、他に何も目に入らなくなる気持ちの高揚に、やや疎い面がある。
そんな彼らにも、何者かの声は容赦しない。
『何ですかその音。
あなた方、他者を愛した事ないのですか?
そんな平凡な音では、せいぜい森に住むトカゲくらいしか振り向いてはくれません。
お父様の純粋で美しい愛を、そのような陳腐な音で表現するなど許せません。
良いですか?
そこは、こう表現するのです』
彼(彼女)らの中に、音が流れ込んでくる。
ヴァイオリンの出せる音を極限まで甘く、ハープの奏でる音を一切の濁りなき清らかな音色に、フルートは、そこに至る気持ちの過程を丁寧に盛り上げる音を紡ぐ。
「・・うわ、これ聴いてるだけでその人が相手にベタ惚れしてるのが分る。
でも、とても美しい音色。
きっと、本当に心から相手が好きなんだわ」
『悔しいけどその通りです。
お父様の意地悪。
わたくしへ向けられた想いは、これとは少し違いましてよ?』
3か月後、エルクレールの音楽祭に現れたセレーニアの王宮楽団は、皆の顔つきが以前とは大分異なっていた。
容姿に関しては他の種族より秀でたものがあるエルフであるが、本来ならその常識の中に入るであろう彼らは、心なしか頬がこけ、目の辺りに隈ができて、かなり窶れたように見える。
それでいて、その瞳だけが異様にギラギラ輝いているのだから、それがよく見える前列の聴衆が気味悪がるのも無理はない。
でもそれは、彼らの演奏が始まるまでの事であった。
プログラム№11、交響曲「神生」。
今年はそれを最大の目当てとしていた数人が、1音も聴き逃さないとでもいうように、全神経を耳に集中する。
そして、曲が始まった。
何も無い、ただ己のみが存在する世界。
見渡せど、振り向けど、誰も居ない虚無の空間。
どれ程問いかけても、どんなに呼びかけても、何一つ答えてはくれない。
光が生じ、闇が付き添い、時という概念が生まれる。
やがて他の土や風、火や水が、少しずつ星々を形作り、それを母体として様々な生命が現れる。
まるで、植木鉢に蒔いた種が芽を出した事を喜ぶかのように、その1つ1つを見て回っては、これからどう育つかを楽しみにしていた。
過酷な環境に耐えられず、多くの種が姿を消していく一方で、その環境に適合するため、自らを進化させる個体が出る。
強き雄と弱き雌。
固定化された構造の中から、本能のみならず、理性の光を垣間見ることができ、人に優しさが生まれた事に頬を緩める。
力で支配する時代から、知恵を持つ存在の出現により、それらを道具で統制する時代へ。
本能や感情のみの支配から、独裁者の圧政を回避すべく、法の支配の概念が生まれ、行動の予測可能性を得た人々に、ゆとりが生じ、文化の華が咲き誇る。
人の発想、空想を形に変える力に驚き、他者を愛する表現の多様さを素直に称賛しながら、我もまた、未だ出会えぬ存在を想い、胸を焦がす。
だが、折角育った花々を、無残にも散らす愚行が各地で見え始める。
自己と異なる考えを認めない視野の狭さ、欲しい物を必要以上に得ようとする強欲さ、自分達こそ最高の存在だと妄信する浅はかさが、世に咲いた美しい花々を散らしていく。
『何をしている。
お前達は、一体何をしているのだ?』
我が手出ししないのを良い事に、やりたい放題の蛮族達。
美しい景色が、長閑な町や村が、優しい人々が、何の非もない子供達が、大した理由もなく消されていく。
この感情をどう表現したら良い?
怒り?
憎しみ?
怨みか?
我の視界は、己が流す血の涙で、赤く染まっていく。
「お願い、誰か助けて!!」
「・・神様、今あなたの下へ参ります」
「苦しいよ、熱いよ、お母さん、お父さん」
「何でこんな目に。
神の教えを守り、正直に、誠実に生きてきたじゃないか!」
「この子だけでもどうか助けて下さい!
私は、私はどうなっても良いから!!」
『・・済まない。
手出しはしないと・・決めてるんだ』
「俺はここで死ぬのか。
散々努力して、さあこれからって時に、こんな理由で」
「もっと生きたい。
あと1年で良いから。
せめてこの子が、独り立ちできるようになるまで」
「恋ってどんな色?
思い切り走るって、一体どんな感じなの?
海の水は本当にしょっぱいのかな?
今度生まれてくる時は、身体が健康だと、良い、な」
『済ま・・ないっ』
「神なんていやしない!
どれだけ祈っても、どんなに徳を積んでも、何もしてくれないじゃないか!」
「こんな世界、滅んでしまえば良い!
良い事なんて1つもない。
何で俺ばかりがこんな目に。
何で!?」
「止めろ、止めてくれ。
そいつを殺さないでくれ。
俺が代わりになる。
だから!
ああああっ!!
・・・呪ってやる。
こんな世界を創った奴を。
こんな世界にした奴を」
『済まない・・』
目を背けず、耳を塞がない。
それがせめてもの償い。
そう思って耐え続けた我の心は、長い日照りで深くひび割れた大地の如く、かさかさに乾いていた。
前回笑ったのは何時だったか。
この頃ずっと、居城の庭を静かに眺めている時間が増えた。
手を貸せば切りが無い。
そうすれば、どれも皆同じような世界になってしまう。
そう考えて、あくまで観察者に徹しながら、我と肩を並べられる存在の出現を待ち続けたが・・駄目だった。
数千、数億年、数十億年待ち続けても、一向に現れない。
これはと目をかけていた者も、病や戦、老衰で死んでいく。
自分は何か、考え違いをしてはいないか。
形式に囚われ過ぎて、もっと大切な、掛け替えの無いものを失ってはいないか。
言いようのない不安に襲われ、玉座に座り、目を閉じる。
これまでの果てしなく長い観察結果をもっとよく考えろ。
限りある命の者に、自分は一体何を求めていたのか。
そもそも、最初はただ話し相手が欲しかっただけだろう?
・・・決めた。
行動しよう。
外部の観察者ではなく、その世界に暮らす者達の一員としてなら、多少の手出しは許されるはず。
やってみて駄目なら、また考えれば良い。
こんな自分でも、探せば一人くらい、側に居てくれる者が見つかるだろう。
そしてできる事なら、自分も誰かを愛してみたい。
この渇きを癒してくれる、自分を温かく包んでくれる、そんな
初めて降り立った大地。
他の生命が溢れる世界に嬉しさを隠せない。
最愛の人との出会い。
白黒映画を見ているような世界の有様が一変する。
彼女との夢のような時間。
ひび割れ、埃が舞うようだった心が、愛の雨により急速に回復していく。
その心から生じた新たな芽は、瞬く間に弱き者が羽を休める大樹へと成長し、その枝に生った実は、多くの者に力と自信を与える。
自身にとって初めての、大切な人を守る戦い。
世界にとって初となる、神による裁き。
六精全てに祝福され、称えられて、世界をその歌声が覆い尽くす。
切なる声に、ただ耳を塞ぎたかった頃とは異なり、悲惨な光景に、思わず目を閉じたくなる時が減少し、傲慢にならぬよう己を戒めながら、愛する者に支えられる日々。
嘗て夢見たのは他者との交流。
今願うのは緩慢な時の流れ。
大切な人、愛する人が、どうかいつまでも自分と共に在りますように・・・。
曲が終わる。
華奢な身体全体を使ってタクトを振り、肩で息をする指揮者。
魔力を用い、全神経を集中した演奏に、疲労の色が濃い奏者達。
席を立ち、聴衆に挨拶する前に、彼らは挙って主賓席に座るリセリーを見る。
その表情に着目する。
果たして、彼女の頬には滅多に見せない涙の跡が残っていた。
聴衆からの、割れんばかりの拍手。
キーネル夫妻が、ロッシュ夫婦が、カイン兄妹が、そしてミューズとアンリが立ち上がって拍手している。
後に世界中で演奏される、最も有名な交響曲の初演は、こうして幕を閉じた。
『まあまあね。
御負けして合格点をあげる。
ただし、この曲を演奏する時は、今後も精一杯やりなさい。
もし手を抜いたら、・・許さないわよ?』
壇上にかかる漆黒の幕に隠れた、誰かの声が奏者達の心に響いた。
『有難う。
とっても素敵な贈り物。
私の為に、あそこまで心を開いてくれて、本当に嬉しかったわ』
ロッシュ夫妻の館に借りてる部屋に帰ると、リセリーは早速日記帳にお礼を記す。
『お前を慕う、彼らの願いでもあったからな。
教団の活動が世に認められ、お前の苦労が少しでも減った事を、我は喜んでいる。
今回の演奏を録音したディスクを渡そう。
お前のリングに、魔力で動くCDプレイヤー(【知識の部屋】で地球に関する多くの現代本を読んでいる彼女は、既にこの機械の事を知っている)を入れておくから、好きな時に聴くと良い』
思わず歓声を上げるリセリー。
世界にたった1つしかないと思われたそのCDは、彼女にとっては不本意な事に、後に9枚に増える。
誰が欲しがったかは、彼女に渋々ながらも『うん』と言わせる事の可能な者が誰なのかは、推して知るべしである。
『御剣グループ社員の皆様へ』
ある男性のPCアドレスにそう題されたメールが届いたのは、今年もまた、嫌な花粉症が始まる頃であった。
「何だろう?」
開いてみると、以下のような文面が現れる。
因みに、御剣グループ社員には、入社時に同グループ専用のセキュリティソフトが無料配布されるので、詐欺や迷惑メールに悩む事はない(ただし、定年ではない理由で退社した際は、そのソフトは強制削除される)。
『この度、当グループは、忙しくて陸に家事もできない独身社員の方を対象に、家事代行サービスを始める事に致しました。
このサービスは、当社が独自に選んだ社員の方に、お部屋の掃除、洗濯、ゴミ出し行為を無料で提供するものです。
このサービスは任意ですので、勿論拒否する事も可能ですが、常に申し込める訳ではありません。
当社が必要と判断した時のみ、このメールをお送りしておりますので、申し込み期限を過ぎた際は、次のサービスをお約束するものではありません。
女性の方のお部屋は、女性スタッフのみで作業致しますので、「男性が部屋に入るのはちょっと・・」という方にも、ご安心いただけます。
ただし、機密保持のため、作業はご不在の間のみに行いますので、貴重品や見られたくない物がある場合には、皆様の方で管理をお願い致します。
作業員の質と仕事には万全の注意を払っておりますので、明らかに当社の責任であると客観的に判断できるもの以外、もし何かあっても、当社は一切の責任を負いません。
その旨、ご了承いただける方のみご応募下さい。
なお、当サービスの管理責任者は、社長秘書である立花皐月です』
「え、うちのグループ、そんなサービスまで始めたの?
・・只か」
男性は自分の部屋を眺める。
ちょうど大きなプロジェクトを任されている最中で、ここ2か月、家には寝に帰るだけ。
掃除や洗濯はおろか、ごみまで出している時間が無い(朝ぎりぎりまで寝ていて出せないから、深夜寝る前に出そうとすると、自治会の暇なご老人達に、鳥に荒らされると文句を言われる)。
18禁のポスターが貼ってある訳でもなし、貴重品は通帳と印鑑くらい。
別に見られて困る物は無い(PCの中身はロックしてある)。
申し込み期限は、何と今のプロジェクトが一区切りつく前日だ。
自分のような若手の事まで、本当によく調べてあるなあ。
責任者の名前が決め手となり、男性はこのサービスに申し込んだ。
「喜べ生徒諸君。
次の仕事が決まったぞ」
エリカの授業を終えて、皆で給食を食べていた所に、和也が入って来る。
食堂には大きなテーブルが2つあり、1つは教師用、もう1つが生徒用だ。
エリカはジョアンナと二人で優雅に食事を取りながら、隣のテーブルで旺盛な食欲を見せる生徒達を微笑ましく眺めている。
ジョアンナは、和也が現れるとナプキンで口を拭いて直ぐに席を立ち、彼の為に珈琲を淹れ始める。
彼女に与えた2週間の休暇は、殊の外その家族達に喜んで貰えたようで、本人も大分ゆっくりできたと言っていた。
彼女を実家まで送り届けた際、和也は、ジョアンナが土産を選んでいる間を利用して、先の王室御用達の店で購入しておいた、彼女の家族全員と執事用の服を、挨拶代わりに当主にプレゼントした。
既製服だが、皆のサイズに合うよう、和也の魔法が掛かっている。
ジョアンナばかりが良い服を着ていては、彼女が家族に気を遣う。
仮令社交界には出ずとも、きちんとした礼装の1つくらい、貴族なら持っていた方が良い。
そう考えて贈ったのだが、全部で金貨12枚にもなる贈り物に、皆は恐縮頻りであった。
また、彼女が休みの間、和也は暇を見つけては、ヘリ―家が治める他の村にも顔を出した。
そしてその3つの村にも、村の特性に合わせて、大量の椎茸の原木や陶磁器制作用の窯、100本の林檎の木を、其々の栽培方法や作業に関する資料と共に貸し与えた。
勿論、『きちんと管理しないと直ぐ没収する』、『毎年ヘリ―家に納める税額を、今より必ず増やすこと(物納可)』という条件付きで。
自分が納得する物を作っていれば、1年後に共同浴場を建ててやると言ったら、どの村も凄く真剣になっていた。
村の囲いを強化してやると共に、各村の入り口には目に見えない魔法陣を敷き、邪悪な意思を持つ者が村から出入りしようとすれば、瞬時にダンジョンCへと転移させられる。
1年後、其々の村が独自の浴場を持った後には、4つの村に転移魔法陣を設け、お互いの村への行き来を瞬時にできるようにもしてある。
和也はこれらの事をヘリ―家には伝えなかったが、援助をする際、村人を信用させるためその名を借りたので、どうやら喜んだ村人達が代表を送って礼を述べたらしく、休暇から帰って来たジョアンナと会うや、『エリカさんには内緒にして下さい』と言いつつ、しっかりと抱き締められ、深く唇を重ねられた。
『異性を思い切り抱き締める事、男性と口づけを交わす事、そしてその先も、私の初めては常に御剣様と・・』
離された唇から紡がれる言葉は、普段は穏やかな彼女からは考えられない程、熱い震えを帯びていた。
「ジョアンナ、済まないが、午後の授業を少し遅らせてくれ。
食べ終えたら直ぐに彼らに仕事をさせる。
今回は時間指定があるからな」
珈琲を運んでくれた彼女に礼を言い、そう伝える。
「畏まりました」
「食べながらで良いから聞け。
今回の仕事は、ある男性の部屋の掃除、洗濯、及びごみの始末だ。
前回と違ってそれ程の仕事量ではないが、気を遣わねばならぬ面は多々ある。
掃除は掃除機を使って埃等を吸い込んだ後、浄化で壁やタイル、床等の黴や汚れを落とす。
洗濯も、洗濯機を使って洗った後、同じく浄化で残った黄ばみや臭いを取る。
ごみは前回同様、自分が創ったホールに投げ込め。
場所は異世界、制限時間は60分、報酬は一人銀貨5枚だ。
普段ジョアンナ先生から学んでいる事を存分に発揮せよ。
食事を終えた者から、順次用務員室に向かえ」
子供達にそう説明した和也に、マサオが挙手して質問を求める。
「何だ?」
「ごみをどうやって判別したら宜しいでしょうか?
前回は全てごみという認識でしたが、今回は違います。
異世界の物は、僕達にはごみかどうかの判別が難しいと思われます」
「良い質問だ。
簡単に見分けられるよう、物に色を付けてやる。
青は捨ててはいけない物、無色は持ち主に判断させるため隔離、赤はごみだ」
「散らばっていた場合、物を1か所に纏める事は可能でしょうか?
それとも、物の場所は動かさない方が宜しいですか?」
同様にアケミも質問してくる。
「部屋の主が、何らかのコレクターや趣味人の場合、その者拘りの配置がある可能性がある。
掃除をする際以外で場所を移して良い物も、黄色に色付けしておく」
その後、全員が用務員室に集まった所で、一人ずつロッカーで作業服に着替える。
部屋の様子を映した壁で最終確認をした後、そこに生じた歪みに入って行く子供達。
今回も和也が同伴する。
「ミッションスタート」
8畳1間の1Kマンションで、先ず山と積まれた洗い物を洗濯機で洗いながら、キッチンや風呂場、部屋、トイレに分かれて作業が始まる。
因みに、作業で使われる洗濯機は、和也が空間を繋げて創った専用置場に設置された大型の物で、3つある投入口は、それぞれがハウスクリーニング用、色物、通常の物とに分かれ、その洗い方、使用される洗剤等が異なる。
どれも洗濯物に最適な温水、水の質や洗剤等が自動的に選択され、最後は乾燥までしてくれる、所謂オーパーツである。
彼らは仕事のために、ジョアンナから自分達の世界には存在しない機器の扱いについても学んでいる。
教える彼女もそれらの製品を自在に扱えるよう、事前に和也から製品の提供及び説明を受け、空いた時間に色々と学習している。
実際、校舎内の彼女の部屋には洗濯機があり、押し入れ代わりの収納場所に、掃除機やアイロン等が置かれている。
ただし、異世界に溢れる洗剤や清掃液等については、手の荒れる物、環境に良くない品は授業で用いない。
子供達の身体に悪影響を及ぼす物は、厳格に授業で使う品から排除されている。
マサオが室内の掃除機をかける。
使用している掃除機は、これまた特殊仕様のオーパーツ。
その吸引力はかのダイ〇ンも真っ青ながら、吸い込んではいけない物、貴重品や繊細な素材に向けられると、自動的に停止したり、吸引力が弱まったりする。
その重さは女子でも軽々と扱えるくらいに軽い。
ベッドの下をかけている時、その吸引力が弱まり、吸い込み口に何かが引っかかる。
無色のそれを取り出した彼は、『うわあ、これはちょっと・・』と呟いて、専用の黒ビニール袋に終い込んだ。
アケミが風呂場を掃除している。
タイルの隙間に生じた黒黴、バスタブや洗面器等にこびりついた水垢を、根こそぎ浄化する。
排水溝の管の中まで浄化を施し、嫌な臭いを防ぎ、詰まりの素となる髪の毛等を取り除く。
換気扇にも目を向け、枠の向こう側にある金属の羽の部分まで、しっかりと汚れを落とす。
彼女は、脱衣所の手洗い場に置いてある、男性用の様々な品に、珍しそうに目を向けていた。
タエがキッチン周辺を受け持ち、流し台に山と積み重ねられた汚れた皿を洗い、ステンレス部分の水垢や黴を浄化し、排水溝のごみと汚れを取る。
洗剤やクレンザーの容器に積もった埃を奇麗に流し、切れ味の落ちた包丁を研ぎ、換気扇周りの油汚れや埃を完全に浄化し尽くす。
収納扉の表面を拭き、内部の汚れを取った際、消費期限を何年も過ぎた調味料を分別して、透明なビニール袋に纏めておく。
一通り終わると、満足げに、装備の中で『フウ』と息を吐いた。
トイレ担当はトオル。
周囲の壁紙の黄ばみや汚れを浄化し、便器に接続しているホースやコンセントに被った埃を取り除く。
本命の便座は、側に置いてあったブラシを借りて、専用液で磨き上げる。
縁の内側もしっかりブラシを入れ、ざらざらした汚れをこそぎ落とす。
何度か水を流しながら繰り返す内に、そのブラシに付いた汚れまで奇麗になり、最後は陶器の周辺をアルコールで磨いて終える。
確認作業で換気扇をやってなかった事に気付き、慌てて浄化する。
『危ない危ない』と苦笑いする彼であった。
乾いた洗濯物を取り出し、全員で畳む。
シャツはハンガーにかけ、和也がサービスで瞬時にアイロンがかった状態にする。
最後にマサオが黒ビニールに入ったある物を置いていくと、和也が『これを傍に置いておけ』と言って、2つのフィギュアを渡す。
犬と熊であった。
「よし、撤収!」
四人全員が壁の歪に入って行く。
残った和也は室内を見渡し、ゴミが捨てられた小型のブラックホールを消し去ると、満足げに、自らも歪みに入っていった。
部屋の主である男性が、深夜までの自主的残業(勿論有給)を終え、へとへとになって帰って来る。
玄関の鍵を開け、中に入ってびっくり。
築20年の賃貸マンションである彼の部屋は、業者に高額の料金を支払っても不可能なくらい、とても奇麗に掃除されている。
思わず、コンビニで買って来た夜食の袋を落としてしまった程だ。
ただ、テーブルの上に置いてあった、黒ビニールとフィギュアに首を傾げる。
「何だろう?」
中を覗くと、青白い黴で覆われた、自分のパンツが入っている。
結構高かったブランド物だが、これでは洗っても、また穿く気にはならない。
前足を1本前に出した犬と、両手を上げて攻撃態勢を取っている熊の意味を即座に理解する。
「お手上げね。
・・確かに」
男性は笑って黒ビニールの口をしっかり縛り、忘れないよう鞄に入れる。
明日、申し訳ないが、これだけはコンビニのごみ箱に捨てさせて貰おう。
この男性は、すっかり奇麗になった部屋を再度汚すのが嫌になり、プロジェクトが無事片付くと、こまめに部屋の掃除をするようになるのだった。
ある若い女性社員の下にもメールが届いた。
運良く入社試験に受かり、地方から上京してきて早数か月。
最初は何もかもが目新しく、浮かれていたが、次第に都会の人込みとペースに疲れ、気力を減らしていった。
心身に妙なだるさを抱え、気分も塞ぎがちで、部屋の掃除も片付けも億劫になる。
何時しか、彼女の部屋は他人に見せられないような有様となった。
よく考えもせず、サービスに応募する。
その時は、只でやってくれるなら儲けもの、くらいの気でいた。
重く感じる足を引き摺るように、何とか部屋まで帰り付く。
鍵を開けて部屋に入れば、朝とはまるで違う光景がそこにある。
ごみどころか埃1つなく、部屋に漂う空気からして異なる。
ピカピカになったテーブルの上には、失くしたと思っていた彼の写真が。
入社試験に受かった時、親の面倒を見るため地元で就職する彼と、泣く泣く別れてきた。
・・嫌いじゃなかった。
好きだったのに、遠距離恋愛に耐えられないからと、自分で自分を否定した。
いつも私を支えてくれたのに。
彼の方がずっと優秀だったのに、『俺はここで生きていくよ』という言葉の裏に込められた、その無念の思いを考えてあげられなかった。
都会には都会の、田舎には田舎の良さがあるが、結局、私は田舎暮らしに向いていたのだ。
彼に会いたい。
せめて一度連絡したい。
そう思いながらも、折角今の会社に入れたのだからと未だ踏ん切りがつかない私の視界に、写真の側に置いてある、1枚の紙が映る。
『御剣グループより社員の皆様へ、〇〇子会社への長期出向者募集のお知らせ』
心に潜むある期待感が、その紙に手を出させる。
よく読んでみると、果たして出向場所は、実家のある場所から車で40分くらい。
一定以上のパソコン技能があれば、出社は月に1、2度で、在宅勤務でも可と書いてある。
グループでは、親の介護や出産などを理由に、働きたいのに辞めざるを得ない方々に、別の働き方を提案する事で、貴重な人材の流出を避けたいと記載されていた。
今後、こうした試みを全国に広げていくという。
勤務時間は選択制なので、労働時間によっては給料が下がるが、時間数は毎月変更できる上、グループの正社員扱いだから、きちんと退職金や厚生年金が出る。
しかも、そこだけ何故か手書きで、こう書かれていた。
『新規事業を含むため、地元に詳しい若手を若干名募集』
私は心の迷いを払い除け、直ぐに彼のスマホにメールを送る。
少ししてから掛かってきた電話の声は、あんな別れ方をしたのに優しく、聴くだけで私のだるさを取り除いてくれる。
「あのね、私、そっちに戻ろうかと思うんだ。
・・ううん、会社を辞める訳じゃないよ。
そっちにある子会社に、出向する積り。
・・うん、そう。
それでね、こんな事、言える立場じゃないんだけれど、・・もう一度、貴方とやり直したいの。
・・駄目かな?
・・・有難う、凄く・・嬉しいよ。
グスッ・・今の仕事はどう?
楽しくやってる?
・・スン、え?
・・泣いてるけど、悲しい訳じゃないから。
スン、そう、・・あそこら辺、何もないもんね。
実はさ、今、うちのグループが、スン、人材募集してるの。
・・うん、そうだよ、同じ職場。
貴方なら、スン、きっと受かると思うけど、・・どうかな?」
この電話の2か月後、私は件の子会社に出向した。
住み慣れた家と吸い慣れた空気、そして見慣れた風景に、私の心は軽くなる。
笑顔の数がずっと増えたのは、同じ職場に採用された彼と、そして、二人で居る事の有難味を学んだせい。
田舎といえど、仕事はハード。
首都圏に何かあった際の、素速いバックアップシステムの確立と、それに関するデバイス造り。
でももうへこたれない。
だって今、私の隣には、彼が居てくれるから。
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