番外編 世の理を超えたその先に 第1話

 「感動の再会は済んだかな?」


俺と江戸川さんの時間を遮る、奴の無粋な声がする。


「はい。

お言葉を信じてはおりましたが、本当に有難うございます。

お陰でこれまでのだるさが嘘のように身体が軽く、とても爽快な気分です」


「病の素は、全て取り除いてあるからな。

当然、例の遺伝子も正常なものに組み替えてある」


「・・なあ、ちょっと聴いても良いか?」


俺は自身の疑問に耐え切れなくなって、江戸川さんに尋ねる。


「ん?

なあに?」


「さっきから有り得ない事が起きたり、二人で変な会話をしてるけどさ、あいつ、本当に神様なわけ?

そんなもん、本当にいたのか?」


「こら、口の利き方に気を付けなさい!

あの方は本当に神様よ。

私が生き返った事が、何よりの証拠でしょう?

こんな事、神様以外の一体誰にできるというの?」


「そりゃそうだけどさ、いきなり神様とか言われてもな」


「別に信じなくても構わないが、約束だけは守って貰うぞ」


「ああ?」


「お前達はこれから、懸命に医学を学び、大学を卒業後は、10年程度、世界中の僻地で医療ボランティアの活動をして貰う。

その後、我の経営する医療機関で、定年まで、後進を育てながら働いて貰う。

大学生の間は、学生生活を楽しむ時間も大事にするが良い。

働き始めても、決して己の生活を犠牲にはするな。

多くの人の命を救っても、自分達が幸福でなければ、それは単なる自己犠牲でしかない。

我がお前達に求める道は、相互に幸福を追求できる道である。

その事を忘れずに励むが良い」


「はい、神様」


「・・ちょっと待て、何でお前が俺達の人生を勝手に決めてるんだ?」


「こら、そんな言い方しちゃ駄目だって」


「そう彼女と契約したからだ」


「!!

・・本当か?」


「うん。

隅田君がお風呂に行っていた時、神様が私のお部屋を訪ねて下さって、そこでお約束したの。

私の命を助けていただく代わりに、神様の下で、貴方と二人で多くの人を助けていくって。

約束を破ったり、私が貴方と別れたりしたら、私は神様のお屋敷で、メイドとして働く事になってるの」


「!!!

な・ん・だ・と~?」


俺は殺意を込めて奴を睨む。


「貴様~っ、江戸川さんの弱みにつけ込んで、卑劣な約束をさせやがって・・」


「お前は馬鹿ではない。

今は色々な事が立て続けに起こって、感情が制御し切れないからだと解釈しよう。

良いか、よく聴けよ?

自分は本来、人の生死や願い事などに関りはしないのだ。

お前達が神という存在をどう捉えているかは知らないが、我は便利屋ではない。

病気や事故で死にそうだから、試験に合格したいからなどという理由で、一々その者達を助けていたら、きりがない。

挙句の果てには、お金が欲しい、あの人と結婚したいなんていう事まで願ってくる。

無条件で命を助ければ、生命保険に加入する者などいなくなり、保険会社は潰れ、そこで働いている者達が路頭に迷う。

医者もほとんどが必要なくなるだろう。

実力の無い者を、定員の決まった試験に合格させるという事は、本来なら受かるはずの者を、代わりに落とすという事だ。

その者を好きでもない人物の心を無理やり変えて、願った者と結婚させるという行為は、心をいじられた者を踏みにじるという結果に繋がる。

勿論、この世界の人間がする神頼みは、そのほとんどが願掛けというより、自己への誓いなのだという事は理解している。

本気で神に願う者は、意外と少ないのかもしれないな。

何かミスをしても、自堕落に過ごしても、その結果を全て神に押し付けて、己が責任を取らないで済む世の中など、陸な世界にはならない。

人は自身の行動に注意を払わなくなり、無思慮になる。

・・我の下には、日々実に多くの叫びや嘆きが届く。

自己の選択や努力ではどうにもならない事で、無残に命や夢を散らしてゆく者が残す、言葉、呻き。

本心では助けてやりたい、手を差し伸べたい者だって多い。

だが、その線引きが難しい以上、基本的には無視して、あとは開き直って、我が気に入った者、何かを代償に差し出せる者だけを助けるくらいしかしない。

お前は有能だ。

真面目に医学に取り組めば、実に多くの者を救えるだろう。

そしてお前を有益に機能させるためには、彼女の存在が不可欠だ。

だから彼女を助けた。

お前が我の描いた道を進まないのなら、彼女を助けた意味はない。

かといって、契約違反だからと再度その命を奪うのも、我の流儀ではない。

それなら代償として、我の下で働かせるしかないではないか。

そうだろう?」


「・・・」


悔しいが、奴の言ってる事には一理ある。


医者だって、命を助ける代わりに、報酬を貰うのだ。


「江戸川さんは、本当にそれで良いのか?」


「うん。

私は、隅田君の次に、御剣様の事が好きだから。

貴方と医療に携わり、沢山の人を救ってあげたいのは私の本心。

だから、その夢が叶えられないのなら、私は神様の所へ参ります」


「!!!

今、・・何て?」


「ん?」


「奴を好きだと言った?」


「うん。

隅田君の次にね」


「き・さ・ま~っ、やっぱり許せん!」


俺の雄叫びが、真冬の夜空に響き渡った。


その後暫くして、何とか落ち着きを取り戻した俺と、ずっと俺を宥めてくれていた江戸川さんは、奴に呼ばれて今後の話を聴く。


「歴史を変える以上、お前達二人には、過去からやり直して貰う。

今から、約8か月前の、彼女が病気を発症する前日までお前達を送り届けるが、お前達だけには、今日までの記憶が残っている。

学んだ事、経験した事の全てが、お前達に限って有効になっている。

これがどういう事か分るか?」


「・・株の動きや試験の問題などが、予め分るという事だな」


「そうだ。

何時、誰が、何処で何をしているのかも、彼女の病気に因果関係を持つ事以外は、覚えていれば、その通りになる。

まあ、我が敢えて変えようと思えばそうできるのだが、そこはお前達を信じる。

彼女だけでなく、お前もかなり苦しんだろうから、多少の利益誘導くらいは目をつぶる。

くれぐれも、他の者にボロを出すなよ?」


「分った。

一応、礼は言っとくよ。

彼女を助けてくれて、どうも有難う」


これだけは本当に、心から感謝しているので、気分の落ち着いた今なら、素直に頭を下げられる。


「お前達と次に会うのは十数年先になるだろう。

これからのお前達に役立つ能力を、今、先渡ししておこう」


二人の身体が一瞬蒼く光る。


「医学を深く学ぶには、ドイツ語は必要となるであろうし、世界の僻地で活動を続けていくためには、主要言語だけでは心許無いであろう。

よって、そのための労力だけは省いてやる。

また、不衛生な場所でも耐え抜き、患者から逆に病を移されないためにも、あらゆる病原菌から、お前達を守ってもやる」


正直、この時は何を言われているのか、今一つ理解できなかったが、後にその効果を実感する事になる。


『それから、君には詫びておこう。

彼を奮起させるためとはいえ、まるで君自身に大して価値が無いような言い方をしてしまった。

申し訳ない』


『え?

頭の中に直接お言葉が・・』


『彼に聞かれると面倒だからな。

約束の品を渡しておく』


驚く私の右手の薬指に、銀色のリングが生じる。


『我が眷族への門を開く鍵だ。

生命の危険がある時や、君が望んだ際に、眼前に門が現れるから、我が眷族を望むならそこをくぐれ。

君自身が権利放棄しない限り、そのリングは決して取れないぞ』


『私だけが潜ってしまっても、彼も一緒に来れるのですか?』


心の会話に段々慣れてきた私は、神様にそうお尋ねする。


『勿論だ。

多少時間はずれるが、そう紐づけてある』


『先程私に謝罪なさっていましたが、そんな事、ご不要ですよ?

私は隅田君のものですが、御剣様のしもべにもなるのですから。

私にとってはどちらも大切、そのお心のほども、私なりに分っている積りでおりますから。

フフフッ』


「ええと、さっきから、何二人で見つめ合っているのかな?」


隅田君の、怒りを内に含んだ可笑しな声がする。


「神様に、心の中でお礼を申し上げていたの。

神様は、言葉に出さなくても、私達の考えている事がお分りになるのよ?」


「げ、マジかよ!」


『バーカ、バーカ』


「お前は子供か?」


彼に何か言われたらしい神様が、苦笑いしている。


「では、そろそろ送り届けるぞ」


その言葉と共に、私達は過去へと飛ばされたのだった。



 『隅田君、今何処に居るの?』


奴に飛ばされた先は、医学書がうず高く積まれた自分の部屋。


スマホで日付を確認していた俺に、江戸川さんから直ぐにメールが届く。


『自分の部屋。

あいつの言ってた事は、どうやら本当みたいだ。

処分したはずの本が、まだ部屋にあるし、俺の宝物が見当たらない』


『宝物?』


『美保さんから形見にと貰った、江戸川さんの日記やスマホの類』


『ちょっと、何それ!

もしかして、中身見たの?』


『当然見たよ。

俺への愛が、一杯詰まってた』


『・・馬鹿。

ねえ、これからの事だけど、いつも通りで良いよね?

卒業までは、勉強だけ頑張って、あとは隅田君との時間を楽しみたいの。

病気で入院してから、その時間が如何に大切か、骨身に沁みて分ったから』


『それで良いと思うよ?

あいつも、学生生活は楽しめみたいな事を言ってたし。

俺はあいつとの約束があるから、医学の勉強は今まで以上に力を入れてやるし、あとはこの半年で、できるだけ株で稼いでおく。

あいつも大目に見てくれるようだし、ガンガン稼いで江戸川さんと色んな所へ旅行に行きたい。

働くようになったら、どうやらあまり休めなさそうだしな』


『神様をあいつなんて言っちゃ駄目。

私達の恩人なんだよ?

貴方とまた素敵な時間を過ごせるようにしていただいた、私にとって、とても大切なお方なんだから』


『江戸川さんさ、本当に奴の事が好きなの?

あの場のお世辞とかじゃなくて?』


『うん、大好きだよ。

異性として、というのとは少し違うと思うけど、とにかく大好き。

でも、何度も言うけど、隅田君の次にだからね』


『・・まあ、俺と1万光年くらい離れての2番目なら、認めてやるか。

恩があるのは確かだしな』


『・・・。

じゃあ、そういう事で、またこれからも宜しくね』


『ああ。

また会えて、本当に嬉しかったよ』


『私も』


真の幸せは、何気ない日々の中にこそあるのだという事を実感しながら、その日の俺達は、早々にお互いのベットに潜り込んだ。



 それから5年半の時が流れた。


株で20億近い利益を出した俺は、江戸川さんと長期休暇の度に海外に旅行に出かけ、そこで存分に楽しみながら、奴の言葉を身を以って知る事になる。


どの国に行っても、学んでもいない言葉が完全に理解できるのである。


それどころか、自分達もペラペラ普通に話せる。


これには正直驚いた。


ガイドを付けなくても、自国のようにその国を楽しめるので、旅がより奥深いものになる。


毎回ただ楽しむだけではなく、その国の医療レベル等を見て回る事も忘れない。


週末の短い休みには、国内の温泉やレストランに足を運び、のんびりと二人きりの時間を過ごした。


時々、美保さんを家に招いて、自分の家族と共にパーティーを開いたりもした。


その一方で、大学の実習が始まると、精力的に各科の授業に取り組み、事前にそれに関する医学書を数冊読み込んでは、担当教授を質問攻めにして、知識の定着に励んだ。


自国で開催される各国の有名教授や医師の講演会にはできるだけ参加し、時には旅行を利用してその人物が居る国まで足を運び、アポが取れれば、実際に会って彼が書いた医学書に関する疑問点を解消していく。


上辺うわべだけの質問ではなく、その書物を相当深く読み込まなければできないような俺の質問に、皆喜んで答えてくれ、お礼にと持参した自国の名品にとても満足して貰えた。


そしてそんな事を4年もしていると、まだ学生の身でありながら、俺の名は医学界でそれなりに有名になり、大学の教授達からも、卒業したら自分の下に来ないかと、有難いお誘いを頻繁に受けたが、奴との約束を果たすために、丁重にお断りし続けた。


江戸川さんは、6年制の俺とは異なるため、一足先に卒業し、俺が卒業するまでの間、大学の附属病院で高看として働き始めた。


白衣の天使を地で行く彼女の周りには、花に集まる蝶の如く、いつも患者や医師達が群れているが、左手の薬指に燦然と輝く結婚指輪が、彼らを必要以上には近寄らせない。


そう、俺達は、彼女の卒業と同時に結婚した。


俺がまだ学生であるため、派手な式は挙げず、お互いの家族だけでお祝いをしただけだが、書類はきっちりと役所に提出したし、大学の近くにマンションを借りて、一緒に住んでもいる。


本当なら俺が卒業してからにするはずであったのだが、2年前くらいから、何故か俺の周りに女性が集まり始めて、懇意にしている教授なんかも暗に自分の娘とのお見合いの話をちらつかせ出したので、それに危機感を持ったらしい江戸川さんが、事を急いだ。


ゲームや漫画のように、おはようのキスやお帰りなさいのキスはしないが(外から帰ってきた時は、うがいをしてからでないと、相手に失礼だと思うしね)、お風呂はなるべく一緒に入って、お互いに相手の背中を流す。


平日はお互い外食などせず、俺の作った料理を二人で食べる。


その日の出来事、週末や旅行の計画、面白かった本の事など、食事を更に美味しくする話題には事欠かない。


結婚指輪は、以前に助言を頂いた店員さんにお願いした。


今度は江戸川さんを連れて行き、その場で色々試しては、彼女に最も似合うものを選んで貰った。


約半年の株チートで相当な資産を作った俺は、金に糸目をつけなかったが、江戸川さんは、自分の持論を曲げる事なく、50万円くらいの、シックな品を嬉しそうにその指に嵌めた。


リングといえば、超ムカついた事が1つある。


彼女の右手の薬指に嵌まっている、あれだ。


それをどうしたのかと尋ねたら、神様との約束の印に頂いた物だという。


絶対に外せないというので試してみたが、悔しい事に、本当に外せなかった。


ただ、見えなくする事はできるらしい。


『そうしようか?』と言ってくれた彼女に、そのままでも良いと返事をした。


何だか奴に負けたみたいで嫌だしな。


それにしても、江戸川さんを飾るのは、俺だけの特権であるのに許せん。


『バーカ、バーカ』と、奴に心の中で文句を言っておいた。


喧嘩はしないが(最後は必ず俺が折れるから)、時々彼女に怒られる(というか、拗ねられる)。


俺が頻繁に彼女の事を『江戸川さん』と言ってしまうからだ。


結婚したんだから、ちゃんと『美久』と呼んでとその度に文句を言われるが、長年慣れ親しんできた呼び方を変えるのは、中々難しい。


あの時は、何も考えずに口から出たのにな。



 彼女との新婚生活を満喫し、医師の国家試験に合格して大学を卒業する頃、一人の若い女性が俺達を訪ねて来た。


いかにもエリートだと分る知的な容貌と物腰。


美しい容姿の中に見え隠れする鋭さ。


名を立花皐月さんといった。


契約に基づき、俺達の今後について説明に来たらしい。


一瞬何の事か分らなかったが、『先ずはこれをご覧下さい』と差し出してきた封書の中身を確認すると、どうやら奴との約束についてのようだった。


しかも、奴が神だという事は、彼女には内緒らしい。


その文面だけは、俺達が目を通した後、直ぐに文書から消滅してしまった。


「簡単な補足説明を致したいと思いますが、宜しいでしょうか?」


俺達が書類を読み終えた事を確認した彼女が、そう告げてくる。


「はい、お願いします」


奴からの指示と分った江戸川さんが、張り切って返事をする。


「先ずは卒業と同時に欧州に飛んで貰います。

欧州といっても、ドイツやフランス等の経済大国ではなく、旧社会主義国等の比較的貧しい国々が中心です。

次いで中近東、最後にアフリカ諸国になります。

其々の場所での滞在期間は、1年から、長くても2年程で、業務の内容は、その土地での医療活動、啓蒙活動、及び人材ハンティングとなっております。

活動に必要な物資や環境は、我が御剣グループが全面的に支援致します。

・・ここまでで、何かご質問等ございますか?」


「あの、医療活動は分るのですが、人材ハンティングとはどういう事でしょうか?

私達はあくまで医者と看護師ですが・・」


今一つ意味が分らず、俺は彼女に尋ねる。


「我々が僻地での医療活動に参加するのは、何もボランティア活動だけが理由ではないからです。

国連の諸活動をご覧になればお分りかと思いますが、貧しい人々に、その場限りの物資や治療を施すだけでは何も解決致しません。

食料なら、それを食べてしまえば終わり。

病気の治療にしても、その土地特有の病気には、その根本となる原因を絶たねば、一度治してもまた罹る可能性があります。

食料も医薬品も、只ではありません。

先進国といえど、自国に満足な生活のできない民を多く抱える以上、言葉は悪いですが、何の利益も生み出さない人々に施すには限度があるのです。

ならばどうするか?

ただ施しを受けるだけの立場にある人々の中から、意欲と能力の有る者を引き抜き、必要な教育と技能を与えて独り立ちさせ、今度はその者達の力を借りて、次第にその国を豊かにしていくしかないでしょう。

ODAのような形で国の指導者達に援助をしても、そのほとんどは彼らに搾取されてしまうのは歴史が証明しています。

時間はかかりますが、末端の国民から育てていく方が賢明でしょう。

医師というのは、人の生命や生活に直結する仕事であるため、その暮らしの中に溶け込め易く、その分、地域の実情や人々をよく観察できる。

患者として来た者の中から、世間話を通して知り得た人の中から、これはという者を選んでは、我々に任せて欲しいのです。

責任を持って保護し、明日への希望を持てる者へと育てます」


単なる医療奉仕だとばかり思っていたが、結構な難題が潜んでいた。


俺の頭の中に、奴のほくそ笑む姿が浮かぶ。


この後は、久し振りにサンドバックをギシギシいわせたる。


そう心に誓う俺であった。


「僻地での活動が一段落したら、アフリカのとある国で、我がグループが設立する総合病院の長として、定年まで働いて貰います。

因みに我が社の定年は65歳ですが、ご希望なら終身雇用、ここでは死ぬまでという意味ですが、それも可能です。

通常の医療活動の他、グループ企業である製薬会社や重工業とのタイアップによる新薬開発や医療機器のテストへの協力、後進の育成など、その業務内容は多岐に渡りますが、良い仕事を続けていただくための福利厚生も大変充実しておりますから、どうぞご安心下さい」


「・・ちゃんと休日は有るのですよね?」


あまりの仕事内容に眩暈めまいを感じながら、俺はどうにかそれだけを確認する。


「勿論です。

我が社はホワイト企業を自負し、社員の皆様のプライベートな時間も非常に大切にしております。

具体的には週休2日、1日の勤務時間は約9時間、有給の完全消化を目指し、祝日とは別に、年1回の1週間に及ぶ長期休暇もあります。

・・尤も、医療の現場に携わる方々は、厳密にはこの通りに休めるとは限りませんが」


「また随分と豪気な事ですね」


「会長のご方針ですから。

私は未だにお会いできてはおりませんが」


「え!?

会った事ないんですか?」


「ええ。

社長が会わせてくれないのです。

会ったら絶対に惚れてしまうからと。

写真さえ見せてはいただけません。

ここだけの話、うちの社長は会長にベタ惚れなんですよ、フフフッ」


「もしかして、その社長というのは・・」


「ええ、会長の奥様で、序でに言うと、私の恩師に当たります」


『あいつに奥さんがいたとは・・。

その人も物好きな』


「御剣様の奥様って、どんな方なのですか?」


江戸川さんが興味深々な様子で尋ねている。


「とてもお美しくて、聡明で、ご自身が苦労なされた分、他者への思い遣りに溢れたお方ですよ」


立花さんが、とても誇らしそうに、そう教えてくれる。


「お二人は、会長と面識がお有りなのですよね?」


「ええ、まあ」


「どんなお方なのですか?」


「とっても優しくて、素敵な方です」


「かなり胡散臭い人ですね」


俺と江戸川さんが同時にそう答える。


「はあ」


ほぼ正反対の答えではあるが、お互いが浮かべる表情から、どちらも本当の印象を述べていると分る立花さんが、少し困惑した表情をしている。


「もう、隅田君ったら!

済みません、この人、私があの方に好意を持っているのが面白くないみたいで。

こんな事言ってますが、本心では、ちゃんと御剣様に感謝しておりますから」


俺が旧姓で呼ぶと文句を言うくせに、自分だって俺を苗字で呼ぶ事が多い彼女が、立花さんにそう執り成している。


「フフ、とても仲がお宜しいようで安心致しました。

これからは、慣れない土地で、ほとんどお知り合いもいない中、お二人で頑張っていかねばなりません。

夫婦仲は良いに越した事はございませんから」


立花さんが笑顔でそう言ってくれる。


「あの、失礼ですが、立花さんは恋人とかいらっしゃらないのですか?」


年相応に恋バナとかに関心のある江戸川さんが、遠慮がちにそう尋ねる。


まだ独身であろう事は、彼女の左手の薬指を見れば、想像がつく。


「中々良い出会いがなくて・・。

今はまだ、仕事が恋人のようなものですね。

母からは、もう良い歳なのにと急かされるのですが」


そう言いながら、苦笑する彼女。


「そんなにお綺麗なのに・・。

斯く言う私も、彼に出会えたのは運でしたから。

お気を悪くなされたなら、済みません」


「いえいえ。

社長からもよく尋ねられるので。

何時か私にも、素敵な男性が現れる事を信じて、今はお仕事を頑張っております」


その後、頂いた書類に二人でサイン等をして、それを受け取った立花さんが席を立つ。


「では、お邪魔致しました。

出国の正式な日時等が決まりましたら、頂いた番号にご連絡差し上げます。

今後とも、我が社共々宜しくお願い致します」


来た時同様の美しい仕種で礼をした彼女を、玄関先まで見送る。


「やっとここまで来たね」


去って行く立花さんに目をやりながら、江戸川さんが感慨深げにそう口にする。


「神様にご恩返しできる日が、やっと来た」


俺の手を握り、深く指を絡める彼女。


「一緒に頑張っていこうね」


「ああ」


俺もまた、奴との約束を果たすべく、そう言って頷くのであった。



 「長閑で良い所ね」


俺が大学を卒業すると直ぐに二人で旅立った場所は、東欧の寒村だった。


立花さんからの事前連絡では、着替えなど最低限の荷物があればそれで良いという事だったので、お互いスーツケース1つで飛行機を乗り継ぎ、現地の空港に到着すると、彼女の部下らしいスタッフが既に待ち構えていて、そこから車で3時間程の村まで俺達を案内してくれた。


自然の豊かな、逆に言えばそれしか取り柄のないような村に見える。


所々に点在する家は粗末な造りのものばかりで、村人の暮らしがあまり豊かではない事が窺い知れる。


日本であれば、山奥まで足を運ばないと存在しないような集落には、視界に入る店もなく、村人が一体どうやって買い物をしているのかも謎である。


車が停まった場所には、400坪程度の敷地に大きな2階建ての新築の家が建てられており、1階部分は診療所としての機能もある。


広い庭にはハーブや草花が植えられ、シーツなどの大きめの洗濯物が干せる物干し台と、車2台分の車庫もあった。


玄関の鍵を開けたスタッフに呼ばれ、家の中に入る。


100坪程の診療スペースには、レントゲンや内視鏡などの設備があり、外科手術も可能で、入院用のベットも3つあった。


あらゆる機能がコンピューターで制御され、人手が少なくても何とかなるように設計されている。


ここまでの設備を持つ個人病院は、恐らく日本でも少ないであろう。


1階を確認し、広い浴室とキッチンに満足した後は、居住用となる2階を簡単に案内される。


12畳程のお互いの部屋と、リビング、寝室、客間が3つ。


俺達の部屋と客間には、其々シャワールームまで付いている。


トイレと洗濯機は各階にあり、プライベートと分けられている。


俺達の喜んだ表情を好意的な笑顔で受け止めた彼は、リビングで詳しい説明に入る。


先ずは権利関係から。


ここの土地は、この場所で1年以上の無料診療をする事で、自治体から無償贈与されるらしい。


建物や設備は御剣グループの所有であり、俺達に無料で貸し出し、定期的にメンテナンス等もして貰えるそうだ。


贈与される土地の権利は御剣グループに属するが、その代わり、ここでの食料に関しては、週2回の無料配給で、好きな物を与えて貰える。


給与は日本円での口座振り込みで、二人で月額80万円。


勤務時間や休日は、既定の就労時間数さえ守れば、好きに設定して良いとのこと。


次に業務内容の確認。


仮令患者が来なくても、週1回の報告書をネットで提出する。


足りない医薬品、必要な機材等もここで申請する。


暇な時は、可能な限り、医療シュミレーション室での技術の向上と知識の習得に励むこと。


驚いた事に、ここには3Dを利用した各手術のシュミレーションや、PCを用いた最新の医療を学べる部屋があり、使ってみての感想や、改良の余地がある箇所を報告する機能も備わっていた。


人材ハンティングに関しては、12歳から40歳くらいまでの者を対象とし、未成年者については、保護者の同意を得た上で勧誘する。


未成年の者は先ず学業から、成年者なら職業訓練と並行して、語学や必要な法律知識の習得をして貰う旨を伝えて、その同意を得られた者だけを報告する。


ただし、診療所の入り口付近に設置されたセキュリティセンサーが、その者を赤く表示した際は、除外する。


この場合は、以後その者の動向に注意すると共に、可及的速やかに報告すること。


これは厳命された。


一通りの説明を終えた彼は、村での生活や機器の操作に関する数冊の分厚いマニュアルを俺に渡すと、家の鍵と共に、立花さんに直通で繋がるスマホと当座のユーロを残して、速やかに立ち去った。


「僻地というからもっと凄い場所を想像していたけれど、見方によってはかなり素敵な所よね」


二人きりになった江戸川さんが、少しほっとしたように言う。


「安心するのはまだ早いと思う。

奴がそんなに甘いはずがない。

きっと、最初から過酷な場所だと俺達が潰れるから、段々きつい場所にして、俺達を慣らしていく積りなのだろう。

ここは貧しいが治安は良さそうだし、衛生面でもまともな方だ。

だが次の中近東は女性には色々と不便な場所だし、アフリカには治安も衛生面でも劣悪な国がある」


「・・確かにね。

でも、こんなに素敵な家を用意していただいたのだから、神様には感謝しないと。

食べ物だって、困らないみたいだし」


江戸川さんは目を閉じて、誰かに祈るような仕種を見せる。


彼女は無宗教だが、奴だけは祈りの対象らしい。


因みに、何度怒っても俺が改めないので、奴に関係する人の前以外では、俺が御剣を奴呼ばわりしても見逃してくれるようになった。


「今日は移動で疲れたし、お風呂に入って食事したら、直ぐ寝ちゃいましょ。

届いてる荷物の整理は明日やれば良いわ」


流石にお互いの荷物がスーツケース1つだけという訳にはいかなかったので、事前に教えられた住所宛に幾つか段ボールで送ってある。


空港で買ったサンドイッチと缶詰で食事を済まし、さっさとベットに横になる。


こうして、俺達の活動は、どうにか始まりを告げるのであった。



 明くる日、散歩がてらに、PCで印刷した診療所のチラシを配って歩く。


この村には約200軒程の家があり、それなりに子供の数もいて、少子化という事もない。


どの家も、俺が挨拶に行くと初めは警戒されたが、その後で江戸川さんがにっこり微笑みながら現地の言葉で挨拶すると、直ぐに警戒を解いて、チラシを受け取ってくれた。


その内の幾人かとは話もできて、この村には長い事医者が居らず、病気になった者は40㎞も離れた病院まで車を走らせなければならず、大雨や緊急の時には間に合わずに命を落とす者がいる事、お金がなくて軽い症状なら我慢した結果、取り返しがつかない状態まで悪化させてしまい、重い後遺症に悩む者が出る事などを知る。


序でにお店はないのかと尋ねると、10㎞先に雑貨屋があるから、必要な時は何軒かの注文を纏めて、代表で一人が買いに行くらしい。


ガソリン代も馬鹿にならないそうだ。


なので、診療が一切無料であるのは大変に助かると、皆に喜ばれた。


どうやってお金を稼いでいるのか疑問に思っていたら、話をした内の一人が、収穫した野菜や家畜の肉を売りに行ったり、出稼ぎに出た家族からの仕送りで遣り繰りしていると教えてくれた。


株で稼ぐという発想はないらしい。


まあ、元手がなければそれすらできないか。


なるべくなら、野菜くらいは村で購入してあげようと考えながら、二人で家路に就いた。


次の日から、早速多くの患者が訪れた。


センサーを通して赤く光る者は居らず、安堵しながら診察を開始する。


ただ、ほとんどの人は健康診断のような感じで、病気を見せに来る人は少なかった。


病気といえる人でも、大概は皮膚病で、幸いにして、重病を患っている人はいない。


先進国に多い、糖尿病などの一種の生活習慣病が見られないのも、普段から質素な生活をしているからかもしれない。


診療初日から百名を超える患者が来て、俺と江戸川さんは昼飯以外はずっと働きづめであったが、そのせいで早くに顔が売れて、村での生活に溶け込むのが容易になった。


危惧していた薬の処方に関しては、この国では昔の日本のように医師が直接薬を出しても良い事になっており、薬局が存在しないこの村では非常に助かった。


とはいえ、俺は必要のない薬など出さない。


以前父が、例えば風邪で4種類の薬を貰っても、本当にその病気に効くものは1つか2つで、あとは栄養剤や軽い副作用を抑えるだけの、言わばあまり必要性のないものだと苦笑していたのを思い出す。


病院の利益のためには、ある程度は仕方のない事なのだと言っていた。


真面目な江戸川さんは、今後の事を考えると、どの国でも自分達だけで薬が出せるよう、暇な時に薬剤師の勉強もすると意気込んでいた。


まあ、自分達が持ち込んだ物以外、娯楽がほとんどない分、勉強するにはうってつけの環境ではある。


斯く言う俺も、暇さえあれば勉強している。


本格的な総合医を目指す者としては、学ぶ事は山のようにあるのだ。


朝が早い分、田舎の夜は早い。


診療時間の終わる夕方5時には、待合室には誰も居らず、ほっと一息吐く。


日本に居たなら、医師免許が有るとはいえ、大学を卒業したばかりの俺が、日に百人を超える患者を診るなど有り得なかっただろう。


そういう意味では良い勉強をさせて貰っているが、同時に人の命を預かる仕事を新米一人でこなしている事に、一抹の不安もある。


そしてその不安は、己の努力でしか消せない事は、十分に承知している。


江戸川さんさえ側に居てくれたら、俺は何時だって、どんな事でも闘える。


俺達がこの村に居られるのは1年か2年。


それまでに、俺はここに何を残せるであろうか。



 診察をしながら段々と親しくなっていく村人とする世間話は、多種多様だ。


この村の事、出稼ぎに行っている家族の事、俺の国に関する事、江戸川さんの事。


お年寄りの多い地域でよく見られるように、病院は、ある意味彼らの寄り合い所ともなっている。


この診療所の待合室は個人病院にしては広いので、三十人くらいは座れる。


新参者の俺は、診療中に患者さんが話す事をじっくり聴いてあげるので(勿論治療と関係のない孫の自慢話でも)、一人当たりの診療時間が長い。


当然、待ち時間も長くなるが、他の人との世間話や、手が空いた江戸川さんが彼らにお茶を出したりするせいで、苦情は出ない。


都会なら、少し待たせただけで文句を言う者もいそうだが、ここでは時間の流れも緩やかだ。


時計を見ながらせかせかと生きている人は見当たらない。


御剣グループからの配給を、自分達が食べる分より少し多めに貰い、その分で俺がお菓子を焼いて、診療所に来た子供達に配ったため、毎日貰いに来る子もいたが、店もなく、陸なおやつも食べられないであろう彼らを、拒んだりはしない。


寧ろ、美味しい美味しいと言って食べてくれるから、ついつい作り過ぎてしまう。


尤も、彼らはそれを江戸川さんが作ったと思っているが。


明るく美しく、しかも優しい江戸川さんは、白衣の大天使。


子供達だけでなく、お年寄りの方々からも絶大な支持がある。


きっと料理も上手なのだろうという彼らの期待を、俺は一々訂正したりはしない。


ただそのせいで、時折料理の事を褒められる彼女の片眉が、微妙にヒクヒクしているのを見かける。


そんな日は、決まって俺は彼女に無言でお尻をペシッと叩かれるのだ。


俺のせいじゃないのに、タハハ。


俺はといえば、無邪気な子供相手でも容赦しないので(『大きくなったらお姉ちゃんをお嫁さんにする』などとほざく奴に、『彼女は俺のだ』と自己主張するのを忘れない)、一部の男の子達からライバル視されている。



 その日は江戸川さんの誕生日だった。


なので当然、診療所はお休みである。


近隣に店もなく、ネット通販では高価な品物を買うのを躊躇われた俺は、腕によりをかけて、ご馳走を用意した。


なのに、診療所の待合室の片隅に、何時の間にか置かれていたピアノに、彼女の関心を奪われてしまう。


ご丁寧に奴のメモが挟んであり、娯楽があまりないだろうからと、プレゼントしてくれたらしい。


江戸川さんの喜びようは相当なもので、早速例の祈りとやらを捧げていた。


ここへの引っ越しの際、かなりの大荷物になるピアノは流石に無理だと諦めた。


俺だって、できれば運んで来たかった。


ピアノは彼女の趣味のようなものだし、こちらで直ぐに買えるものなら買ってあげたかった。


それなのに、奴は魔法でサラッと出してくる(前日の夜までなかった物が、翌朝いきなりそこにあれば、奴の力を知る限り、そう考えるのが普通だろう)。


不公平だ。


世の中間違っている。


自分の部屋に駆け上がり、サンドバックを思い切り連打する。


「ウオ―ッ!」


ドカドカドカドカドカ。


ギシギシ揺れるサンドバックの中央には、俺がマジックペンで描いた、奴の似顔絵がある。


『フン、これに懲りたら、俺の妻に金輪際手を出すなよ』と、心の中で呟いて満足する。


グローブも着けずに叩いたせいで、少し痛めた拳をさすっていると、コンコンとドアがノックされて、江戸川さんが顔を見せる。


「折角の料理が冷めちゃうよ?

隅田君が私の為に作ってくれたご馳走、早く食べよう?

忙しいのにどうも有難うね」


眩しい笑顔でそう言ってくれる。


『でへへへ』


喜んだのも束の間、去り際に、彼女はもう一言付け加えた。


「食べたらピアノも弾きたいし」


「ウオ―ッ!!」


ドカドカドカドカドカドカ。


俺の拳がサンドバックに火を噴いた。


赤く腫れた拳を治療してくれた彼女に怒られたのは、言うまでもない。



 結論から言うと、この村でスカウトできたのは八人ほどだ。


2年間という限られた時間の中では良い方だと思う。


ただ興味があるというだけではやっていけない。


現状の暮らしに満足せず、新しい景色を見てみたい、人生にもう一度花を咲かせたいというような、強い意思が必要となる。


子供なら、親元を離れて頑張れる事、ある程度の年齢の方なら、再び学び直す労力に耐える事を要求される。


この村は長閑で良い村だ。


他の国や地域よりも貧しいという事を除けば、いやそれさえも理由にならないかもしれないが、人として暮らす分には然程困らない。


自然の中で土と共に生き、ストレスとは無縁のような生活は、逆に都会の者から羨ましがられるかもしれない。


無理に外に出る事もないのだ。


12歳と14歳の子供四人と、30代の男女四人の計八名が、派遣されたスタッフに同行されて村を出た。


子供達は外国の学校に通いながらグループが運営する寮で集団生活をし、大学を卒業後、希望するグループ内の職種に就いて、やがてはその家族と共に、この村に帰る予定だ。


大人達はグループの職業訓練所で数年を過ごし、その力量によって、本人の希望により近い職種を与えられる。


彼らも、何れは村へと戻ってくる。


本来なら、村の人口や働き手を減らすだけの施策に、この村を統括する自治体が積極的に協力してくれるのは、人材のスカウトや育成と同時に、村の開発までグループが請け負ってくれるからだ。


土地を無償で御剣グループに贈与する代わりに、極力自然を損なわずに、その地域に必要な施設だけを造って貰える。


なので、何処にでもありそうな、画一的な街にはならない。


その運営や維持もグループがしてくれるから、ODAで箱物だけ造って、かえってその維持費で財政が赤字になるといった、悪循環も避けられる。


しかもその雇用は、現地の人間が優先されるのだ。


御剣グループは、他国の広大な土地と共に地域循環型の都市造りのノウハウを蓄えられ、自治体は、雇用と税収、及び未来への展望が開かれる。


村の外に出た者達が、また帰って来たいと思わせる街づくり。


それが、グループが目指す目標であり、地域の人材を活用して、その力で村や町を豊かにしようとする試みなのである。


グループの本拠地である日本との交流で、他国が少しでも我が国に好意を持って貰えたら。


そんな、創業者である社長の願いが込められてもいる。



 俺達が村を去る日、村人が大勢で別れを惜しんでくれた。


どさくさに紛れて、江戸川さんに抱き付くガキもいたが、その日だけは大目に見る。


俺達が働いた診療所は、後任が来るまでは一旦閉鎖されるが、村から出た子供の一人である14歳の女の子が、将来は医者になりたいと言ってくれたので、もしかしたらその子が継いでくれるかもしれない。


その子は、急性盲腸炎で俺が手術をした子でもある。


別の女の子は、江戸川さんが弾くピアノを聴いて、音楽の先生になると言っていた。


この村には学校がないが、将来的には建てる予定であるとスタッフの一人から聞いている。


来た時と同様に、スーツケース1つで迎えの車に乗り込む。


次は中近東だ。


果たして、どうなる事やら。


余談ではあるが、十数年後に旅行で訪れたこの村は、緑と建物が美しく調和した、素敵な街へと変貌を遂げていた。


診療所も再開されており、宿の代わりにと訪れた俺達を、当時の面影を薄っすらと残した女医さんが、笑顔で出迎えてくれたのは言うまでもない。



 ト○コ共和国にやって来た。


首都アン○ラに近いこの町は、夏は暑く冬はかなり寒い(-20℃にもなるらしい)。


人口の大多数はムスリムだが、飲酒は自由で、身分証明書に宗教の帰属を記載する事以外は、それ程厳しい制限はないように見える。


経済状態は一時期かなり落ち込んだが、今は少し安定してきている。


エ○トゥールル号遭難事件において先人達が礎を築いてくれたお陰で、日本とは友好的な関係を維持して貰えている(尤も、25年くらい前まで、日本のある特殊浴場の名がこの国の名を冠していたために、かなり不快な思いをさせてしまったのだが)。


今度の滞在先は、前回のような新築の一戸建てではなく、古くなった病院を買い取り、そこを改装したものだ。


かなり大掛かりな改装をしたので、内部は元の建物とは全く別物になっているそうだ。


3階建ての建物には、診療室や居住スペース、ピアノがある防音室の他、何故か学校の教室のような部屋もある。


ここまで案内してくれたスタッフから、イスラム圏で生活する上での注意点を、じっくりと聴かされる。


先ずは服装。


男子は然程気にせずとも良いようだが、女子は色々と気をつける必要がある。


モスクで礼拝するのでなければ、外国人の非教徒であればチャドルやアバヤまで身に着ける必要はないが、ヒジャブは付けた方が良い。


その時は、髪の毛が外から見えないように身に着けること。


次に通常の生活面において、スマホ等で勝手に他人を写さないこと(これは何処でも当てはまるが)。


撮る時は必ず事前に本人の許可を得る。


偶像崇拝を禁じるイスラム教では、自分の姿を形に残す事を嫌がる人は多いそうだ。


モスクには、興味本位で立ち入らないこと。


モスクは彼らの神聖な祈りの場であり、観光用に公開されているものを除き、非教徒が気軽に入るべきではない。


ラマダンでは、旅行者等の外国人でも、日の出から日没までは、人前で飲食しない方が賢明であること。


また、あまり知られていない事として、ラマダン中は、飲食の他に、性的な接触(男女が手を繋いだり腕を組む事も含む)も日没まで禁止なのだそうだ。


基本的に、イスラム世界では、男女が一緒に行動する事はかなり少ないという事なので、仮令結婚していても、旅行ではなくある程度滞在する積りなら、気を付けるようにと言われた。


二人共宗教面においてはかなり疎いので、開院のお知らせの告知等、必要な事は全てスタッフにお任せして、とりあえず業務を始めるのだった。



 いざ診療が始まると、最初はかなり気を遣った。


先ず待合室は男女で分け、女性の患者さんは初見を江戸川さんに任せた。


大した事のない症状なら、そのまま彼女に治療して貰い、重病の時には、患者本人の同意を得てから、俺が処置をした。


日本なら、医師法に引っかかる事もあるだろうが、そこは事前にこの国の関係各所に根回しが済んでいるそうなので、国外の事でもあるし、容認して貰う。


前回とは異なり、診療は無料ではないが、他と比べてかなり安くしている上、利益は全てこの国の慈善団体に喜捨しているので、誰からも文句は出ない。


以前、日本の医師が、国内のとある宗教を信奉している患者に、宗教上の理由から本人が輸血を拒んだのに、それをしないと命が危ういため、医師としての良心から輸血を強行し、後に裁判に訴えられて、敗訴したという事例がある。


俺は学生の時にその判例を読んで、内心の自由はかくも重いのかと驚愕した記憶がある。


本人達にしてみれば、命より信仰の方が大事だという事なのだろうから、俺も敢えて逆らう事はしない。


そうして暫く診療していると、俺達の病院は、意外な所で評判が良かった。


トイレにいつもきちんと紙がある。


何を当たり前の事をと仰るかもしれないが、この国の病院はない所が多いそうだ。


財政難なのか、医療サービスの質は、あまり高くはないそうだ。


だからこそ、日本のような高度で安価な医療を求めて、諸外国から医療ツーリズムの需要があるのだろう。


待合室にある、給水器も有難がられた。


この国の水道水は、歯は磨けても飲料水としては向かない。


なので、皆、ミネラルウォーターを飲んでいる。


買えばお金がかかるので、無料で自由に飲める美味しい水は、とても喜ばれた。


建物内に教室があるのも、やがて理解できた。


ここでは女子児童の修学者は少ない方だ。


経済的、宗教的な理由から、男女共学の上に、ヘッドスカーフ着用禁止の初等学校へ通わせる事を嫌がる親が多いせいだという。


国のほぼ全ての学校が国立であり、私立もあるにはあるが、その学費は一般労働者の月収並みなので、通える者は少ない。


『女の子達を学校へ』というキャンペーンもあったらしいが、現状では、功を奏しているかは疑わしい。


御剣グループの暗黙の要請に従い、俺達は院内の教室で、女子の希望者に無料で勉強を教える事にした。


先生役は勿論江戸川さん。


12歳くらいまでの女の子に、算数やト○コ語、英語を教える。


歴史や理科は教えない。


これらは国によって捉え方や見方が異なる上、宗教上、進化論などを否定する所もあるからだ。


授業の合間の休憩には、俺お手製の焼き菓子と飲み物も出す。


この国の料理を参考に、ナッツ類をふんだんに使い、少し甘めに焼いてある。


参加時間は自由で、江戸川さんの手が空いている時に、希望者がいれば教える形にした。


もう1つ、院内に図書室も作った。


教えている子達によると、学校や町には、あまり図書館がないらしい。


あっても不十分で、やはり財政事情からか、蔵書は乏しいのだそうだ。


なので、グループの協力を得て、国中から様々な本を取り寄せ、自由に閲覧できるようにした。


その内容に関しては、親からの苦情がこないよう、十分に注意してある。


こうした活動が評価されたのか、半年もすると、大分周囲の方々に受け入れて貰えるようになった。



 この国で生活する上で、宗教面以外に気を付けなければならない事に、交通事情がある。


道路は車優先だという意識が強く、歩行者は、常に車に注意しながらでないと、安心して歩けない。


交通事故の件数は、日本の2倍程だそうだ。


我が国でも昔、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』的な風潮があり、時に意気揚々と赤信号を歩いて行く者がいたが、今そんな事をすれば、ながらスマホで運転する者(法律違反)に轢かれるか、判断力の衰えた80歳以上の高齢者の方(勿論、個人差はあるが)の運転する車に、ブレーキとアクセルを踏み間違えられる可能性がある。


俺達も、道を歩く時には十分に気を配った。


尤も、二人で仲良く腕を組んで歩くなんて事はここではやらないので、一人分のスペースで歩く分には、別に問題はなかった。


寧ろ、日本にいた時の方が、ある意味苦労させられたものだ。


どんなに道幅が狭くても、前方から歩いてくるカップルは、二人で並んで歩くのを止めない。


一人歩きの女子の中には、男性が避けるのが当然だと言わんばかりに真っすぐ歩いてきて、ぶつかりそうになる者も多い(この考えは、『男子だってわざと当たってくる人いるよ』という江戸川さんのご意見によって、現在保留中である)。


紳士な俺は、それら全てを避けて歩くので、都会の道を真っ直ぐには歩けず、くねくね蛇行する事になるのだ。


夏になると、食中毒にも気を付けなければならない。


病院にも、この時期になると、大勢の患者が運ばれてくる。


俺達二人は、奴の加護であらゆる病原菌から守られているが、敢えて屋台などの場所で飲食をしようとは思わない。


口にする物は、自分の家で俺が作った物か、市販の缶詰やインスタント食品(日本製)だけだ。


別に他が危ないという訳ではないが、人一倍衛生面が気になる俺としては、ここは譲れない。


夏といえばもう1つ、江戸川さんがチャドルを身に着けた事が挙げられる。


乾燥しているので、40℃を超えるような暑さでも、日本ほど不快ではないが、陽射しがきついので、肌を痛めないように着るらしい。


保湿クリームや目薬なんかも必需品だと言って、毎日身体のお手入れをしていた。


俺はここぞとばかりに彼女にお願いして、密かに買っておいたアバヤを差し出し、それを身に纏った姿をスマホに写させて貰った。


目元だけを残して、黒い衣装に身を包んだ彼女には、普段にはない、ゾクッとくるような妖しい色気がある。


千夜一夜物語を初めて読んだ時の記憶が蘇るようだ。


中学や高校の制服、ビキニ姿、スーツ、白衣、そしてこのアバヤ姿。


俺の秘蔵のコレクションがどんどん充実していく。


撮り終えた画像を悦に入って眺めていると、『変な事には使わないでね』と彼女が言った。


え!?


ナ・ン・ノ・コ・ト・カ・ワ・カ・リ・マ・セ・ン。



 ここでの滞在は3年に及んだ。


当初は2年が最大だと聞かされていたが、勉強を教えている子供達に懐かれ、より高度な内容を教えている内に、その母親達とも江戸川さんが親しくなって、共に買い物に出たり、街を案内されるようになった。


政教分離を掲げるこの国ではそこまで酷くはないが、イスラム圏の中には未だに女子の嫁ぎ先を親が決めたり(40も歳の離れた男性の下にとか)、陸に学校にも行かせて貰えず、家の中に閉じ込められている国もある。


『名誉の殺人』には、事実でないものも多く含まれるとか。


何不自由なく親に育てて貰った俺達は、そんな子供や女性達がいる事に胸を痛めたが、その国が法律で公然とその事を認めていたり、親の宗教上の考えに則った行為である以上、余所者で、他人でもある俺達が、口を挟む事はできない。


せめて向こうから助けを求めてきたり、家族の同意が得られた者達に、新しい環境と機会を与えて、本人の努力に期待するのみである。


そんな訳で、規定より1年長く認められた滞在は、3年間で四十七名もの人材を、グループに送り出す事になった。


旅立ちの朝、スタッフが建物に鍵をかけて回っている間に、この3年で特に親しくなった母子が見送りに来てくれた。


彼女らは、家族の都合でグループの支援には参加しなかったが、夫からあらぬ誤解を受けないように、その家族ごと家に招待して夕食をご馳走したり、多くの教材を与えて勉強を教えたり、この街のあちこちを紹介してくれた、この地で得た、掛け替えの無い友人達だ。


何時かまた、この病院が再開される日まで、建物を気にかけていてくれるそうだ。


江戸川さんが、その母親に1通の封書を渡していた。


後で聴いた所によると、俺達の実家の連絡先と、彼女の小遣いから1万ト○コリラを渡したそうだ。


何か困った事があったら、自分達に相談して欲しい。


そんな思いからだったようである。


初めて暮らした異教の地。


向けられた笑顔を業務の糧にして、江戸川さんの人柄と、周囲の人々の理解に支えられ、思いのほか楽しく過ごす事ができた。


次はアフリカ諸国。


最後の難関が待っている。


奴に指定された僻地でのボランティア活動は、残りあと5年ほど。


一人でも多くの命と、一人でも沢山の人の未来に、どうか力を貸せますように。



 結論から言うと、アフリカ諸国での5年間はかなり悲惨だった。


1年置きに5つの国を回り、過去2回とは比べ物にならないくらいの粗末な診療所で(それでもグループの力で何とか水回りの事だけは確保して貰ったが)、医薬品や食料等は完全にグループの配給頼りの生活を強いられた。


場所によっては、医療活動どころではなかった所もある。


その日を生き抜くのに精一杯で、自分の身体が病気である事を認識すらできない人や、僅かな水のために、日々何十㎞もの距離を往復する子供達、深刻な食糧不足で身体が変形してしまった人など、正直、見ているだけできつかった。


グループの初期方針通り、単なるバラマキ型の援助活動はしていないので、お腹を空かせた人達に、ほいほいと水や食料を配る事はできない。


そんな事をすれば、診療所の前に、毎日何千人もの行列ができるし、それだけで満足して帰って行く人がほとんどだからだ。


言葉は悪いが、貰う事に慣れてしまった人達を、自分達の地道な努力と引き換えに何かを得させるようにするには、長い時間とかなりの根気が必要になる。


ある場所では、毎日何時間も水のために時間をかける子供達の為に、雨水等を利用し、それをろ過して飲料水にする装置を作って屋外に設置し、自由に使えるようにしたら、何と二晩で、装置の金属部品を盗まれてしまった。


スタッフからも、家の施錠だけはしっかりとするように念を押されている(窓用に使われているのは、特殊な強化ガラスだ)。


アフリカにだって、勿論豊かな国はある。


だが、貧しい国に住む人々からすれば、俺達も、所詮は金持ちの国から来た、自己満足で自分達に施しをする、赤の他人でしかないのだろう。


ただ、1年ずつとはいえ、ある程度の期間をそこで過ごしていれば、中には心を開いてくれる人もいる。


やせ細った、あばらが浮いて、今にも骨が折れそうな子に、毎日少しずつ食事を与え(暫く食べていない人にいきなり沢山の量を与えても、身体が受け付けない)、休ませている時間を利用して、ちょっとずつ勉強や世の中の事を教えていく。


ここで人材を探す際には、他よりかなり神経を使った。


親が非協力的な子はまず駄目だし、グループに預ける際に、見返りを要求するような家も駄目だ。


悲しい事に、口減らしのために、喜んで子を手放すくらいの親の方が、まだ増しなのである。


子供達にも、要求される事は多い。


ただ単に、良い暮らしがしたいという考えを持つだけで選べば、それこそ大多数の子が対象になってしまう。


俺達が選ぶのは、貧しい中でも他の兄弟達の為に懸命にその日の糧を探し求める熱意と優しさを持つ者、稼ぎは極少なくても、その仕事に責任と誇りを持てる者なのだ。


自分達はただ哀れみを受けるだけの存在ではない。


機会さえあれば、自らの足で立って行けるのだという強い気構えが要求される。


赤道沿いの地域では、女子には別の問題もあった。


女性器切除の問題である。


これは主にアフリカを中心として行われ、約2000年の歴史を持つ風習である。


性欲を抑え、貞淑な妻となる事を求めるため等その理由には諸説あるらしいが、大体は、不衛生な環境下で、鋭利な石等で陸に麻酔もせずに行われ、事後処理も、泥や灰で止血をするだけの事もあるという、その苦痛を想像するだけで顔を背けずにはいられない行為である。


だが、その風習が現地で当然の如く信じられていれば、余所者の俺達が何を言っても大した効果はない。


ここで人権がどうこう言ったところで、その国の憲法でそれが明言されていなければ(もしくは国際人権規約に批准していなければ)、彼女達にはそんなものはないも同然だし(『人は生まれながらにして・・・』の文言や精神が憲法で謳われているからこそ、その国には人権があるのだ)、仮にあったとしても、司法が正常に機能していなけれは、何も救済されはしない。


親からしてみれば、ただの理想の押し付けにしか映らないだろう。


御剣グループに人員を送る際、アフリカの幾つかの国では、他の皆には内緒で(水は貴重だから希望者全員は無理)、その者を入浴させてからにしたが、女の子の場合は江戸川さんが一緒に入り、身体を洗ってやりながら、皮膚病などの病気をチェックする(シャワーから溢れ出るお湯を節約しようと、それに向かって必死に手を伸ばす子供達に、涙が出そうになったと言っていた)。


その際に、その傷跡が残っている子供も数人いたそうだ。



 アフリカでは、様々な事を考えさせられた。


何も知らない子供の頃は、国連の活動で芸能人などに食料を配られている飢えた子供達の写真を見て、可哀想だなくらいにしか思わなかった。


だが、5年という月日をここで過ごした今では、また別の考えも持っている。


アフリカでの出生率はかなり高い。


貧しい国では避妊具をほとんど使わずに、中には乏しい娯楽の代わりに行為を行う者も多いから、そうなるのは必然だが、同時に新生児の死亡率もかなり高いのだ。


先進国では少子化が問題となっているが、例えば日本を例に取れば、あの狭い島国に未だに人口は一億人以上いる。


ベビーブームの時のように子供が産まれ続けたら、一体どうなるだろう?


政治家は、先細りする年金の原資や社会保障費などの維持のため、一人の女性に何人もの子を産む事を奨励する(生まれた子達に負担を背負わせるために)。


だが、人口が増えるという事は、都市部での土地の奪い合いや、就職先の競争率等もまた、跳ね上がるという事なのだ。


アフリカは、誕生と死亡の割合に然程開きがないからこそ、まだ人口爆発に歯止めがかかっていると言える。


だが日本など、高度な医療と安全な環境下で平均寿命だけが伸び続ける国で、更に子供が増えていけば、教育費など、票のために何でもかんでも政治家が無料にしがちなその分の諸費用を、一体誰が負担できるというのか(日本自体の借金は、とうに返せる範囲を超えているのに)?


定年を迎えた高齢者の方は、ほとんどは年金暮らしで、過去に積み重ねた利益に頼っている。


その負担は、現役世代がほとんどを背負うだろう(生まれた子達が稼いでくれるようになるまで、一体何年かかる?)。


税収の主要部分を負担する資産家の人々も、取られる事だけで、何の特権も与えられないのでは、やがて国を見限って、自分達をより大切にしてくれる他国へと、移り住みかねない。


国が未だ発展途上であれば、経済もまた、上向く可能性があるが、日本はどうだろう?


今でさえ、貧富の差ははっきりと表れ、完全に勝ち組と負け組に分かれつつあるような気がしてならない。


正規雇用から漏れた約半数の労働者達は、自分達の生活を守るだけで精一杯なのではないか。


そこに更に人が増えれば、益々失業率は高まり、支給される社会保障費は減り続けるだろう。


食料もお金も、ゲームのように無限に生産できるものではない。


人数が増えれば、その分で割るしかないのだ。


年金制度の破綻が危ぶまれているのも、平均寿命が想定よりかなり延びて、一人の人間が支給を受け続ける期間がずっと増えた事が一因だろう。


このままで人口が増えれば、生活保護や奨学金の支給額等は、間違いなく減額される(今はちょっと恵まれ過ぎな気がする。アフリカで生活をしていると、『最低限度の生活』とはどの程度なのかを考えさせられる。少なくともそこに、タバコやパチンコは入らないだろう)。


話をアフリカに戻すと、自国で養える人口を超えてしまえば、後は資源を切り売りしながら他国の援助に頼るしかない。


その資源さえ枯渇してしまえば、近代のように武力ではなく、借金を返せないという経済的な理由で、他国の植民地となる以外に道はないだろう。


強国は人口を増やせるが、やはり自国で養える数を超えれば、他国の資源や領土に目を向ける。


言葉は悪いが、古来より続いてきた戦争は、ある意味、その時増え過ぎた人口の調整弁だったようにも感じられる。


先人達の弛まぬ努力と多大な犠牲により確保された現在の平和を維持していくためには、他国からの干渉を受けずに済む程度の力がいる。


それは武力に限らない。


国の力は民の力。


その民意を育てるには、甘やかすだけでは駄目なのだ。


時には心を鬼にして、厳しい現実に直面させねばならない。


ああしてやれ、こうしてやれと声高に叫ぶ者達の中で、その分の費用まで出している者は、一体どれだけいるであろうか。


興味本位でペットを飼い、世話し切れずに捨てる者がいて、捨てられたペットを殺すなと強く主張する者は多くても、じゃあその保護費用を出してくれと言われたら、どれだけの者がそれに応じるだろう?


俺の知る限り、声を上げずに黙々と労力と身銭を切っている、そういう極一部の人達が、その役目を果たしてくれているのだ。


国を強く、真に豊かにするには、そういった人々を増やさねばならない。


ネット環境の飛躍的な進歩で、人々の声が、時には大きなうねりとなって、国や世界さえ動かす事は知っている。


だが、国や企業を動かすには、そこに彼らにとっての一定の利益が必要になる。


結局は、目先の利益に囚われない、強い意思を持つ人材を育てる方が早いのだ。


俺はこの5年で、六十人しかグループに送り込まなかった。


だがその六十名は、グループが責任を持って育てれば、きっとアフリカのためになる者達だと確信している。


家族の為に、重い水瓶を何十㎞も毎日運んだ女の子。


暴風雨の中でも、毎日来る常連さんが困るからと、売り物を全部買い取られる事を拒んだ少年。


その瞳にあった強い意思の輝きが、俺を捉えて放さない。


俺もここで懸命に頑張った。


江戸川さんは頑張り過ぎたくらいだ。


浅黒く日焼けした肌は、俺の勲章でもある(勿論、江戸川さんの白い肌は、日焼け止めクリームで守り通した)。


奴に会っても、それだけは胸を張れる。


10年に及ぶ僻地での修業は、俺を少し逞しく、江戸川さんを更に美しく変えたと思う。


もう直ぐ新たな場所に旅立つ。


今度は複数の人を使う立場になる。


彼らの協力を得て、1000を超える命を救うという、奴との真の約束を果たす時が来た。


病院に来た患者は、絶対に見捨てない。


特にこの5年、見て見ぬ振りをしなければならなかった事を思うと、仮令どんなに絶望的な症状でも、全力で闘う。


そして俺のライフワークでもある遺伝子治療。


グループとの話では最新の機器を導入してくれるそうなので、これも進めていきたい。


江戸川さんのような子を、一人でも多く救うために。


この道に入るきっかけはどうであれ、俺は医者になって良かった。


今なら、心からそう思える。



 「ん・・・あっ」


行為後の余韻を、いつものように和也の背中に両腕を回しながら楽しんでいた紫桜は、和也が身体を離す動きと共に、切なそうな吐息を漏らす。


ここは有紗に与えた億ションの一室。


最近何かとこの世界に来ていた和也に、紫桜が、『貸しを返して』と乗り込んで来たのは2日前。


以来、1日の約4分の1近くを、彼女との逢瀬に使っている。


かなり広い上に相当な部屋数も有るこの億ションでは、二人が籠っていても有紗に迷惑をかける事はないが、内心では少し面白くないのか、行為後に和也が風呂に入りに向かうと、決まって自分も入りに来て、丁寧に身体を洗ってくれる。


今回もそうだった。


「今日は早く帰れたのだな」


いつもなら、19時まではまず帰って来る事はないが、紫桜が来てからは、18時くらいには戻って来る。


帰って来てからも、自身が社長をしている企業からの報告書に目を通し、皐月からのメールに返事を出したりと忙しい。


体力と共に、知力も人からはかけ離れた存在であるため、大した手間ではないそうだが、見ていて多少の罪悪感はある。


表立って活動する訳にはいかない自分は、今や株で日々利益を出し続けるだけで(値動きが予め分るので、それすらもPC任せである)、後の面倒な仕事は、全て彼女に任せている。


嫌な顔一つしないでそれら全てをこなしてくれる有紗の側に、今はなるべく居てやりたいが、他の妻達にも其々の仕事を任せているので、彼女達のケアも欠かす事はできない。


前に一度、妻達の数だけ己の分身(外見や能力、思考共に同一の)を作って、皆に平等に接する案も考えたのだが、それは妻達自身によって強く退けられた。


自分は唯一無二の存在で、仮令本人の分身であっても、それは受け入れられないのだそうだ。


自分の言う事には大概賛成してくれるエリカでさえ、『それは無理です』と一顧だにしなかった。


「ええ。

早く帰って来ないと、誰かさんは何時いつまでも二人で籠っていそうだから」


「言葉に少し棘がある気がするが、別に自分の意思でそうしている訳では・・」


「そんな言い訳は男らしくないですよ?

紫桜さんにも失礼です」


「ほら、そう思うわよね?」


身体に力が入るようになったのか、一緒に風呂に入りにバスルームへとやって来た紫桜が、有紗の言葉に同意する。


2つあるシャワーの内の1つで軽く身体を流しながら、自分を見て不満顔をする彼女。


「わたくしはただ、以前に貸した分を取り立てに来ただけです。

あなたが何時までも返しに来ないのが悪いのよ」


「いや、お前にその気がないのに、いきなり訪ねて行ってもしょうがないではないか。

自分としては、お前が何かを言ってくるまで、待っていた積りなのだが・・」


「あら、わたくしは別に何時でも良いのよ?

あなたさえその気なら、毎日でも構わないのだから。

夫婦って、そういうものでしょう?」


此れ見よがしに自分の目の前を通り過ぎ、ゆっくりと湯船に浸かる彼女。


「・・それは流石に違うと思うが。

というか、まるで返すものは夫婦の営みしかないような言い方ではないか」


「だって他に欲しいものなどないもの。

あなたの妻になれて、人とは違う身体になって、大抵のものは自分で手に入れられる。

元からあなたが目当てで妻になったのだもの、当然でしょう?」


「・・・」


絶句して、未だに自分の身体を洗う有紗を見ると、彼女も『何を当たり前の事を』と言いたげな表情で自分を見る。


自分がこれまで密かに学習してきた恋のバイブルには、女性を楽しませるものは、綿密にプランの練られたデートや買い物、美味しい食事やスイーツだと記載してあった。


その上で、洒落た会話やお金があれば文句なしだと。


もしかして、あれらの書物は未婚者用の本だったのであろうか。


洗い終え、シャワーで流してくれた有紗に礼を言い、紫桜と共に、大きな浴槽に浸かる和也。


今度は自らの身体を洗い始めた有紗が、思い出したかのように言う。


「そういえば、皐月から連絡があったわよ?

あの人達、そろそろ僻地でのボランティア活動が終わるみたい。

それに合わせて建設していた施設も、粗方完成したって。

直ぐに働いて貰うの?」


「10年も、慣れない所で頑張ってくれたのだ。

つきくらいは休みをやろうと思う。

お互いの家族とも会いたいだろうしな」


「この世界は魔法がないから、色々と不便みたいね。

何かわたくしもお手伝いしましょうか?」


紫桜が、和也の胸に背を凭せ掛けながら、そう言ってくれる。


「いや、お前にはあちらの世界でやる事があるだろう?

雪月花や神ヶ島を見守りながら、エルクレールやその周辺諸国にも足を運んで、世情を摑むという仕事が。

暇ならまた別の世界も頼みたい」


「えーっ、そんなの大した仕事じゃないじゃない。

菊乃も居るし、他にも何人か、眷族候補の人がいるでしょう?

エレナさんだって管理している訳だし、わたくしがあの世界でする事は、ほとんどないはずよ。

それに、別の世界って何処よ?

あんまり野蛮な世界は一人じゃ嫌よ?

あなたと一緒じゃなきゃ」


昔から少し焼餅焼きではあったが、この頃は大分甘えてくるようにもなった。


彼女のこれまでの生活を考えれば嬉しくもあるが、他の妻が見ている前だと、その視線が少し痛い。


「大体、エリカさんは今どうしているの?

セレーニアには居ないんでしょう?

まさかずっとあなたの居城に居るの?」


顔をこちらに向けて、疑わしそうに目を細めてくる。


「いや、自分の居ない所で、もしエリカに何かあったら大変だし、かといって、あの美貌のままでおいそれと他の世界にはやれないし、偶にエレナの話し相手にもなって貰っているから・・」


「何それ、じゃあわたくし達は、それ程心配していないとでも言うの?」


紫桜の目が更に鋭くなり、妖しい色を帯び始める。


「そんな、滅相もない。

ただ、何というか、男にとって、初めての人はやはり特別というか・・」


パリン。


和也が苦し紛れにそう口にした瞬間、まるで空間が割れたような錯覚に陥る。


紫桜が、壮絶な美しさを纏って、優し気に微笑んでいる。


先程から黙っている有紗の方は、怖くて顔を向けられない。


「・・そうよね。

やはり初めての人は特別よね。

でもそれは、男に限らないのではないかしら。

そう感じてくれるあなたなら、わたくしがあなたを想う気持ちも理解していただけるわよね?

さあ、これからまた、存分に愛し合いましょう?

わたくしの特別な人に、今のこの気持ちを十分に理解していただきたいわ」


湯船から静かに立ち上がった紫桜に、そっと腕を取られる。


思わず助けを求めようとして、咄嗟に有紗の方にも目を向けてしまう。


『!!』


そこには、何かを決意したような彼女が、思い詰めたような顔で佇んでいた。


「・・紫桜さん、私もご一緒させて下さいませんか?

私一人ではあの方には到底及びませんが、貴女と二人なら、仮令ほんの一時でも、彼からエリカさんの事を忘れさせる事ができるかもしれません」


「・・・そうね。

まあ、貴女なら良いわ。

わたくしの邪魔をしないというのなら、好きにしなさい。

ただし、前にも言ったけれど、わたくしにそちらのはないわよ?」


「有難うございます。

私にもその気はないので、どうかご安心下さい。

今夜はちょっと、彼に抗ってみたいのです。

本音を言うと、めちゃくちゃに愛したい。

・・それだけの事を、彼は私達に言ったのですから」


「やっぱりそう思うわよね?

話が合って良かったわ」


有紗がこちらに近寄って来て、もう片方の腕も取られる。


「自分と婚姻を結ぶ際、エリカが少しだけ特別な事も、ご理解いただけたはずでは?」


恐る恐るそう口にして、最後の抵抗を試みるも、彼女達の次の台詞に観念させられる。


「「ええその通りよ。

でもね、女心は何より複雑なものなの。

こればかりは、わたくし(私)にもよく分らないわ」」


この夜の事は、以後暫く、三人だけの秘密になるのであった。

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