番外編 世の理を超えたその先に 序章その4

 (大学生時代)


「何でじゃぁ―っ!!」


俺の絶望した大声が部屋に響く。


ここは江戸川さんの家のリビング。


てっきり大学も同じ校舎に通えると思っていたのに、彼女の学部のパンフレットには、藤沢校舎と書いてある。


俺は1年時のみ日吉校舎であとは信濃町。


しかも、彼女と同じ校舎で学べるのは、彼女が3年になった、たったの1年だけだ。


医者と看護師は、切っても切り離せない関係じゃないのかよ!


俺の夢を返してくれ。


江戸川さん『先生、急患です!』


俺『(キリッ)分った。

君も来てくれ』


江戸川さん『(ウットリ)はい。

何処までもお供します』


て、なるはずだったのに・・。


あ、それはまだ先の話か。


「・・知らなかったの?」


江戸川さんが、少しびっくりして尋ねてくる。


「知ってたら、どちらも同じ校舎にある大学を受けてたよ」


「そんな事言っちゃ駄目だよ。

とても素敵な大学じゃない。

遠くに引っ越す訳じゃないんだから、今まで通り、毎日会えるよ」


「そんな時間あるか?

お互い実習とか始まったら、結構忙しくなると思うぜ?」


「・・そっか。

私に会えないからって、浮気しちゃ駄目だよ?」


クスクス笑いながらそう言ってくる彼女。


俺は気が気でなかった。


江戸川さんは可愛い。


超可愛い。


俺が一緒に居なければ、きっと、いや必ず、近付こうとしてくる奴が現れる。


何せ慶〇ボーイとか言って、一部の人達からはお洒落な遊び人のイメージを持たれてるくらいなのだ。


頭が良くて、金持ちが多くて、超有名大学。


・・強敵だ。


何らかの対抗手段を講じなければ。


彼女の事になると、いつもの冷静さを欠く彼は、自分もその大学で、彼女はそんな事では人を選ばないという事さえも、忘れているのであった。



 「いらっしゃいませ」


数日後、俺は銀座にある貴金属店に来ていた。


映画の影響で、何処かの国の店舗では、本当に朝食まで出し始めた所もあるというこのブランドで、とある贈り物を買うためだ。


「何かお探しですか?」


場違いな場所に一人で来て、不安げにキョロキョロしていた俺に、店員さんが親切に声をかけてくれる。


「あの、婚約指輪を見に来たんですが・・」


「畏まりました。

シンプルなリングと、石付の物と、どちらが宜しいですか?」


「まだ学生で、結婚も先の事なので、今は普段に付けられるシンプルな物が良いです」


「失礼ですが、ご予算はどれくらいをお考えでしょうか?」


「ペアで作りたいので、一人当たり20万円くらいまでです」


「それでしたら、こちらの商品など如何でしょう?

プラチナで、とてもシンプルですが、今人気のデザインです」


そう言って、その店員さんは、ブランドのロゴが表面に彫られたリングを指し示す。


税込みだと予算を少し超えるが、買えない金額ではない。


ただ、少し太い気がする。


手を使う事が多い仕事になるので、なるべくなら、もう少し細い方が良い。


悩んでいると、再度、声をかけられる。


「リングのサイズはお分りですか?」


「え?

・・サイズ?」


しまった。


そんな事まで考えてなかった。


内緒で買って、サプライズにしようと意気込んでいたが、こういう事が不慣れな俺には、まだ少し早かったようだ。


「・・済みません。

出直して来ます」


恥ずかしさと後悔で、そう告げて店を出る俺を、その店員さんは優しく送り出してくれた。


後で知った事だが、サイズくらいなら購入後も調整可能らしい。


恐らく、悩んでいた俺に、大事な贈り物なのだからと、もっとよく考える時間を与えてくれたのだろう。


利益優先で、とにかく売る事しか考えない店も多い中で、一流店の名に恥じない、とても素敵な店員さんだった。


次の日、俺は正直に江戸川さんに理由を話して指のサイズを尋ねた。


「婚約指輪?

何で今なの?」


「・・校舎が別々になって、俺が傍に居れなくなるから、せめて君は俺の彼女だと自己主張したいんだ。

・・我が儘かな?」


「そんな事ない。

その気持ちは凄く嬉しいよ。

ただ、指輪なんて今まで付けた事がないから、私も自分の指のサイズなんて知らないの。

一緒にお店に行って、計って貰おうよ。

何処の店?」


「銀座のティ○ァニー」


「・・前から思ってたけど、隅田君の経済観念はちょっと可笑しいと思います。

そんなハイブランド、庶民の学生が気軽に付けるものじゃないよ。

今まで散々お世話になってきて何だけど、もう少し普通の物で良いんだよ?」


「江戸川さんには、できるだけ良い物をあげたいんだ。

俺の憧れだし、大好きな人だから。

仮令俺はボロを着ても、君には俺が相応しいと思うものを贈りたい。

只の自己満足かもしれないけど・・」


「・・隅田君はさ、私がもし見窄らしい格好してたら幻滅する?

病気とかでやつれていったら、私を嫌いになっちゃうかな?」


「そんな事絶対にない!!」


「だったらさ、今はまだ、もっと普通の物にして欲しいな。

高価な物だけが良い物とは限らない。

学生が気軽に買える物でも、探せば良い物は沢山あると思うの。

ハイブランドが値段が高いだけではないのは分るけど、今の私では、ちょっと気後れしちゃうかな」


「・・もしかして、今までお金に任せて色々としてきた事、迷惑だった?

彼氏として付き合えるようになるまで、あれもしたい、これもしてやりたいと一人で考えてきたから、少し歯止めがかからなかったかもしれない。

もしそうだったなら、御免な」


「違うよ!

サイクリングだって、海だって、その年齢の、その時にしか、あの気分は味わえない事だもの。

あの時だからこそ感じられた事だって多いもの。

凄く楽しかったし、嬉しかったよ?

美味しい物だって、その時貴方と食べた記憶はずっと残る。

私が言いたいのは、私が身に着ける物には、相応の物があるという事。

只の学生でしかない、働いてさえいない私が身に着けるにしては、レベルが高過ぎるの。

人生経験も浅く、普段からそういった物に囲まれて生活していない私では、ハイブランドの持つ風格に負けてしまうし、外見だけ着飾っても、例えばお財布の中身がスカスカなら、あまり意味ないでしょう?

良い物には、それを持つ時期と資格がある。

これは私の持論なの。

だから、周りの人はどうか知らないけど、今の私ではティ○ァニーはまだ早いと思う」


「婚約指輪って普通なら1つしか買わない物だから、できるだけ良い物をと考えたんだけど、君がそう言うなら、別の物にするよ。

今はまだ止めて、普通のアクセサリーにする。

ただその代わり、それを左の薬指に着けて欲しい。

結婚する時には、その時に相応しい物に買い替えるから。

・・それなら良いかな?」


「うん!

分ってくれて有難う。

折角気を遣ってくれたのに御免ね」


「いや、君は人に自慢するものじゃないと言ったのは俺の方だし。

そう言いながら、無意識に君を着飾らせて、自己満足しようとしていたんだと思う。

謝るのは俺の方だ」


「ううん、隅田君の気持ちは本当に嬉しいから。

・・じゃあさ、今度の週末に買いに行こうよ?

私、凄く素敵なリング、おねだりしちゃう。

フフフ、覚悟しといてね」


その週末、横浜元町商店街の店を何軒も回って、1つのリングを彼女に贈った。


値段は5万円程だが、確かに彼女によく似合う、素敵なリングだった。



 (それから2か月後)


最近、何だか身体がだるい。


疲れが取れないというか、全身に力が入らない時がある。


今はまだ少し安静にしてれば治まるけど、貧血かな?


それとも運動不足だろうか?


何れにせよ、これからどんどん忙しくなるのだから、気を付けないと。



 「今年も夏がやって参りました。

何処行く?

海、それとも高原かな?」


俺はご機嫌でそう尋ねる。


出会って以来、お互いが数か月も別行動していた事なんてなかっただけに、この長期休暇はずっと一緒に過ごしたかった。


彼女の居ない校舎での授業は、まだ般教がメインなせいもあって味気なく、ほとんど惰性で通っていた。


毎日欠かさず授業には出るので、顔見知りもでき、時々合コン等の飲み会にも誘われたが、婚約者がいるからと丁重にお断りする。


初めは大概驚かれるが、3か月も経つと皆に知れ渡るのか、あまり誘われなくなった。


江戸川さんとは日に何度もメールや電話をするし、週末は必ずデートに行くが、やはり毎日直接会いたい俺としては、それでは物足りなかった。


「う~ん、どちらも行きたいな。

ダイビングもしてみたいし、空気の奇麗な所で星も見たい。

でも、ちょっと贅沢かな?」


「そんな事ないよ。

株が絶好調なお陰で資金は貯まる一方だし、こういう時こそ使わなきゃ。

後で色々調べて連絡するよ。

とりあえず、今日は何処かで食事でもしよう。

何か食べたい物ある?」


「今は思い浮かばないな。

・・最近、少し体調が悪くて、食欲がそんなにないの」


「・・それって長く続いてるの?

何時いつ頃から?」


「大体3か月くらい前から。

初めは少しだるいくらいで、ちょっと休めば直ぐ良くなったから、あんまり気にしなかったけど、この頃結構頻繁に具合が悪くなるの。

とは言っても、動けなくなる程じゃないし、痛みもないから、貴方が傍に居ない慣れない環境で、気疲れしてるだけかもしれないし、貧血かもしれないけど」


確かに、この所、時々デートで疲れたような表情をしている事があった。


だがそんな表情は長くは続かず、直ぐにいつもの笑顔を見せてくれたので、俺は無意識に考えないようにしていたのかもしれない。


俺にとって何より幸せな彼女との時間に、余計な不安を持ち込みたくなかったのかも。


「念のため、人間ドックで精密検査を受けよう。

父さんにも相談してみる」


「え?

そんな、大袈裟だよう。

もう少し様子を見てからでも・・」


「お願いだ!!

検査を受けてくれ!」


「!!」


「・・大声出して御免。

でも心配なんだ。

お願いだから、検査を受けて。

今はいつも一緒に居られないし、俺の居ない所でもし君に何かあったらと思うと、俺は・・」


俯いて、拳を握りしめた俺に、彼女が優しく抱き付いてくる。


「分った。

夏休み中に検査を受ける。

だからそんなに心配しないで。

私はまだ18だし、あの病気ではないはずだから・・。

ね?」


「有難う。

検査の結果が出るまでは、暫く遠出は控えよう。

デートも・・君の体調が良い時にだけ、お互いの家でゆっくり過ごそう。

具合が悪い時は、遠慮せず、何時でも言ってくれ」


家での勉強会以来、もうすっかり馴染んだお互いの抱擁の中で、俺はただ、彼女に何もない事だけを願っていた。



 「・・・え?」


真夜中、私は自分の目を疑った。


急いで父の日記をめくり、その該当部分を探す。


・・あった。


自分の今の症状と、全く同じ事が書いてある。


「嘘・・だって私まだ19にもなってないよ?

何で!!」


この所ずっと身体がだるかったが、自分の抱えている病気は20歳からという記述に希望を持っていた。


「そんなっ・・」


混乱する頭の中で、私は唯々隅田君の事を考えていた。



 「ん?」


まだ7時前のこの時間に、江戸川さんからメールが来るのは珍しい。


『今日、なるべく早めに家に来て』


簡潔に、ただそれだけしか書かれていない。


目的も記載されていないメールに嫌な予感しかしなかった俺は、家族との朝食後、直ぐに彼女の家に向かった。


美保さんは既に仕事に出たらしく、家には彼女だけしか居なかった。


玄関の鍵を開けてくれた彼女はまだパジャマ姿で、酷く窶れたような顔をしている。


風呂にでも入ったのか、全身から、シャンプーと石鹸の混ざったような、とても良い香りがした。


「何かあったのか?」


無言で俺の手を引いて、自分の部屋まで案内してくれた彼女に、そう尋ねる。


どんな些細な変化も見逃すまいと、彼女の顔を凝視する。


「・・出ちゃったの」


「え?」


小声で、呟くように言う彼女の声を聴き逃し、再度聴き返す。


「症状が出ちゃったの。

例の病気の・・」


「!!!

・・間違いないのか?」


一瞬、目の前が真っ暗になるが、随分前から予め覚悟していただけに、何とか踏み堪える。


「うん。

お父さんの日記に書かれていた初期症状にピッタリ当てはまるの。

他にはそんな事になる原因が考えられないから・・」


「美保さんには?」


「まだ言ってない。

先ずは貴方に伝えて、自分を落ち着けてからにしようと思って」


「直ぐに入院の手続きを取ろう。

それから、何時ドナーが現れても良いように、臓器移植の希望を出しておかなくては。

夏休みだから、俺も色々手伝える」


決して不安や悲しみを顔に出さない。


俺が動揺していては、彼女に余計な心配を与えてしまう。


「有難う。

でも、少しだけ待って欲しいの。

この病気は、少しずつ身体が衰弱していくけれど、だるさなんかの倦怠感以外には、そんなに痛みとかはないみたいなの。

だから、入院する前に、貴方と一度、星を見に行きたい。

それから・・」


江戸川さんが、部屋のカーテンを閉める。


そして、徐にパジャマと下着を脱ぎ捨てた。


「貴方に、抱いて欲しいの」


呆然とその様を眺めていた俺に向けて、彼女が微笑む。


「・・いきなり、何で?」


彼女の裸身から目を離す事はできないが、何とかそう声に出す。


「これから先、もし手術なんかを受けたら、私の身体にはその傷跡が残る。

だから、今の一番奇麗な状態の私を、貴方に見て貰いたかった。

それに、これまで散々尽くしてくれた貴方に、こうする以外、他に報いる手段が無いの。

・・ずっと我慢してきたよね?

私も中々言い出せなくて、ここまできちゃったけど、婚約さえしてるんだもん、もう、良いよね?」


正直、俺は今にも襲い掛かりたかった。


今まで溜めてきた想いを全て吐き出して、気力と体力が続く限り、彼女を抱きたかった。


だが、両の拳を握りしめ、奥歯を噛みしめてその衝動に耐える。


「本当は、今直ぐにでも君を抱きたいけど、でも、まだ駄目だ」


「・・どうして?」


江戸川さんが、その笑顔を曇らせて、少し悲し気に俺を見る。


「今君を抱いてしまったら、俺はきっと君に逃げ込んでしまう。

君の身体に溺れ、不安を紛らわし、その結果、闘う牙を失ってしまいかねない。

・・俺だって男だ。

何時も君を抱きたいと思っていたし、正直に言ってしまうと、君の水着姿の画像には、何度も右手がお世話になった。

だけど、君を抱いた後は、満ち足りた笑顔と温もりの中に居たい。

後悔なんて微塵もない、爽やかな気分でいたいんだ。

病気が発症する前なら、寧ろ喜んで抱いていただろうと思う。

けど、発症してしまった以上は、その事を脇に置いて、君が心で苦しんでいると分っていながら、行為に没頭する事はできない。

俺はこれから闘い続ける。

そして晴れて元気になった江戸川さんと、思い切り行為を楽しむんだ。

だから・・今はその時じゃない」


「そんなに抱きたかったのなら、もっと早く襲ってくれば良かったのに・・。

意気地なし。

私、結構アピールしてたんだけどな。

女にだって、性欲くらいあるんだからね」


再び曇りない笑顔を見せてくれた彼女が、冗談ぽくそう言ってくる。


「御免」


情けなさそうに下を向いて答える俺に、彼女が付け加える。


「夏とはいえ、エアコン点いてると、この格好では少し寒いな。

一緒にお風呂に入ろ?

貴方も、外を歩いてきて、結構汗かいたでしょ?」


「え?

だって君、もう入ったよね?」


「別に何回入ったって良いでしょ?

それに、私の裸だけ見て済む訳ないじゃない。

貴方のも見せて」


「ええ!?」


「身体も洗ってあげる。

エッチはしないけど、そのくらいのスキンシップはしようよ?

・・貴方の肌に直に触れていると、何だか安心できそうなの」


そんな事を言われたら、俺だって我慢できない。


脱衣所でそそくさと服を脱ぎ、彼女と一緒に風呂に入る。


だが、恐れていた通り、彼女の前で醜態を晒してしまう。


身体を洗って貰っている際、時折当たる彼女の胸の感触に、耐え切れずに爆発させてしまった。


・・最近、少し右手を休ませていたからなあ。


でも、恥ずかしそうに眼を逸らした俺を見て、彼女が今日1番の笑顔で笑ってくれたから、良しとしよう。


彼女がかけてくれた、『いっぱい出たね』という言葉は、できれば俺のスマホに永久保存したかった。



 江戸川さんの入院前に二人で星を見に行くという、その彼女の願いは叶わなかった。


若さ故か、思っていた以上に病状の進行が早く、あれから1か月も経たない内に、栄養剤の点滴なしではいられない状態になった。


俺は父と相談し、入院設備等の環境面を総合的に考慮して、聖路○国際病院を美保さんに勧めた。


美保さんは、初めの内はかなり動揺していたが、今では何とか仕事ができるくらいには落ち着いてきている。


夫の保険金に全く手を付けていなかった彼女は、娘の為に、個室を用意した。


美保さんが仕事で忙しい時は、俺が泊まり込みで江戸川さんに付き添い、その世話をする。


その傍ら、大学の教授達に頭を下げて回っては、直ぐにでも実習に参加したいと申し出たが、熱意は評価してくれたものの、『君だけを特別視する訳にはいかないから』と、丁重に断られた。


ネットを駆使して、英語で世界中の研究者達にも情報提供をお願いしたが、まだ学生で、然したる業績も上げていない俺の下には、色良い返事は1つもこなかった。


父だけが俺に味方して、色々と情報を集めてくれ、俺の方でもこれまで読み込んできた論文の内容を精査しながら新たな研究論文にまで手を広げてみたが、如何せん現場での経験が全くないため、文章中の専門用語や表現などに今一つピンとこなくて、焦りだけが増していった。


頼みの綱の臓器移植も、順番待ちで望みが薄く、母親である美保さんからの半分の提供も考えられたが、肉親と言えど完全に適合するかは不透明という医師の言葉と、仮に移植が成功しても、不完全な大きさの物では、その後10年以上に亘ってお互いが強烈な倦怠感などに悩まされると聴いて、江戸川さんが辞退してしまった。


夏休みが終わり、大学が始まってからも、俺は彼女の病室に、寝袋持参で泊まり込んでいた。


時々着替え等を取りに家に戻ると、少し窶れて頬がこけた俺を見て、母が涙ぐんだが、何も口には出さないでくれた。


この頃には、江戸川さんは、意識ははっきりしているが、擦り下ろしたリンゴくらいしか固形物を口にしなくなり、生命維持に必要な栄養素は全て点滴で賄っていた。



 考えていたよりずっと病気の進行が速く、あっという間にベットから出られなくなっていった。


まだまだやりたい事も沢山あったのに、もう、その機会は訪れないかもしれない。


隅田君には、本当に申し訳なく思っている。


結局、彼に思いを遂げさせてもやれないまま、本来なら楽しくて仕方がない学生生活を、私のために無駄にさせてしまっている。


この病気に罹った人は、自殺率が非常に高いと以前知ったが、私には、皆に迷惑をかけないようにと、自分から死ぬ勇気もない。


今の私にできる事は、大学が終わると付きっ切りで看病してくれる彼に見つからないように、昼間の間に少し泣いて、悲しみと恐怖を洗い流し、夕方以降は彼に心配をかけないように、笑っている事だけだ。


私がこんな状態になっても、彼は本当に優しいし、よくしてくれる。


愚痴一つ溢さず、嫌な顔一つしない。


こんな素敵な人、他にいないんじゃないかと心から思う。


今、彼はお風呂に行っている。


偶にはのんびり入ってきてと、私がお願いした。


私が死んだ後、せめて彼には感謝の気持ちを沢山残したいと、遺書のようなものを書いておこうとした時、病室のドアがノックされた。


一体誰だろう?


面会の時間は過ぎているし、看護師さん達が来る時間も疾うに過ぎている。


「はい。

どなたですか?」


私の発した小さな問には直接答えず、病室のドアが静かに開けられる。


そして、全身黒で統一された身なりをした、見知らぬ男性が中に入ってくる。


「あの、どなたですか?」


悪い人には見えないが、一度も会った事のない男性に入って来られて、私は少し怯えてしまう。


「いきなり訪ねて来て済まない。

こんななりをしてはいるが、死神ではないから安心してくれ」


冗談の積りなのかもしれないが、顔が少し緊張して見えるせいか、あまり効果が発揮されていない。


「自分の名は御剣和也。

江戸川美久さん、君と話をしにやって来た。

少し時間を貰えないだろうか?」


初対面で、ちょっとぶっきらぼうだが、私と同じくらいの歳に見える彼を、何だか憎めない。


何処と無く、出会った頃の隅田君に雰囲気が似てるせいかもしれない。


「失礼ですが、私とは初対面ですよね?

どなたかから、私の事をお聞きになられたんですか?」


「確かに、直接会うのは初めてだ。

だが君達の事は、誰に聞くともなく、何でも知っている。

失礼かとも思ったが、必要な事なので、大体は見せて貰ったからな」


「・・あの、仰ってる事がよく分りませんが?」


もしかして、ちょっと危ない人?


手に点滴の針を刺したままだが、少し身構える。


「単刀直入に言うと、自分は神だ。

尤も、この世界で信仰されている、どの神でもないがな。

もうあまり遠くない日に、君は死に、彼はその衝撃で、以後の人生を廃人同然で過ごす事になる。

だが、君達の事を見てきて、このまま放っておくのは惜しいと思った。

彼は君さえいれば、とても役に立つ人物だ。

そして君も、心の美しい、このまま無残に死なすのを躊躇う、素敵な女性だ。

だから、交渉しに来たのだ。

その結果次第では、自分は君を助ける事もできる」


「私をからかっているのでしたら、流石に酷いと思いますよ?

私には、初対面の貴方にこんな事をされる覚えがありませんが、もしかして、何処かで恨みでも買っていましたか?」


「別にからかってなどいない。

自分は全て本当の事を話している」


「まだそんな事を・・。

どなたかは知りませんが、お帰り下さい。

ナースコールを押しますよ?」


いい加減、少し腹が立ってきた。


こんな惨めな状態の私に、有りもしない希望をちらつかせて、この人は一体何がしたいのだろう?


眼に力を込めて見つめる私の前で、その男性は溜息を吐いた。


「初めてのキスは、君の部屋で、君からだった。

親友の誓いは、大きな歩道橋の上での指切りだった。

小学6年生の時の君は、水曜限定の引籠りだった。

寝てばかりだったがな。

彼がラブレターの取り扱いを間違えた時は、八つ当たり気味にビンタして、その後そこにキスをした」


『!!!』


「病気になって、初めて彼を行為に誘ったが、断られて、一緒に風呂に入っただけ・・」


「止めて下さい!!

・・嘘、何で!?

どうして知ってるんですか!?」


「だから、見ていたと言ったであろう。

そう、こんな風に・・・」


その瞬間、病室の壁に、懐かしい光景が映し出される。


中学校の教室で、制服を着た私が、彼の事を叩いている。


場面が変わって、歩道橋の上で、二人がそっと、指切りしている。


心地良い風を受けて走る二人乗りの自転車。


真っ青な海目掛けて、走っていく私。


『・・懐かしい。

こんな風に見えてたんだ。

・・戻りたいな、あの頃に。

また彼と二人で色んな事をしていきたいよう』


昼間あんなに泣いたのに、また涙が零れてくる。


「信じて貰えただろうか?」


「・・半分くらいは」


「・・分ってはいたが、この星の人間は本当に厄介だ。

なら、これならどうだ?」


再度の溜息の後、その男性はパチンと指を鳴らした。


『?』


「時計とスマホを見てみろ」


言われるままに確認するが、彼の言いたい事が分らない。


・・あれ?


スマホの画面が切り替わらない。


ちゃんと充電してあるのに・・。


「テレビを点けてみろ」


リモコンを操作しても点かない。


「今、この世界の時間は止まったままだ。

その中で行動できるのは、管理者である自分と、その許しを得た君の二人だけ。

光すらも移動する事はできない」


スマホの時計をじっと見つめるが、何時まで経っても先へ進まなかった。


「・・そんな。

神様って、本当にいらしたのですか?」


「君が薬の副作用か何かで幻覚でも見ていない限り、ここに居るな」


「じゃあ私、神様に対して酷い事言って・・・」


点滴が邪魔で、直ぐにはベットから出られないが、せめて姿勢を正してお詫びしようとした私を、神様が止める。


「そのまま楽にしていれば良い。

この世界の神様はどうか知らないが、自分に対して畏まる必要はない。

君達人間の、悲しみや苦しみ、嘆きや慟哭を耳にしながら、普段は知らんぷりしている自分だからな。

礼儀を払って貰う程の立場ではないよ。

・・ただ、立ち話も何だから、この椅子を借りても良いだろうか?」


「はい、勿論です」


私はこの時点で、彼を神様だと信じて、一切の疑いを捨て去った。


とかく権威にしがみ付く者ほど、自分を特別視させたり、偉そうに見せたりする。


その力が張りぼてに過ぎない事を、必死に隠そうとするからだ。


本当の実力者、真の能力者は、自分を過大視させたりしない。


そんな事をせずとも、自然と周囲がその力を認めて、付いてきてくれるのだから。


椅子に座った彼は、いや、御剣様は、少し緊張しているように見える。


「済みません。

只のパイプ椅子ですので、座り心地が今一つのようですね」


「・・いや、そういう訳ではないのだ。

まだあまり、他のうら若い女性と二人きりで、直接話す機会に慣れてないからな。

会話の選択を間違えないよう、少し緊張している」


フフフッ、もしかして見た目通りのお若い方なのかしら?


あんまり女性に慣れていらっしゃらないなんて、昔の隅田君みたい。


私は益々この方に好意を持った。


「それで、お話って何でしょう?

その結果によっては、私を助けて下さるとの事ですが・・・」


何だか、体調が随分と楽になった気がする。


だるさが取れ、声に張りが戻っている。


「きちんと意思表示ができるよう、一時的に体調を元に戻している」


『!!』


考えている事まで筒抜けか。


神様、それはちょっと狡いです。


「話というのは、君達の今後の事だ」


私の思考を読んだのか、少し気不味そうに視線を逸らして、そうお話しになる。


「先程も伝えたが、このまま君を死なせれば、彼は以後、廃人同然の生活を送る事になる」


何となくだが、そんな気はしていた。


彼にとって、私は生きる目的のようなものになっている。


だからこそ、さっき遺書めいたものを書いて、今までの感謝と共に、これからの人生を楽しんでくれるようにお願いしようとしたのだ。


「だが、君が助かった場合、彼は非常に有能な医者として、数千もの人の命を救い、また、人間的にも素晴らしい人物に成長して、多くの者達に慕われ、尊敬される人物となる」


やっぱりね。


あの日思い描いた通りの人になってくれるのね。


流石は隅田君。


私の自慢の彼氏。


「何れにせよ、彼の運命は君次第という事だな。

・・そこで君に問う。

君はまだ生きて、この先もずっと彼と過ごしたいだろうか?

ここで君を助けるという事は、それ即ち、今後もずっと、彼の下に居るという事だ。

まあ、聴くまでもない事のようだがな」


私の思考を読んでいる神様が、苦笑いしながらそうお尋ねになる。


「助けていただいた後、もしも私が彼から離れたら、その時はどうなるのでしょうか?」


「その場合は、君には我の居城にて、メイドの職にでも就いて貰おう。

ちょうど今、人手が足りないからな。

ただし、食事は作らなくて良い」


フフフッ。


神様、私達を本当によく見ておいでなのですね。


「・・私としては、是非助けていただきたいのですが、もしもお許し頂けるなら、我が儘を一つだけ聞いてはいただけないでしょうか?」


「どんな?」


「私を一度死なせてから、再度、生き返らせていただきたいのです」


「・・何故だ?」


「彼も私も、将来は医学に携わる者として、こんな機会は二度と手に入らないからです。

・・医師であれ看護師であれ、現場で働く以上は、日々患者さんの命と向き合っていきます。

毎日毎日沢山の患者さん達と接し、そしてその中の幾人かは、何れ帰らぬ人となっていくのでしょう。

でもその度に心を痛め、落ち込んでいたのでは、その後の仕事に差し障りが出てしまう。

だからこそ彼らは、心に壁を作って、深く考えないようにしているのだと思います。

人間である以上、最初はそういった理由であっても、やがてそれに慣れ、感覚が摩耗し、患者さんやそのご家族の抱える不安や恐れに対して、何も感じなくなる人も出る。

無意識とはいえ、彼らを傷つける言葉を吐く人もいるでしょう。

私は隅田君に、敢えて慟哭を味あわせ、大切な人を失う痛みを心に刻み込んで欲しいのです。

その時味わった痛み、苦しみ、恐怖をずっと忘れずに、患者さんと向き合っていって欲しい。

残酷なようだけど、彼ならきっと克服できる。

それらの思いを忘れぬまま、常に笑顔で患者さんに接していける。

私は、そう信じています。

・・私だって、死ぬのは怖い。

凄く怖い。

神様が生き返らせてくれると分っていても、この恐怖は消えないと思います。

でも、この感覚は、必要なものだとも思うんです。

死にゆく人が、その人なりの覚悟を決めて、或いは気持ちの整理をして、その時を待つ気持ち。

これを知らずして、そういった人の本当の意味での看護は難しいと思うんです。

どうせ直ぐに死ぬ人だから、形だけ取り繕えば良いのかもしれません。

だけど、その生い立ちはどうであれ、死んでゆく時くらいは、安らかに逝かせてあげたい。

私の父みたいに、苦しみも恐怖も誰にも理解されないまま、自らの死期を早める人を救ってあげたいんです。

・・自分でも、何を言いたいのか、はっきりと言葉にできない部分もありましたが、これがその理由になります」


「・・・君は強くて、そして本当に彼には容赦ないな」


「彼だからですよ。

隅田君だから、私にとって最高の男性だから、磨きに磨いて、その分一杯愛してあげるんです」


「自分の学習した本では、君のような人をSと呼んでいた。

初めは何かの隠語かとも思ったが、どうやら好きな人をいじめるのが趣味の人のようだった。

もしかして、君はそれかな?」


「酷いです神様。

御剣様だって、人の成長を促すために、試練をお与えになるでしょう?

それと似たようなものです」


冗談を仰ってるのが丸分りなので、こちらも軽口で返せる。


「そうか。

ではお詫び序でに、一つ良い事を教えてやろう。

彼との関係を先に進めたければ、君の方から動く事だな。

彼を待っていたら、10年は進展しないぞ」


「・・それ本当ですか?」


失礼とは思いつつ、あまりの事に、つい聴き返してしまう。


「本当だ。

君を神聖視し過ぎるあまり、長年の友となっている彼の右手が、かなり強敵になってきている。

頭が良いだけあって、発想も豊かだからな」


「もう、隅田君ったら。

・・そういえば、私達のお風呂の事をご存じだという事は、もしかして、私の裸も?」


「・・湯気で全然見えなかった」


「冬じゃなかったですよ?

それに、家庭のお風呂でそんな事にはなりませんよ、フフフッ」


この方、神様なのに、何でこんなに人間味に溢れた方なのだろう。


人によっては猥談と取られかねない内容なのに、全然そんな感じを受けない。


ずっと滅入っていた気分が、とても晴れやかになっている。


「決してそれが目当てではなかったのだが、謝罪の代わりとして、君に復活の地を選ばせてやろう。

一度死に、土へと還った後、再びこの世に戻ってくるための門を開く場所。

・・何処が良い?」


「・・それって時間帯も選べるのですか?」


「勿論だ」


「それなら・・」


私は彼と行けずにずっと心残りだった、とある星が奇麗に見える場所と、その時間を告げる。


「分った。

・・どのくらい彼を苦しめるんだ?」


「3か月、ですね。

流石にそれ以上は・・。

母だって、同じように苦しむはずですから」


「了解した。

では、これを以って契約の証とする」


御剣様の両目が蒼く輝き、私の全身が一瞬光に包まれる。


「君達には大学を卒業後、こちらが指定する海外の僻地で何年か医療支援の修行をして貰い、その後はうちのグループ企業で医師と看護師として、後進を育てながら働いて貰う。

うちはホワイト企業だが、体制が整うまではかなり忙しい。

若い君達の時間をごっそり貰い受ける。

だがその代わり、君が望むなら、人としての生涯を終えた後は、我が眷族に迎え入れ、その後は不老不死として、生に飽きるまで、好きに過ごす事も可能だ。

老いて死しても、眷族として生まれ変わる際に、その者が最も美しい時まで遡るので、余計な心配は要らない。

権利だけ得ておいて、もう十分生きたからと、後に放棄する事もできるが、どうする?」


「そんな事までしていただけるのですか?

命を救っていただけるだけでも十分過ぎる程なのに・・」


「君が隠れて流していた涙。

その美しさの代償だ。

助けると決めた以上は、それくらいの事はしよう。

只の自己満足に過ぎぬがな」


「迎え入れて下さるのは、・・私だけですか?」


「君達はセット、互いの片羽だ。

そうだろう?」


「はい!

是非、お願い致します。

・・それにしても、神様が会社経営をなさってるのですか?

フフフッ、何だか不思議ですね」


「こう見えて、世知辛い世の中で、色々と苦労してるのだ」


私の笑顔に満足されたかのように、軽く頷いた神様が、徐に立ち上がる。


「ではな。

何れまた会おう」


病室のドアが静かに閉じられた時、止まっていた時間が動き出す。


スマホを見ると、あれから1分たりとも進んではいなかった。



 それから1か月が過ぎた。


私は強烈な倦怠感と闘いながら、何も口にできず、体重を9㎏も落とした。


髪や爪にも潤いがなくなり、我ながら、酷い有様だと思う。


段々と自分の死期が近付いて来るのが分る。


そしてそれと共に、心が澄んでいく。


無に還る自分の中から、様々な負の気持ちが抜けていき、他人の行動に心惑わせる事がない。


神様のお陰で、本来ならかなりあるはずの恐怖が軽減され、思考の大半は、これまでの人生の中で得た、懐かしく素敵な思い出で満たされている。


そのほとんどに、隅田君がいた。


小学6年生から、中学、高校と共に歩み、その学生生活の大半を一緒に笑い合ってきた。


手を繋ぎ、腕を組み、肩を寄せ合う事ができた日々。


彼は何時も私を見てくれていた。


その時は気付かなくても、振り返る事で見えてくる彼の優しさ、心配り。


気兼ねなくそれに応えてあげられたのは4年に満たなかったけど、彼と出会わなかった自分を想像できないくらい、私の記憶は彼で埋まっている。


ベットから身を起こし、病室の傍らで寝袋に包まり、泥のように眠っている彼を見つめる。


精悍だった彼の顔も、随分と窶れてしまったが、その分ある種の凄味がある。


私の世話をしながら、昼は大学で学び、夕方からここでPCを使って医学論文を読み込み、食事や入浴を挟んで更に深夜まで医学書を読み漁る日々。


実習に参加を許されなくても、決して諦めず、私の為に最善を尽くしてくれている。


私が食事を取れなくなると、病室での飲食を一切しなくなり、個室なのに、珈琲さえも、わざわざ休憩所まで飲みに行く彼。


わざと苦しめるような事をして御免ねと、彼の寝顔を見る度に、心の中で何度も謝ってきた。


生まれ変わったら、私ができる事なら何でもしてあげるからね。


カーテン越しに、ぼんやりと、月の光が漏れてくる。


もうそろそろね。


ゆっくりと目を閉じ、朧げな月明りを浴びながら、私は静かにその時を待ち続けた。



 「隅田君、起きて」


俺の深い眠りを一瞬で覚醒させる、江戸川さんのか細い声がする。


「どうした?」


できるだけ優しく、穏やかに、そう尋ねる。


只でさえ病気になった江戸川さんは、俺に遠慮している。


何かして欲しい事があっても、なるべく我慢しているのだ。


だから彼女をよく観察し、こちらから、色々と聴いてあげる事が大切になる。


だが今回は、その穏やかな顔からは、何も感じ取れなかった。


「御免なさい、お水を少し飲みたいの」


「分った」


常備してあるペットボトルの水を取り、彼女の所まで持って行く。


キャップを開け、それを手渡すと、彼女はゆっくりと一口飲んだ。


「・・隅田君、今まで有難うね。

私がこれから言う事を、しっかりと聴いて、そして必ず守ってね。

私からの、最後のお願い」


俺の目を見て、小さな声で、穏やかにそう告げてくる。


「そんな、もう死ぬみたいな事を言わないでくれ。

お願いだから、何時までも俺の側に居てくれよ。

俺には君が必要なんだ」


「もう、そんなに泣かないの」


力なく、少し震える掌が、涙に濡れた俺の頬を優しく撫でる。


「私が死んで、3か月経った夜、以前に星を見に行こうとしていた場所に来て。

・・貴方に、是非見せたいものがあるの」


彼女の呼吸が、遅く、小さくなってゆく。


「私を、信じ・て。

隅田君、だ・いす・・き」


その瞳から光が消え失せ、彼女の身体から一切の力が抜け落ちる。


「美久、美久、頑張れ、頑張ってくれ!!

お願いだ。

俺を一人にしないでくれ。

俺はお前がいないと駄目なんだ。

駄目なんだよう。

美久―っ!!!

あああああああ―っ」


深夜の病室に、彼の絶叫が響き渡った。



 (それから3か月後)


彼女が死んでからの、その後の2か月間の事は、自分でもよく覚えていない。


葬式には出たらしいが、そこで何をしていたのかも分らない。


記憶が混乱し、頭が考える事を放棄してしまったかの如く、何も浮かんでこない。


自分の部屋に閉じ籠り、大学も休んで、どうしても腹が減って耐えられなくなると、冷蔵庫に豊富に入れられていた惣菜を食べて過ごした。


味も陸に分らず、ただ腹を満たすだけの食事だった。


風呂にもあまり入らず、むさ苦しい俺と偶に顔を合わせた両親は、何か言いたそうに、切なそうな表情をするが、結局は何も言わず、黙って俺を見守ってくれていた。


彼女を失って2か月が過ぎた頃、家に美保さんが訪ねて来た。


遺品を整理したらしく、俺に持っていて欲しいと思う物を、わざわざ届けてくれたのだ。


俺の変わりようを驚いた美保さんも、以前とは見違えるように窶れていた。


江戸川さんが入院してから、彼女の着替え等を持って来る美保さんと、何度か病室で会った。


仕事が休めない彼女は、俺にばかり江戸川さんの世話をさせている事に、大層申し訳なく感じていたらしいが、俺が全然負担に感じていない事を話すと、救われたように微笑んでくれた。


朝の出勤前に、まだ俺が居る病室に顔を見せる事もあり、その時は、二人で休憩室の自販機で、珈琲を飲んだ。


自販機が豆を抽出している間に流れる、朝の人気ひとけの無い病院には場違いに感じられるメロディーを聞きながら、彼女は、『今がお互いの夢の中だったら良いわね』と、無理やり笑って呟いていた。


そんな彼女も、新しい家に引っ越す事が決まったらしい。


今住んでいる家は、音楽に関係のある人専用なので、ピアノがあるとはいえ、弾く人が居ない状態では、心苦しいのだそうだ。


仕事も辞めると言っていた。


一人娘の命に係わる病気に、陸に休めもしなかった職場には、見切りをつけるとの事だった。


『何時かまた、会えると良いわね』


そう言い残し、彼女は去って行った。


手渡された思い出の品々を、一人、部屋で眺める。


江戸川さんと二人で写っている数々の写真。


その中には、見覚えのない物もある。


彼女の日記。


そのページのほとんどに、俺との事が書いてある。


俺が彼女の誕生日に贈ったプレゼント。


俺とのメールや写メがぎっしり詰まったスマホ。


見ているだけで、止めど無く涙が溢れてくる。


明け方までそうしていた俺は、1つの結論を出す。


もう、頑張るのは止めにしよう。


彼女が居ないこの世界で、何をしても無意味だ。


大学も退学する事にした。


彼女を救えなかった医学などに、今更何の興味もない。


ただ、これまでに学費等の負担をかけ続けてきた両親の為には、家事だけはこなそう。


株を最小限やりさえすれば、生活費には困らないが、今後も世話になる両親の為に、人として、彼らの息子として、それだけはやらねば。


そう決心すると、その日は久し振りに、深い眠りに落ちた。


翌朝、風呂で髭を剃り、汚れを洗い流して、両親の為に朝食を作る。


そしていつものように、彼らが起き出すのを待つ。


新聞は読まない。


最早世の中の事には関心が無い。


やがて現れた両親は、身奇麗になって以前のように朝食を作った俺を見て一瞬喜んだが、食事中に俺が話した内容に少し落胆したのか、笑顔が鳴りを潜めてしまった。


だがそれでも、俺が元気で過ごしてくれるなら、後の事は心配しないで良いとまで言ってくれた。


今の俺には勿体無いくらいの両親だ。


思考と常識の鈍った状態の俺でさえ、そう思えた。


それから暫くして、江戸川さんが最後に言い遺した、約束の日がやって来た。


彼女の事については、今でも俺には最優先事項だ。


あの時の事を思い出す度、胸が張り裂けそうになるが、何とかここまでやって来た。


真冬の栃木県、日光市。


駅からバスに乗り、約1時間でとある滝の側まで来る。


俺に見せたいというものは何なのか、それが何時現れるのかも分らないまま、温かい缶コーヒーを頼りに、寒さに震えて待つ。


やがて、極寒で滝の水が凍り、その天上には、神秘的な星空が広がる。


俺に見せたいというものは、もしかしてこれの事なんだろうか?


確かに素晴らしい星空だが、彼女と一緒に見るのでなければ、今の俺にはあまり意味はない。


寒さに耐え切れなくなり、予約したホテルへと向かおうとした時、そいつは闇の中から突然現れた。


後から思えば、性格の悪さが服に現れているかのような黒ずくめの格好。


防寒着で固めた俺がぶるぶる震えるくらいの寒さの中で、シャツにジャケットしか身に着けていない非常識な思考と肉体。


俺の直感が、こいつは生涯で最大の敵になると告げていた。


「帰るのか?」


いきなり、そいつは話しかけてきた。


「誰だ、お前?」


この季節のこんな時間に、こんな場所に一人で来る奴を、俺は警戒する。


「常識を知らん奴だ。

初対面の相手には、先ずは天気の話題を振らんか」


「お前に言われたくねえよ。

何でこんな所に居る?」


「自分が学んだゲームにもよく出てきたが、男が野外で女性に迫る時に用いる、『こんな所に他に誰も来ないよ』という台詞ほど、可笑しなものはない。

なら何故、お前達はそこに居るのだと、聴いてみたくなる。

お前と同じ理由があるからだ」


「・・ふざけんなよ?

俺は大切な約束のためにここに来た。

それを・・俺と同じ理由だと?

今の俺には、何も失うものなどない。

ここでお前をボコってやっても良いんだぜ?」


大切な記憶を揶揄されて、俺の怒りは頂点に達する。


「できもしない事を言うな。

この3か月、ただやさぐれていただけか?

彼女の死は無駄だったかな?」


俺の中で何かが切れた。


「貴様ーっ!!!」


ドカッ


「グフッ」


渾身の力を込めて放った俺の拳をあっさり躱して、奴の蹴りが俺の脇腹に入る。


思わず跪いた俺に、奴が言い放つ。


「本当に何も学ばなかったのか?

彼女が死を以ってお前に教えようとした事が、伝わらなかったのか?」


「一体何をだよ!?

俺は、江戸川さんがいないと何もできないんだ。

何もする気が起きない。

漫画の中じゃ、大切な人の死を乗り越えて、それを糧にして立派に成長する奴もいるけどよ、俺はそんなに強くない。

彼女の笑顔がないと、彼女が抱き締めてくれないと、何もできないんだよ。

俺にはもう、頑張る理由が無いんだ!!」


地面を殴りつけながら喚く俺を、奴が静かに見下ろす。


「・・ならば、彼女さえいれば、お前はこれまで以上に闘えるのか?

その慟哭を忘れず、同じ立場にある者達の心の痛みを理解し、その者達の為に身を粉にして働けるのだな?」


「ああ、江戸川さんさえ側に居てくれたら、何でもやってやるよ。

1000人でも2000人でも、命を救ってやらあ!!」


「その言葉、確と聴いたぞ?」


突如、周囲の雰囲気が一変する。


訝し気に顔を上げた俺の視界に、有り得ない光景が展開される。


俺から少し離れた場所に、人の背丈程の光の環が生じている。


驚いて奴を見ると、その眼が蒼く輝いていた。


「我が命じる。

闇の門番、魂の管理者よ、かの者の魂をここへ」


奴の厳かな言葉に応じるように、光の環の中に闇より暗い影が生まれる。


「地の精霊、物質の保管者よ、土へと還りしかの者の肉体を返却せよ」


暗い影が徐々に人の形になっていく。


「水の精霊、癒しの母よ、かの肉体を修復せよ」


暗い影でしかなかった人型が、薄い青へと色を変える。


『!!!

そのシルエット、もしかして・・』


「風の精霊、思念の伝達者、拡散したかの者の記憶を復元せよ」


『お前?

それって私の事?』


『・・私にどんな秘密があっても?』


『私も大好き。

中学に上がるくらいには、もうかなり好きだったよ?』


「ああああっ・・・」


懐かしい言葉の数々が、声が、俺の頭を通り抜け、光の環のシルエットに吸い込まれていく。


最早俺は、だらしなく泣く事しかできない。


『もう、そんなに泣かないの』


『隅田君、だ・いす・・き』


「火の精霊、命の鼓動よ、かの肉体に胎動を与えよ」


ドックン、ドックン、ドクン、ドクン・・・。


「光の精霊、転生の扉を開く者よ、我が許可する。

かの者に門を開くが良い」


光の環が一層激しく輝き、輪の外に出てくる彼女の肉体が、薄い水色から通常のものへと変化してゆく。


全身が環の外へと出ると同時に、光の環は静かに消滅し、その後には、満天の星空の下、目を閉じて佇む、元気な頃の江戸川さんが居た。


「辛い思いをさせて御免ね。

これからは、ずっと一緒に居ようね」


ゆっくりと目を開けた彼女が、微笑みながら、俺に優しく語りかけてくれる。


「ああああああっ」


何も言えず、泣き叫んで彼女に抱き付く俺を、江戸川さんが抱き締め返してくれる。


「こんなに痩せちゃって。

・・本当に御免ね。

神様が私を生き返らせてくれる事、貴方には、敢えて黙っていたの。

貴方がこの3か月に感じた苦しみ、悲しみ、やり場のない思いを、今後に活かして欲しかったから。

・・私を、許してくれる?」


「当たり前だ。

俺は、君さえ生きていてくれたら、側に居てくれたなら、それだけで良い。

君が俺に何をしようと、俺の事を思っての事なら、喜んでその全てを受け入れる」


再会を喜び合う二人を背に、和也は何かを思い出したかのように、夜空を見つめる。


「今宵は特別な夜だ。

彼らにも、僅かばかりの贈り物をしよう」


その眼が再び蒼く輝いた。



 その男は、今夜も一人、娘の遺影に向かって涙を流していた。


数年前の天災で、一人娘を亡くし、自分だけが助かった事で己をずっと責め続けながら、一人で苦しんできた。


娘が生きていれば今年で20歳。

先月行われた、市の成人式の会場付近に車を停め、車中から、着飾った娘の同級生達を眺めては、その中に居もしない娘の姿を探し回った。


男の中では、あの時から、時間は止まったままだ。


未だに完全には娘の死を受け入れられず、現実と夢の狭間で、泣き暮らしてきた。


凍える夜に熱燗を傾け、今日も娘に語りかけていた男の部屋が、急に暗くなる。


停電かと男が腰を上げようとした時、暗闇の中で、娘の遺影が蒼く輝いた。


『お父さん、そんなに自分を責めないで。

あの時の事は、お父さんのせいじゃない。

お父さんだけが生き残った事を、私は恨んでなんかいないよ。

寧ろ、お父さんが無事だった事を、心から喜んでる。

私は短い人生しか送れなかったけど、それを後悔しないくらい、お父さんから愛情を貰ったよ。

できればもう一度、お父さんの娘として生まれても良いくらい。

だから、もうそんなに悲しまないで。

私の分まで、折角の人生を楽しんで下さい。

そして、沢山のお土産話を持って来て。

私待ってる。

お父さんが私に会いに来てくれるの、ずっと待ってるから。

・・あ、でも、もしわざと早く来たりしたら、その時はお父さんを嫌いになっちゃうかも。

お父さんに少しでも良い事があるように、ずっと神様に祈ってるから。

じゃあね』


遺影から直接頭に響いてきた声に、暫し呆然とする男。


部屋の明かりが元に戻り、輝きを失った遺影の側に、置いたはずのない物が置かれている。


自分が買ってやり、娘がとても気に入っていた髪飾り。


娘と一緒に棺に入れた物が、今、ここにある。


「・・有難うな。

泣いてばかりいるお父さんを心配して、わざわざ来てくれたんだな。

お父さんこそ、お前のお父さんで良かったよ。

本当に良かったんだ。

・・土産話、沢山持って行くから。

色んな所を見て、美味しい物を一杯食べて行くから。

・・・だから、それまで待っていてくれな?

決してズルはしないから」


溢れる涙が、男の止まってしまった時間を、現在まで押し流していく。


男の『その後』が、やっと始まっていくのであった。



 真冬の見通しの悪い夜に、線路にうずくまる一つの影。


よく見れば、40代後半くらいの女性のようである。


まだ終電が残っているこの時間に、女性は線路から離れようとしない。


彼女は自殺をしに来たのだ。


今から数年前の雨の日、いつもなら迎えに行くはずの娘を、その日に限って迎えに行けなかった。


その日、『ただいま』と言って帰ってくるはずの娘は、数日後、変わり果てた姿で見つかった。


車に乗った男に攫われ、殺された挙句、数㎞離れた藪の中に捨てられていたのだ。


犯人は直ぐに捕まったが、その裁判を傍聴した彼女は、その被告から去り際に声をかけられる。


『お前がちゃんと迎えに来てれば、あいつは死なずに済んだのにな~。・・お前が殺したんだよ』


その言葉が、今までずっと彼女を苦しめてきた。


私があの時ちゃんと迎えに行ってれば・・・。


その思いは日に日に強くなり、やがては犯人の言った言葉が幻聴として聞こえるようになった。


家族に黙って、一人で死のうとした女性の頭に、幻聴とは異なる声が響いてくる。


『お母さん、一体何やってんの!!』


驚いて周囲を見回すが、誰も居ない。


だが、娘の形見として一緒に持って来た手袋が、蒼く輝いている。


『何でお母さんが死ぬの!?

ここで死んだら、あいつの思う壺じゃない!

絶対に死んじゃ駄目だよ!

・・私、お母さんを恨んでなんかいないよ?

お母さんのせいでもない。

あの日は偶々、かなり運が悪かっただけ。

あいつの事は絶対に許せない。

だからさ、お母さんは、できればあいつがどうなったかを、裁判で最後まで見てきて欲しいな。

そして後で聴かせてよ。

そしたらさ、その後はまた、一緒に楽しい事を沢山話そう?

私の部屋の、読みかけの本も読んでみてよ。

最後が気になって、成仏できないよ、ハハハ。

ほら、もう電車が来ちゃう。

早く立って』


夢にまで見た、娘の懐かしい声を、信じられない思いで聴きながら、女性は何とか立ち上がろうとするが、寒い場所に長時間蹲っていたため、足が言う事を聞かない。


迫り来る電車のライトが、彼女を映し出したその時、ドンッと彼女は何かに突き飛ばされる。


その直ぐ脇を、電車が音を鳴らしながら通り過ぎて行った。


『・・本当は物理行使はできないんだけど、神様が御負けしてくれたみたいね。

約束、ちゃんと守ってよ?

今度同じ事したら、あの世でも口利いてあげないからね?

お母さん、大好きだったよ』


形見の手袋から、蒼い光が消え失せる。


女性は暫く呆然とした後、ポツリと独りごつ。


「・・御免ね。

死んでまで心配かけちゃったね。

お母さん、闘うから。

貴女に必ず報告するから。

だから、・・また一緒に笑おうね?」


こののち、娘の裁判を最後まで見届けた女性はその後、同じような境遇に苦しむ者達を支えるNPOを設立する。


その資金繰りには、何故か最後まで困る事はなかった。


お金が必要となった際には、何処からともなく、十分なお金がその口座に振り込まれていたのである。



 この夜は、天文学を志し、星空を愛する観測者に、とある不思議な現象を引き起こした。


夜空に流星が数多く見られ、それらを記録に留めようとした者達は、明くる日に首を傾げる事になる。


確かに残したはずのデータが、全て消えていたからだ。


それは運良くその様をスマホ等に撮影できた者達にも当てはまり、何かに発表しようにも、証拠が一切ないので、単なる噂話として拡散するのみであった。


だがその中に、それを聞いて、穏やかな笑みを漏らす者達がいた事を、人々は知らない。

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