番外編 世の理を超えたその先に 序章その3

  (高校生時代)


タッタッタッタッ。


早朝の朝靄あさもやの中を、一定のリズムを刻んで走る。


歩道橋の上に差し掛かると、満開の桜の花びらが、目を楽しませてくれる。


シュシュ、ザッ、シュシュ。


思わずそこで、シャドーボクシングをしてしまう。


まだ5時前で誰も居ないから、他の人の迷惑にはならない。


『どうだい?

去年よりも少しは速くなっただろ?』


見物人の桜にそう心で告げて、ランニングを再開する。


今日もまた、彼女との1日が始まる。


シャワーを浴びてさっぱりしたら、弁当の用意をする。


前日に仕込んでおいた肉や野菜を手際良く調理し、弁当箱に詰める前に、少し余熱を取っておく。


その間に朝食の準備をし、挽きたてのコーヒーを淹れて、新聞に目を通す。


読み終わる頃には両親が起きてくるので、朝の挨拶をしてから、パンを焼く。


うちは俺が朝から沢山食べるので、三人でも毎朝1斤のパンがなくなる。


馴染みのパン屋から、学校帰りに400ℊの塊をスライスして貰い、毎日買って帰る。


人気のパン屋で忙しいだろうに、有難い事に、いつも家の分を取っておいてくれる。


週末は土、日の分も纏め買いし、次の日来れない時は、前日にその旨伝えておく。


因みに俺は焼かずにそのまま食べる。


あの、もっちりとしてほんのり甘く、噛むごとに味わい深くなるのが堪らない。


玉子5個分のオムレツや、数本の香草入りソーセージ等があっという間になくなる。


歯を磨き、身だしなみを整える前に、シャワーの前に回し始めた洗濯機から洗濯物を取り出し、乾燥機に入れる。


出かける前に乾いた洗濯物を取り出し、汚れ物とは別の洗濯籠に入れたら、スマホをチェックして家を出る。


彼女との待ち合わせ場所である、駅を目指して。



「おはよう」


駅前の広場で待っていた俺に、江戸川さんが明るい挨拶をしてくれる。


彼女は今日も綺麗だ。


足早に通り過ぎていくサラリーマンの人達が、ちらちらと彼女を見る程に。


その笑顔が一心に俺に向けられている事を嬉しく思いながら、挨拶を返す。


「おはよう」


高校に入ってから二度目の登校。


因みに昨日の入学式では、またしても彼女と同じクラスになれた。


多分一生分の運を使い果たしただろうから、俺は今後ギャンブルもやらないし、宝くじも買わない。


そして最後の幸運序でにダメもとで、朝一緒に登校しないかと誘ってみたところ、何と二つ返事でОKしてくれた。


俺の憧れの高校生活の1つがここにはある。


満員という程ではないが、それなりに混んでいる電車に乗り込み、15分弱で、学校がある駅に到着する。


俺が朝の登校に彼女を誘ったのは、痴漢除けの意味もあるので、浮かれてばかりいないで、そのお役目もきっちり果たす。


高校生になると、急に色んな事がオープンになる。


スマホも堂々と持って行けるし、今まで何となく入り辛かった場所にまで、気軽に足を運べる。


それだけ自己の責任も増す訳だが、過ごし方によっては、高校時代が1番楽しい時期かもしれない。


漫画やゲームなんかでの主人公が、高校生という設定が多いのも肯ける。


昨日は彼女と、部活についてメールで話をした。


俺は入る積りはなかったが、彼女が入るなら、考えなくてはならない。


念のため確認してみたら、入らないという事だったので、少しでも彼女と一緒にいたい俺としては、喜ばしい事である。


放課後の勉強会も続けたいと言ってくれて、俺の高校生活は、非常に幸先が良かった。


教室に入ると、一緒に登校してきたせいか、一瞬皆の注目を集めたが、クラスの誰もがまだそれ程親しい訳でもなく、仲良しグループもでき上がっていなかったので、直ぐに収まる。


お互いの席は、残念ながら、少し離れていた。


中学での教訓を忘れず、隣の席の女子にもきちんと挨拶する。


自分の席は壁際なので、隣は一人しかいない。


授業の準備をしていると、その女子から、遠慮がちに声をかけられる。


「隅田君は、江戸川さんとお付き合いしてるんですか?」


「ああ。

恋愛関係では『まだ』ないけど、小学時代からの、本当に大切な友達なんだ」


江戸川さんとは、今後も一緒に居る所を頻繁に見られるだろうから、前もって、そう正直に伝えておく。


「・・そうですか。

長いお付き合いなんですね」


何かを納得したように彼女がそう口にした所で、教師がクラスに入ってきた。



 昼休み、二人で弁当を食べられる場所を探す。


外だと埃や虫が気になるので、室内の空き部屋を確保したい所だ。


結局、ベストの場所が見つかるまで、理科室を借りる事にした。


因みにここは公立校なので、学食なんて気の利いたものはない。


せいぜい購買部が、昼にパンなどを売っているくらいだ。


「少し時間を食ったから、今日は急いで食べよう」


そう言って、彼女用の弁当箱を渡す。


持ち出す時に皆にバレないように、専用のスポーツバックに飲み物と一緒に入れてある。


「いつも有難う。

これがあるから生きていける」


笑顔の彼女が大袈裟に喜んでくれる。


「今日は何かなあ?」


わくわくしながら弁当箱の蓋を開ける彼女を見ると、こちらまで嬉しくなる。


暑い時期とそうでない時期とでメニューをがらりと変え、夏場は傷み易い食材や、臭いのするものは避ける。


1年を通して共通している事は、ニンニクを使わない事。


女子も食べるものだし、増してや学校という閉鎖空間で食事後も勉強する以上、これは絶対だ(あくまで個人的に)。


砂糖もほとんど使わず、みりんや出汁で甘さを出す。


主婦の味方の冷凍食品も、自分には無縁である。


「う~ん、いつも本当に美味しい。

隅田君のお嫁さんになる人は、きっと幸せだろうね」


八角の利いた豚の角煮を食べながら、江戸川さんがそんな事を言う。


「応募は何時でも受け付けるよ」


人の気も知らないでと、その言葉にジャブで返す。


「え?

フフフ、考えとくね」


軽く交わされてしまった。


「放課後の勉強会さ、何やろうか?

江戸川さんは文系と理系のどっちに行くの?」


仕方がないので話題を変える。


「数学はともかく、物理が難しそうだから、文系かな。

隅田君は?」


「俺はまだ未定。

苦手科目はないし、2年になってクラスが分かれる直前にでも考えるよ」


食べながら、じゃあ英語をメインに進めるかと考える。


ここ数年で、どの大学もかなり英語を重要視し始めた。


上位の大学ではもっと前からその傾向は強かったが、最近は半端ではない難易度の所もある。


文系理系に関係なく、最重要科目の1つであるから、ちょうど良い。


「そうだな、とりあえず英語をやっていこう。

それで良い?」


「うん」


「・・あのさ、昨日も思ったんだけど、これからは帰りに家の前まで送らせてくれないかな?

時々寄り道もしたいし、高校生ともなると、暗くなると色々と物騒だしさ」


食後に飲むウーロン茶(今日のおかずに合わせて)のペットボトルを渡しながら、何気なさを装って、そうお願いしてみる。


今まで一度も彼女の家に行った事がない(それはお互い様だが)。


家の中に入らずとも、せめて家の前までは送りたい。


少しでも一緒にいたいのだ。


これまでは、お互いの家へと別れる道までしか、共に帰れていない。


受け取ったウーロン茶を飲みながら、暫く何かを考えていた江戸川さんは、徐にこう言った。


「送って貰うのは別に構わないけど、寄り道って?」


『良いの!?』


第1関門がクリアされた事に心の中で雄叫びを上げ、慎重に彼女の質問に答える。


「高校生になったし、時々で良いから、一緒に何処かの店に寄ったり、買い食いなんかをしてみたいんだ。

・・駄目かな?」


「・・もう直ぐお昼休み終わりだから、続きは放課後で良いかな?

隅田君とお話したい事があるの」


俺の言葉に何かを迷っているように見えた彼女だが、決心がついたのか、そう告げてくる。


その何とも言えぬ表情に、俺はただ、頷く事しかできなかった。


放課後、大事な話があるからと、今日の勉強会は取り止め、彼女と共に帰宅する。


てっきり教室で話すのかと思っていた俺は、少し面食らって付いていく。


電車を降り、改札を出るまで彼女は一言も喋らず、互いの家への分かれ道に差し掛かると、俺の空いている手を握り、彼女の家へと向かう。


彼女と手を繋ぐのは、これが初めてだ。


彼女はほとんど身体的な接触をしてこないので、俺が彼女の身体に触れた事があるのは、運動会での二人三脚や誓いの指切りを含めて極限られている。


本来なら大喜びしたい所だが、今はそういう雰囲気ではない。


以前にも、親友の契りを交わした時に、似たような雰囲気を醸し出していたが、今はその時よりも、更に重く感じる。


一体何の話だろう?


もし仮に、俺と恋人として付き合ってくれるというのなら、こんな雰囲気にはならないだろう(何かの理由で嫌々付き合うのでなければ)。


友達付き合いから一歩踏み込んだ俺の提案(世間の同世代がどう付き合っているのかは知らないが)に対するお叱りなら、俺の手を握る彼女の手が、ここまで縋り付くような感じにはならないはずだ(逃がさないという意味でなければだが)。


考えれば考える程、分らない。


唯一、可能性が高いと思うのは、彼女の秘密に関する事だ。


それなら、他人の耳を意識して、場所を選ぶだろう。


あの時の歩道橋でもないなら、相当聞かれちゃ不味い事みたいだ。


手を繋いでいながら、交際したてのカップルが放つような初々しい緊張感とは正反対の、何時別れ話を切り出すか、切り出されるかを怯える二人のような悲壮感を漂わせ、歩いていく。


数分後、3階建ての小奇麗なマンションの前で、彼女が立ち止まる。


「ここの3階の、303号室が私の家。

招待するのが随分遅くなっちゃって御免ね。

今は誰も居ないから、遠慮なく入って」


笑顔の中にも少し陰りがある表情で、そう言ってくれる。


そんな中、俺は認識せざるを得なかった。


今日は彼女と付き合う上で、何かの節目になる。


親友の契りを交わした日と同じか、それ以上の。


中学以降、それなりに親しくしてきたが、今まで実現しなかった事が、連続して叶えられている。


ここで浮かれる訳にはいかない。


階段を上り、鍵を開けた彼女に続いて家の中にお邪魔する。


部屋数が少ないせいか(マンションのワンフロワーに3部屋しかない)、中はかなり広く、2LDKのようだが、リビングだけでも20畳くらいはあった。


ただ、女性だけの暮らしにしては、少し殺風景な感じがする。


何というか、必要なものしか置いてない・・みたいな。


彼女が自分の部屋に鞄を置きに行っている間、リビングの入り口の所で立っていた俺に、江戸川さんが声をかけてくる。


「手洗いとうがいがしたかったら、キッチンのを使って良いよ。

先に着替えちゃうから、・・覗かないでね」


冗談にもあまり覇気がないが、有難く使わせて貰う。


部屋から出てきた彼女は、落ち着いた色で上下を纏めたスカート姿だった。


彼女の私服姿を見るのは、随分久し振りのような気がする。


小学生の卒業式以来か。


「私の部屋でお話しよう。

何か飲む?」


「いや、さっき序でに水を貰ったから」


「じゃあ、私も手洗いとかするから、先に入ってて。

下着のある場所を探したら、パンチだからね」


あのねえ、さっきといい、それってして欲しいって事ですか?


嫌よ嫌よも好きの内って。


わざとらしく、押すなと書いてあるボタンみたいな。


紳士の俺は、当然部屋の物を勝手に触ったりしない。


やはり何処か無機質に感じる部屋の中で、その扉を開けたまま、座りもせずに立っている。


「お待たせ。

適当に座って良いよ。

隅田君なら特別に、ベットに腰かけても許します」


彼女が来たので俺は入り口から少し離れて、彼女が部屋のドアを閉める。


お言葉に甘えて、シングルベットの中央に座らせて貰う。


俺は決して地べたやその辺の椅子にそのまま座ったりしないので(自宅のトイレでも使用前に便座を消毒し、その上に紙を敷く程度に)、ズボンの尻は汚れていない。


時々、道路とかにそのまま座り込んでいる人を見かけるが、彼ら(彼女ら)はそのまま着替えもせずに、家でも過ごすのであろうか?


道端に唾を吐いたり、飲み過ぎて粗相をしたりする人を見かける度に、それが乾いただけの場所に座っているんじゃないかと他人事ながら少し心配になる(俺の方が、気にし過ぎなのかね)。


「お、迷わずそこに座ったね」


俺を茶化しながら、自分は机の椅子に腰かける。


そして、机上の日記のような物に片手を添えた後、彼女の顔つきが酷く真面目なものへと変化した。


「・・隅田君、ここからは嘘や冗談はなしでお願い。

仮令返事に困っても、私を傷つけるようなものでも、偽りのない、本当の気持ちを伝えて欲しいの。

私も、ごまかしたりしないで、全部本当の事を話すから」


じっと俺の目を見てそう告げる彼女の瞳には、何かしらの覚悟が宿っていた。


「分った」


背筋を伸ばし、姿勢を正す。


「私ね、病気なの。

ううん、正確には、病気に罹る可能性があるの。

〇〇病っていってね、とても珍しい遺伝病なんだ。

発症する場合は、大体20歳くらいから、遅くても40歳くらいには症状が現れて、かなり悲惨な状況で死ぬらしいのね。

治療法はまだなくて、肝臓移植するしか手がないの。

発症確率は2分の1。

遺伝病だから、子供を産めば、必ずその子へと感染する」


ショックで暫く声が出なかった。


江戸川さんがそんな病気に罹る可能性があるなんて。


「・・何時から知ってたんだ?」


喉の奥から絞り出すように、俺はそう口にする。


「ここに引っ越してくる、少し前かな。

お父さんが死んで、その遺品を整理していた時にね・・。

病気の事が書かれた日記が出てきたの」


『それじゃあ、その事を知りながら、あんな風に笑ってたのか?』


「・・隅田君てさ、私の事、異性として、好きだよね?」


『やっぱりバレてたか。

結構あからさまだった気がするし』


「・・ああ。

これ以上ないと思うくらいに好きだ。

暇な時は、いつも君の事を考えてるよ」


「私も大好き。

中学に上がるくらいには、もうかなり好きだったよ?」


『!!!』


「・・でもね、こんな秘密を抱えたまま、隅田君と友達以上のお付き合いをするのは気が咎めもしたし、病気の事が何時かバレて、貴方が私から離れていってしまうのが怖かったの。

将来結婚して、貴方が私との子供を望んだ時、病気の事を話さない訳にはいかないだろうしね」


俺が何も言わないので、彼女は話を続ける。


「友達のままなら、病気が発症するまでは、ずっと仲良くできるかな、なんて考えてた。

貴方の気持ちも大分前から気付いていたけど、気付かない振りをしてたの。

だって一度異性として付き合い始めちゃったら、私の方からは離れられないし、貴方に振られるのは、もっと悲しいしね」


『俺が君を振る訳ないじゃないか』


「だけどね、今日、貴方が隣の女子に話しかけられているのを見た時、悟っちゃったんだ。

やっぱり貴方を他のひとに渡したくないなって。

今更だけど、高校生になって、皆が大人びてくると、何だかそれが凄く現実的に感じられたの。

あとね、『メメントモリ』って言葉知ってる?

人は何時かは必ず死ぬから、その時を思って、生きている今を大いに楽しみなさいっていう意味なんだって。

私、隅田君とデートしたい。

色々な場所に行って、美味しい物食べて、二人で楽しかったねって笑い合いたい。

折角貴方と出会って、仲良くなれたんだもん。

一人じゃできない事、沢山したいな。

・・私って、我が儘かな?

狡い女かな?

貴方の前では、なるべく奇麗な笑顔を見せたいんだけど、この事をはっきりさせた後でないと、心に蟠りがある分、それが難しくなってきちゃった。

・・こんな私でも、貴方はまだ好きだと思ってくれる?

彼女にしたいと考えてくれてますか?」


「・・・」


「・・ねえ、何か言って欲しいな?」


考えを纏めるため、自らの思考に専念していた俺に、彼女が泣きそうな声でそう催促してくる。


これ以上の沈黙は、彼女を否定しているようにも捉えかねられない。


とりあえず、今決まっている事だけでも伝えよう。


「俺、たった今進路を決めたよ。

医学部に行って、将来は医者になる。

江戸川さんを苦しめてる、その遺伝病とやらと闘ってみるよ。

・・俺は江戸川さんが大好きだ。

でもそれは、君が完全だから、という訳じゃない。

笑顔が大好き、声が好き、心が大好き。

そんな溢れる好意の中に、料理が苦手とか、数学が今一とか、ちょっとした事がアクセントになって、良い意味で、君という存在を引き立てている。

完全じゃない分、俺にもできる事があって、君の役に立てる余地がある。

病気の問題は、君の命に係わる事。

こんな些細な例とは比べ物にならないし、同列に扱う気はさらさらないけど、俺の言いたい事は同じなんだ。

江戸川さんという、美しく眩い器の中に、仮令どんな瑕疵が隠れていようと、俺は構わない。

俺にとっての君は、人に自慢するためのものじゃない。

値段をつけられるものでもない。

唯一無二の存在なんだ。

将来は結婚して欲しい。

俺とずっと一緒にいて欲しいんだ。

そのためなら俺は、どんな努力も厭わない。

涙を力に変えて、耐えてみせるから。

何があっても、ずっと君の味方だから。

だから、どうか・・俺と付き合って下さい」


これからやる事は、山ほどある。


でも、彼女との時間もとても大切なんだ。


どちらも蔑ろになんかできない。


そして証明してみせる。


俺が如何に、彼女の事を好きなのかを。


「・・私ね、今まで何度も貴方を信じてきたの。

そしてその度に、貴方は期待に応えてくれた。

ううん、期待以上の希望をくれたの。

隅田君となら、私も頑張っていける。

不安や恐れと闘っていける。

私も貴方じゃなきゃ駄目、他の誰かじゃ嫌なの。

お付き合いしましょう。

そして時が満ちたら、結婚して下さい。

これからも、私の事をどうか宜しくね」


泣き笑い。


初めて見る、彼女の新しい笑顔も、やっぱり俺の心を強く揺さぶる。


どうか彼女に、”その時”が訪れませんように。


俺の人生初の、神頼みだった。


ガチャ・・バタン。


「ただいま~・・あら?」


脳内アルバムの整理中に、玄関先で誰かの声がする。


「お母さん帰ってきちゃった。

今日は残業なかったみたい」


江戸川さんが、涙を拭って椅子から立ち上がり、部屋から出て行く。


「お帰りなさい」


「・・泣いてたの?

誰か来てるのよね?」


「うん。

でも勘違いしないで。

これは嬉し涙だから。

・・あの事、やっと彼に話せたんだ。

それでも将来は結婚しようって言って貰えたの。

だから・・」


「彼?

隅田君だっけ?

その彼が来てるの!?」


ドアの向こうから聞こえる話し声に、頃合いを見計らって、挨拶に出ていく。


「初めまして。

江戸川さんの友人の、隅田と申します。

留守中にお邪魔して、申し訳ありません」


姿勢を正し、丁寧にお辞儀する。


「初めまして。

美久の母の美保です。

・・貴方が隅田君。

やっとお会いできて嬉しいわ」


にっこり笑ってそう言って貰える。


「いつもお菓子を有難うね。

それからお弁当も。

お陰で随分助かってるわ。

まだ時間大丈夫かな?

着替えてくるから、少し三人でお話できないかな?」


「時間は大丈夫です」


「良かった。

じゃあ、ちょっと待ってて。

美久、お茶淹れてくれる?」


「は~い」


とんとん拍子に話が進んで、リビングのソファーに、江戸川さんと並んで腰かける俺。


「お待たせして御免ね。

前からずっと貴方とお話したかったんだけど、美久ったら、何時まで経っても連れて来てくれないから」


娘同様に落ち着いた色の服装で現れた美保さんが、ゆっくりと俺の対面に腰を下ろす。


「先ずはお礼を言わせてね。

何年もの間、美久の為に色々頑張ってくれて、本当に有難う。

娘に笑顔が絶えないのは、親としてとても喜ばしい事なの。

私一人じゃ無理だった。

だから、貴方には心から感謝してるの。

・・それから、さっき美久から聞いたけど、娘の病気の事、もう知っているのよね?

結婚の話までしたって事は、それを承知で美久を受け入れてくれたって事で良いのかしら?」


それまで笑顔で話をしていた彼女の眼が、そこだけ急に真剣になる。


「・・俺にとっては、美久さんの代わりなんていないんです。

その彼女に、厄介な病気の可能性があるくらいで、いや、仮令それが発症したとしても、その存在価値に何の変りもありません。

医者になって、その病と闘う準備をしながら、何時までも彼女の側に居ますよ。

仮令、彼女に捨てられた後でもね」


相手の真剣さには、自分も誠意で答えなくてはならない。


世間知らずの子供が偉そうに語っていると取られても、自らの想いをしっかりと伝えなくては。


「・・本来なら、話半分に聴く所なんだけど、4年も美久に尽くしてくれてる貴方の言う事だからね。

私も信じない訳にはいかないわ。

・・美久の事は、貴方に全面的にお任せする。

親ではできない事を、娘に沢山教えてあげて。

学生としての節度を持ってくれるなら、何でも協力するから」


元通りの笑顔でそう言ってくれる美保さんの瞳が、少し潤んでいる。


江戸川さんは、俺が彼女の母親と話をしている間、黙ってじっと俺の右手を握っていてくれた。


「さ、難しいお話はこれくらいにして、お茶でも飲みながら、楽しいお喋りしましょ。

貴方の事も色々聴かせて欲しいな」


彼女は場の雰囲気を変える発言をして、江戸川さんが準備していた珈琲メーカーへと向かい、俺の方はそういえばと、ある物を取りに江戸川さんの部屋に戻る。


そしたら彼女も一緒に付いて来て、部屋のドアを閉め、スポーツバックに手を突っ込んでいた俺の頬を両手で包んだ。


そして、静かに彼女の顔が迫ってくる。


唇に柔らかい感触がする。


ただ触れ合うだけの、一瞬の事であったが、俺の心には、しっかりとその温かさが刻まれた。


「いきなりで御免ね。

ファーストキスはもっと良い雰囲気でしたかったけど、今日この時が、1番相応しいかなって。

フフフッ、ご馳走様」


ドアの向こうに聞こえないよう、小声でそう告げて去って行く。


美保さんが待っているだろうから、俺も余韻に浸る事はできない。


仕方がない。


帰ってから存分にリフレインしよう。


だらしない顔にならないよう、軽く両の頬に活を入れて、勉強会用に作ってきた焼き菓子の袋を持って行く。


俺は幸せだ。


この時、心からそう思えた。



 その日を境に、俺達二人の生活は、ある面において劇的に変化する。


帰宅後に彼女とスマホで話をし、それまで遠慮していた様々な事を改善させていく。


先ず、放課後の勉強会は、お互いの家でする事にした。


夏は暑く、冬は寒い教室より、エアコンのある自分達の部屋の方が断然捗る。


遠慮なくお菓子を食べたりお茶を飲みながらできるし、少しくらい遅くなっても、送っていけるから問題ない。


彼女の母が残業で遅くなる日は、俺の家で夕食だって振る舞える(勿論そんな日は、美保さんの分はタッパーに入れて持って行く)。


彼女の為に工夫を重ねていたタンシチューの出番がやっときた。


ただ、二人だけの邪魔が入らない密室では、なまじ付き合っているだけに、俺の理性がこれまで以上に試されるので、勉強中は一切のスキンシップを禁じ、その代わり、帰り際に一度だけ、お互いに抱き締め合う事にした。


仮令服の上からでも、その時のお互いの気持ちを伝え合える、非常に心豊かな一時である。


その資格が得られたので、約束通り、俺の母にも彼女を紹介した。


母は彼女を非常に気に入り、江戸川さんも気さくな母に直ぐに心を開いて、俺そっちのけでお喋りをしている時もある。


ただ、余計な心配をさせないために、俺の両親には、彼女の病気の可能性を伝えない事にした。


この事は、美保さんにも話をしてある。


その事を知ったところで、両親の彼女への態度が変わるとは思えないが、要らぬ気遣いをさせないで済むなら、その方が良い。


江戸川さんは、話さないでおく事を気にしたが、俺が押し通した。


江戸川さんの家で勉強する時は、その前にピアノを弾いて貰う。


リビングの隅に鎮座している漆黒のピアノは、グランドピアノではないが、きちんと調律がしてあり、いつも優しい音色を俺の耳に届けてくれる。


因みにこのマンションは、どの部屋もリビングに防音工事が施されており、何時でも弾けるようになっている。


大家さんが音楽家だったらしく、若者に気兼ねなく練習する場を与えたいと、音楽科の学生か、もしくはピアノを所持している事を条件に、格安で貸し出しているのだそうだ(月の家賃は9万円だって)。


『これじゃあ襲われても悲鳴が外に漏れないな、グへへヘ』と冗談を言ったら、『そんな度胸もないくせに。私は何時でも良いわよ?きちんと責任取ってくれるんだし』と笑顔で頭を撫でられた。


俺の名誉のために言うと、度胸が無いんじゃない、時期を待って耐えてるんだ。


俺だって男だし、大好きなを前にして、その衝動が起きないはずがない(俺まだ10代だぜ?)。


だけど、今はまだその時ではないのだ。


若いだけあって、一度その味を知れば、暫くは病みつきになりそうな気がする。


今の俺には、やらねばならぬ事が山ほどあり、そればかりに現を抜かしていられない。


知・体・経・想の4要素を十分に蓄えて、彼女の病ごと、しっかり支えていけるようになったら、存分に頂くとしよう。


あと3年くらいだな。


それ以降は流石に俺も我慢できそうにない。


土、日のどちらかは、天気が良ければ二人で出かける事が多い。


初めてのデートはお花見だった。


満開の桜に沿って、ゆっくりと歩きながら、時折吹いてくるそよ風を楽しむ。


途中で彼女が腕を組んできて、意識が半分そちらへと向いたが、俺達を見つめる花の美しさは変わらない。


その後、うなぎの老舗でお昼を食べ、三色団子の有名店でお茶をして、家路に就く。


デートの最初に宣言した通り、費用は全部俺持ちだ。


彼女は初め抵抗したが、俺の小遣いの額を聞いて沈黙した。


しかも俺は株もやっている。


今ではそれも100万円を超える勢いだ。


元手が貯まれば後は早い。


月に最低でも5万円程度は増えていく。


女性には、何かとお金がかかるものだ。


下着だって、ヘ〇ンズのTシャツ1枚の俺と違って、男には必要のないブラに、良い物なら数万円もかかる。


何故そんな事知ってるのかって?


洗濯もするようになってから、母の下着の扱いを教えられたからさ。


ちゃんとネットに入れて、シルクのものは色物とは別に洗ってるよ(流石に手洗いまではしないけど)。


江戸川さんは将来結婚する相手だし、お金なんて、余裕のある方が出せば良いと思う。


彼女の為に使うなら、俺には他の何より有意義な使い方なのだ。


二度目のデートは映画を見に行った。


だが、これは失敗だった。


映画の内容がどうこうではなく、観客の一人に折角の気分を台無しにされたからだ。


俺達が先に自由席に座っていたら、後から来た中年のカップルの男の方が、俺に文句を言ってきた。


曰く、『前がよく見えないから、少し屈め』だと。


これには流石の俺も切れそうになったが、江戸川さんが隣に居るので紳士的に対応する。


『ここは自由席なんだから、背が足りなくて見えないなら、貴方が他へ移るべきでしょう?俺達の方が先にここに居たんだし。それに、貴方の言い方は人にものを頼む言い方じゃない。俺はあんたの部下でも何でもないぜ?』(最後だけちょっと凄んじゃった)と教えてやったら、目を逸らしながら小声で何かブツブツ言って、逃げるように席を移って行った。


この事は、俺に1つの教訓を与えてくれた。


カップルの片方が馬鹿だと、その連れもそう見える。


中年女性の方も、あの男の連れというだけで、不思議と奴と同類に見えてしまう。


大切な相手と二人で居る時は、その言動に、普段以上に気をつけなければならない。


自分と共に居てくれる、掛け替えの無い相手を、貶めるような真似はできない。


この後、映画は全てレンタルで借りて、俺の家で見る事にした。


家のテレビは60インチ。


椅子だって、家のソファーの方が断然良い。


漫画で読んだデートの定番なので行ってみたが、俺には合わなかったようだ。


映画館を出て、気分直しに千〇屋に入り、江戸川さんにフルーツパフェをご馳走する。


ここのは何時食べても、フルーツ好きの俺を別世界へといざなってくれる。


直ぐに機嫌を直した俺は、パフェを食べて笑顔を連発する彼女をもっと見たくて、おかわりを注文するのだった。



 ピアノを習っているせいか、江戸川さんは歌が上手だ。


小学校の音楽の時間に初めて聞いて、『容姿と声は一致するんだなぁ』(良い意味だけね。逆は成り立たないよ)なんて、感動したのを覚えている。


因みに俺は、声優さんの顔を見たいとは思わない。


心の中で、美男美女だと勝手に思っている。


何時だったか、子供の頃、大好きだったアニメのヒロイン役の声優さんの顔を雑誌で見てしまい、以後そのヒロインを見る度にその人の顔が思い出されて、素直にそのアニメを楽しめなかった記憶がある。


これは別に、その声優さんの顔がどうこうだというのではなく、自分の中にあるそのヒロインのイメージとは異なるという、唯それだけである。


高校生の定番(?)デートのカラオケには、江戸川さんの美声を聴きに、極偶に行く。


俺は専ら聴いている方。


ほとんど彼女の独り舞台だ。


何故なら俺は、歌が苦手、所謂オ〇チである。


俺の歌を初めて聞いた彼女は大爆笑し、それから直ぐに謝って、『これも隅田君の個性だから、気にしないこと。何でもできる人より、私は少しくらい苦手な事のある人の方が好き』と、優しく抱き締めてくれた。


なので俺は、懲りもせず、ここに来たら1曲だけ歌う事にしている。


江戸川さんがその度に下を向いて、何かを耐えるように肩を震わせるのだが、歌ってる自分には、骨伝導がある分、相手にどう聞こえるのかは分らない。


何の歌を歌うのかって?


そりゃ決まっている。


『美しき〇たち』さ。


やっぱり、感情を入れ過ぎるのが良くないのかね。



 2年に進級し、文系理系でクラスが分かれるようになると、俺は医学部志望にも拘らず、江戸川さんと同じ、国立文系コースに進んだ。


当然、彼女と同じクラスになるためだ(何たって1クラスしかない)。


ダントツの学年トップで、全国模試でトップ10以内の常連である俺には、将来は医学部を受けると知っている教師達も、何も言わなかった(何故知っているかといえば、それは模試の志望学部に医学部と書いてあるから)。


クラスを決める時、彼女と少し話をした。


将来は何になりたいのかという俺の質問に対し、彼女は看護師を目指したいと答えた。


俺と共に、医療の現場に携わりたいと。


自身の病気の事は別として、できれば俺と同じ病院で、俺の働く姿を見ながら、自分も頑張っていきたいと。


成績は俺ほど良くはないが、できる事なら同じ大学にも通いたいと。


初めは国立トップの〇大理Ⅲに行こうと考えていた俺は、彼女の想いを聴いて、医者である父に相談する。


以下はその遣り取りである。


「父さん、相談があるんだけど・・」


「珍しいな。

いつもは母さんばかりなのに」


心なしか嬉しそうに答える父に、俺は要点だけを尋ねていく。


「医者になるのに大学のランクは大切かな?」


「・・それは一概には言えないな。

何科の医者になるのかにもよるし、研究をメインにするか現場重視かによっても違う。

その道の権威と呼ばれる教授に指導を仰ぎたいのなら、その大学に行くしかないが、そこが必ずしも偏差値が高いという意味での一流とは限らないし、偏差値は他より低くとも、革新的な研究に精力的に取り組んでいる大学もある。

お前は医者になって何をしたいんだ?」


「遺伝子治療を専門的にやりたい」


「それは・・・かなり最先端分野だな。

資金力がないと高額な機材が揃えられないし、大学の知名度と信用がないと、世界の医療関係者から情報を集めるのにも苦労するだろう。

それに、遺伝子治療には様々な知識がいる。

免疫学、再生医療、解剖学、バイオテクノロジー・・・挙げていけばきりがないな。

何でそれをやりたいんだ?」


「それはまだ言えないけど、俺にとっては生涯をかけて取り組みたい分野なんだ。

学生の内から、できる事は何でもする積り」


「・・そうか。

あとできるアドバイスは、医局の力を重視した方が良い、というくらいかな。

研修の派遣先やアルバイトの非常勤など、医局がものを言う場面は多い。

首都圏の病院なら、皇室との関係が強い東〇や、〇応、聖〇加あたりは個人的にはお勧めだな。

まあ、その大学の教授になるのでなければ、若い内は、色々な所で経験を積むのも良いと思うがな」


「私立の医学部だと、やっぱりお金はかかるよね?」


「頭で入ればそれ程でもない。

寄付金を積んで入れて貰う所は、3000万は必要らしいがね。

その点については、お前は心配する必要はない。

何処でも好きな所に行くと良い。

そのくらいのお金は、幾らでも出してやるさ」


「・・有難う。

俺、頑張って勉強するから。

きっと良い医者になって見せるから」


「楽しみにしてるよ」



 父の意見を参考に、俺なりによく考え、最終的には慶〇大学を目指す事にした。


あそこなら、看護学部もある。


江戸川さんにそう話をしたら、頑張ってみると言ってくれた。


彼女の成績ならまず大丈夫だろうし(俺ほどではなくても、彼女だって全国偏差値は65以上ある)、最悪、AO入試という手もある。


進路が決まった後は、デートを楽しみながら、これまで通り、勉強会も頑張っていった。



 高校二度目の夏、俺は思案に明け暮れていた。


プールは嫌だが、どうしても江戸川さんの水着姿が見てみたい(紺色のスクール水着じゃないやつね)。


シティホテルのプール(レジャーランドのプールは元々念頭にない)で、自分は泳がず彼女の泳ぐ様を眺めているか、海に行って、一緒に戯れるか。


海だって、何処でも良いという訳ではない。


湘南のような海水浴客でごった返す場所は、プールと似たようなものか、それ以上だ。


奇麗な海を求めるなら、都心から離れ、遠方まで足を運ぶ必要があるが、そうすると日帰りでは難しい。


お互いの親から公認を得ているとはいえ、二人きりでの外泊という状況下では、俺の理性が戒めを破ってしまいそうだ。


その点、ホテルのプールなら、泊まらなくても使える所もあるが、部屋も借りずにプールだけ使うというのも慌ただしくて落ち着かない。


頭を悩ませていた俺は、気分転換に入ったコンビニで、とある雑誌を目にし、閃いた。


別に水辺に拘る必要ないじゃないか。


そうだよ、家で水着を着て貰えば良い。


喜び勇んで家に帰り、早速江戸川さんに、水着をプレゼントするから、家で着て見せてくれないかとメールをする。


正直、断られるかもと心配したが、返事は直ぐに来て、そこにはこう書かれていた。


『それくらい、何時でも良いよ。隅田君には、私の全てを預けられるから。でも、1つだけ条件があります。隅田君も水着になってね(隅田君の水着姿、かなりレアだよね。フフフ)』


次のデートまでに水着を買っておいて貰う約束をした俺は、翌日から筋トレのメニューを倍にして、その日に備える。


そして待ちに待った当日、予めお金を渡して選んで貰っていた水着に(一緒に選んでも良かったが、それでは初見での感動が減るから)、俺の家で着替えて貰う。


水着の試着の際には、紙の下着をくれる所もあるが、気分良く着用したいため、事前に一度洗濯をしてあるそうだ。


平日の昼間なので自分達以外は誰も居らず(夏休み)、気ままに家の中を水着で歩き回れる。


初めて見た彼女の水着姿(ビキニ)。


中学の頃より胸が多少大きくなり、やはりという感じで、上品な色合いの、オレンジ色の薄布が、彼女の身を彩っている。


因みに俺のは普通のトランクスタイプ。


競泳でもないのに、ブーメランを穿く程のナルシストではない。


江戸川さんは、男子の筋肉が珍しいのか、繊細な指で、俺の腹筋が割れている所を頻りに撫でていた(色即是空、色即是空)。


誰にも見せない事を条件に(当然だ)、彼女の水着姿の画像を、スマホに保存する事を許して貰う。


俺、これ1枚で何でも耐えられそう。


以後の勉強や訓練に、更に身が入ったのは言うまでもない。



 秋の文化祭シーズン。


今一つ盛り上がりに欠ける自分達の学校をスルーして、彼女と二人で様々な学校にお邪魔する。


招待券が無いと入れない所もあるが、大学を含め、活気に満ちた構内を散策し、イベントや発表を見て回る。


高校では吹奏楽の音色に耳を傾け、ダンス等の実演に喝采し、大学では声楽の歌声に聞き惚れ、茶道のお茶会等に参加させて貰う。


二人共基本的には制服で行くので、時々その学校の生徒に声をかけられ、色々な話を聴かせて貰えたりする。


吹奏楽部の有名な学校では、演奏後拍手を惜しまなかった俺達に、部員の女生徒達が裏話を教えてくれ、毎日何時間も(土、日も!)練習しているせいで彼氏もできないと、意味ありげな視線で微笑まれた。


意外にも、プロを目指している人は少なく、なら何故そこまで頑張れるのかとのこちらの問いに、躊躇いもなく一言、『楽しいから!』と返された。


江戸川さん程ではないが(個人的に)、何かに懸命に打ち込んでいる人特有の、内面の美しさを感じる、素敵な笑顔だった。



 降り積もる雪の日。


陸の王者を自称する俺に、水泳以外にも苦手なものがある事が発覚した。


スキーである。


子供の頃に少しやった事があるという江戸川さんに誘われて、彼女の母親と一緒に、冬休みにスキー旅行に行った。


今回は泊りがけで行くため、母に相談したら、あちらのお母さんが引率して下さるのならこちらはと、自分達が学生時代に利用したホテルを2部屋手配してくれた(勿論俺は一人部屋ですよ)。


料金は、交通費を含め、全額払ってくれるらしい。


その旨美保さんに伝えたら、『とんでもない』とまた家の母に電話をかけたみたいだが、相変わらずの母から、『お陰で自分達は家でのんびり休めるし、美久さんとお付き合いするようになって、家の息子も年相応に笑うようになってきたんですよ。親として、本当に感謝しているんです』と伝えられ、それはお互い様なのにと思いつつも、ご厚意を無下に断るのも失礼だしと、受け入れてくれたらしい。


母曰く、自分達が行った頃は、『彼女を○キーに連れてって』とかいう映画の余韻がまだ残っていて、ゲレンデもロッジもさながらファッションショーのようだったという事だが、行ってみると、然程混んでもおらず、自国の人間より、寧ろ外国からのお客で賑わっていた。


何人かの人に、どちらからと尋ねてみたら、豪州や北アメリカのかたが多かった。


ここの雪質が非常に良いらしい。


江戸川さんに教わりながら、スキーをやろうとしたが、歩く事も、止まる事さえままならない。


ハの字にしてとか言われても、勝手に板が逆を向く。


その時、諦めかけた俺の目に、颯爽と滑っていく子供の姿が映った。


奴が使っていた物、・・それはそりだった。


そうだよ、滑るだけなら、乗り物は何でも良いじゃないか。


雪の上で、海の真似事をしている人もいるんだし。


別にオリンピックに出る訳ではないのだ。


不敵に笑った俺は、早々に橇をレンタルしに行き、以後は江戸川さんと滑走を存分に楽しんだ。


子供達からの、『ママー、あのお兄ちゃん大人なのに橇に乗ってるよ』という純朴なお言葉は聞かなかった事にしておく。


美保さんは、スキーよりもホテル備え付けの温泉施設に心奪われたみたいで、一度も滑らなかった。


仕事が大変でお疲れなのか、俺達に気を遣ってくれたのか、多分、その両方だろう。


因みに、スケートの方は、子供の頃に一度やって直ぐ止めた。


俺が転んで手をついたその直ぐ近くを、考えなしの大人が猛スピードで通り過ぎて行き、もう少しで俺の指がちょん切れて、堅気の職業に就けなくなる所だったからだ。


その人もその人だが、小さな子供や初心者と、大人などの上級者が同じリンクで一緒に滑るのは、かなり無理があるような気がする。


人口密度が低い場所なら良いんだけどね。



 3年になった。


進学校だけあって、一気に受験ムードが高まっていく。


中学でのあの出来事以来、江戸川さん以外とも普通に接するようになった俺の席には、休み時間に、参考書の相談や、問題の解き方を尋ねに来るクラスメイトが増えてきた。


やはり全国模試での成績がものを言うらしい。


俺としては、模試は小遣い稼ぎにもなるため(全国50位以内くらいに入ると、なんと主催側が5000円くれる所もあるのだ)、デートの邪魔にならない程度に受けてはいるが、その視線はもっと先を見据えているため、高校の授業には最早あまり関心がない。


家での学習も、半分近くは医療系の論文を読み込んでいる。


それと、父が『医者は手先が器用な方が良いぞ』と言うので、最近刺繡も始めた。


確かに、血管や傷口を縫い合わせる際などにも、細かく奇麗な方がより良いだろう(最近はホチキスみたいなものもあるようだが)。


服のボタン付けや、ズボンの裾上げなど、役立つ場面が多いので、勉強の息抜き程度にやっていたら、結構はまってしまった。


最終目標はエンブロイダリーレース。


江戸川さんが着るウエディングドレスのベールを縫いたい。


俺以外の、どんな存在からも(仮令病魔であろうとも)、彼女の身を守るのだ。



 ゴールデンウイークは、江戸川さんと北海道にサイクリングに行った。


この頃には、二人きりで旅行しようと、親達は何も言わなかった。


仕事で疲れて帰ってくる彼らに代わって家事をこなし、勉強で好成績を上げ、節度を持って付き合っている自分達に対する、親達の信頼の証なのだろう。


『天に続く道』とかいう、何処までも続く長い直線を、二人乗り自転車でゆっくり漕いでいく。


彼女が前で俺が後ろ。


穏やかな日差しを浴び、時折風に揺れる彼女の髪を眺めつつ(リズミカルに揺れるお尻はチョットだけ)、新鮮な空気を肺に送り込む。


彼女のシャンプーの香りがほんのりと香ってきて、俺の意識を過去へといざなう。


運動会での二人三脚、クーラーのない教室での勉強会、家で水着を着ながら並んで聴いた音楽。


もっともっと彼女といたい。


同じ時を過ごしていきたい。


それだけで良い。


ただ、ただそれだけで・・・。


「ねえ聴いてる?」


「え?」


「だから、風が気持ち良いねって。

さっきからペダルが重い気がするんだけど、ちゃんと漕いでますか?

私のお尻ばっかり見てちゃ駄目だよ?

フフフ」


「済まない。

これからはキツネでも探す事にする」


「え?

キツネが居るの?

見たい、見たい!」


「キツネさんは、少年の心を持った人にしか見えないんだ」


「何それ」


「マッサージの時に、わざとらしくアンアン声を出す人には見えないのさ」


ホテルに着いてから、長旅で疲れたというので、少し肩と足を揉んであげたら、変な声を出された。


彼女曰く、お約束なんだと。


「だって恥ずかしかったんだもん」


「恥ずかしい?

服の上からなのに?」


「好きな人に身体を触れられると、他の人とは違うの。

部屋に帰ったら、今度は私がしてあげる」


ホテルに戻り、シャワーを浴びた彼女に、ベットの上でマッサージして貰う。

うつ伏せの状態で、優しい指使いを受ける内に、不覚にも、何時しか眠りに落ちてしまった。


「・・寝ちゃったの?」


彼の顔を覗き込む。


幸せそうに、穏やかな寝息を立てている。


「いつも私の為に頑張ってくれてるもんね。

・・有難とね。

大好き」


彼の頬に軽くキスをして、暖房を少し強くし、部屋の明かりを消してから、私も隣のベットに潜り込んだ。



 夏休み、俺達は沖縄の海に居た。


何れは俺とスキューバダイビングをしてみたいという、彼女の願いを叶えてやりたい一心で、俺は泳ぎの練習を兼ねて、彼女をここに連れてきた。


事前に本と映像で脳内トレーニングを積んできたが、実際に泳いでみると、中々美しいクロールにならない。


彼女に手本を見せて貰ったり、俺の動きを修正して貰いながら、何とか1日でまともな形になってきた。


江戸川さんは、去年と違うライトグリーンの上品なビキニスタイル。


海水に濡れて、髪から水を滴らせる彼女の姿は、夏の日差しを浴びて輝いている。


ホテルの部屋で、背中にサンオイルを塗り合った時の感触が思い出されて、自然と目を細める。


「ああっ、何にやけてるの?

どうせエッチな事でも考えていたんでしょう?」


彼女が嬉しそうに突っ込んでくる。


「違うよ。

何時見ても、どんな時でも君は綺麗だ。

・・そう思っていたんだ」


「・・最近口が上手くなり過ぎてない?

私じゃなかったら、きっとイチコロだよ?」


「江戸川さんでなきゃ、意味がない」


「私はとっくに落ちてるもんね」


照れ隠しなのか、一人で海に入って行く。


のぼせた頭を冷やすべく、俺も後に続くのであった。



 秋になり、江戸川さんのAO入試が始まる。


本試験の前に、折角だから受けてみたらと勧め、成績水準はクリアしていたので、出願したらしい。


1次の書類審査を通り、2次試験の面接へ。


当日は、試験会場の側の喫茶店で待機して、彼女の合格を祈っていた。



 「12番の方、お入り下さい」


「はい」


事前に練習した通りの手順で、試験室の椅子に腰を下ろす。


緊張したが、試験官の方々が皆で優しい視線を投げかけて下さったお陰で、どうにか落ち着きを取り戻す。


幾つかのご質問の後、恐らく本命と思われる事を尋ねられる。


「貴女は何故、看護の道に進みたいのですか?

本学を選ばれた理由は何でしょう?」


「・・以前、新聞で、病に苦しみながら、希望を捨てずに生きる子供達の記事を読みました。

10歳に満たない子が、誰かの厚意で笑って逝き、10代の少年達が、度重なる再発や足の切断に苦しみながらも、同じ病室の仲間と励まし合い、支え合って、乗り切ろうとしていました。

・・彼らにとって、その希望となるのは何も特別な事じゃない。

日常の、私達にとっては極当たり前の、ほんの些細な事でした。

院内学級、病室仲間とのゲーム、病院で知り合った同朋からのメール。

病院という、限られた世界でなければ、誰もが普通に与えられる事ばかり。

そしてそんな彼らの傍らに、極自然に寄り添う人達。

大袈裟な事は何もしない。

日々の日常を当たり前に過ごせる大切さを、静かに教えているようでした。

・・私の父は、事故で亡くなりました。

でもその父は、重い病を抱えていました。

家族の誰にも知らせず、たった一人で苦しみ、悩んでいた事を、後にその日記で知りました。

私の父の思い出には、儚く笑うその笑顔しかありません。

心から笑っていると思われる笑顔がありません。

不安や苦しみ、痛みを、その笑顔の下に隠して、無理していたように思うんです。

今の医学は進歩が激しく、治せない病気の数は減ってきましたが、患者の感じる恐怖を、不安を、医学だけでは解決できないと思うんです。

私は、医師の方々の手が回らない事を、少しでもお手伝いしたい。

患者さんと普通に接して、共に笑って、泣いて、そして送り出したい。

・・私には、この大学の医学部を目指す、恋人がいます。

彼は今はまだ治せない病気の治療法を見つけようと、既に様々な論文に目を通し、独学を始めています。

小学校時代から、もう何年ものお付き合いになりますが、日に日に逞しく、頼もしく成長していく彼の下で、私もその力となって、患者さんやそのご家族を支えてゆけたらと思います。

彼が助けていくであろう、多くの患者さんが、元気を取り戻した後に、更に誰かの支えとなっていく。

そんな素敵な社会を見てみたい。

これが、私が看護の道を選び、この大学を志望する理由になります」


「・・有難うございます。

とても良いお話をお聴きする事ができました。

退室なさって結構です」


「はい。

有難うございました」



 彼女を見送り、試験官である私は、その書類に再度目を通す。


「本学は、今年も良い学生に恵まれそうですな」


他の試験官の方からも、同様の言葉が漏れる。


医は仁術。


病院の経営という意味では、ある程度の算術も必要だが、本当に要求されるべきはこちらの方だ。


本学にも、まだ改善されねばならない点は残っている。


貴女にも、期待しますよ?


私は書類の『合』の欄に、躊躇いなく丸を付けた。



 「お疲れさん。

どうだった?」


待ち合わせの喫茶店に入るなり、そう彼から尋ねられる。


「う~ん、どうだろう?

とりあえず、伝えたい事は言えたかな」


「きっと受かってるよ。

今度は俺の番だ」


面接の場でも思わず惚気のろけてしまったが、隅田君は本当に素敵な顔をするようになった。


これは恋人としての贔屓目では決してない。


あの日、彼を叩いて少し後悔しながらも、大きな期待を持って、彼を見続けてきた。


その期待はやがて確信となって、私をわくわくさせてくれている。


この人の側に居たい。


いつまでもずっと見続けていきたい。


初めて会った時とは大違いのこの気持ち。


人って本当に素晴らしい。


数日後、私は合格通知を受け取り、大喜びした彼とロマンティックなクリスマスを過ごした翌年、彼も無事医学部に合格する。


そして彼と出会って七度目の春、私達は大学へと進学したのだった。

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