第5話
「待ちなさい。
・・お願い、待って!」
すたすたと通りを歩く和也を、先程の女性が小走りで追いかけてくる。
面倒なので無視して、速足で歩き続ける和也を、その女性は執拗に追いかけてくる。
一向に二人の差が縮まらない事に業を煮やした彼女は、到頭最終手段に出ようとする。
「誰か、その人を捕まえて!
その人ちか・・」
和也はダッシュで彼女の口を塞ぐ。
「嘘はいけないな。
世界が違えば、その行為は笑い事では済まないのだ」
「貴方がわたくしを無視するからよ。
場所が違えば、笑い事では済まなくてよ?」
口に当てた手を放した途端、ぎろりと睨みながらそう告げてくる。
「自分の知る世界では、街角で見知らぬ女性から声をかけられても、チラシを配られても、無視して構わないようなのだ」
「貴方はわたくしを知っているでしょう!?」
「知っている内に入らん」
がしっ。
腕を思い切り摑まれる。
「じゃあ、これから知り合いましょう?
・・あそこが良いわ。
大事な話だから、あまり人に聞かれたくはないの」
自分の良く知る店に連れて行こうとする。
「いや、あそこは止めた方が良い」
「大丈夫よ。
支払いはわたくしがしてあげる」
「個室をお願い。
1番良いワインを持ってきて。
その後は誰も来ないように」
店に入ると、出迎えた女主人にそう告げる彼女。
「・・・」
女主人の、それだけで人を殺せそうな視線に目を合わせずに、和也はすごすごと、彼女の後を付いて行くのであった。
「やっとまともにお話できるわね。
わたくしは、ヴィクトリア・ベノア・ビストー。
ビストー王国第1王女で、王位継承権は第2位です」
注文したワインが届くと、彼女はドアにサイレントの魔法を掛け、室内の音が外に漏れないように配慮してから、そう告げてくる。
その名を聴けば、誰もが跪くのが当然とばかりの態度に、和也は興ざめしながら応える。
「それで?」
「それでって、貴方、それだけなの?」
「どういう意味だ?」
「わたくしはこの国の王女なのよ?
もっとこう、何かないの?」
「自分はこの国の人間ではない。
単に仕事に便利だから、ここに居るだけだ。
故に、君に常識の範囲を超える礼儀を払う必要はない。
自分にとって、君は只の少女Aと変わらん」
普段なら、こういう状態でもそれなりの礼儀を払う和也だが、今日は少し気分が
「もしかして、育ちが悪いのかしら?
見た事もない衣装を身に着けてるから、何処かの貴族だとばかり思っていたけど」
馬鹿にされたと感じたのか、挑発的な口調で言ってくる。
「そうかもしれん。
親がいなかったからな。
全て独学で学んできたから」
虚空を見据え、何かを思い出すかのように、寂し気な表情でそう告げる和也。
「・・少し言い過ぎたわ。
御免なさい。
でも、貴方も悪いのよ?
わたくしを、どうでも良いような言い方をするから」
気分を落ち着ける積りなのか、ワイングラスに注がれた、深紅の液体を口にする彼女。
揺らされたグラスから、芳醇な香りが漂い、彼女の付けている香水と混じり合って、男の官能を刺激する。
「・・貴方に聴きたい事があるの。
ガルベイルは、本当に巣を引き払ったの?
ギルドの報告を受けて、城からも調査させたけど、彼が巣を飛び去ったところを、近隣に住む者達が誰も見ていないというの。
国境の反対側に飛び去った可能性もあるけど、今まで100年以上も棲んでいた場所を捨てる理由が分らない。
以前と比べて、討伐しようと赴く者も大分減ったしね。
そうなると、可能性は凄く低いけど、他に1つだけ考えられる事がある。
誰かに倒されたという、その可能性が。
アイテムボックスが使える人なら、死体を収納してしまう事も不可能ではない。
・・ねえ、私のこの考えは、間違っているかしら?
貴方はどう思う?」
じっと自分の眼を見て、そう言ってくる。
「自分の読んだ本では、一人でそんな事ができる者は、大抵何処かのお姫様と結婚して、幸せな人生を送る事になるが?」
「そうね、もし本当に倒したのであれば、それは決して絵空事ではないわ。
そんな人材なら、娘の一人や二人、平気で差し出す国王もいるでしょうね」
和也のからかうような言葉に、気を悪くするでもなく、そう言って退ける。
「君の所はどうか知らんが、王族も大変だな。
国のためには、好きでもない男に身を任せるなんて」
メイの母親の件を思い出し、顔を顰める和也。
アリアに言われるまでもなく、和也は強姦という行為が大嫌いである。
そして、何かを得るために、好きでもない相手に嫌々身を任せるという行為も、彼の中では和姦と呼ばない。
生物が、欲しいものを得ようとする際、己の得意な分野や、持って生まれた才能を用いようとするのは、極自然な事だ。
賢者なら知識を、富豪ならお金を、容姿が優れていればそれを用いて望みを遂げる事に、本来なら何の問題もないはずである。
だからこれは、単なる和也の好みの問題でしかない。
どうでも良い相手でも、嫌な奴でも、性行為そのものが好きで、若しくはそれ自体に大した価値を置かず、そうしても別に何とも感じない者だって数多く存在するのだ。
長く傍観者でしかなかった和也は、性行為に関しては、自分の視点のみで好き嫌いを判断するため(アダルトビデオを見て、作品を区別するような状態)、愛情の存在しない性行為を行える者を自分の側に置かないし、そうした者に、それに関連する問題が起きても、手を貸さない。
いきなり平手が飛んでくる。
視線を逸らしていたせいで、僅かに反応が遅れるが、それでもどうにか交わし切る。
代わりに叩かれた和也のグラスが、床に飛んで砕け散った。
「平民の貴方に、一体何が分るのよ!?
私達王族は、国民の税金で暮らしてるの!
その彼らは、何かあったら自分達を守ってくれるから、私達にお金を納めてくれる。
国民を守れない王なんて、いるだけ無駄だし、自身に何の力もない姫なら、その身を以て、国に尽くしてくれる相手を得るしかないのよ!!」
これまでにない、強い怒りを伴った物言い。
その深い怒りが、彼女の異なる色の双眸を、激しく燃え上がらせている。
仮令自分はそれを甘受せずとも、そうしなければならない者達の気持ちを考える時、和也のこの物言いは、余りにも無神経過ぎた。
「・・後継ぎならともかく、そうでない女性なら、王族を辞める事だってできるだろう。
要は、身を犠牲にしても、今の地位を手放したくないのではないか?」
「そんな簡単に辞められるなら、随分楽でしょうね。
散々税金で飲み食いしてきて、好きに暮らしてきて、いざとなったら逃げ出すなんて、最低だとは思わない?」
「成る程、矜持はあるという訳か。
だが、生まれは本人の責任ではない。
分別の付く年齢まで育てられたからといって、それに恩を感じて身体まで差し出す事を、自分は良しとしない。
それで、話を戻すが、君は一体自分に何を望んでいるのだ?
もし仮に、自分がその魔竜とやらを倒していたとして、君は自分の妻にでもなりに来たのか?
それとも、何かに力を貸して欲しくて訪ねて来たのか?」
例の件がまだ尾を引いているとしても、少し言い過ぎた感のある和也は、やっと彼女の話をまともに聴く気になる。
和也の頬を張ろうと腰を浮かせていた彼女は、その言葉に再び腰を下ろすと、怒りを鎮めるかのように、呼吸を整えた。
「貴方、外国の人だと言ったわね。
この国の事は、どれくらい知ってる?」
「地下に迷宮がある事と、地上にも至る所に魔物の生息地があるという事くらいしか知らん。
あとはせいぜい、この町とその領主の娘の名前くらいだな」
「あら、どなたを知ってるの?」
「オリビア。
面識はないが、助手を通して名前だけ」
「助手?
・・ああ、アリアの事ね。
ギルドの報告書にあったわ。
そう、それも聴いておきたかったのよ。
どうやって取り込んだの?
彼女、どんな貴族やお金持ちからの誘いにも、今まで一度も『うん』と言わなかったのよ?
なのにこの町に来たばかりの貴方に、直ぐに付いて行ったらしいじゃない。
一体彼女に何をしたの?」
「自分は何もしていない。
ただ、助手を募っただけだ。
その後の事は、強いて言うなら、彼女の一目惚れだな」
「・・確かに良い男には違いないけど、・・それだけなの?」
「ああ、多分」
「国1番と言われる彼女も、所詮は只の女だったのね」
「惚れた男の側に居るなら、好きでもない相手と一緒になるより、多少はまともなんじゃないか?」
「まだ言うの!?
大体わたくしはね、一言もそうするなんて言ってないわよ?
わたくしは、仮令国のためにはその方が良くても、嫌な相手に抱かれるなんて、絶対に御免だわ!!
忙しいわたくしがここまで足を運んだのは、自分ではなく、妹達の事を考えたからよ!
彼女らの為に、もし貴方が有能なら、力を借りたいと思ったの」
「・・それは、済まなかった。
どうにも後味の悪い出来事に拘ったせいで、自分は今、その類の話に敏感になっている。
自己犠牲の中でも、己の貞操を差し出してするものは、自分が最も嫌いなものの1つだ。
それは、その者を大切に思う他者の気持ちを、完全に踏みにじっている。
自己満足?
自己陶酔?
どちらでも良いが、見ていて気持ちの良いものではないし、自分はそういう人間を信用しない。
君がその類の人間ではないと言うのなら、今まで君に述べた失礼な言葉の数々を撤回し、謝罪しよう」
そう言って、和也は頭を下げる。
「・・分って下さればそれで良いわよ。
わたくしも、かなり感情的になってしまったし。
貴方との交渉を優位に進めたくて、身分をちらつかせたこちらも悪かったわ」
美しいだけあって、怒っている姿も様になっていたが、やはり彼女は笑っている方が断然魅力的だ。
「じゃあ、これで完全に仲直り。
・・御免なさい。
グラスがないわね。
新しいのを頼むから、二人で乾杯しましょう」
彼女がドアに掛けた魔法を解いて、店員に呼び鈴で知らせる前に、和也は魔法で砕けたグラスを修復し、浄化する。
目を丸くして驚く彼女だが、直ぐにボトルからワインを注いでくれる。
「何にしましょうか?
・・わたくしと貴方のこれからに、お互いのより良い未来に、乾杯」
手首を上手に利用して、チンとグラスを軽く打ち鳴らす彼女。
安心したのか、肩の力を抜き、テーブルの上で両手を組み合わせて、少し前屈みになる。
部屋に入った際にマントを脱いでいるので、衣服によって強調された胸の深い谷間が、和也の視線を誘って止まない(勿論、TPOを弁えた彼は、そこに目を向けないが)。
「・・自分のせいで、大分時間を取らせてしまったが、話を聴こう。
ガルベイルの件なら、理由あって殺しはしていないが、確かに自分がその巣から排除した。
だがこの事は、内密にしてくれ。
ばれると色々と面倒だからな」
「!!!
・・やっぱり。
どうやってとは聞かないけど、よくあのブレスに耐えられたわね。
本気で吐けば、山さえ崩すと言われてるのに。
一人でどうにかしたの?」
「ああ、アリアも連れては行ったがな」
「貴方、まだお若いわよね?
わたくしは今年で18だけど、もう結婚はされているの?」
「妻が四人いる」
「ええ!?
やっぱり何処かの貴族なの?
それとも、まさか王族?」
「違う。
肩書は色々あるが、階級はない」
「・・ギルドで日々お仕事を探していると聴いてるけど、貴方を雇う事はできるのかしら?
もし可能なら、その金額も教えていただきたいわ」
「期間と内容によるな。
何をさせたいんだ?」
「・・ガルベイルがいなくなったせいで、我が国は今、ある隣国と緊張状態にあるの。
国境付近に巣を構えていた彼の存在は、ある意味で抑止力ともなっていた訳。
軍の大群が巣の近くを通ろうものなら、彼を刺激して、我が国を攻める前に大打撃を受けるから。
・・我が国には、隣国には無い特産品がある。
紫水晶。
時計や監視カメラ、通信機など、様々な機械の部品に用いられ、魔力伝達が良い事から、魔術師の武器やアクセサリーなんかにも使われる。
純度の高い物は、宝石としての価値も高いわ。
だからそれを狙って、時々他国が圧力をかけてくる訳。
この大陸には、大小11の国があり、我が国は、国土の広さで言えば2番目、兵力で言えば4番目、経済力なら1番なの。
国境を5つの国と接しているけれど、巣があった場所を除く4つの国とは縁戚関係にあるから、今の所心配は要らない。
問題なのは、残りの1つ。
最大の国土と最強の兵力を持つ国、オルレイア。
かの国は、徴兵制で兵数を維持し、国家予算の4割を軍備に当てている軍事国家。
今までにも何度か我が国に婚姻による縁戚関係を迫ってきたけど、歴代の王が、女性の立場が極端に低いあの国に、娘達を嫁がせる事を拒んできた。
だけど今回、ガルベイルという障害がなくなり、軍の派遣に不安の無くなったかの国が、強硬に婚姻を要求してきたの。
今この国に居る未婚の王女は、わたくしと、二人の妹達だけ。
わたくしは、兄に何かあれば王位を継ぐ位置にいるから、婚姻の相手は、残りの二人の内から選ばれる。
でもね、正直、二人共気が弱い子だから、あの国ではやっていけそうもないわ。
しかも、嫁ぐ相手は15も年の離れた、あまり良い噂を聞かない既婚の男性。
わたくしとは別腹の妹達だけど、ただ仕方ないと見捨てるのは気が引けるのよ。
・・わたくしの目、変わっているでしょう?
わたくしの母は魔術師で、強い魔力を持っていたから、家柄はそう高くはなかったけれど、父に気に入られたの。
その強い魔力はわたくしにも受け継がれて、国では数人しかできない、長距離転移もできる。
王都からここまで、普通なら馬車で4日かかる所を、2回の転移で来れるわ。
まあ、そのせいで今は、魔力が底をついているけどね。
母が死んで、父以外の後ろ盾のない私に、妹達はとても懐いてくれたのよ。
だから、どうにかして助けてやりたいの」
「縁戚関係にある4つの国は、味方してくれないのか?」
「向こうも馬鹿じゃないからね、同じようにその4つと縁戚関係を持ってる。
つまり、他の国は皆中立という訳」
「断れば、攻めてくるのは確定なのか?」
「先ず間違いなくね。
過去にも他国で例があるわ。
あの国は、そうやって国土を広げてきたの」
「戦えば勝てないのか?
兵力は劣っても、資金は豊富なんだろう?」
「負けると決まった訳ではないけど、なるべくなら、戦争はしたくはないわ。
国民にも多数の犠牲が出るし、長引けば、国土はどんどん荒廃し、復興にも時間がかかる。
魔物だって、抑え切れなくなる可能性が高い」
「・・仮に自分がこの件を何とかできるとしたら、君は自分に何の対価を支払える?」
「・・お金なら、父と相談しないといけないけれど、金貨1万枚までなら出せると思う。
あとは、地位か領地、それくらいね。
王族の我が儘で起きる戦争の回避だから、払えるのはそこまで。
他に何か欲しいものでもあるの?」
「君の体が欲しいと言ったら?」
「!!!
・・・嫌、よ」
暫く和也の眼をじっと見つめた後、彼女はそう言葉を絞り出した。
「交渉決裂だな」
そう告げる和也の顔は、久し振りに曇りのない笑顔であった。
深夜の2時。
交代で見張る兵士を除き、誰もが寝静まるオルレイア王宮。
その地下金庫に、一人の男が潜入していた。
和也である。
小さな家が丸々2つは入る大きさの金庫に、麻袋に入れられた数十万枚の金貨が置かれ、宝石や、宝飾品が飾られている。
和也はそこから、金貨だけを9割貰って行った。
去り際に、1枚の紙を残していく。
『怪盗黒マント参上。戦争する程金があるなら、自分が貰って行く』
そして今度は食糧庫へと転移する。
やはりそこに積んであった兵糧の9割も、さっさと収納スペースへと放り投げる。
金庫と同様に犯行声明を出しておく。
『怪盗黒マントより哀を込めて。戦地で無駄に消費するくらいなら、自分が有効活用してやろう』
やる事をやると、和也はさっさとその場から姿を消した。
所変わって、ここはオルレイアの中心地から少し離れた田舎町。
戦争準備のために普段の倍近い税を取られて、住民達はひもじさに耐え、早めの床に就いている。
そんな家々の片隅で、深夜に微かな音が聞こえる。
コトッ、ドサッ。
住民達がその音の正体に気付くのは、空が明るくなってから。
1枚の金貨と、余計に取られた分の米や小麦が置かれている。
そしてその上に紙が1枚。
『他の人には内緒だよ』
役人に知られれば、没収されるのは目に見えている。
その恩恵に与った人々は皆、決してこの事を外に漏らさなかった。
実はオルレイアの各地で同様に起きていたこの現象。
ひもじさや辛さに耐え、日々を何とか暮らしていた者達に、例外なく与えられた贈り物。
誰とも知らない、でも感謝せずにはいられないこの出来事を、彼らはずっと忘れなかった。
数日後、ビストー王国王宮内。
あれから無言で部屋を出て行った彼を、ヴィクトリアは何とも言えない気持ちで見送った。
あの時自分が頷きさえすれば、もしかしたら妹達は助かったかもしれない。
でも、それだけはどうしても嫌だった。
別に彼がそこまで嫌いだったという訳ではない。
寧ろ、何度も喧嘩しながら話してる内に、不思議と好意さえ感じられるようになったのだ。
今まで異性と付き合った経験が無い彼女だけに、もし誰かとそういう事をするなら、しっかりと想いを確かめ合ってからにしたかった。
何かの代償で、仕方なく差し出すような真似はしたくなかった。
ゆっくり、じっくり、気持ちを育てていきたかった。
だから、悩んだ末に、断った。
傷心で王宮に帰った自分を待っていたのは、妹の内のどちらを差し出すかの議論だった。
今回は戦争を回避する。
それは決定事項のようだった。
会議に出席した誰も、明確な答えを口にできない重苦しい雰囲気。
父も兄も自分も、娘や妹が不幸になると分っている選択を、決められない。
そんな時、会議室のドアを遠慮がちにノックする音がした。
緊急時以外は誰も通さないよう厳命してあるので、それは何か重要な知らせだ。
大臣の一人が椅子から立ち上がり、報告に訪れた兵士から密書を受け取る。
それを、父である国王が受け取って読んだ。
その顔が、見る見る内に破顔して行く。
「皆喜べ!!
戦争は回避された。
娘を差し出さずに済む!」
いきなりの展開に、会議室が歓声に包まれる中、父が皆に説明する。
かの国に放った密偵によると、オルレイアの財政が急に傾いたのだそうだ。
御負けに、戦用に蓄えていた兵糧も、そのほとんどが失われたらしい。
今かの国は、財政の立て直しに懸命で、戦どころではない。
よって、婚姻の申し込みは断っても大丈夫。
報告書には、そう書かれていたそうだ。
ただ、いきなり財政が傾いた理由を、報告書を書いた密偵は疑問視していた。
何でも、当時金庫を警備していた者達(責任を取らされ解雇)から聴いたところ、誰かに持ち去られたという。
盗まれたのは金貨だけだが、数十万枚に及ぶその重さは相当なもの。
それを持って(アイテムボックスに入れたとしても)、転移防止の魔法が施された金庫内から転移するなど、人間にはほとんど不可能。
食糧庫も同じ犯人に荒らされ、犯行声明まであったらしいが、その文面すら疑わしいと。
『怪盗黒マント』
犯人は、そう名乗っていたそうである。
「!!!」
ヴィクトリアは、驚きを隠せなかった。
何故なら、その犯人に、心当たりがあり過ぎるから。
初めて会った時、彼は自分の黒いマントに目を遣っていた。
その彼も、全身黒尽くしの衣装であった。
戦争を回避するのに最も有効な手段は、相手の兵糧を失わせる事。
どんな屈強な兵士でも、腹が減っては戦はできない。
只の盗人なら、金目の物だけしか奪わない。
お金と一緒に、兵糧まで盗んでいったのがその証拠だ。
こみ上げてくる嬉しさと、溢れ出そうな愛しい気持ち。
心にもない事を言って、自分からは報酬を受け取らず、きっと盗んだお金だって、何か良い事に使っていそうな気がする。
魔力が回復したら、真っ先に彼に会いに行こう。
ギルドでぼんやりと掲示板を眺める彼に、この気持ちを正直にぶつけよう。
有難う、妹達を救ってくれて。
有難う、このわたくしの期待に、最高の形で応えてくれて。
いつもの如くギルドに顔を出した和也の顔を見るなり、顔馴染みになりつつある受付の女性が手招きしてくる。
近寄って行くと、一通の依頼書を渡される。
『緊急依頼! アリアの連れは、速やかに当屋敷まで赴くこと。適性試験を受けて貰うので、戦闘に適した服装で来られたし。報酬は、試験終了時に金貨1枚。なお、この町で今後も仕事をする意思があるなら、この依頼の拒絶は不可とする』
「なるべく早く行って下さい」
そう、念を押される。
依頼主の名を見ながら、和也は確認する。
「一人で来いという事だよな?」
「その通りです」
今月の給料をまだアリアに支払っていない和也は(地下迷宮のトイレ使用料は、月末に纏めて回収する事にしている)、直ぐにその屋敷へと赴いた。
「依頼を受けに来た、アリアの連れだ」
門に到着するなり、門番の二人にそう告げる和也。
途端に彼らの顔が、不機嫌になる。
「ちょっと待ってろ」
それだけ言うと、その内の一人が屋敷まで走る。
暫くして、通行を許可されるまで、和也はずっともう一人の門番に睨まれていた。
「こちらでお待ち下さい」
屋敷の中に入ると、今度はメイドに案内され、応接室の1つへと通される。
客を迎えるには少し貧相で、余計な装飾品はなく、壁に1枚の絵が掛けられているだけ。
そこでも暫く待たされると、いやにスカートの短い若いメイドが、お茶を運んでくる。
低いテーブルにお茶を置く際、わざわざスカートの中身が見えるような置き方をする彼女。
和也はそれには目もくれず、紅茶を頂く。
そのメイドが去ると、今度は大きな胸をやたらに露出して、胸の半分くらいが見えそうな格好をした、色気のあるメイドが菓子を運んでくる。
そしてやはり低いテーブルに皿を置く際、その豊満な胸が零れ落ちそうな動きをする。
和也はそれには一瞥も与えず、菓子を頂く。
メイドが去ると、いきなりドアを開けられる。
「・・あれ、間違えちゃったかな?
御免なさい。
許してくれる?」
場所を間違えたのか、可愛い服を着た10歳くらいの小さな女の子が、円らな瞳をこちらに向けて、そう聴いてくる。
和也はそれに、穏やかに微笑み、頷く。
女の子は安心したように、そっとドアを閉めた。
少しして、ドアが上品にノックされる。
今度は執事服を着た若いイケメンが入って来て、和也に丁寧な説明を施す。
「もう直ぐオリビア様がお見えになられます。
お茶やお菓子の追加がございましたら、遠慮なくお申しつけ下さい」
そう告げて、和也が要らないと言うと、彼は静かに部屋を去る。
ただ、その動作の全てにおいて、少し気障であった。
和也は、溜息を吐きながら、ソファーに凭れる。
絵の向こうでこちらを見ている少女に、一言、言ってやりたい気分だった。
一方、オリビアは、非常に面白くなかった。
彼の性癖を探ろうと、メイドとその子供、執事見習いに無理を言って、男が好みそうな様々な事をさせてみたが(最後の彼は念のため)、アリアの連れは、何の反応も示さない。
実に紳士的であった。
服装から、それなりの家の生まれだとは思うが、少なくとも、自分の知る貴族や金持ちの中にはいない。
恥をかかせた三人に銀貨5枚ずつ、女の子には着せた服とお菓子を与えて、彼の下へ向かう。
御座なりなノックをすると、ドアを開け、挨拶もそこそこに言葉を発した。
「オリビアよ。
初めまして。
早速だけど試験をするから庭に来て。
それと、戦闘に適した服でと伝えたはずだけど、本当にそれで良いの?
怪我をしても、治療費しか払わないわよ?」
「アリアの連れだ。
アリアが大変世話になった。
勿論、この格好で構わない」
「貴方にそんな事を言われる筋合いはないわ。
アリアは私の大切なお友達だもの。
じゃあ、付いてきて」
さっさと
そこには予め用意した五人の兵と、観客のメイド達十人が揃っている。
「試験のルールを説明するわね。
これからここに居る五人と、一人ずつ戦って貰います。
相手に勝てば次へ、負ければそこでお終い。
一人勝つごとに、依頼の報酬とは別に、それに見合った賞金を出します。
でも、負けたら依頼料は払いません。
それまで得た賞金も没収。
だから、全勝する自信がないなら駆け引きが大事よ。
この勝負は途中で止めても構わない。
勝った所で止めれば、依頼料と賞金が手に入る。
だけど負けたら全てを失う。
・・理解した?」
「ああ」
「じゃあ一人目。
早く武器を出して。
お互い、殺しは厳禁。
相手が参ったと言えば、直ぐに攻撃を止めること。
ほら、早く武器を・・」
「武器など要らん」
「え?」
「そんなものを使う必要などない」
「・・本気で言ってるの?
ここに居る彼らは、王国の騎士団と比べても、かなり強いわよ?
もしかして、遠回しなギブアップ?」
「いや、単なる戦力評価だ」
「「「!!!」」」
居並ぶ兵士が皆一様に怒りのオーラを発してくる。
「・・もう知らないからね」
オリビアがメイド達の場所まで下がり、戦闘が始まる。
先ず一人目は、若そうな剣士。
構えた先から鋭い斬撃や突きを放ってくる。
刃先が潰されているとはいえ、当たれば確実に骨は折れる。
それを、和也はステップだけで避け、腹部に鎧の上から強烈な蹴りを入れる。
ドゴン。
鎧が嫌な音を立て、剣士が吹っ飛ぶ。
ごろごろと転がり、動かなくなった剣士の鎧は、腹部が少しへこんでいた。
場が静まり返る。
だが、直ぐに気を取り直した残りの兵士達によって、その剣士は離れた場所に運ばれた。
「・・結構凄いのね、貴方。
今ので賞金は銀貨10枚。
次勝てば銀貨20枚加算で計30枚。
どうする?」
オリビアがそう聴いてくると、側に居たメイド達が皆で囃し立ててくる。
「30枚、30枚、30枚・・」
「まだ言ってなかったわね。
貴方が勝てば、その賞金合計の半分の額が、ここに居るメイド達全員にも支払われるの。
彼女達へのご褒美は、貴方の選択にかかっているのよ?」
オリビアが、フフンと笑う。
「勿論受ける」
「「「わあーっ」」」
メイド達の歓声が上がる。
二人目は槍使いだった。
遠い間合いから、凄まじい突きの連打を繰り出してくる。
和也はそれを数発避けると、相手が突きで腕を伸ばした時に、ぎゅっと槍の中ほどを握り、引き寄せる。
そして、やはり腹部に今度は膝蹴りを食らわし、意識を刈り取る。
彼も同様に、その鎧がへこんでいた。
再び場が静まるが、先程まではいかない。
さっさと槍使いも剣士の横に運ばれ、三人目が出てくる。
「ここからはそう簡単には勝てないわよ?
彼らは魔法も優秀だから、人体強化も攻撃魔法も使える。
だけど流石に中級の攻撃魔法は危ないから、低級のみにしてあげるわ。
今度は銀貨30枚の賞金が加算されて、合計60枚。
・・どうする?」
「60枚、60枚、60枚・・」
「当然受ける」
「「「わああーっ」」」
「余り欲をかかないことね。
では、始めて」
三人目は女性で、どうやら魔法剣士らしかった。
鎧姿もそれに合わせて軽装で、その分、優雅なラインを保っている。
顔の隠れる兜を被っているから、年齢までは分らない。
こちらが動かずにいると、女性は先ず自身に肉体強化の魔法を掛け、次いで風刃と火球の魔法を連続で放ってくる。
前の二人の戦いを見て、接近戦は分が悪いと判断したようだ。
だが、何発も繰り出された魔法攻撃は、和也に届く前に全て消滅してしまう。
魔法剣士が目を見開く。
「全力で、好きな魔法を使って良いぞ」
和也がズボンのポケットに両手を入れたまま、面倒臭そうにそう告げる。
「!!」
魔法剣士の女性が、許可を求めるようにオリビアを見る。
彼女は、少し躊躇った後、僅かに頷いた。
魔法剣士の周囲に、魔素が急速に集まって来る。
数秒かけて魔力を溜めると、その女性は一気に火の中級魔法を和也に向けて放つ。
ゴオッ。
直径1ⅿ以上ある火の玉が、うなりを上げて向かってくるが、やはり和也の少し前で消滅してしまう。
今度こそ、完全に場が静まり返る。
魔法剣士は暫し呆然とした後、大人しく負けを認め、オリビアに一礼してから、寝かされた二人の場所まで下がった。
「・・貴方のその服、何かの魔法具?」
オリビアが、信じられないといった顔で聴いてくる。
「いや、只のスーツ、普段着だな」
「貴方が何も持っていない理由が分ったわ。
確かに強い。
その歳でそれだけ強い人はそうはいないわ。
でもね、我が家もこの町を預かる伯爵家。
町を守る人員は豊かだし、しっかり鍛えてもいる。
残りの二人を甘く見ないことね。
今度は銀貨40枚加算で合計100枚、つまり金貨1枚ね。
どうする?」
「「「100枚、100枚、100枚」」」
メイド達も大興奮。
「やはり受ける」
「「「キャア―ッ」」」
「もし死んだら、アリアは私が貰うわよ?」
溜息を吐いて、彼女が下がって行く。
四人目は重戦士。
分厚い鎧に大型のハンマー。
魔力で相当身体能力を高めてないと、満足に動く事もできないだろう。
和也の眼には、その鎧と盾に、硬化と軽量化、耐熱、耐電の魔法が施されているのが見える。
分厚い盾を構え、ゆっくりと近付いてくる彼に、和也は拳を握り、常人の目には止まらないスピードで、右ストレートを放つ。
ドッゴォーン。
盾ごと数m吹っ飛ばされる男。
地響きを立てて地面に横たわった男は、その後、ピクリともしない。
和也の拳を受けた大型の盾は、何とその拳の形にえぐられている。
再度の有り得ないような光景に、またしても場が静まり返る。
ここで和也が止めれば、一人銀貨50枚が貰えるメイド達も、流石にこの光景には口を噤んだ。
「・・貴方、一体何なの?
ちょっと可笑しいわよ、これ!」
オリビアが、倒れた重戦士の盾を見つめながら、声を震わせる。
「この盾、特注品なのよ?
硬化と軽量化の魔法に、耐熱、耐電の魔法まで掛けてあるから凄く高いの。
1つで金貨10枚もするんだから!
・・もう許さない。
最後の彼女に思い切り魔法を使って貰うわ。
勿論受けるわよね?
今度は銀貨50枚加算で、計150枚。
依頼料の金貨1枚と合わせれば、普通に暮らせば3か月は遊んで暮らせるわよ?」
「受ける」
先程の光景からまだ立ち直れていないメイド達は、今回は静かだ。
意識のある者達だけでは重くて運ぶ事のできない重戦士の彼は、哀れにもそのまま放置された。
よって、少し戦いの位置をずらしての再開。
「彼女、この国で5本の指に入る魔術師よ。
上級魔法まで使えて、その威力も折り紙付き。
本気で撃ったら屋敷まで被害が出るから、多少は手加減してあげる。
身体強化も勿論使えるから、攻撃される前に何とかしようとしても、かなり難しいわよ?」
オリビアが、小馬鹿にしたように言ってくる。
「火魔法だと死んじゃうから、何が良いかしらね?
風、ううん氷・・」
「何もしないで待っててやるから、好きなものを思い切り撃って良いぞ。
どうせ魔法など使えん」
「な・・。
ほんとに死にたいの?
・・墓碑銘は、『アリアのお荷物』にしてあげる」
彼女に合図された魔術師が、前に出てくる。
魔術師といっても、ローブ姿ではない。
軽装ながらも、上半身と腕、足に、しっかりと鎧を身に着けて、目と口元の見える兜を被っている。
剣の代わりに、金属でできた杖を持ち、その先端に何かの魔石が付いている。
「面倒だから早く終わらせたい。
全力で魔力を込めろ。
後で言い訳に使う積りがないならな」
和也が相手にそう言うと、その魔術師は目元を厳しくし、魔法の発動に入ろうとした。
「・・?」
「・・!!」
驚いたように和也の顔を見てくる。
「何時まで持つかな?」
「!!
!!!」
魔術師は必死になって魔法を放とうとするが、一向にそれだけの魔力が溜まらない。
寧ろ、身体からどんどん魔力が抜けて行く。
「!!!
・・・」
大量の魔力を失い、意識が朦朧とし出した魔術師が、身体をふらふらさせ始める。
そして間も無く、地面に倒れ伏した。
一部始終を見ていた者達にも、一体何が起きたか分らない。
「・・彼女に何をしたの?」
オリビアが、呆然自失の
まさか何もできずに倒れるとは、思ってもみなかったのだろう。
「自分は何もしていないだろ?」
「嘘よ!!
何もしないで彼女が倒れる訳ないでしょう!?」
「説明する義務はないな。
それより、五人とも倒したぞ。
早く賞金をくれ」
「くっ!
分ったわよ!
屋敷の玄関で待ってて!!」
怒りに任せて自分の部屋まで走って行く彼女を見送り、和也は倒れている者達の下へと歩いて行く。
其々の鎧のへこみや傷を修復してやり、怪我をした者には治癒を施す。
最後の彼女には、吸収した魔力を返してやった。
そして、後片付けに入ろうとするメイド達に声をかける。
「ちゃんと銀貨75枚ずつ貰えよ?
あと、これは彼女から余計に貰う分の銀貨150枚だ。
ここに来れなかった他のメイドに分けてやれ」
そう言って、メイドの一人に銀貨の入った小袋を渡す。
「有難うございます。
凄くお強いのですね」
顔を若干赤くしたメイドが、礼を言ってくる。
よく見ると、自分にお茶を持って来た娘だ。
「余計なお世話かもしれないが、君の歳で、黒のレースはまだ早いと思うぞ」
「まあっ!
フフフッ、あれは勝負下着ですから、普段はもっと地味なものをはいております」
『そうか』と苦笑いした和也は、ゆっくりと門へと歩いて行った。
「はいこれ、約束のお金」
オリビアが渋々差し出してくる。
彼女にとっては大した金額ではないが、和也に取られるのが嫌らしい。
「メイド達にも、約束した分をちゃんと払えよ?」
「分ってるわよ!
もう、貴方のせいで、今月のお小遣いがピンチだわ」
「ところで、今日のは一体何の試験だったんだ?」
「今更?
・・今日の試験に合格したら、貴方を護衛に雇って、地下迷宮を探索する積りだったのよ。
勿論、アリアも連れてね。
それをするには、あの五人に貴方が勝つ事が、お父様の出した条件なの。
まさか本当に勝つとは思ってなかったけどね」
「自分が勝たなければ、君はアリアと探索できないだろう?」
「別にそれでも、貴方が大怪我して暫く寝込んでくれれば、彼女と居られる時間が増えるから、私としてはどちらでも好かったわ。
・・流石に殺す気はなかったわよ?
そんな事したら、アリアに嫌われちゃうから」
『普通の人間なら、かなり危なかったと思うが・・』
「それより、まだアリアに手を出してないわよね!?」
「残念だったな。
毎日足腰が立たなくなる寸前まで頑張っている」
「!!!」
「彼女が、自分の訓練をな」
「・・良い気になるんじゃないわよ?
今度のお小遣いでまた依頼を出すから、そしたらちゃんと受けるのよ?
良い、分った?」
「ああ、金貨1枚以上ならな」
からかわれて悔しそうに言ってくるオリビアの下を去り、アリアの待つ家へと帰る和也。
大事な何かを忘れている事に彼が気付くのは、まだもう少し先であった。
「ユイさん、攻撃を交わされたら隙だらけですよ。
それにまだ、振りが大きい」
バシッ、ドスッ。
「グッ、ガアッ」
「ほら貴女も、まだまだ詠唱が遅い」
バン。
「キャッ」
「剣を振りながら、どんどん魔法を撃ちなさい。
それでは案山子しか倒せませんよ」
ズバン。
「ギャッ」
マリー相手に二人がかりで剣の稽古に励むユイとユエ。
マリーが振るうのは竹刀だが、その威力は金属の防具の上からでも相当痛い。
腕が腫れ、上半身は青あざだらけで、無事なのは顔だけだ。
魔術師であるユエにも、ユイと同様に打ち込まれる攻撃。
まだ拙い剣技で死に物狂いでマリーの攻撃を受けようとするが、魔法も放たなければならないから、集中力が分散されて、ほとんど何もできない。
骨が折れれば直ぐに治癒され、痛みで剣を落とせば、痣と腫れを消されて再度剣を持たされる。
30分ぶっ通しで続けたら、疲労と痛み、外傷を治癒されて15分休憩。
これを1日4セット。
朝の時間は二人で筋トレに当て、昼のこの訓練後、夕食を挟んで夜は魔法の訓練。
魔法が得意ではないユイも、ユエと共に限界まで撃たされ、ふらふらになってマリーに補給されては、またどんどん撃たされる。
精神に支障を来たさないよう、睡眠時間だけはしっかり確保されているので、訓練が終わった後の二人は、一緒に風呂に入って身体を洗い合った後、朝まで泥のように眠る。
アンリからの食事と温泉、そしてふかふかのベッドがなかったら、本当に精神的な疲労によって、病む一歩手前まで行ったかもしれない。
マリーだって、こうした訓練を嬉々としてやっている訳ではない。
弱い女性をいたぶるような趣味を、彼女は持ち合わせてはいない。
ユイ達の限界を計りながら、壊さないよう細心の注意を払って鍛えている。
彼女がここまでやるのは、勿論和也に頼まれたからであるが、ユイ達のやる気が、そうさせている面もある。
『痛くない、痛くなんかない!こんな痛みより、心を殺される方がずっと辛い。二人で居られない方が、嫌な相手に身体を売る方が、その何倍も辛い!!』
前の主人に、危うく娼館送りにされそうだった二人は、そう言いながら必死についてきた。
涙を流しても、悲鳴を上げても、決して訓練を投げ出さない彼女達に、マリーは、『強くなりなさい。大事なものを守れるように、強くなりなさい』、そう心で励ましながら竹刀を振るう。
常識を無視した訓練をしているとはいえ、素人同然に思えた彼女達は、僅か10日足らずで確実に強く、逞しくなっている。
1年も鍛えれば、相当な所まで行くだろう。
自国の兵士でもここまではやらない彼女は、自己を鍛えていた昔を思い出し、久し振りの充実した訓練に、とても満足していた。
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