番外編 世の理を超えたその先に 序章その2

  (中学生時代)


「この学校でも、同じクラスになれて良かったね」


クラス分けの掲示板を眺めながら、江戸川さんが少しほっとしたように言う。


この中学校は、教師達の手間を省きたいのか、3年間クラス替えがないので、卒業まで、ずっと一緒に居られる。


逆に言えば、クラスでいじめが発生しても、3年間、逃げる事ができない。


「・・ああ。

3年分の運を使い果たした気がする」


「相変わらず大袈裟だね。

確率的には6分の1くらいでしょ?」


脱力して、気が抜けたような声を出した俺を見て、クスクス笑いながら彼女が言う。


『俺にとっては、それだけ価値があるという事さ』


「・・あのさ、今日、始業式が終わった後、ちょっと時間あるかな?

少しお話があるんだけど・・」


彼女にしては珍しく、緊張した様子でそう告げてくる。


「勿論、時間は有るよ。

今日は授業がないから、お昼前には帰れるだろうし」


『仮令無くても、無理やり作るけどね』


「良かった。

じゃあさ、今日、途中まで一緒に帰らない?

あ、もしかして、御両親と帰る事になってるのかな?」


「滅相もない!!

是非お願いします」


初めての帰宅のお誘いに、またいつもの大声が出る。


意外かもしれないが、これまでは校門を出た辺りでさよならしていたのだ(というか、されていた)。


「もう慣れたけど、いきなり大きな声を出すと、周りの人が驚くし、私も少し恥ずかしいよ」


苦笑いした彼女が、ちらちらと周りを気にしながら、小声でそう言ってくる。


考えてみたら、ここは人が集まる掲示板の前だった。


「御免。

歩きながら話そう」


自分達に割与えられた教室へと向かいながら、彼女に確認する。


「じゃあ、式の後のホームルームが終わったら、教室に残っていれば良い?」


「うん。

少し人の波が落ち着いてから、一緒に出ようよ」


「了解」


最早俺の頭には始業式の事などなく、ただひたすら、帰りの時間が待ち遠しかった。



 「ちょっと寄り道しても良い?」


彼女と一緒に校門を出て、お互いの家がある方向へとりあえず歩くと、それまで静かだった彼女が告げてくる。


「良いけど、何処へ行くんだ?」


「知ってるかな?

この先に大きな歩道橋があるの。

結構人が通るけど、かなり幅が広くて、その上出入口が8つもあるから、二人で車を眺めながら端でお話をしてても、全然他の人の邪魔にはならないから」


「ああ、あの桜が奇麗な場所だろ?

時々通るけど、夜は夜桜を見るカップルが多いよな」


大きな道路が交差する歩道橋の上からは、道の両端に植えられた数本の桜の木が、ちょうど見頃になっている。


「うん。

桜も奇麗だよね」


それきりまた黙ったままで、暫く歩いて、やっとその場所に到着する。


歩道橋の階段を上って、小さな公園くらいはある広い場所の中央付近で、二人で端に寄って道路に目を遣る。


そこでやっと、彼女は徐に話を始めた。


「・・隅田君は、まだ私と友達になりたいと思ってくれているかな?

単にメールのやり取りや挨拶程度の浅い付き合いではなく、お互いに悩みや苦しみを打ち明けて、助け合っていけるような、そんな友達に・・」


彼女は視線を前方に固定させたまま、こちらを見ないでそう言ってくる。


いつもの彼女とは異なる、やや愁いを帯びた、穏やかな声で。


「当たり前だ。

俺は江戸川さんに初めて会った時から、ずっとそうなりたいと思っていた」


自分も彼女の方は見ず、意味もなく、通り過ぎていく車の列に目を遣りながら、そう答える。


「・・私にどんな秘密があっても?」


手すりの上に置いた両腕を交差させ、その上に顎をのせた彼女が、再度尋ねてくる。


「秘密?

もしかして君が男の子・・」


「ここから突き落とすよ?」


怒気を含んだ、本気とも取れる声色で、そう釘を刺された。


どうやらここは、冗談やおふざけが許されない場面のようだ。


少しでも対応を間違えば、彼女が俺から離れていってしまう可能性がある。


「正直、その秘密とやらがどんなものか分らない以上、それを知った時の自分の反応に確信は持てない。

怒るかもしれないし、馬鹿にはしなくても、笑い飛ばすかもしれない。

でもな、たった1つだけ、約束できる事がある。

俺は、仮令君が何をしていても、自分に何をされても、君が俺を必要としてくれるなら、きっといつまでも君の側にいる。

俺の大好きな笑顔で笑ってくれるのなら、どんな事にも耐えられる自信がある。

お金が必要なら懸命に働くし、身体が弱いのなら俺がその分強くなって君を支える。

俺達はまだ出会ってから1年しか経っていない。

俺にはまだまだ沢山の、君と共にしていきたい事、見てみたい君の表情があるんだ。

・・だから君と、他ならぬ江戸川さんと、俺は真の友達になりたい」


可憐に咲いている桜だって、その美しさを全開にできるのは、1年の内でほんの僅かでしかない。


だがそれだからこそ、人はその美しさに酔いしれ、その儚さに、自身を重ね合わせて何かを感じるのかもしれない。


今はまだ、ほんの少しで良い。


時々あの笑顔を見られるだけで良い。


でもきっと何時か、その信頼を勝ち取ってみせる。


俺にだけ見せてくれる、特別な笑顔を手に入れるまで。


「・・そんな事言っちゃって良いの?

この約束にクーリングオフは効かないよ?」


「江戸川さんこそ、一度俺を真の友達に認定したら、もう取り消せないからな?」


「・・何となく分ってたんだ。

隅田君は絶対に私を見捨てたりしないって。

必ず私と向き合ってくれるって。

でもね、やっぱり少しだけ怖かったから、今日まで言い出せなかったの。

随分待たせて御免ね。

気を揉ませて御免ね。

私と友達になって下さい。

本物の親友になって下さい。

いつまでも、ずっと側に居て欲しい。

『この命が、続く限りね』」


俺の心のアルバムに、また1つ、貴重な映像が記録される。


彼女に多少恥ずかしい思いをさせてでも、叫びたい衝動を抑えられなかった。


「おっしゃーっ!!」


案の定、歩道橋を歩く人達が、何事かと俺達を見る。


でも多分、走っている車に向かって叫んでいる、変な奴にしか見えないだろう。


そしてやっぱり江戸川さんも、俺から何時の間にか少し距離を取って、他人の振りをしていた。


瞳に溜まった嬉し涙までは、隠せてなかったみたいだけどな。



 「ねえねえ、隅田君てさ、スマホ持ってる?」


あの後、誓いの指切りをして別れた翌日、江戸川さんが聴いてくる。


彼女が抱える秘密とやらは、まだ聞かされていない。


聴けば教えてくれるかもしれないが、彼女が俺に話してくれるのを待つ事に決めた。


今は昼休みで、二人きりで空き教室に忍び込んで昼食を食べている。


この学校では、給食はない。


以前はあったらしいが、業者の衛生管理が不十分で、色々と問題が起こり、打ち切られている。


勿論、俺にとってはその方が断然良い。


個人的には決して美味しいとは言えない、嫌いなものを避けられない給食より、自分で好きな物を買って食べたほうがずっと有意義だ。


何で教室で食べないかというと、不幸にも、同じクラスなのに席が離れてしまったせいだ。


江戸川さんは可愛いから、放っておくと、直ぐに他の男子に目をつけられる。


昼休みは学校において貴重な時間だから、この時間は親友としての権利を主張したい。


「いや、持ってない。

自分だけ持ってても意味ないし」


意味ありげに、チラッと江戸川さんの顔を見る。


途端に彼女は笑みを浮かべて、こう付け加えてきた。


「昨日の夜、お母さんに大切なお友達ができたって報告したら、もう中学生だしスマホを買ってあげようかって、そう言って貰えたの。

私も今までは必要なかったけど、これからは誰かさんとの遣り取りが生じるだろうから、買って貰う事にしたんだ」


「買ったら直ぐに教えてくれ。

同じ会社の、同じ機種を買うから」


即座にそう切り返す俺。


「じゃあさ、お友達紹介とかいうの、使っても良い?

それで浮いた分のお金で、二人でスマホケースでも揃えようよ」


「もちろ・・」


声を大にして言おうとしたら、計ったように彼女に口を塞がれる。


「大声出しちゃダメ。

今はここに忍び込んでるんだから。

・・いい加減、その癖直してね」


別に癖ではないのだが(他の人とは普通に話すし)、唇に触れる、彼女の掌の柔らかさに、何も言えないでいた。



 お互いにスマホを買ってからは、早速L〇NEをダウンロードして、二人きりのメールを始めた。


学校に持って行ったりしないので、使うのは専ら家に帰ってからだ。


学校では顔を合わせるのだから、自分の言葉で会話すれば良い。


彼女の表情や心地良い声色は、メールやチャットでは得られない。


小学生の時にしていた勉強会は、中学でも少し形を変えて存続している。


勉強場所は同じ教室。


でも、回数が1回増えて3回になり(水曜も)、勉強だけでなく、時には音楽室のピアノを借りて、覚えたての曲を演奏して貰ったり、図書館でお気に入りの本を探したり、天候の穏やかな日は、外で景色を楽しみ、そよ風を浴びてお喋りなんかをした。


相変わらず、勉強会の度に、彼女に何か作って持って行くので、『お母さんが甘い物を買ってこなくなっちゃった』って、お礼と苦笑を交えて言われた。


だがその後に、『だけど私は、隅田君のお菓子の味が大好きだから、問題ないけどね』と、笑顔と共に言ってくれるので、俺の創作意欲は衰えを知らない。


「なあ、お昼はいつもコンビニか何処かのパンや総菜みたいだけど、お母さんは忙しいのか?」


ある時、ちょっと気になっていた事を聴いてみた。


父親が既にいない事は、小学生の段階で耳にしている。


「え?

・・う~ん、フルタイムで働いているから、確かに忙しいけど、そこまでじゃないかな?

でもお母さん、朝が少し弱いから、なるべく寝かせてやりたいし」


「江戸川さんは、料理しないの?」


「私?

私は、・・以前ちょっとやってみたんだけど、どうやらあまり才能が無いみたいで・・。

あ、でも、他のお手伝いはちゃんとやってるよ。

全部がお母さん任せじゃないから」


「じゃあさ、週に3回くらいは、俺が作ってきても良いか?

毎日パンとかじゃ、味気ないだろ?」


「え?

そんな事まで隅田君に頼めないよ。

そりゃ、隅田君は料理上手だから、そうしてくれたら嬉しいけどさ、隅田君だってやる事沢山あるでしょ?

今だって、毎回お菓子貰ってるのに・・」


江戸川さんが、驚きと申し訳なさそうな表情を織り交ぜて、そう言ってくる。


「どうせ自分の分を作るなら、1つでも2つでも同じさ。

それに、俺にとっては、江戸川さんの為に使う時間は決して無駄なものじゃない。

寧ろ喜びさ。

俺達は親友、それも、口先だけじゃない、本物の親友だろ?

なら、俺ができる事なら、喜んで協力するよ。

江戸川さんの胃袋を摑んで、今後も昼休みを独占したいからな」


「・・私、して貰ってばかりで、ほとんど何も返せてない。

でもそれでは、対等な関係とは言えないよね?

そんなんじゃ、やがては隅田君に愛想を尽かされて、見捨てられないかな?

私、それだけは絶対に嫌だから、これ以上隅田君に甘えるのはどうかと思うんだ」


江戸川さんは、下を向いて、小さな声でそう告げてくる。


「対等な関係じゃなきゃ、駄目なのか?

そんなのは、法律の中だけで十分だろ?

男女平等なんて言ったって、性別による違いがある以上、どうしようもない事だってあるだろ?

男には生理休暇なんてないし、今の所、子供を産めるのだって女子だけだ。

障碍者だって、普通の人と同じ生活を受ける権利は有っても、その多くは、他者からの援助を前提とする。

だけどな、彼らを手助けしてる人達だって、それが仕事や義務だからってばかりじゃないはずだ。

その中には、その人の事が好きで、自分の考えや仕事に誇りを持って、あるいは何かの恩返しのために、そうしてる人だって必ずいる。

皆が皆、利益や得のために、そうしている訳じゃない。

まあ、最近は、して貰って当然だとか、それが自分の権利だとかばかり考えて、陰で支えてくれる人達を蔑ろにする奴も、偶に見かけるけどな。

・・俺は、江戸川さんと一緒に居たいから、何かをしてあげたいと思うから、共に居るんだ。

それを負担になんか思わないし、自分がそうして欲しい時は、遠慮なく君に助けを求めたい。

例えるなら、俺は江戸川さんという燃料が必要な車さ。

君が居ないと、前に走れないし、走る気にもならない。

毎日だと食べ飽きるだろうから、2日に1回で良い。

俺に弁当を作らせてくれないか?」


「・・それで良いの?

隅田君てさ、私の何処に、そんなに価値を置いてくれるのかな?

親友だって言いながらも、まだ隠し事だってしてるし、胸だってそんなに大きくないから、服の上から見て楽しむ事もできないよ?」


「ちょっと、まるで人がいつもそうしてるみたいに言わないでくれるかな?

前にも言ったろ?

俺は江戸川さんの笑顔が大好きなんだよ」


「・・有難う。

隅田君に沢山の笑顔を見せられるように、私も色々頑張るね。

お弁当の件、お願いしても良いかな?」


「良いとも!」


大声を上げそうになったが、辛うじてセーフ。


「後で弁当箱を渡してくれ」


「え?」


「俺と同じサイズの物で良いなら、別に必要ないけどな。

結構量あるぞ?」


「ああ!

そうだね。

太っちゃうもんね。

大きくなるのは、胸ばかりじゃないもんね」


笑顔を取り戻した彼女が、冗談めかしてそう言ってくる。


「だから大きな胸だけが好きな訳じゃないって(多分)」


こうして、俺はまた一つ、有意義な時間を手に入れた。


毎週の献立表を作るのが楽しみだぜ。


因みに、彼女から弁当箱を求められたその母親から、後日、うちの母に電話がかかってきた。


お互いの住所と電話番号は、スマホのお友達なんちゃらで必要かもしれないと、あの時交換してある。


俺がいつもお菓子を作っていたのを、てっきり女の子の友達だと思っていたらしく(大切な友達とやらの報告の際も、性別や名前までは告げなかったらしい)、酷く驚いて、しかも今度は弁当まで用意してくれるというので、大変恐縮して、親御さんはご存知なのかと連絡を入れてきたらしい。


『お菓子だけでも材料にかなりお金がかかるし、その上お弁当もとなると、毎月の費用が馬鹿にならないから、せめて実費だけでもお支払いします』との、彼女の母親からの申し訳なさそうな申し出に、うちの母は、『息子が喜んでやっている事だし、家庭での恩恵もあるから、気にしないで下さい』と、笑って答えていた。


そしてこれを機に、俺達の友達付き合いは、お互いの家公認になり、彼女の母親から、『何時でも遊びに来て下さい』との嬉しい伝言まで賜った。


そんな、何もかも順調だった俺達に、1つの事件が起きる。


それは2年生になって、間も無くの事であった。



 「ん?」


その朝、いつものように下駄箱を開けて上履きを取ろうとした俺の視界に、靴の上に置かれた、1通の手紙が飛び込んでくる。


薄いピンク色の、可愛い小さな封筒の表に、丁寧な字で、俺の名前が書いてある。


裏返しにして、差出人を確かめると、そこには何も書かれていなかった。


もしかして、これが噂に聞くラブレターかと、一瞬戸惑いかけたが、直ぐにそんな訳はないと考え直す。


他の奴らみたいに、部活に入って活躍している訳でもないし、必要以上にお洒落に気を配っている訳でもない(身だしなみとは別)。


第一、俺は江戸川さん一筋なのだ。


いつまでも突っ立っていると他の人の邪魔になるので、とりあえず手紙を鞄に終って歩き出す。


授業前に目を通しておこうと封を切ったが、生憎先生が直ぐにやって来たので、そのまま机の中に突っ込み、そしてその事を、あろう事か翌日の夕方まで忘れていた(その日は勉強会のない日だったので、さっさと帰宅した)。


次の日、始業ぎりぎりに教室に入ってきた俺に、皆の視線が集中する。


理由が分らず、それを無視して自分の席まで辿り着いた俺の下に、わざわざ椅子から立ち上がった江戸川さんが静かに歩いて来て、俺だけに聞こえるような小声で告げてくる。


「今日はお昼は別に食べるね。

それから、放課後ちょっと話があるから」


まるで、抑えきれない怒りを耐えているかのような、物凄い威圧を伴った雰囲気で、そう言われる。


初めて目にする、彼女のこんな怒りに全く心当たりのない俺は、この時、浅はかにも、時間をかけて作った折角の弁当が無駄になるという考えしか思い浮かばなかった。


その日は1日中、嫌な視線に晒されっぱなしだった。


男共は時折ニヤニヤして俺を見たし、女子は女子で、何人か固まっては、こちらを見ながら小声で何かを話していた。


江戸川さんは、休み時間の度に何処かに出かけて、この状況の理由を聴く事もできなかったし、一緒には食べられなくても、今日の彼女は何も用意していないだろうからと、せめて弁当だけでも渡そうとしたが、彼女の視線と周囲の状況が、それさえも許さなかった。


そして到頭放課後になり、いい加減クラスの奴らの視線にムカついてきた俺は、一旦頭を冷やしに中庭に出て、教室に誰もいなくなるくらいまで、ぼんやりと空を眺めていた。


頃合を見計らい、江戸川さんの話を聴くために教室に戻ると、彼女は既にそこに居て、自分の席で、何かを読んでいた。


「遅くなって御免。

話って、やっぱり今日の事だよな?

クラスの奴らが大分うざかったけど、江戸川さんは、何か知ってるんだよな?」


彼女が未だに重たい雰囲気を醸し出しているので、努めて明るくそう口に出す。


「・・心当たりないの?」


読んでいた紙を伏せて、信じられないとでも言うように、その語尾が震えている。


「俺、何かしたかな?

江戸川さんをそんなに怒らせるような事、本当に心当たりがないんだ。

もし知らずに何かしでかしてたら、謝るから、教えてくれないか?」


明るく言ったのが逆効果だと悟った俺は、未だにこちらを振り向いてくれない彼女に、今度は神妙にそうお願いする。


「隅田君さ、昨日、誰かに何かを貰わなかった?」


声色は平淡だが、今にも何かが爆発しそうな感じがする。


「昨日?

・・朝、下駄箱に変な手紙が入ってた。

読もうと思ったら先生が来たから、封を切ったまま、机の中に入れてある」


釈明の途中、俺の『変な』という言葉の所で彼女の肩が震えたが、とりあえず最後まで聴いてくれる。


俺はその手紙を取りに自分の机に向かい、中を探したが、見当たらない。


確かにここに入れたはずなのに。


俺は教科書の類は全て持ち帰る質なので、机の中はいつもスカスカで、ひと目で分るはずなのだが。


「・・もしかして、まだ読んでないの?

何で読もうと思わなかったの!?」


江戸川さんが、驚き、呆れ、そして最後は怒ったように語気を強めてくる。


「え?

いや、差出人が書いてなかったし、江戸川さんの字じゃなかったから、後で良いかなって。

・・正直に言うと、今まで忘れてたんだ」


ダン!!


彼女が力一杯自分の机を叩く。


流石にただ事ではないと気付いた俺は、未だにこちらを見ない彼女の側まで行き、詳しい説明を求める。


「一体何があったんだ?

俺が貰った手紙がどうかしたのか?」


彼女が無言で、手にしていた手紙を差し出してくる。


読めという事らしい。


俺は急いでそれに目を通す。


その手紙は、思いもよらない言葉で溢れていた。


入学した時から、何となく気になって、それからずっと俺を見ていた事。


何度も声をかけようとしたが、いつも同じ女生徒と一緒にいて、楽しそうに笑っていたので、それができなかった事。


親の仕事で転校が決まり、この学校に来る最後の日に、せめて一言だけでもお話がしたかった事。


そして文面の末尾に、名前と、昨日の日付で、放課後に、ある場所で待っているという事が記されていた。


何だこれ、これじゃまるでラブレターじゃないか。


この俺に?


呆然としている俺の顔に、やっと視線を向けた江戸川さんが、淡々と告げてくる。


「その手紙、今日の朝皆が教室に来た時には、むき出しのまま、あなたの机の上に置いてあったって。

私が教室に来た時にも、何人かの男子がそれを読んでた」


その事実に再度打ちのめされる。


大方、掃除の時にでも零れ落ちたのだろう。


問題は、封が切れていたとはいえ、封筒の中に納まっていた人の手紙を勝手に読んだ奴らだが、心当たりが多過ぎる上(学年でも最上位を争う可愛さの江戸川さんと常に一緒に居る俺には、男子からのやっかみがかなりある)、今更それを暴き立てても、私的報復を法律が禁じている以上、せいぜい教師に叱って貰うくらいしかできない。


そんな事を考えていた俺に、江戸川さんが追い討ちをかけてくる。


「私ね、今日の休み時間を全部使って、事情を知ってそうなクラスの女子やその友達に聴いて回ったの。

その中に、詳しく教えてくれた子がいて、・・うちの馬鹿な男子達が、わざわざ貴方を待っていた手紙の主を覗きに行ったみたいなのね。

しかもそれが相手にバレて、彼女、泣きながら帰ったって・・・。

少し気が弱かったらしいけど、男子には結構人気があった娘みたいで、変に注目を集めちゃったのね」


ちょっと待ってくれ。


それではまるで、俺がばらしたみたいじゃないか。


この時、かなり動揺していた俺は、つい思ってもいない言葉を発してしまう。


「・・どうせ断るから結果は同じだし、手間が省け・・」


バチーン。


左の頬を、凄い痛みと衝撃が襲う。


彼女に叩かれたと理解するまで、数秒の時間を要した。


「本気で言ってる訳じゃないんだよね?

隅田君の事だもん、そう信じてる。

でも御免ね。

つい手が出ちゃった」


江戸川さんに叩かれたという事実を脳が認識し、酷く落胆した俺に、彼女が告げてくる。


「叩いた事は本当に御免なさい。

私の八つ当たりも入ってたから、二重の意味で御免なさい。

隅田君と仲良くしてる事は、何も恥じる事ではないけれど、そのせいで誰かを苦しめてたと思うと、少しだけ、ほんのちょっとだけ、気になっちゃったんだ。

・・でもこれは、慣れなきゃいけない事だから。

これからも隅田君と仲良くしていく以上、避けて通れない事だから。

私だって、他の誰かの為に、貴方と仲良くできないのは絶対に嫌だしね。

それでね、ちょうど良い機会だから、貴方に聴いて欲しいの」


彼女がじっと俺の目を見ながら、丁寧に言葉を紡いでくる。


「隅田君てさ、何時でも私の事ばかりだよね?

どんな時でも、どんな事でも、真っ先に私の事を考えて、優先してくれるよね?

その事は本当に有難いし、嬉しいの。

貴方の事を、無条件で信じられるから。

・・でもね、こうも思うの。

その優しさを、ほんの少しでも他の人にも向けられないかなって。

・・隅田君とは、もう2年以上のお付き合いになるけど、貴方のお陰で、毎日がとっても楽しいの。

不安な事、寂しい事があっても、貴方が私に笑顔を向けてくれるだけで癒される。

元気な声で、命溢れるその腕で、私を嫌な事から引っ張り出してくれる。

おまけに料理まで上手なんだもん。

私、今本当に幸せなんだよ?

そんな隅田君を、正直に言っちゃうとね、独占したい気持ちは有るよ?

本当なら、その視線や優しさ、差し伸べてくれる手を独り占めしたい。

・・だけどさ、貴方は大きな人だから。

その気になれば、沢山の人に、優しさや強さを分けてあげられる人だと思うから。

勿論、誰彼構わずそうしろって言っている訳じゃないよ?

その手紙の彼女のように、貴方の良さを理解して、貴方の心の色に憧れて、貴方と触れ合いたいと感じる人を、私がいるからって、無闇に遠ざけないで欲しいの。

私達はまだ子供、ううん、自分という樹木を育ててる、当番かな。

貴方という、大きくて逞しい大木を育てるためには、私一人の栄養じゃ足りない。

私の役目は何だろうね?

フフッ、貴方に元気を与える日光かな?

その他の、水や風や養分は、私以外の人からも取り入れないと、樹木が真っすぐ、どっしりと育たないよ。

そうして立派に育った枝葉のもとに、多くの人が、心や身体を癒しに訪れるなんて、凄く素敵じゃない?

・・見てみたいな。

そんな、逞しく成長した貴方を。

皆から頼られる貴方を。

そしたらね、私、自慢するの。

彼は私の親友なんだよって。

私を1番大事にしてくれるんだよって。

今はまだ大きな夢でしかないけど、でも、叶えられない夢じゃないよね?

考えてみてくれるかな?

努力してみてくれないかな?

こんな、私の、心からの願いを」


江戸川さんの、俺を見つめる優しい眼差しを浴びながら、俺は今言われた事を、自分の頭の中で整理する。


江戸川さんは、この俺に、彼女以外の人の心も大事にしろと言っている。


それは彼女を蔑ろにする事じゃない、寧ろ、そうする俺を素敵だと思うと。


誇らしく感じてくれると。


彼女を1番大切に思っていても、他の人にも善意の手を差し伸べる事は矛盾しない。


そうしても、彼女を裏切る事にはならないのだと。


・・だが、今の俺にそんな余力はあるだろうか?


日々の余分な時間のほとんどを、彼女の為に費やしているこの俺に。


風呂の湯船の中でさえ、その日の彼女をリフレインしている俺なのに。


でも確かに、今の俺の知識や経験は偏り、その思考は柔軟性を失いつつある。


今後も彼女を守り、支えていく積りの俺としては、もっと世間の常識を知り、身体を鍛え、知識と財力を蓄える必要がある。


どうする?


・・当面は、漫画を読む時間とゲームをする時間をなくし、それを肉体強化と知識の吸収に充てよう。


この2つは俺の人生において必須ではないし、何時でも再開できる。


最悪、歳をとって、暇ができた時に纏めてやっても良いくらいだ。


肉体強化に関しては、序でだから何か格闘技でもやるか。


それなら、物理的にも彼女を守れる。


知識の吸収。


これは勉強は当然として、新聞に目を通すくらいじゃ駄目だな。


う~ん、一旦保留しよう。


財力は・・今は無理か。


アルバイトする訳にもいかないし・・いや、株くらいなら小遣い程度で始められるかな。


有難い事に、親からは万単位の小遣いを貰っているし、漫画とゲームを買わなければほとんど使わないしな。


『努力してみてくれないか』


彼女は俺にそう言った。


彼女の心からの願いだとも。


そう言われた以上、その親友を自称する俺としては、頑張らざるを得ない。


今の地位に甘んじて、自分を高める事を怠れば、それこそ彼女を蔑ろにするのと同じなのだから。


「・・・分った。

努力してみる。

頑張ってみるよ」


俺の答えが出るのを、穏やかに待っててくれた彼女の顔が破顔する。


「有難う!」


次いで、何かに気付いたように、不安げに顔を顰める。


「御免なさい。

叩いた所、赤くなっちゃってる。

かなり痛いよね?

本当に御免なさい」


「良いよ。

江戸川さんの本気で怒った所も見れたし、俺に活を入れてくれたと思ってる」


「・・ちょっと右向いてくれる?

赤くなってる所、よく見せて」


言われてそうする俺の左頬を、ほんの一瞬、柔らかくて温かい感触が通り過ぎていく。


キスをされたと理解するのに、脳が暫くの時間を要求した。


「これは今できる最大のお詫び。

効果の程は、保証できないけどね。

さ、そろそろ帰ろう?」


呆然と突っ立ったままの俺に、鞄を手にした彼女が笑顔でそう告げてくる。


「あ、それから、漫画とかに出てくる、1週間顔を洗わないとかはなしだよ?

ちゃんと洗ってね?」


背を向けて教室を出て行こうとする彼女を見ながら、俺は思った。


人間、本当に驚いた時には、声って出ないものなんだな~。


こうして、彼女が望んだ事の遥か斜め上をいく彼の努力が、始まっていくのであった。



 「母さん、習い事しても良いかな?」


仕事から帰り、ビールと食事で一息ついた母親に、そう切り出してみる。


「ん?

珍しいね?

何かやりたい事ができたのかい?」


「ちょっと身体を鍛えたくて、・・ボクシングを習いたいんだ」


「・・良いけど、それはお前の左の頬が赤い事に、関係があるのかい?」


母の目が、鋭く細められていく。


「いや、これとは関係ないよ。

これからは、勉強だけじゃ駄目かなって。

色々やってみようと思うんだ」


「教師に殴られたとか、いじめを受けたとかじゃないんだね?」


何時になく真剣な目で、そう確認してくる。


「違うよ。

もしそうなら、俺も黙っちゃいないさ」


「・・分った。

行きたいジムとかあるのかい?」


「まだこれから。

とりあえず許可を得てからにしようと思って。

あとさ、株を始めたいから、ネット証券に口座を作る許可を出して欲しいんだ。

あくまで小遣いの範囲で、社会勉強を兼ねてやるから」


「う~ん、まあ、確かに数万円から始められるし、お前なら、大丈夫かな。

ちょっと法律面の手続きが面倒だけど、後でやっといてやるよ。

ただし、現物取引だけね」


「有難う。

忙しいのに御免。

これからも、頑張ってご飯作るから」


「そうかい?

じゃあ、明日はカレーが食べたい。

でもいきなりどうしたんだい?

何かあったんだろ?」


「うん、俺のちょっとしたミスが、人を深く傷つける事になっちゃって・・。

しかもそれを甘く考えてたから、江戸川さんに怒られたんだ。

彼女以外の、もっと周りの事も考えろって。

・・だからさ、俺なりによく考えて、将来人の力になれる人物を目指そうって。

知力、体力、財力、そして想像力。

4つのバランスが取れて、他人の事も視野に入れられる人間になりたいんだ。

随分時間がかかりそうだけどね」


親子関係はかなり良好だが、面と向かってこんな事を言うには、少し恥ずかしい年頃なので、視線を僅かに下に逸らして、そう告げる。


直後、頭に温かい掌の感触がする。


「頑張りな」


母はそう言うと、何かに満足したように、風呂に入りに向かうのであった。



 数日後、とあるボクシングジムの門を叩く彼の姿がある。


試合には出る積りはないと最初に伝えたが、今ではそういう人も多いようで、世界チャンプを出した名門なのに、すんなりと受け入れて貰えた。


株の手続きには、法律面を含めて2週間程度の時間を要したが、これも何とか始められた。


最初は小遣いを貯めた30万円からスタート。


いきなり売買を始めたりはせず、先ずは値動きの激しい低価格株のデータを集め、研究する。


ネット証券の口座と共に、銀行口座も作る必要があったため、ついでにキャッシュカードも手に入れられた。


新聞は家で取ってる2紙を読み、興味深い記事の内容に関してだけ、ネットで更に掘り下げる。


ボクシングを始めてから、雨の日以外は早朝に5㎞走り始めたので、時間は目紛しく過ぎていった。


ただ、江戸川さんに関する事と、母に約束した食事係には決して手を抜かない。


自分に関する洗濯物が増えたので、申し訳ないから洗濯も手伝う事にした。


洗濯の仕方さえ学べば、これは大した手間ではない。


料理の後片づけをしている内に、他の場所も気になり始め、その内こまめに家中を掃除するようにもなった。


クラスに蔓延していた嫌な雰囲気は、程無く自然に消滅した。


女子は江戸川さんのお陰もあって、俺が悪い訳ではないと理解したようで、男子の連中は幾ら冷やかしても俺が相手にしないので、その内諦めたようだ。


また、ボクシングと共に始めたランニングと筋トレは、数か月もすると、成長期で年に10㎝も伸びた俺の身体に、程良い筋肉を付けていき、サンドバックを叩く事で、握力も50近くになった頃には、何かを感じるのか、その後一切の嫌がらせもなくなった。


この中学に入って良かった事の1つに、プールが無い事が挙げられる。


都心から電車で30分も離れておらず、小学校よりずっと市街地に近いせいもあり、限られた土地しか確保できなかったこの学校は、ワンシーズンしか使わぬプールより、その分広い校庭を求めたようだ。


お陰で、炎天下の草むしりから解放された。


あれ以来、江戸川さんに怒られた事はない。


3年に進級した辺りから、少し顔つきが変わってきたと、親しい人達から言われるようになった。


特に江戸川さんと母は、時々嬉しそうに俺の顔を見る。


それに何の意味があるのかは分らない。


そしてどういう理由からか、3年になると、時々あの時のように、下駄箱の中に手紙が入っている事があった。


俺はそれを見る度、取り返しがつかない過去の過ちを思い出し、一人で落ち込むのだが、勿論きちんと内容を確かめて、その場に自ら足を運び、なるべく丁寧にお断りする。


相手がもし交際ではなく、親交を望むのであれば、問題ないと判断した相手なら、普通の友人として、付き合いもする。


この手の手紙がなくならないのは、江戸川さんが、人に俺との付き合いを尋ねられた時、親友だと答えるからで、それが事実である以上、俺にはどうする事もできない。


因みに江戸川さんは、俺の倍は持てるので、当然いつも一緒にいる俺に、二人の関係を聴いてくる新参者(主に下級生)もいるが、その時俺は『付き合ってます』と言いたいのを何とか耐えて、事実のみを伝えている。


彼女は貰った手紙や告白の返事をする時、放課後ではなくお昼休みを使う。


手紙に一方的に放課後と書いてある時は、その日は行かず、次の日の昼休みに改めて返事をしている。


以前理由を尋ねると、『念のため』という言葉が返ってきた。


俺なりに理由を考え、1つの結論に達した後は、こっそりその現場付近に待機しようとしたが、よく考えるとこれはどちらにも失礼なので、ある程度の時間が経っても戻らない時にだけ、様子を見に行く事にした(これは後に、スマホをポケットに忍ばせて行く事で解決する。自衛の意味もあり、お互い学校に持っていく事にした)。


俺達はどちらも、自分が貰ったラブレターの事を隠さない。


誰に貰い、何時何処に返事しに行くのか、事前に報告している。


それを手紙の相手に失礼だとは思わない。


当然に、お互いそこで知り得た事を他の誰にも言わないし、形式的な情報以外は教えないからだ。


仮令どのような形でさえ、俺達の輪の中に入りたいのなら、そのくらいは許容して貰う。


二人とも、そういう考えである。



 受験生になっても、俺達の生活は普段と何も変わらない。


日々の勉強会と家での学習で、志望校に必要な学力は既に持っている。


因みに二人共公立志望である。


しかも、お互い通学時間に必要以上に時間を割きたくなかったので、電車で片道20分以内の、その地区トップの高校にした。


俺の偏差値は、70を優に超えるが、この中学の良い所は実はもう1つあって、どんなに成績が良くても、余計なお節介を焼いてこないのだ。


公立だし、自分達の給料にはあまり関係がないのだろう。


部活をそれ程熱心に指導してる先生も居ないしな。


でもそれで良いと思う。


先生達には、ちょっと雑用が多過ぎる気がする。


教師といえど人である以上、心にゆとりは不可欠なのだ。


高校も公立に行くと決めたら、小遣いが更に倍近くに増えた。


もうこれ以上は増やさないと言われたが、今では月に5万円貰っている。


3年とはいえ、中学生の身には多過ぎるような気もするが、母曰く、早い内からお金の価値とその遣り繰りを学ぶ事は、非常に大切なのだそうだ。


俺の株は、1年で倍の60万円に増えた。


毎日夜に注文を出し、あまり欲張らない事が、功を奏している。


これとは別に、銀行口座に40万程入っているから、江戸川さんをデートに誘いたいのだが(勿論、建前上は友達として)、中々切り出せないまま、夏が過ぎ、秋になって、冬が来た。


なまじ異性を意識する年頃になって、いつもと違う事を誘うのに、変に緊張してしまうのが良くないのだろう。


これなら小学生の時の方が、もっと気楽に誘えた(とはいえ、二人でのお出かけは、初詣だけだったが)。


仮令デートができなくても、俺達は、学校ではほとんど一緒に居る。


いつも二人でお昼を食べ、放課後は週に3回勉強会を設け、そうでない日も、途中まで一緒に帰る。


家では1日3回くらい、メールの遣り取りをし、肉親を除けば、お互いに最も近しい間柄と言える。


だけど、俺の弱い心は、彼女ともう少し親しくなりたいと願っている。


強くなって彼女を支えると約束したのに、何とも情けない限りだ。


江戸川さんだって、俺が嫌いではないはずだ。


これは、うぬぼれでも何でもない。


事実だ。


なのに、彼女からもそういったお誘いがこないのは、何らかの障害があるか、まだ俺が、そういう事をする彼女の合格ラインに達していないかの、どちらかなんだろう。


『皆から頼られる、大きく逞しい人になって』


やっぱりこれかな?


その道は、まだかなり遠い気がする。



 中学生活もあと残り僅か。


この三年は、時間があっという間だった気がする。


学校では、いつも彼と一緒に居て、家に帰ってからも、何度かメールでお話をする。


今の私の時間の3分の1以上を、彼が占めている。


楽しい時は時間が速く感じる。


本当にそう。


たった一人の、私の本物のお友達。


あの出来事から、彼は更に逞しく、素敵な人になっていった。


元々ハンサムだし、勉強も料理もかなりできる上に、あの後から、私のピアノの時間に合わせて、ボクシングまでやり出した彼。


雨の日以外は毎朝ランニングしてるそうだし、私の為にお弁当やお菓子を作る手も緩めない。


一体何時寝てるんだろうと思うくらい、精力的に生きている。


斯く言う私も、小学生の頃よりは、大分充実した生活を送れている。


彼と同じ高校に行きたいから勉強も頑張ったし(志望校を聴いたら、私と同じとこって言われたから、私も貴方と同じとこって言ってあげたら、ちょっと困ってた)、今では彼の為に弾くピアノも、一生懸命練習したし、彼の前では何時でも可愛くありたいから、身だしなみにも十分に気をつけた。


小学生の頃は、毎週水曜日は引籠りの日だった。


嫌な事を考えないで済むように、早く家に帰ってひたすら寝ていた。


そうする事で、気持ちをリセットしていたのだ。


あの頃は、睡眠が、それを避ける唯一の手段のように思えたが、彼との時間を過ごし、待望の親友となってからは、そうする必要もなくなった。


お弁当の件で、親からも公認を貰い、家に連れて来ても良いよと母は言ってくれたが、未だに招待していない。


彼は時々私を何処かに誘いたいという素振りを見せるが、それすらも、気付かない振りをする。


親友だなんて言いながら、未だに病気の可能性がある事を言い出せないし、酷い事をしている自覚は十分にある。


あの手紙の事で彼を非難する資格なんて私にはないし、彼にあんな事を言える程、私は器が大きくない。


本当は、私だって彼と一緒に出かけたい。


デートがしてみたい。


二人の関係を尋ねてくる無粋な人に、堂々と、『恋人です』って言ってやりたい。


でもそのためには、病気について彼に話さなければならない。


それが最低限の礼儀だと思う。


そして私一人の問題ではなくなる。


将来結婚して、彼が子供を望んだら、隠す事はできないのだから。


・・もし私が病気の事を話して、万が一、彼が私から離れていってしまったら、私にはもう、生きていける自信がない。


彼なら大丈夫だと信じてはいても、やはり心の何処かで怯えている。


この三年で、私は以前より臆病になった。


彼の存在が大きくなり過ぎて、失う事ばかり恐れている。


友達のままなら、ずっと秘密を隠していける。


今の私には、そんな卑怯な考えすらある。


もう直ぐ高校生。


心も身体も、一段と大人になってゆく。


このまま彼の期待を無視していけば、やがては他の女性に取られてしまうかもしれない。


それだけは絶対に嫌なのだ。


どうしよう?


どうしたら良い?


情けない私は、未だにその答えが出せないでいる。

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